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Columnコラム

スポーツ報知 2016, 2, 2, 21, 02016/01/30
【フレー フレー ヨシノブ】松井から由伸へ「思うがままにチームを動かしていってほしい」
 大型連載「フレーフレー ヨシノブ」の「55」回目、最終回は、ヤンキースGM付特別アドバイザーの松井秀喜さん(41)の登場です。高橋由伸監督(40)は、巨人で98年から5年間チームメートで、同じ右投左打だった1学年下の「唯一のライバル」。2年ぶりに宮崎キャンプで臨時コーチを務めるゴジラが、現役時代の印象から監督として期待することまで、たっぷりと語った。

 ハンサムで、礼儀正しくて。それが由伸の第一印象でした。1997年12月。確か報知の正月対談で会ったのが最初。詰め襟の学生服姿が印象的でした。

 プロに入ってからは、2人きりで食事に行った記憶はないですが、キャッチボールは一緒、守備位置も隣、打順も3、4番で並んだりと、意識しなくても、いつも近くにいました。5年間だったけど、一緒にプレーした間は、お互いの存在がお互いにとって成長につながる。そんな感じでした。

 打席の中でのアプローチは、自分とはまるで違いました。私はボールを長く見ようとするタイプですが、由伸は甘い球をガンガン打ちにいきました。しかも、あれだけ足を上げて、打席に立つのも投手寄りなのに、どんなボールにもキチンと対応できてしまう。あれは彼独特のもの。確かな技術があってこそ、なせる業です。私にはないもので、目指そうとも思わなかったし、目指せなかったですね。

 でも一番、かなわないと思ったのは、守備。入った時から超一流でした。何がすごいって、球際の強さもそうだけど、捕ってから投げるのが早い。投げる球が速い。そして正確。外野手に必要な要素を全て兼ね備えていました。

 一番の思い出? う~ん。さっきも言いましたが、いつも近くにいたイメージだから、特別なのはないかなぁ。強いて言うなら、FAしてメジャーに行くことを決めた後、留守電に「そういうことだから、よろしく」と次の選手会長を託したことかな。アイツしかいなかったんだから、しょうがない(笑い)。

 あと、東京でも遠征先でも、いくつか僕の行きつけの店を紹介したんですが、その後も行き続けてくれた。そういうところは、義理堅いですよね。

 由伸の監督就任に、驚きは全くありませんでした。原さんが勇退して、いろんなことを総合して冷静に考えると、由伸だろう、と。ジャイアンツが生まれ変わるという意味では、うってつけの人材です。スムーズかつ一新。両方を追いかけるのであれば、由伸しかいません。

 監督として、どういう野球をやってほしいとか、実はないんです。それは由伸が一番、考えていることだから。思うがままにチームを動かしていってほしい。勝つことと愛されること。それを由伸なりのやり方で、どう作り上げていくか。

 巨人で中心選手として、ずーっと先頭を走ってきた人間。いいこと、悪いことを含め、いろんな経験をしたはずです。監督という立場で、チームをいい方向に動かすために、それをどう生かしていくか。最後は自分の心の中に生まれるものを、どう表現していくか。それに尽きるんじゃないでしょうか。

 当欄を読んでいても、由伸が優しいから苦労する―といった論調が多かったですが、別に優しくてもいいと思います。采配とは、監督として、選手に伝えなくてはいけないことを、キチンと伝えること。極端な言い方をすれば、ただ、それだけではないでしょうか。選手が監督のことをアレコレ言うのは、はっきりいっておかしい。なんで俺を使わない。なんで俺に代打を出すんだ。そんなこと言うんだったら、力をつけて、代えられない選手になればいい。選手と監督は、立場が違う。チームが勝つために、采配を振る。そこに優しい厳しいは、関係がない気がするんです。

 たとえ優しい人間だって、采配を振れば、そこに自然と厳しさが出てきて当たり前です。その時、選手にどう接するか。由伸流でいいと思います。

 実際、トーレ(元ヤンキース監督)は、本当に何も言いませんでした。それでも、あれだけの個性派集団をまとめました。怒ったのは、ひどい試合をした後、年に1回あるかどうか。やはり大事なのは、選手との信頼関係ですね。

 今回は一OBとしてはもちろん、由伸との個人的なつながりで31日、宮崎に入ります。2年前と同様に、選手にちょっとしたヒントを与えて、飛躍への刺激のボタンを押すことができれば、と思っています。
BASEBALL KING 2016, 2, 2, 21, 02016/01/22
サービス精神が旺盛? マスコミが選ぶ“神対応”No.1選手とは…
 取材対応、人柄の良さ....すべてにおいてこの選手に勝る人はいないだろうという人がいる。ヤンキースGM特別アドバイザー松井秀喜氏だ。

 現役時代、ヤンキースに移籍してからもマスコミに対して何も変わることなく接し、マスコミはもちろん選手からも愛されたゴジラ。松井氏の悪口は聞いたことがない。

 プロ入りしてメディアへの露出が増え、高年棒を手にすると、そこは人間。マスコミに対してもぶっきらぼうになり、記者の選り好み、さらには取材拒否なんて選手も少なくない。

 だが、松井氏は違った。誰とでも接する態度は一緒。打てずに調子が悪い時でも、親切・丁寧な対応で、きちんと受け答えをする。決して自分を作っているのではく、彼にとってはごく自然にふるまっているだけなのだ。

 サービス精神も旺盛だった。年末恒例の契約更改では、カメラマンが用意する少しふざけた写真撮影用のグッズを手に取り、普通なら嫌がる撮影を、「よし、今日はこれだな」と変顔をしながらポーズをとる。

 ある記者会見では、伝説も残した。かなり真面目な質問が飛び交うような内容だったが、会見を終えて席を立った松井氏は、静まり返った会見場を見渡した後、おもむろに放屁。暗いムードを爆笑の渦に変えた。

 歴代の“神対応”No.1は松井氏で満場一致だが、現役選手ではどうか?

 これも満場一致で日ハム・大谷翔平に決まりだろう。テレビのインタビュー等を見ても分かる通り、嫌みのない受け答えに、さわやかな笑顔。彼も松井氏同様に裏表がなく、テレビに映るその姿が彼そのものなのだ。

 マスコミからも「松井2世」との呼び声高く、近い将来世界を代表する選手になるであろう大谷に、松井氏以上の“神対応”を期待したい。

 一方で、反対の“塩対応”はどうか?これも満場一致で1人の名が挙がった。本人の名誉のために公表はしないが、現役メジャーリーガーとだけ書いておこう。

 色々な経緯はあると思うが、報道陣の呼びかけも無視。視界に入るカメラマンは、大声を上げて排除する。特にカメラマンが嫌いなようで、ウォーミングアップのキャッチボールの時でさえ、カメラマンの姿が視界に入ると、手を横に振り「そこをどけ」。マスコミ嫌いによる、極度の塩対応である。
 
 とにもかくにも神対応王者となった松井氏には、日本球界に何らかの形で戻ってきてほしいというマスコミの声、将来的には巨人の監督を…と思っているファンも多いと思う。ただ、監督になったとしても、きっと松井氏は伝説の「放屁会見」をしてくれる。いや、さすがに監督という立場では無理か…。
Full-count 2016, 1, 14, 20, 02016/01/14
甲子園5敬遠からプロ入り&一流へ 松井秀喜氏が語り続ける「一番大切なこと」
3年連続で巨人の秋季キャンプに参加する松井氏

 巨人、ヤンキースで活躍した松井秀喜氏が、3年連続で巨人軍の春季宮崎キャンプに臨時コーチとして参加することになった。松井氏と臨時コーチといえば、フリーバッティングで打撃披露をしたり、バッティング投手をしたりと精力的に後輩たちのために汗を流す姿が印象深い。コーチといっても自分が野球を楽しむことをいつまでも忘れていない。今年も後輩たちに巨人やメジャーでの経験を伝えることになるだろう。

 松井氏は臨時コーチをはじめ公の場で多くの質問を受け、回答している。その答えの一つひとつはプロ野球選手だけでなく、高校球児や少年野球の子供たちも共感できるものばかり。松井氏の生き様が本となり、小・中学校の図書室にも置かれ、道徳の教材にもなっている。

 教材の中でも多く使われているのは松井秀喜氏が星稜高校3年時に出場した夏の甲子園の話。明徳義塾戦での5打席連続敬遠についてである。

 4番打者は1度も勝負を挑まれず、すべての打席で“敬遠”され、試合に敗れた。表情ひとつ変えず、バットを置いて、一塁へ走った。敗戦後、スタンドからメガホンが投げられる騒動があっても、主将として現実を受け止め、文句の一つも言わなかった。松井氏はあるイベントであの試合をこう振り返っている。

ずっとぶれない考え、「野球に一番大切なこと」

「敬遠は悔しくはないですね。作戦の一部だから仕方がないこと。試合に負けたことがとにかく悔しかったですね。高校最後の試合が1球もバットを振れずに終わってしまった。それはいい思い出だし、プロになっても心の中にはいつもあった。だから頑張ることができたと思う」

 プロ入り後、何度もその試合のことを聞かれても答えは一貫していた。時には「甲子園で本塁打を何本も打つ選手はこの後、沢山出てくるでしょう。でも5敬遠は今後も僕だけではないでしょうか」「あの試合が僕を有名にしてくれたので感謝しています」と話し、とても前向きにとらえていた。

 そこには、松井氏がずっとぶれていない「野球に一番大切なこと」につながっていた。

「野球に対して、敬意を払わないといけない。道具やチームメート、そして相手に対しても同じです。きちんと道具は手入れをして、キャッチボールも相手の取りやすいところに投げる。相手チームは敵だけど、それは試合までのこと。同じ野球をやっているわけだから、健闘を称え合う。野球選手として優しく、スポーツマンらしくしないといけない」

 たとえ、試合内容や結果がどんなものであろうとも相手チーム、選手に敬意を表する。誰もができることではないが、松井氏にとっては当たり前のことなのかもしれない。

 松井氏はこれからも野球の現場やメディアで多く登場するだろう。日本とアメリカを沸かせたホームランバッターが、どのような考えをもって一流になったのか。野球選手を夢見る少年たちにとっても、今後成長していく上で大切な要素となるに違いない。
Excite 90s チョベリグニュース 2016, 1, 14, 20, 02016/01/14
社会問題に発展した松井秀喜の5打席連続敬遠
かつて巨人、ニューヨークヤンキースなどで活躍し、現在はヤンキースのGM特別アドバイザーを務める松井秀喜。
彼が高校時代に経験した甲子園での5打席連続敬遠は1992年、社会問題になるほどの騒ぎになった。あの5連続敬遠とは一体なんだったのだろうか?

高校時代の松井秀喜

高校時代の松井秀喜はとにかく規格外だった。野球の強豪である星稜高校では、1年生ながらも早くも4番打者を任されて甲子園に出場したほど。
松井が三年生になった時に甲子園のラッキーゾーンが撤廃され、本塁打数の激減が予想される中、「僕には関係ない」と言い切れるだけの逸材であった。

高校最後の夏の甲子園では、文句なしで大会最大の目玉選手。プロのスカウトも松井目当てで甲子園に集まる中、二回戦で明徳義塾高校と対戦することなる。

明徳義塾の5連続敬遠

明徳義塾高校の馬渕史郎監督は松井を見て、「高校生の中に一人だけプロがいる」と思ったそう。そのため、馬渕は勝利のために松井との勝負を避けることを選択する。

松井の第一打席は初回ツーアウト3塁、ここで敬遠。第二打席は3回ワンアウト2塁3塁、ここも敬遠。第三打席は5回ワンアウトランナー1塁、ここでも敬遠。
第四打席は7回、ツーアウトランナーなし。ランナーがいなかったため、ここではさすがに勝負をするかに思われたが、なんとこの場面でも敬遠を選択したのだった。

そして最終打席となった9回ツーアウトランナー3塁。なんとここでも明徳義塾は松井に対して敬遠策を取る。この様子を見たスタンドのファンからは野次と怒号、ブーイングが起き、グランドに物が投げ込まれるなど異様な雰囲気となった。
結局、星稜高校の次の打者が凡退して試合終了し、松井の夏は終わったのだった。

新聞や高野連も 相次いだ明徳バッシング

試合終了後の明徳の校歌斉唱も、ブーイングのためにまったく聞こえない事態に。明徳義塾高校の選手たちはうつむいたままグランドを引き上げ、馬渕監督は「正々堂々と戦って潔く散るというのもひとつの選択だったかもしれないが、県代表として、ひとつでも多く甲子園で勝たせたいと思った」とコメントを残した。
また、明徳義塾の宿舎には、試合終了直後から「選手に危害を加える」などの抗議や嫌がらせの電話と投書が相次ぎ、宿舎の周りには、馬淵監督や選手達の身を守るために、警察官やパトカーが出動したほど。

そして翌日のスポーツ新聞では、明徳に対して批判的な内容の記事が相次ぎ、夏の甲子園の主催者である朝日新聞でさえもが、「大事なもの忘れた明徳ベンチ」という批判コラムを掲載。
また、高野連が大会中にも関わらず、「無走者の時には、正面から勝負して欲しかった。一年間、この日のためにお互いに苦しい練習をしてきたのだから、その力を思い切りぶつけ合うのが高校野球ではないか」という異例の談話を発表した。

その一方で当時者の松井は、一言も非難することなく「歩かすのも作戦。自分がどうこう言えない」とコメントを残している。

その後の松井秀喜と明徳投手

松井秀喜はこの年の11月、ドラフト会議で4球団に1位指名され抽選の結果、巨人に入団。
その一方で、5打席敬遠をした明徳の投手・河野は大学へ進学するも、5連続敬遠をからかわれるなどして退学。野球を辞めてしまう。

5打席連続敬遠以降、相見えることはなかった両者だが、2013年にテレビ番組の企画で久しぶりの再会。
河野は「当時は5万5000人を敵に回すより、サインを無視して監督を敵に回す方が怖かったですからね」、「1発がある松井を歩かせる作戦は間違っていなかったと思いますが、ファンは許せなかったんでしょう」と当時を振り返った。
そして一方の松井も「今ではいい思い出です。負けたことは悔しかったが、5打席連続敬遠は打者としての誇りです」と語っている。

この5打席連続敬遠騒動では、度々高校野球で問われていた「勝利至上主義」と「教育」のどちらが大事であるのかという部分が、改めて浮き彫りとなる結果になった。
しかし確実に言えることは、松井秀喜という打者が5連続敬遠されるほど、偉大な存在であったということだ。
サンケイスポーツ サンスポ記者の球界ここだけの話 2016, 1, 8, 7, 02016/01/07
ミスターから松井氏へ受け継げられた教え…今度は子供たちへ
 きらきらと輝く純粋な瞳は、羨望の眼差しでスーパースターを見つめていた。暖冬だが、空はどんよりとした曇り空。それでも子供たちは、晴れやかな表情で1人の野球人の言葉に耳を傾けた。松井秀喜氏(41)だ。

 4日の「松井秀喜旗争奪第11回学童野球大会」の表彰式に出席し、優勝・準優勝の2チーム24人の野球少年に説いたのは「準備」の必要性と大切さだった。

 「試合に勝つために何をしなければいけないか。投手の1球1球に対し、準備する。甘い球を打って、厳しい球は振らない。常に次の1球を考え準備する」

 そして、プロ入り後に大切にしていた考えがあるという。恩師、長嶋茂雄巨人終身名誉監督(79)の教えだ。

 「みんなと一緒にする練習はもちろん大事。その後に1人でやる練習も大事。“松井秀喜”をどう作り上げるか-といわれました」

 どういう選手になりたいのか。チーム、ファンからどういうことを求められているのか。そして、自分自身がどういう野球人でありたいのか。それを考え、実践するための準備を行い、挑戦・勝負する。それでも、失敗や結果が伴わないのが野球だという。

 「それを受け入れるしかない。じゃあ、次はどうしようかと考える。その連続。次に向かうエネルギーが一番大切」

 30分間のスピーチと質疑応答。その一言ひとことが、少年たちの財産になるに違いない。いつかこの野球大会から“第2の松井秀喜”が誕生するのも、そう遠くない未来だろう。