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Columnコラム

スポーツナビ 梅田香子 2004/10/22
ヤンキースはなぜ敗れたのか?
梅田香子の『松井秀喜 メジャー交友録 2004』 VOL.19
「終わった感じがしない」 不完全燃焼の松井秀

「チームとしての栄光をつかむために、僕はここまで頑張ってきた。いくら活躍したといっても、負けてしまっては……。まだ終わった感じがしません。こういうのを不完全燃焼と言うんでしょうかね」

 勝っていれば間違いなく、MVPだった。もちろん獲得していれば、ポストシーズンMVPは日本人第一号。ヤンキースの4番も初なら、プレーオフで5打数5安打も初……。そんな初物尽くしの栄光も、今となっては無意味である。松井秀喜が希求していたものはただ一つ、ワールドシリーズ優勝だった。

 皮肉なことにヤンキースが、7回戦制度のシリーズで3連勝した後の4連敗も、史上初なのだ。松井は言った。
「ああいうがけっぷちから、これだけの力を発揮するわけだから、(レッドソックスは)素晴らしいチームだと思う。ワールドシリーズでもぜひ力を発揮してほしい」

松井が松井であり続けるために

 球場入りする車の中で、尾崎豊の「僕が僕であるために」を繰り返し聞き続けてきた。松井が松井であり続けるためにはレッドソックスに勝って、再びワールドシリーズでプレーしたかった。そこで4番という重責を果たして初めて、ヤンキースの4番が世界一の4番打者だということが証明されるはずだった。

「ワールドシリーズを“遠い”とは思いません。でも“難しい”。負けるのは本当につらいこと。でも、この悔しさをいかに次のエネルギーにつなげることができるか、その方がもっと大事です。僕の気持ちはもう来年を向いています」

 最多の14安打、9長打、28塁打、二塁打6と、リーグ優勝決定シリーズの記録を次々と塗り替えていった松井だったが、最後の最後で10打点の記録は、デービッド・オルティーズ(11打点)に抜かれ、シリーズのMVPも奪われた。

もう一つの「悪の帝国」レッドソックス

 ドミニカ共和国出身のオルティーズは、レッドソックスの前はツインズにいて、松井の“アシスト本塁打”で有名になったトリー・ハンターと大の親友同士。3Aのソルトレーク・バズに在籍していた頃から、打球を遠くに飛ばすことにかけては右に出るものがいない左バッターとして注目を浴びていた。ただし、ハンターと違って守備が苦手で、ツインズのチームカラーには合わなかった。

 ヤンキースの“金満主義”を昨年、レッドソックスのラリー・ルキーノ球団社長は「悪の帝国」と呼び、「帝国というのは遅かれ早かれ、滅びる日がやってくる」と言い放ったものだ。が、レッドソックスにしてもオフの補強が順調に運び、いい結果に結びついただけで、だれも“質素倹約主義”とは見なしていない。早い話、ヤンキースとそれほど違うアプローチを選択したわけではないのだ。

 食うか食われるかの世界なのだから、譲り合いの精神など見せていたら、オルティーズにしてもマミー・ラミレスにしてもペドロ・マルティネスにしてもケビン・ミラーにしても、レッドソックスのユニフォームを着てはいなかったはずだ。

明らかに先発投手が手薄だったヤンキース

 ヤンキースの敗因がルキーノ社長の指摘する「悪の帝国」ではなく、先発投手の駒不足にあったことはだれの目にも明らかだった。

 チームリーダーが不在だったとは思えない。新加入のアレックス・ロドリゲスもデリック・ジーターもバーニー・ウィリアムズも、それぞれチームリーダーとしてグラウンドの内外で気を配り、ムードメーカーとしても合格点をあげられる。2年目の松井も彼らを助けたし、ゲーリー・シェフィールドも大きなトラブルを起こさなかった。

 レギュラーシーズン中から指摘され続けていたことだが、ヤンキースはむしろこの投手陣でよくここまで頑張った方だ。先発だけではなく、中継ぎも抑えも、ファームからの新人はほとんど育っていない。
 安定した先発投手はマイク・ムシーナぐらいで、ケビン・ブラウンは故障がちだったし、ホワイトソックスからシーズン途中に補強したエステバン・ロアイザも、後半はなぜか調子を落とした。中継ぎのトム・ゴードンとポール・クアントリルはそれなりに勝利に貢献したが、マリアーノ・リベラへの負担は重く、そのリベラも一時の神懸かりのような勢いに欠けている。

 レッドソックスのペドロ・マルティネスも契約更改でこじれ、このオフにFAになるのは確実視されているし、ランディー・ジョンソンのような大物もまだ控えているだけに、ヤンキースは触手を伸ばすに違いない。あるいは日本からヘッドハントするという手もある。

トーレ監督が目指す野球とは?

 ジョー・トーレ監督が目標としているのは、機動力を使った“スモール・ボール”だったが、今のままのヤンキースはパワーヒッターばかりがそろい過ぎて、“スモール”どころではない。この点もブライアン・キャッシュマンGMは補強に乗り出すはずだ。

 これは私見にすぎないのだが、補強だけに頼るのではなく、ツインズやカージナルス、エンゼルスのように、もう少しファームに育成機関を充実させ、自前のスターを育ててほしいような気もするのだが、レッドソックスが勝ち残ったところをみると、そういう考え方自体が古過ぎるのかもしれない。

 ワールドシリーズでは自前のスターと外様のスター、どちらが活躍してくれるのだろうか。
スポーツナビ 梅田香子 2004/10/14
シリング相手にヤンキース・ファンが燃える理由
梅田香子の『松井秀喜 メジャー交友録 2004』 VOL.18
因縁対決の始まりは大正時代!?

 旧ソ連とアメリカの間に「冷戦」時代があったように、政治同様、スポーツにもライバル関係は付きものだ。とはいえ、人間の寿命には限りがあるのだから、これほど長い年月にわたって、延々と継続しているライバル関係はほかに例を見ないのではないだろうか。ヤンキースとレッドソックス、である。

 ヤンキースのファンは今でもレッドソックスをヤジるとき、「1918」とシュプレコールする。これはレッドソックスが最後にワールドチャンピオンになった年を指し、それ以前は常勝チームと言えばレッドソックスだったのに、以後は形勢が逆転してしまった。
 とはいうものの、1918年といったら、イチローが破ったジョージ・シスラーの年間最多安打記録(257安打)が達成されたのと同じ大正時代だ。

 ヤンキースの番記者には『ハートフォード・カーラント』紙のドン・アモレのように、歴史に精通しているというか、ほとんどマニアと言っていいスポーツライターが何人かいる。松井秀喜はことあるごとにヤンキースの伝統や歴史について聞かされているが、さすがに自分の所属しているチームだけあって興味津々といった様子。こうやってスターからスターへ、「ヤンキースのプライド」は引き継がれていくのだろう。

ワールドシリーズでヤンキースを封じた剛腕

 そのヤンキースの前に、リーグ優勝決定シリーズの第1戦、レッドソックスの先発ピッチャーとして立ちはだかったのが、カート・シリングだったから、これ以上の役者はない。そして、松井秀は見事に打った。

 シリングは宿敵とも言える相手だったから、ヤンキース・ファンが狂喜したのは当然のことと言える。
 2001年ワールドシリーズでヤンキースを蹴倒し、球団創立4年目のダイヤモンドバックスに栄冠をもたらしたのが、第1戦、第4戦、第7戦で投げたシリングだった。

 このときは、中3日の登板が2度もあったのに疲れた様子は見せず、ポストシーズンでは合計6試合で投げて、4勝0敗の防御率1.12。ランディー・ジョンソンとワールドシリーズMVPを共有したことは記憶に新しい。

空手も取り入れたシリングのトレーニング

 さて、シリングに限ったことではないのだが、実は彼は東洋の健康メソッドにはいろいろ興味を持っていて、朝鮮人参も愛用している。また、36歳のときから空手のレッスンも受け始めた。

「オフは太ってしまわないように、体重調整に苦労するからね。まずジャンクフードは一切食べるのをやめた。空手は友人に勧められて、ちょっと始めてみたら面白くって、はまってしまった。それにすぐに体が引き締まって、15ポンドも体重が減ってくれたからびっくりしたんだよ」

 シリングは子供の頃から病気知らずで、上半身も肩も強かったからスポーツは万能だった。リトルリーグでは主に三塁を守っていたが、高校の途中でピッチャーに転向した。
「打つのが好きだったから、正直言ってあまり乗り気ではなかった。周りから、すごいすごいと言われて、仕方なくダラダラと続けていた感じだった」

 1986年にレッドソックスにドラフト2位で指名された後、88年にはオリオールズに移籍。この年はメジャーで4試合に登板しているものの、0勝3敗とさっぱり振るわず、マイナーとメジャーを往復する日々が続いた。ちなみに90年には3Aのときは、第1戦で投げ合ったマイク・ムシーナとチームメートで、かなり気が合っていた。

師匠クレメンスとの対決は歴史に残る名勝負

 91年にはアストロズに移籍。オフには、かつてアストロズの本拠地だったアストロドームで筋力トレーニングを行っていた。当時レッドソックスのエースだったロジャー・クレメンスは家が近かったのだが、そのクレメンスに、
「君のことは知っている。前々から見ていたけど、どうして持って生まれた才能をそんな風に無駄遣いしているのかい?」
 と話し掛けられ、説教された。

 それまでのシリングは球こそ速かったが、コントロールはさっぱり。直球とスライダーだけで、マイナーでは通用したが、メジャーでは打者の目が慣れてくると打ち込まれてしまう。スプリット(SFF)や4シーム、チェンジアップとしてスローカーブを習得し、92年にはフィリーズで14勝11敗と頭角を現す。やがて常に最多勝利を争う代表的なピッチャーとして、自他ともに認める存在となった。

 2001年のワールドシリーズでは、その師匠とも言えるクレメンスとの対決となり、対等に投げ合った。そして、ダイヤモンドバックスは最終回に劇的な逆転勝利を見せ、まさに大リーグの歴史に残る感動的な試合となった。

 そのシリングが今、レッドソックスのユニフォームを着ているのだから、ヤンキース・ファンが熱くなるのは道理だ。同時に私たちは、シリングがマウンドにいるだけで、勝敗の行方は最後のワンアウトが終わるまで分からないという、野球のすごさと怖さを思い出さずにはいられないのである。
スポーツナビ 梅田香子 2004/10/07
ヤンキースとは対照的な貧乏球団ツインズの底力
梅田香子の『松井秀喜 メジャー交友録 2004』 VOL.17
ハードワークによって鍛えられた守備力がツインズの強さ

 ツインズとヤンキースはまったく好対照なチーム体質を持っているので、どちらに軍配が上がるのか、予測を立てにくい。
 エクスポズとともにツインズは、ついこの間まで球団縮小の対象とされていた。今だって財政難なので、「消滅させた方がいいのでは」という声があり、金満球団のヤンキースとは対照的だ。

 FAで大物を一本釣りする財力はないし、はたまた日本にスカウトを送りこみ、交渉する余力も持ち合わせていない。にもかかわらず、どうして毎年のように首位戦線に食い込んでくるのか。その答えは明確だ。守備がいいからだ。春季キャンプの雰囲気からして、他球団とはまるで違う。守備練習には時間を割く。フロリダの炎天下で、連携プレーの基本とノックを繰り返す。これはロン・ガーデンハイアー監督のやり方というより、ツインズの伝統と言っていい。

 このヤンキースとのシリーズでも、第1戦で左翼のシャノン・スチュワートが、ルーベン・シエラの打球をフェンスに激突しながらキャッチ。
「うーん。あのプレーなんですよ、ツインズの強さってのは。もちろん去年のこともよく覚えています」
 と松井秀喜は目を細めた。昨年のプレーオフでは初戦、いきなり放ったホームラン性の当たりをスチュワートのファインプレーに阻まれてしまったのである。
「あれで僕はホームランを1本、損したようなものですからね」

 ツインズの外野陣といえば、センターのトリー・ハンターがいる。第1戦でも2回に本塁へ好返球して、ヤンキースが先制点を挙げるチャンスを奪った。さらに8回にはアレックス・ロドリゲスがフェンス際に放った大飛球をダイビング・キャッチでつかみ、ツインズの完封勝ちに貢献している。
「うちの守備がどうしていいかって? それはもうワーク・ハードに尽きると思うな。春季キャンプはもちろん、シーズン中も厳しい日程の合間、守備練習を繰り返す。軍隊みたいでイヤだ、と逃げ出してしまう選手もいるみたいだけど、僕はすごく合っていた」

スポーツ万能、料理も万能なハンター

 ハンターは1975年7月、暑い盛りにアーカンソー州のパイン・ブラフという町で生まれた。州都リトル・ロックからは45分ほど離れていたが、このあたりは全米でもっとも貧しい地域のひとつと言われ、今だに「KKK」が存在するほど古い時代の人種差別意識を引きずっている。

 実際、ハンターの父親は腕のたつ電子技師だったので仕事には困らず、せっせと働き続けていたのに、暮し向きはいっこうに楽にならなかった。自宅にはクーラーなんてものはなかったし、ときにはネズミが床をちょろちょろと横切っていく。新しいベッドを購入する予算がなかったから、ハンター家の4人兄弟はスプリングの飛び出した古いマットレスにタオルをしいて眠らなければならなかった。父も母もなんでも自分で作る方だったから、ハンターも影響を受けて、10歳そこそこでケーキ作りの名人になってしまった。今でも料理には自信を持っていて、クリスマスのときはアプタイザーのサラダとスープ、メーンの肉料理からデザートまで、腕をふるうとか。

「そういう家庭環境に育ったから、ツインズのことを貧乏球団なんて言うヤツをオレは信用したくないんだ。このチームは待遇といい、方針といい、戦略といい、すばらしいよ。ミネアポリスという町も、すごく気に入っている。できたら、このままツインズのユニフォームを着て引退の日を迎えたい」

パケットからハンターへ続くツインズの伝統

 料理だけではなく、スポーツ万能少年だった。最初に夢中になったのはアメフトで、あのだ円形のボールで近所の子供たちを遊んでばかり。高校まで続けた。ポジションはクォーターバックだった。あの強肩はアメフトで鍛えられたものなのか、と思わず納得してしまった。
 中学や高校時代の友人やコーチは口をそろえて、
「子供というより、成熟した大人のようなところがあった」
 とカーターを評している。

 確かに92年、ジュニア・オリンピックのメンバーに選ばれたものの、遠征の費用を捻出できなかった。困り果てたハンターは思い切ってアーカンソーの州知事に懇願の手紙を書き、500ドルを寄付してもらったのだ。この州知事が後に大統領になったビル・クリントンである。

 アメフトと野球の兼業スター選手だったボー・ジャクソンに憧れていたから、ハンターも大学進学を希望していた。ところが、それを断念したのはドラフト1位(全体20位)でツインズから指名され、45万ドルの契約金を提示されたためだ。この瞬間のために50人を超える一族が、詰め掛けていた。
「本当はアトランタ・ブレーブスが第1志望だったんだけど、ツインズに入ったことはもちろん後悔はしていないよ。マイナーからのスタートだったけれど、あのときツインズの一員になったからこそ、カービー・パケットやデーブ・ウィンフィールドと一緒にプレーできたんだ」

 パケットからハンターへ。ツインズの伝統はこうやってコツコツと築きあげてきた。同時にそこが彼らの底力なのだ。
スポーツナビ 梅田香子 2004/10/01
松井秀を意識するツインズの最強左腕
梅田香子の『松井秀喜 メジャー交友録 2004』 VOL.16
今年のツインズは例年とひと味違う?

 ヤンキースは昨年のプレーオフ地区シリーズでツインズと対戦しているが、今年は例年以上にヤンキースの前に大きく立ちはだかるはずだ。
 従来のエース、ブラッド・ラドキーに加えて、何と言ってもヨハン・サンタナの存在が大きい。8月18日(日本時間19日)のヤンキース戦ではマイク・ムシーナと投げ合っているのだが、松井秀喜を含めて全員がお手上げ状態だった。

 ともかく球が速い。手元でポップするからそれだけでも打ちにくいのに、必殺のツーシームがあり、高速スライダーがあり、打者を翻弄(ほんろう)するチャンジアップを兼ね備えている。現時点では間違いなくメジャー最高のピッチャーと言えるだろう。しかも、ツインズはサンタナに加え、抑えのジョー・ネイサンは頼りになるし、守備の方もメジャー屈指という高いレベルにあるから、なんとも心強い。

松井秀 「サンタナは嫌いなタイプではない」

 ケビン・ブラウンらが期待外れで、マイナーから若手が育ってきているわけでもないヤンキースとは対照的だ。200億円を投資しているのだから、つぶれる寸前までいったツインズには勝って当たり前、というプレッシャーも重たくのしかかる。

 ジェイソン・ジアンビーがようやく復帰し、ジョン・オルルードを補強したとはいえ、左肩を痛めたゲーリー・シェフィールドは消炎剤を注射しながらプレーしている状態なので、松井秀はプレーオフでも4番を打つ可能性が高い。

 もちろん松井秀本人もサンタナを大いに意識していて、
「僕はプレッシャーに強い方だと思うし、サンタナは確かにすごいピッチャーだけど、嫌いなタイプではありません」
 その言葉どおり、9月29日の対戦では151キロの速球をレフト線にはじき返し、サンタナからツーベースを打っている。

ベネズエラの小さな町で育ったサイ・ヤング賞候補

 さて、まだ日本にはなじみの薄い25歳の新鋭、サンタナのルーツについて触れておこう。今季は既に20勝をマーク。奪三振と防御率でトップにいるので、サイ・ヤング賞(最優秀投手賞)の有力候補だ。

 1979年3月13日、ベネズエラ共和国のトーバーという町で生まれ育った。この町の出身者のサッカー選手はいるのだが、メジャーリーガーになったのは今のところサンタナ一人だけである。

 ベネズエラは世界でも有数の石油産出国なので、首都カラカスには高層ビルが立ち並ぶ。ハイウエーや地下鉄が整備された近代都市なのだが、いったんそこを離れると、ベネズエラはまったく違う一面が広がっているのだ。カリブ海の島々やアンデスの山々など荒々しい大自然がそのまま残されていて、裸同然でのどかに暮らす民族もいる。

 昔ながらの農業や畜産はすたれてしまい、工業や観光サービス業が主要産業になり、教育水準は高い。もっとも過度のインフレで経済状態は悪化している。

メジャーのスカウトも早くから注目!

 サンタナの父親ジーザスも腕のいいエンジニアで、野球の方もセミプロで遊撃を守っていた。父から手ほどきを受けたので兄のフランクリンも遊撃手だった。サンタナもマネしたかったのだが、幸か不幸か、生まれながらの左利きだったので、
「遊撃手というのは伝統的に右利きの選手がやるものなのだ。おまえには向いていない」
 と父親に言われた。15歳になるまで外野を主に守っていて、リッキー・ヘンダーソンやケン・グリフィーにあこがれていた。

 高校に入ってからピッチャーもやるようになり、サッカー部と兼業だった。毎年のように国内大会で活躍するようになったため、メジャーのスカウトたちも早くから注目するにはしていたのだが、なにしろサンタナの自宅というのがカラカスから車で10時間もかかる。ほかにも有望な選手がいたため、なかなかそこまで出向くスカウトはいなかったのだが、アストロズのスカウト、アンドレス・レイナーだけがあきらめなかった。

 94年の8月からメジャーリーグがストライキに入ったため、スカウトも休業状態になってしまい、思い切ってメイスナーは自費でサンタナの家まで出向いた。
 これがきっかけとなり、16歳の誕生日とストの終結を待って、翌年の7月にアストロズの入団契約を交わす。96年はドミニカ共和国のサマーリーグで、ピッチングのイロハを習い始め、97年はついに北米へ。フロリダ半島のキシミーでマイナーリーガーとしての日々を送った。
 結局アストロズは支配下選手の人数枠をオーバーしてしまい、マーリンズを経て、99年のオフにツインズに移籍。そこから、その才能を開花させることになる。

「松井秀喜はすごい素質をもったバッターだよ。もちろんアベレージ・ヒッターじゃない。メジャーでもホームランを打てるスラッガーになる」
 と昨年からサンタナは機会があるたびに明言していた。

 そして皮肉なことに、松井秀はこのツインズ戦との3連戦で3ホーマー(9月30日のダブルヘッダー、10月1日)。真のホームラン・バッターであることを証明して見せたのだ。