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Columnコラム

web Sportiva 小田嶋隆 二次観戦者の帰還 〜キス・ユア・アスリート 2012/12/31
松井秀喜の「ふところの深さ」がつくりだしていた「人間的な空気」
 2002年の4月、読売巨人軍の松井秀喜選手がFA権を取得した。そのニュースが配信された翌日の4月13日、私は当時公開していたホームページに以下のような文章(ポエムかもしれない)を書いた。

 以下、一部を転載する。

松井よ。
君の空は、アメリカに続いている。
誰の空だって同じだ。
空はいつでも、夢見る者の頭上に広がっている。
松井よ。
夢を忘れていないか?
たまにはドームの外に出て、ナマの空を見上げてみろよ。
どうして雲は流れると思う?
風が吹くから?
違うよ。
目指す場所があるからさ。

オレは覚えている。

君の先輩の星飛雄馬も、野球の道に迷った時、雲に向かって問いかけていた。
「おーい、雲、どこへ行くんだあ」
とかさ。

雲は返事をしなかった。
当然だよな。
迷っている人間に答えを提示したって無意味だからね。
松井よ。
東京ドームの天井の下に何がある?
天下?
冗談じゃない。
誰かの天井は誰かの床だ。
ポール・サイモンがそう言っている。
どういう意味かわかるか?
つまり、君の天井は、ナベツネの床なのだ。
ってことは、東京ドームはナベツネの地下室で、キミは地下野球のチャンピオンだ。
なあ、目を覚ませよ。
東京ドームは、あの爺さんが作った野球小屋だ。
そこであいつはビニール袋入りの野球を生産して、それをネタに新聞を売っている。
どうしてドームに天井があるのかって?
野球を窒息させるために決まってるじゃないか。
それから、君を閉じ込めるためだ。
いいかい? 松井ヒデキに空を見せないために、あいつは天井を張ったんだ。
そんなところで本塁打製造業務に従事して、何か良いことがあると思うか?
打撃農奴だぞ。このままじゃ。(以下略)
http://odajiman.net/diary/020407.html
(2002年4月13日分)より

 松井選手は、翌2003年に渡米し、ニューヨーク・ヤンキースに入団した。その後に起きた出来事は、ご存じの通りだ。

 その松井秀喜選手が現役引退を表明した。

 予想していたこととはいえ、やはり淋しい。丸半日ほど、ぼんやりして仕事にならなかった。知り合いの中には、いまだに呆然としている連中がいる。

 無理もないことだ。

 海の向こうのどこかで、松井秀喜がユニフォームを着ているということが、ある人々にとっては、心の支えになっている。彼らにとっては、試合映像や新聞の大見出しとは無縁でも、とにかく松井が野球をやっていることだけで、あるエネルギーが生じていたわけで、だとすれば、その松井の引退がもたらす喪失感は、やはり別格であるはずだからだ。

 松井は、私の世代の野球ファンにとって、甲子園の一打席目から見ていた特別な選手だ。だから、われら古い時代からのファンは、アスリートとしての全生涯に付き合ったぐらいの気持ちで彼を見ている。錯覚であることはわかっている。が、松井には、そういうファンの錯覚を許す懐(ふところ)の深さがあるのだ。

「松井よ。おまえのことはすべてわかっているぞ」

 と、仮に私がベンチ裏なり街角で、突然声をかけたとする。と、松井は、

「そうですか。ありがとうございます」

 と、にっこり笑って答えてくれる気がする。

 もちろん、私は、突然タメ口で話しかけるような失礼なマネをしようとは思っていない。が、どこかの誰かが酔っ払って同じ事をしたのだとして、松井はそれをとがめないはずだ。そして、松井秀喜の魅力は、なによりもそこのところにある。

 つまり、適切な言い方を見つけるのが難しいのだが、「人間としての器の大きさ」とでも言うほかのない要素が、松井秀喜という野球選手を、特別な選手の中でもとりわけ特別な存在たらしめているということだ。

 スラッガーとしての松井秀喜は、これまでに日本の野球界が輩出した打者の中で、5本の指に入る存在だと思う。が、文句無しのナンバーワンというわけではない。長嶋茂雄、王貞治、落合博満、イチローといったあたりの選手は、松井秀喜も含めて、比較を絶した存在だ。ひとりひとりが、それぞれ、固有の頂点に立っている。だから、誰に比べて誰が優れているという話はできない。

 ただ、松井秀喜は、野球選手としての枠組みとは別のところでの存在感を備えている。そこが彼の特別なところだ。

 ティーンエイジャーの頃からスターになってしまった選手は、ほとんどの場合、孤高の雰囲気を身にまとうことになる。

「孤高」という言葉を使うと、いい意味に聞こえるが、それだけではない。スーパースターは、洋の東西を問わず、メディアに素顔を見せない。つまり、偏屈になる。

 責任はメディアの側にある。

 ある程度の人気選手になると、スタジアムの外でも、人々の注目から逃れることは不可能になる。自宅前の路上であれ、繁華街のナイトスポットであれ、ファンはどこにいても声をかけてくる。パパラッチも同じだ。彼らはあらゆる角度から、あらゆる瞬間に向けてシャッターを切る。

 かくして、スーパースターの顔からは、デビュー当時に宿っていたビビッドな表情が失われる。定番のストーリーだ。

 桑田真澄、清原和博、野茂英雄、イチロー、貴乃花、中田英寿、石川遼……彼らは、いずれも十代の頃に見せていた無邪気な笑顔を、カメラの前ではほとんど披露しない選手になった。

 選手を責めることはできない。

 誰であれ、あんな無茶なメディアスクラムに晒されたら心を閉ざすようになる。というよりも、シャッターを降ろさないでいたら、神経がもたない。当然の措置だ。

 ところが、松井は違う。

 松井秀喜は、メディアに対して笑顔を絶やさない。礼儀正しい構えも崩さない。これは、なかなかできないことだ。

 私が覚えているのは、彼が渡米した最初の年、雪のニューヨークで取材陣の注文に応えて延々とポーズを取って、結局、風邪をひいてしまったことだ。

 その松井の風邪について、スポーツ新聞の記者は本当に申し訳なさそうに、かつ感謝と尊敬をこめて記事を書いていた。なんだか、作り話のような美談だ。が、こういう話は、松井秀喜の周辺にはいくらでも転がっている。松井は、寓話の中の疑うことを知らないトロールみたいに、常に閉ざされた世界の氷を溶かしてしまう選手だった。

 私は元来、「義理堅さ」や「長幼の序」みたいな古くさいモラルが大嫌いな性質で、どちらかといえば、中田英寿選手が取材陣に対して突きつけていたようなクールで実際的な基準の方に魅力を感じるタイプの男だ。

 だから、私はヒデを応援していた。

「そうだ。もっと言ってやれ。思い上がった記者連中に思い知らせてやれ」
 と、中田英寿が、うるさくまとわりつく記者をやっつける度に快哉(かいさい)を叫んでいたものだ。

 それでも、松井は別格だ。

 松井とそのまわりにいる記者たちの間にある、悪くいえば「なあなあ」にさえ見える、あの温かい、人間的な空気には、やはり脱帽しないわけにはいかない。

 人と人は鏡だ。

 あんなにも無防備に、気さくに、礼儀正しく対応する松井に対して、どこの記者がいったい失礼な取材を続けられるだろう。

 結果として、松井は、パパラッチを封じ込めてしまった。それも、身のまわりに鉄のシャッターを降ろすことや、相手を手ひどく論破することによってではなく、あくまでも礼儀正しくふるまい、記者たちの心根を癒すことによってだ。誰にでもできることではない。まったく見事な振る舞い方だったと思う。

 結局、松井の空は、ニューヨークに続いていて、私たちはおかげで、東京にいながら、ニューヨークの空気を味わうことができた。

 特筆すべきは、松井が、ながらく彼をしばりつけてきた巨人軍を去るに当たって、なにひとつ失礼な態度を取らなかったことだ。

 松井の立派な態度は、FA権取得に際して私が書いた邪推に満ちた品のないポエムを、結果として浄化してしまった。

 しかも、米球界からの引退を決意した後、安易に日本球界に復帰して日銭を稼ぐ道も選ばなかった。

 頭が下がる。

 今後の活躍に期待したい。

 ありがとう。
BLOGOS 門田隆将 2012/12/29
不動心「松井秀喜」引退に思う
松井秀喜選手(38)が引退表明した。通算20年の現役生活に本日、ピリオドを打ったのである。ニュース映像を見ながら、さまざまな思いがこみ上げた。

どんな名選手であろうと、必ず迎える「その時」を、松井はニューヨークで迎えた。巨人、ヤンキースなど、5球団で20年。怪物もついに「バットを置く」のである。

私は、今年7月26日のブログで、「松井よ、日本に帰って来い」と書いた。かつて選手生活の晩年を巨人で過ごしたメジャーの名選手レジー・スミスを例にとり、松井選手に「日本球界復帰を」と願うファンの気持ちを代弁させてもらったのだ。

しかし、ファンの声も虚しく松井は引退の道を選んだ。それもまた、松井らしい。今日の会見で私が最も心を揺さぶられたのは、自分は「命がけでプレー」をしたというくだりだった。

そう、松井は「命がけ」でプレーした野球選手だった。松井は、1992年夏の甲子園で明徳義塾の河野和洋投手に5敬遠されて悲劇のヒーローとなり、そのままスターへの道を歩んだ。

この5敬遠の物語は、拙著『あの一瞬 アスリートはなぜ奇跡を起こすのか』(新潮社)に書かせてもらった。あれから20年経った今、その松井がバットを置くのである。

彼の野球人生は、実は茨(いばら)の道だった。松井には、バッターとして致命的な「膝が硬い」という欠点があったからだ。私は、プロではそこを突かれて、松井が大成できないかもしれない、とさえ思っていた。

しかし、入団3年目に、松井はその欠点を克服していた。私は、なぜ彼が変わったのか、そのことが長い間、不思議でならなかった。彼にそのことを聞けたのは、2007年1月のことだった。

当時、週刊新潮のデスクだった私は、松井選手にそのことを問うた。彼は、これを克服した入団2年が過ぎたオフシーズンのことを語り、「それ以後、それまでの自分とは、まったく違ったものになった」と表現した。

「膝元もそうですが、身体に近いコースを徹底的に攻められました。肘(ひじ)が畳めないとか、インサイドアウトのスイングとか、そんなことだけではなく、当時の僕は、バットの軌道がワンパターンだった。これは、腕がどうというより、身体全体にかかわることです。当時、そのことを考えて寝つけなかったり、いろいろ悩みました。夜中にガバッと飛び起きて、バットスイングを繰り返し、どうすればこの欠点が克服できるのか、と考えたことを思い出します」

そして、日々の練習では、「身体に当たるようなボールを打つ練習」までおこない、「そのイメージをしたスイングをつづけた」というのである。そういう“極端な練習”を反復してやった結果、苦手だった膝元を突く球も打てるようになったというのである。

バッターは3割打てば、強打者だ。つまり7割は打ち取られる。「僕は、この7割の失敗をずっと生かそうとしてきました。失敗をどう生かすか、あるいはどう活用するかによって“次への一歩”として大きく差が出てくるものだと思います」

私がさせてもらったこの松井選手へのインタビューは、今でも彼の著書『不動心』を出版した新潮社のホームページに出ている。あの時、私には、松井が「大選手」である意味が、少しだけわかった気がした。松井は、まぎれもなく“努力”と“執念”の人だった。

一方、松井を甲子園で5敬遠した明徳義塾の河野和洋選手のことも、私は今年の5月7日付のブログに書いている。「たかが野球、されど野球 松井5敬遠から20年」というものだ。

大学で野球を教える河野君とは、今も時々、話すことがあるが、二人の人生については、折に触れて、今後も紹介する機会があるだろう。今は、「ご苦労さん、これからが本当の人生の勝負だ」という言葉を松井君にはかけてあげたい。長い間、お疲れさまでした。
Number Web プロ野球亭日乗 2012/12/29
“頑固”が支えたプロ生活20年――。松井秀喜が最後まで貫いた己の美学。
 松井秀喜が12月27日(日本時間28日)、米ニューヨークで会見を行い、20年のプロ生活に「区切りをつける」と引退を表明した。

 松井のバッティングを初めて見たのは、星稜高校から巨人に入団した1年目、1993年の春の宮崎キャンプだった。

 初日にサク越え4発、2日目には飛距離150メートルの場外弾と規格外のスラッガーぶりを見せた松井だったが、「こいつは本当に凄い」と実感させられたのは、実は3日目のフリー打撃でのある出来事だった。

 ボール球に絶対に手を出さないのである。

 打撃投手が投げた60球のうち、松井がスイングしたのは40球。何と20球も見逃しのボールがあったのだ。ベテラン打者でもフリー打撃ではよほどのボールでない限り、強引に打ってしまうケースは多い。しかも高卒1年目の18歳ルーキーである。普通ならまだプロの世界への気後れもあるし、とにかく打たなければならないという焦りもでる。

 しかしプロ3日目の松井は1球、1球、きちっとボールを見極め、振るべきでないボールは頑としてスイングしなかったのである。

 頑固で自分のスタイルを決して崩さない。

 20年間のプロ生活で松井が見せてきた野球に対する姿勢は、実はすでにこのプロ3日目から見せていた。そういう意味ではプロ野球の世界に飛び込んだ瞬間から引退まで、松井とはずっとプロフェッショナルに徹した男だったのである。

ヤンキースでもなく、Wシリーズでもなく……長嶋監督との素振り。

 引退会見で「一番印象に残っているシーンは?」と聞かれたときに、2003年にヤンキースタジアムのデビュー戦で放った満塁弾でも、'09年のワールドシリーズMVPに輝いたときのシーンでもなく、巨人時代に恩師でもある長嶋茂雄監督と続けてきたマンツーマンの素振りを挙げたのも、実に松井らしいものだったと思う。

 プロ1年目から始まったこの素振りは、東京ドームで試合のあるときは長嶋監督の自宅で、遠征先ではホテルの監督の部屋で、ほぼ欠かすことなく毎日続けられたものだった。

 メジャーに渡っても、不振に陥ったとき、自分のスイングをチェックしたいとき、松井は必ず同じように黙々と素振りをしてきた。

フロリダで10代の若者達に交じって最後まで戦い続けた。

「僕のバッティングの原点はすべて長嶋監督とやってきた素振りにある。プロ1年目からメジャーに渡ってプレーする間も、実はやっていること、目指しているものに変わりはないんです」

 こんな話をしていたのは今年の6月、タンパベイ・レイズとマイナー契約を交わして、フロリダの施設でトレーニングをしていたときだった。

 10代の若者たちに交じって、ラストチャンスにかけて汗を流したあのときも、ホテルの自室に戻ると、バットを手にしていた。

 愚直だが、そうして自分のスタイルを貫き通してきた。その頑固さが松井秀喜というスーパースターを支え、グラウンドでの華々しい活躍につながっていったわけである。

 引退会見を観て、まだまだできるのではないかという思いもよぎる。ただ、松井秀喜が描く松井秀喜であるためには、ここでバットを置くことが最善だと判断し、決断したのだろうとも思った。

 余力を残したまま自分のスタイルを貫き通した。

 松井らしい引き際だった。
日本経済新聞 2012/12/29
最後に明かされた松井秀喜“メジャー主軸”の誇り
 現役引退を表明した松井秀喜(38)は日米通算507本塁打という数字はあくまでチームの勝利のために戦った結果にすぎない、と話した。巨人、ヤンキースと日米の常勝球団の主軸を打ったただ一人の日本人選手。今、同じユニホームに袖を通す記録の偉人、イチローとは別の道を行きながら、劣らぬほどの記憶を球史に残した。

ジーターも敬服するチーム愛

 2012年シーズンの開幕1カ月後にレイズとマイナー契約、7月に戦力外通告。わずかに出場した試合で1割4分7厘という打率を見れば、いつその日が来ても不思議ではなかった。いいときも悪いときも淡々と自己を語る松井だったが、現役最後の会見でスラッガーとしてのプライドをにじませた。

 松井には堅苦しささえ漂うヤンキースのピンストライプのユニホームがよく似合ったと思う。ストライプ柄には細身に見せる効果があるため、背が高く、ガッチリした体格の松井をスマートに見せたせいもあろうが、その性格がヤンキースとマッチしていたからだとも思う。

 「すべてはチームの勝利のために。このチームに来た選手はまず、それを理解してもらわなければならない」。ヤンキースのキャプテン、デレク・ジーターは話す。

 松井は「チームが勝つために努力してきた」と、引退会見で何度も繰り返した。“球界の盟主”といわれた巨人に入り、日本が生んだ最大のスーパースター、長嶋茂雄にマンツーマンで薫陶を受けた。

 ヤンキースがワールドシリーズを3連覇した際の真ん中の年に当たる1999年、ヤンキースタジアムで初観戦し、「言葉で言い表せないくらい印象に残り」「このチームにほしいと言われるくらいの選手になりたい」と思ったという。「チーム第一」のメンタリティーをたたきこまれてきた松井がヤンキースにすんなりはまったのも当然だったろう。

 松井とジーターは同い年。引退の報に「僕が最も好きな選手の1人」との言葉を寄せた。言葉の壁があり、かわす言葉は少なくても、チームへの献身は態度で分かっていたのだろう。

 ちなみにジーターは12年からヤンキースに入った黒田博樹投手にも同じようなものを感じているようだ。投球内容を問われても必ず「チームが勝てばどうでもいい」という黒田をジーターは買っている。

 「for the team」を最大の信条とするチーム、ヤンキース。その後、松井はエンゼルス、アスレチックス、レイズと渡り歩いた。それなりに強く、味もあるチームだが、それまで王道中の王道チームにしかいたことのない松井にとって、物足りなさもあったかもしれない。

 それでも、この3年を「人生にとって非常に意味があることだった」と話したのが、全方位に気配りする松井らしい。

 投手では野茂英雄というパイオニアを筆頭に、何人も大リーグで活躍した日本選手がいるが、野手で期待通りの成績を残した選手となると、松井と、1歳年長のイチローくらいだろう。2人はよく比較されたが、タイプは全く違う。

イチローとは違う土俵

 イチローは“スモールボール”というセピア色の時代に、大リーグが置き去りにしたものを現代に呼び戻したといわれる。ベーブ・ルース登場以前の大リーグはオーバーフェンスの空中戦ではなく、技巧や走力というグラウンド内での勝負が主だった。

 セオリー破りともいわれた技巧によって、イチローは米球界にだれも近づけないポジションを築いた。それまでの大リーグが忘れていたところに進出したという意味では大リーグの自分だけの土俵をつくってしまったともいえるだろう。

 これに対し、松井は元からある大リーグの土俵で勝負した。

 日本では本塁打も魅力の選手だったが、米国ではそれは通用しないことを自覚し、確実に走者を返す中距離打者としてのポジションを築いた。イチローのような打者はほかにいないが、松井と似たようなタイプの打者ならたくさんいる。そんなメジャーにあって、クリーンアップという立ち位置を守り続けた。その点を忘れてはいけないだろう。日本の打者でもポイントゲッターになれることを証明してくれたのだ。

 「(クリーンアップを最後まで打てたことは)非常にありがたく、誇りに思っている」という言葉に、控えめな松井のプライドが見えて、ゾクっとした。

 同時に松井は引退会見をする選手には珍しく、悔いがあるような発言を残した。

 自分にどんな言葉を掛けたいか? と聞かれて「もう少しいい選手になれたかな」。

会見でにじませた一握りの後悔

 「好き」としか表現しようのない野球だったから、苦でもなかった。だから、自分をねぎらう言葉は思い浮かばないというところまで話したとき、松井は急に思い出したかのように「もう少し~」と付け加えたのだ。

 「今振り返ると結果論になる。そのとき自分が考えて決断したことに後悔はない」とも話した。すっきりした表情のなかにわずかに浮かんだ影の正体は何だったのか。

 思い浮かんだのが、膝の問題だった。

 この5~6年は膝の痛みに悩まされていたと話したが、最初に痛めたのは98年、まだ巨人時代だ。その際、手術を回避している。選手はできれば長期離脱などしたくはない。当時、伸び盛りの23歳だったのだから、なおさらだ。大リーグでも休まず、試合に出続けた。

 メジャーの関係者にも松井が休まず「皆勤」にこだわることを危ぶみ「あれではメジャーで長続きしない」という声があったのは確かだ。

 影の正体は「あのとき、しっかり休んで治していればよかった」という気持ちだったのか。

 しかし、松井の受けた教育を考えるとどうもそうではない。スター選手はオープン戦から出続けて、ファンを楽しませなければならない、という長嶋茂雄の教えはその心身にすり込まれていたはずだ。

 「いや、松井って改めてスゴイと思う」。5月ごろ、まだ調子の上がらなかった黒田がボソっともらしたことがあった。松井と黒田は生年は違うが、学年は同じだ。

 ヤンキースは各チームの標的にされ、ファンのブーイングもきつく、メディアの目も厳しい。プロ入り前からその恐ろしさを見聞きしている米国選手ですら、おかしくなり、結局慣れないまま、チームを去ることがある。その中で7年間プレーし続けた同級生への驚嘆と敬意が入り交じった口調だった。黒田はまだ老舗球団のドジャースでの経験があったが、松井はいきなりニューヨークに来たのだ。

 松井が来た初年度の03年、ヤンキースタジアムのスタジアムツアーは空前絶後の参加者を記録。球界一の番記者を抱えるヤンキースなのに、松井はそれを上回るような日本メディアをゾロゾロと引き連れていた。そこで黙々と結果を出す姿は、ヤンキースの面々にとっても驚きだったのだろう。もうチームの一員でもないのに、ジーター、ゼネラルマネジャーのキャッシュマン、共同オーナーのハル・スタインブレナーらが、松井の引退に続々とコメントを寄せた。

 師匠の長嶋茂雄と同じく、記憶に残る選手――。ニューヨーク・ヤンキースというメジャーのど真ん中の土俵で真っ向勝負を挑んできた松井は、日本を売り出す素晴らしい外交官の役割も果たしてくれていたのかもしれない。

(米州総局 原真子)
スポニチ 2012/12/29
黒田 激白「松井がいたから僕も米国に来た」
 【ヤンキース・黒田が激白】

 彼がいなかったら、僕はここまで来られなかった。プロ入りした97年。最初に三振を奪った相手が松井でした。体の迫力からして別次元。よく打たれましたが、彼との対決は選手生活の財産。何とか抑えたいと全精力を注ぎ込み、それが向上心となって投手として大きくなれたと思います。

 本塁までの18・44メートル。集中してくると、松井と2人だけの空間に感じられた。完璧に打たれると、その瞬間は物凄く悔しい。でも打球がスタンドに飛び込むころには、あそこまで飛ばされたら仕方がないと、すがすがしい気持ちになった。それが打者・松井でした。

 だからこそ、彼のメジャー挑戦は、僕にとっても大きなことだった。メジャーに憧れたことすらなかったのに目を向けるようになった。松井がいたから、僕も米国に来たと言っても過言ではありません。メジャーでも、あの空間で渡り合いたかった。今は心にぽっかり穴が空いた感じです。

 僕もヤンキースのユニホームを着たことで、あらためて松井の凄さを認識しました。ここで7年間もプレーすることが、いかに大変なことか。彼がレイズと契約してヤンキースタジアムに戻ってきた時、ファンの声援にはビックリさせられました。引退は寂しい。一つの時代が終わった気がします。
中日新聞 社説 2012/12/29
松井秀喜引退 ひたむきさ、貫いた
 多くの人々に愛され、また多くの人々を勇気づけてきた男が球場を去る。松井秀喜、引退表明。栄光も挫折も味わいつつ奮闘した強打者に、今後への期待もこめて惜別の拍手を送りたい。

 日米双方の野球界にかつてない足跡を残した希代のスラッガーが現役引退を表明した。巨人時代は不動の四番として君臨し、米メジャーリーグではヤンキースを中心に、十年にわたって印象的な活躍を続けてきた松井秀喜選手。ここ二年ほどは度重なる故障に悩まされ、思うようなプレーができない状態だったが、それでも並みいるパワーヒッターの中で示した豪打の存在感は、メジャーに渡った日本選手の誰より大きかったといえる。

 メジャーではシーズン百打点を四回。三十本塁打も記録した。とりわけ鮮烈な印象となって残ったのは、二〇〇九年のワールドシリーズでなし遂げたMVP獲得の快挙。長距離打者がそろうメジャーで中軸を打ち続けた実績は、日本野球の可能性を示すものとして長く歴史に残るだろう。

 ただ、松井選手の魅力はバットマンとしての活躍にあるだけではない。ひたむきに努力を重ねて野球に取り組む姿。不運に遭ってもくさることなく、明るくさわやかにプレーする人柄。チームを第一に考える姿勢。いかにもスポーツマンらしいその人間味こそが一番の魅力だったのではないか。

 誰もが一目置く大選手となってからも、試行錯誤を重ねて力を出し尽くそうとしてきた。人気球団のスターであっても、おごらず高ぶらず、誠実にファンと向き合ってきた。いわば人間・松井秀喜そのものが日米のファンを等しくひきつけてきたのだ。だからこそ多くの人々が松井を応援し、その奮闘に励まされてきたのである。

 そんなひたむきさや誠実さ、てらいなく素朴に努力し続ける姿勢はまた、現代社会がしだいに失いつつあるもののようにも思える。われわれは松井選手の姿に、再び取り戻したいもの、なくさずに守っていきたいものの面影を見ていたのかもしれない。

 三十八歳での引退はいささか早い。しかし彼にはこれからも期待がかかる。日米の野球を知り、双方のファンから愛された選手だ。となれば、問題が山積する日米野球界の関係を改善していく、またとない懸け橋ともなれるだろう。そして野球少年たちには、みなに愛された強打者の軌跡からさまざまなことを学んでほしい。
毎日新聞 社説 2012/12/29
松井選手引退 みんなに愛された20年
 「ゴジラ」の愛称で親しまれ、強打の外野手として日米のプロ球界で20年間プレーした松井秀喜選手がユニホームを脱ぐことになった。38歳での現役引退を惜しむ声が球界以外からも上がっている。だが、「自分が考えて決断したことは何ひとつ後悔していない」という本人の決断だ。それを尊重しつつ、今後の人生を見守りたい。

 勝利(優勝)を義務付けられた日米の名門球団で期待に押しつぶされることなく、中軸打者としての役割を果たした。高校を卒業して93年に入団した巨人では3度のMVP(最優秀選手)に輝き、7年間在籍したヤンキースでは09年のワールドシリーズでMVPを獲得した。

 日米両国で彼ほど愛されたプレーヤーはいるだろうか。人気選手ゆえの宿命で行く先々で注目を集め、多くのファンに追いかけられた。だが、遠征の際に新幹線や飛行機の待ち時間があれば、嫌な顔一つ見せずにサインや写真撮影に応じた。負けた試合でも記者の取材に丁寧に、かつ誠実に応じる姿は渡米してからも変わらなかった。飾らない人柄と笑顔はチームメート、監督、コーチを含む多くの人を引きつけた。

 フリーエージェント(FA)宣言してヤンキースに移籍したのは02年オフだった。そのシーズン、巨人は日本一となり、自身も本塁打王と打点王のタイトルを獲得していた。巨人は将来の幹部候補生を引き留めるべく、ドラフトで1位くじを引いた恩人の長嶋茂雄氏、原辰徳監督らが必死の説得に当たった。

 悩み抜いてメジャー移籍を表明した会見で「申し訳ない気持ちでいっぱい。今は何を言っても裏切り者と思われるかもしれない」との言葉を聞いた時、人生の分岐点に立ってもなおファンのことを気にかけていることに驚き、感心したものだ。

 近年、大リーグに挑戦したものの思うような結果が残せず、日本球界に復帰する選手が目立つ。最後にもうひと花咲かせようということなのだろうが、残念ながら球団やファンの期待通りとはいかないケースがほとんどだ。

 松井選手もけがなどで出場機会が減った際、日本への復帰を歓迎する球団もあったという。「命をかけて頑張りたい」と明言して渡米した以上、両膝のけがを抱えながらだましだましプレーする姿をファンの前にさらすことは許せなかったのだろう。その潔さもまた共感を呼ぶのだ。

 10年前のメジャー移籍会見で、松井選手は「いつか『行ってよかったな』と言われるように頑張る」と話していた。現役引退のニュースを知ってファンは声をそろえて言うはずだ。「行ってよかった」と。
MLB.jp 2012/12/29
松井といえばヤンキース、ファンの脳裏に刻まれた「あの瞬間」
 “ミスターオクトーバー”ことレジー・ジャクソンは、メジャーで21年プレーし、デビューからの9年を含む10年間をオークランド・アスレチックスで過ごした。そのほかにもボルティモア・オリオールズで1年、カリフォルニア(現ロサンゼルス)・エンゼルスでも5年プレーした。だがジャクソンの姿を思い出すファンの脳裏に浮かぶのは、大半がピンストライプのユニフォームをまとったニューヨーク・ヤンキース時代だろう。

 ジャクソンがヤンキースで過ごしたのはエンゼルスと同じ5年間だが、その間にワールドシリーズでの3打席連続アーチやビリー・マーティン監督との確執などで大きなインパクトを残したからだ。ジャクソン以外にも、21年のメジャー生活のうち4年しかヤンキースでプレーしなかった左腕デービッド・ウェルズなどは、やはりヤンキース時代が最も印象深い。人によって評価は分かれるだろうが、ロジャー・クレメンスも通算300勝と4000奪三振を達成し、ワールドシリーズを2回制したヤンキース時代のほうがボストン・レッドソックス時代よりも輝いていた。

 引退を表明した松井秀喜も、彼ら偉大な先輩たちと同じだ。松井は20年のプロ野球生活のうち、最初の10年を日本の読売ジャイアンツでスターとして過ごした。だが松井について覚えておくべきことは、あのルー・ゲーリッグやベーブ・ルースに匹敵する大活躍を見せた2009年10月で全てだ。あの時の松井は、殿堂入りした両選手しかなし得ていなかったワールドシリーズでの打率5割以上、3ホーマー以上の大当たりを見せ、MVPに輝いた。あの瞬間、松井のイメージはほかのどこでもなくヤンキースの選手として確固たるものとなった。

 ヤンキースでの7年間をトータルで見ても、松井は打率.292、140本塁打と有能な打者であることは間違いないが、やはり2009年のワールドシリーズで永遠にヤンキースの一員として認められることになったのだ。
MLB.jp 2012/12/29
ヤンキースで輝いた松井の人間的魅力
 松井秀喜は、2003年春にピンストライプへ初めて袖を通した瞬間から、ニューヨーク・ヤンキースに強烈なインパクトをもたらした。立派な体格、大きな手、努力に裏打ちされた確かなスイング。それらによって、タンパでのキャンプ初日から松井は広角にラインドライブを打ち分けていた。

 初めてのヤンキー・スタジアムでの公式戦では満塁ホームラン。松井はあっという間にチームメートたちの信頼を得た。デレク・ジーターとはすぐに仲良くなり、ロジャー・クレメンスやバーニー・ウィリアムスもそれに続いた。日本での成功がメジャーでの活躍を保証しないと思っていたとしても、それはすぐに改められることになった。

 38歳で現役引退を表明した松井はメジャーで10年間、そのうちの7年間をヤンキースで過ごした。ヤンキースではシーズン平均20本塁打、28二塁打を放ち、最初の3年間は一度も試合を休まず2度のオールスター選出を果たした。2009年のプレーオフでは打率.615と驚異的な活躍を見せ、ワールドシリーズMVPにも輝いた。

 クラブハウスでも、松井はグラウンドとはまた違った形で伝説的存在だ。人格者であり、ユーモアも解する松井は誰とでも良きチームメートとなるのに時間をかけなかったし、なくてはならない存在だった。共同オーナーだったハル・スタインブレナー氏は「松井はあらゆる方法でチームを一つにまとめてくれた」と振り返っている。

 親友のジーターも、松井のことを最高のチームメートの一人という声明を発表。ブライアン・キャッシュマンGMは「みんな、いつの間にか松井にひかれていった。彼のキャラクターゆえだろう」と語った。

 メジャー1年目の松井は、時に40人近いメディアに囲まれることもあったが、常に真摯な対応を心掛けていた。それと同時にチームメートに迷惑がかからないような心遣いも忘れなかった。フィールドでの活躍はヤンキースに27度目のワールドシリーズ制覇をもたらしただけでなく、日本の大勢の野球ファンにヤンキースをアピールすることになった。

 現地12月27日にマンハッタンで行われた引退会見には60人近い日本のメディアが集結。それは長く愛されたスターとしての底力の証明だった。

 松井は常にベストを尽くすための努力を怠らない選手だった。いいチームというのは、チームを最優先する選手たちの集まりであるということを理解している選手だった。その気持ちをシーズンを通じて研磨することの重要性を知る選手だった。ヤンキース史上で比類ないスーパースターだったわけではないかもしれない。だが特別な瞬間を演出してくれた1人の選手であり、彼のベストを知る人々にとっては間違いなく愛すべき選手だった。
スポニチ 2012/12/29
槙原氏 松井の打撃投手務める予定だった「でも来るべき時が…彼の美学」
 巨人時代の同僚である評論家の槙原寛己氏(49)は、最後まで美学を貫いた後輩・松井の決断を尊重した。

 このタイミングでの引退表明には驚いている。来春のキャンプに招待してくれる球団はあると聞いていたし、親しい仲間の間で、来年1月には東京で練習場所を確保して私が打撃投手をするという話を進めていた。決断を迫られるのはキャンプを終えて契約のオファーがあるかないかにかかっていると思っていた。

 でも…。来るべき時がついに来たと受け入れるしかない。最後は日本でプレーしてほしいと思っていたが、両膝の故障もあって松井秀喜のバッティングはもうできない。そう判断してバットを置く決意をしたのだろう。彼の美学である。

 巨人に入ってきたときの宮崎キャンプ。2月上旬の寒い時期にひむか球場のバックスクリーンを越える打球に、とんでもないのが入ってきたなと思った。衝撃の後輩は順調に成長し、私はいつしかファンになっていた。

 50本塁打をマークした翌年にメジャー挑戦。イチローとは違い、日本の長距離砲がどれだけ通用するか。常に勝利を求められるヤンキースという名門球団で試合に出るためには一発を捨て、左方向へ押っつける打撃も求められる。スタイルを変えてレギュラーの座をつかんだ。シーズン最多本塁打は2年目の31本。彼を通じてメジャーのレベルを教えてもらった。

 ヤンキースタジアムでの満塁弾デビュー、左手首骨折、ワールドシリーズMVP…。最高の瞬間も目を覆うシーンも現地で目撃した。毎年楽しみにしていた松井取材。それがもうできないと思うと寂しい。

 ご苦労さま。今はただゆっくり休んでほしい。そしていつの日か、その経験を日本球界に還元してもらいたい。長嶋さんに注いでもらった愛情を持って「第2の松井」育成を。指導者としてのホームランを期待したい。
ウォール・ストリート・ジャーナル 2012/12/28
松井秀喜選手が引退表明 優れた実績と謙虚な人柄でファンを魅了
米大リーグの松井秀喜選手が28日、現役引退を表明し、プロ野球選手としての20年の華々しいキャリアに幕を閉じた。松井選手は最も尊敬される日本人アスリートの1人であり、フィールドでのプレーとフィールド外での振る舞いで日本と米国で多くのファンに愛された。

最初のキャリアでは、日本のニューヨーク・ヤンキースとしばしば称される読売巨人軍の中堅手および強打者として目覚ましい実績を残した。03年に活躍の舞台を米大リーグへと移し、本物のヤンキースに入団。日本人のパワーヒッターとして初の大リーガーとなった。

ヤンキースでは、日本のプロ野球で打ち立てたほどの突出した記録は残せなかったものの、パワフルなヤンキース打線でも主力となった。中でも最も印象深いのが、09年のワールドシリーズでのMVP獲得だ。最も重要な場面で相次いでヒットを放ち、勝負強い打者という評判にふさわしい活躍をみせた。

「憧れのヤンキースのユニホームに袖を通してプレーできたことは最高に幸せな日々だった」。松井選手はニューヨークで行われた記者会見で語った。いつも通りゆっくりと慎重に話していたが、感極まって目に涙がこみ上げる瞬間もあった。

優れた実績で多くの日本人ファンの尊敬を集めた松井選手だが、日本で最も人気者になった理由はその謙虚で飾らない人間性にある。大リーグで最も偉大な日本人選手はイチロー選手かもしれないが、最も愛されたのは松井選手だろう。

松井選手の伝説は高校時代から始まった。「ゴジラ」の愛称で呼ばれるようになったのもこの頃だ。ニキビ面で驚異的なスラッガーの松井選手は対戦チームの監督からも恐れられ、夏の甲子園では5打席連続敬遠を受けるほどだった。

この出来事は甲子園ファンの間で大きな怒りを買い、敬遠はスポーツマン精神に反する行為と批判された。だが、石川県出身の地方人である松井選手本人はほとんどひるむことはなく、チームが負けたときでさえも冷静を保っていた。たび重なる敬遠にも動じない、超然とした態度は日本全国のファンの敬意を集めた。

辛うじて取材に応じてくれるイチロー選手とは異なり、松井選手はメディアに対しても常に寛大だった。20年変わらないそのヘアスタイルと同様、あたりさわりのない答えも多かったが、常に質問をじっくりと考え、記者の目を見て誠実な答えを返してくれた。

ヤンキース時代、松井選手は自らの一挙手一投足を追いかける大勢の日本人記者を相手に毎日会見を開いた。ただし、他のチームメートに迷惑がかからないよう、クラブハウスの外で行うという条件だった。06年にダイビングキャッチで手首を故障したときも、けがをしたことに対してチームに謝罪した。

「何年も前から繰り返し言ってきたが、今もう一度言う。ヤンキースで長年多くのチームメートと接してきたが、秀喜が最もお気に入りのチームメートの1人であることは今後もずっと変わらないだろう」。ヤンキースの遊撃手で主将を務めるデレク・ジーター選手は書面でこう語った。

松井選手は08年に富山県出身の女性と結婚したが、選んだ花嫁もその人柄を物語っている。アナウンサーやモデルと結婚している多くの日本人野球選手と異なり、その相手は元会社員の「一般人」(松井選手)だった。相手のプライバシーを考慮し、名前は公表せず、自ら描いた似顔絵だけをメディアに公開した。

将来は読売巨人軍の監督に就任するのではないかとのうわさが長年ささやかれているが、松井選手は今後の計画は明かさず、会見では「引退を決めてからまだ時間がたっていないので、少しゆっくりしながら考えたい」とだけ語った。
毎日新聞 2012/12/28
松井秀喜引退:ゴジラ伝説、終幕…「4番の誇り」貫く
 【ニューヨーク小坂大】日米20年間のプロ生活で通算507本塁打を放ち日本が誇るスラッガーだった松井秀喜外野手(38)が27日(日本時間28日)、現役引退を表明した。当地で行った記者会見の冒頭、松井は「甲子園に出場して小さなころの夢を達成した」「巨人は古里」「ヤンキースは家族」と自らが歩んだ足跡を振り返った。

 小学生で兄を追って野球を始めて抱いた目標が「甲子園出場」。92年夏の大会の明徳義塾戦で強打を警戒され、5打席連続敬遠を受け、名前を一躍全国に知らしめたのがスター選手としての「ゴジラ」の始まりだった。

 巨人入り後、松井を育てることを使命のように感じた長嶋茂雄監督(当時)からは「ジョー・ディマジオのようになれ」と言われたことがヤンキースを意識したきっかけとなった。巨人では4番打者を担い「非常に誇りに思っているし、責任を持ってプレーした」と松井。その誇りを胸に10年前に大リーグへの挑戦を決断した際「命がけでプレーする」と誓っていた。

 「チームが勝つことが自分の喜びであり、ファンも喜ぶ」と言い続けたひたむきのプレーは7年間ともに戦ったヤンキースのジーターに「彼はいつも自分の仕事に集中した。大いに尊敬している」と言わしめた。その後に所属したエンゼルス、アスレチックス、レイズの首脳陣も松井の打撃にかげりが出てもなお、その姿勢がチームにもたらす好影響を期待して獲得した。

 巨人の4番の誇りと、そこから生まれた「命がけ」の覚悟は10年後に引退を決めた理由にもなった。今年は34試合に出場して打率1割4分7厘、2本塁打、7打点。松井は「結果が出なくなり、命がけのプレーも終わりを迎えた」と心境を語り、待望論のあった日本球界への復帰も「多くのファンが10年前の姿を見たいと期待する。正直言って、その姿に戻れる自信は持てなかった」と否定した。

 長嶋氏は「大好きな野球を続けたいという本心より、ファンの抱く松井像を優先した決断」と思いやった。現役続行に望みがなければ、8月にレイズを自由契約になってから決断は長引かないだろう。それでも思いを断ち切った松井は「自分なりに精いっぱいプレーしたつもりだし、野球の面白さと素晴らしさは伝えられたかもしれない」と振り返った。
日本経済新聞 2012/12/28
「後悔なし」 引退表明の松井、引き際の言葉
 巨人、ヤンキースなどで20年にわたって野球ファンに夢を与え続けてきた松井秀喜選手。「ヤンキースの一員として初めてプレーした日と最後にプレーした日のことは一生忘れない」などと引退会見で語った。主な一問一答は以下の通り。

結果が出ず、引退を決断

 「20年の野球人生の区切りをつけるにつき、応援して下さったファンの皆様に感謝の気持ちを伝えたくて、このような会見を開きました」

 「この決断を下した大きな原因は、今季3カ月しかありませんでしたが、初めてマイナーからスタートし、メジャーに昇格して最初は結果が出た。その後プレー機会をもらい、主軸も打たせてもらったにもかかわらず、結果が出なかった。それが一番大きな要因です」

長嶋監督「ジョー・ディマジオのように」 2人きりの指導に感謝

 「10年前、メジャーに挑戦するとき、命懸けでプレーし、力を発揮する気持ちでいたけれど、やはり結果が出ないので、1つの終わりという感じがした」

 「生まれ育った地元の高校に進み、甲子園出場という目標を達成できた。注目して頂き、巨人軍に指名して頂き、当時の長嶋茂雄監督が(ドラフトで)クジを引いて下さった。大変光栄でした。長嶋監督と2人きりで、毎日のように指導して頂き、その日々が僕の野球人生にとって本当に大きなものになった。感謝しても、し尽くせない気持ちでいっぱいです」

 「僕がセンターにコンバートされた際、長嶋監督に『ジョー・ディマジオのようになれ』と言われました。当時のヤンキースにはぼんやりとしたイメージしかなかったけれど、99年オフ、初めてヤンキースタジアムで観戦し、ヤンキースの野球は大きなものとして、言葉で言い表せないくらい印象に残っています。3年後、フリーエージェントになるのが分かっていたので、『このチームにほしいと言われるくらいの選手になりたい』と思って、巨人の4番でやっていました」

「ヤンキースでプレーできて最高に幸せ」

 「憧れていたヤンキースで7年間もプレーできて、僕にとって本当に最高に幸せでした。ヤンキースの一員として初めてプレーした日のこと、最後にプレーした日のことはおそらく一生忘れることなく、心の中にあると思います」

 「エンゼルス、アスレチックス、レイズと1年ずつプレーし、なかなか力になりきれなかった。でも僕の人生にとって非常に大きい。ここ1、2年、成績も若干落ち気味になり、5~6年前から両膝の調子もあまりよくなかった。何とかやってこれたけれど、今日こういう形で報告することになりました。この20年間たくさんの人が応援してくれて、それが大きな力になりました。すばらしい指導者、チームメートとプレーしたことは僕にとって一番大きなことです」

 「(今後のことは)まだはっきり決まっていない。少しゆっくりしながら考えたいと思います。生活している以上、何か学ぶ。そういう時間を持ちたいですね」

 「日米10年ずつプレーした経験を、いろんな人に伝えていけたらいい。自分なりに経験したものを、いい形で伝える土台を作ることも必要だと思う」

 「指導者は現時点では想像していない。もしかしたら将来はあるかもしれない」

――レイズを自由契約になってから4カ月の間、いつ引退を決めたのか

 「そういう思いは常にありました。やはり野球が好き。プレーしたい気持ちがあったのも事実。時間をおいて考えようと思い、決めたのはつい最近です」

 「衰えを感じたり、燃え尽きたり、そういうことはシーズン中に感じることはない。もがきながら努力していて、そのときに『もうダメ』と感じることはない。ただ結果がでなかった。それにつきると思います」

「10年前の姿に戻れる自信が持てない」 日本球界復帰は断念

――日本球界に復帰する気持ちは?

 「確かにありがたい話もありました。10年前、巨人を出たときには、非常に責任をもってプレーしていた。もし日本でプレーすることになれば、おそらく(そうした)10年前の姿を見たいと思って期待する人がたくさんいるでしょう。正直、その姿に戻れる自信が強く持てなかった」

 「今から戻ってグラウンドに立つことはできる。しかし、いいプレーを見せることができるかは疑問だった」

――日米通算20年を振り返ってどうですか?

 「巨人とヤンキース、長い時間過ごした2チームは特別な思いがある。巨人は僕の故郷のようなチーム。ヤンキースは憧れ。その憧れがいつしか家族のような存在になり、家族の一員になれた気がした」

――現役生活で一番印象に残るシーンは?

 「やはり長嶋監督と2人切りで素振りした時間かもしれない」

――長嶋さんへの報告は

 「電話なので全てをくみ取れなかったのが残念。『少し残念、でもよく頑張った、ご苦労さま』でした。長嶋さんからプロ野球選手としての心構え、練習の取り組み方、すべてを学び、20年間を支えてくれた」

「巨人の4番を全うするつもりでした」

――引退を最初に告げた人は?

 「常に一緒にいる妻。妻は『お疲れさまでした』の一言に集約される。彼女が一番のファンでいてくれた。ケガをしてから結婚したので、心配させる時間が多かったと思う。球場に来ることも普段からないけれど、09年のワールドシリーズは全試合観戦した。それは僕にとっての唯一の恩返しだったかな」

――メジャーに挑戦する後輩にアドバイスは?

 「僕からは何か言うことはない。自分を信じてプレーする以外ない気がする」

――小さい子、ファンに夢を与えられたと思うか

 「正直、分かりかねる。自分なりに精いっぱいプレーした。野球の面白さ、素晴らしさは伝えられたかもしれない。ファンがどう受け取ったかは僕には分からない」

「引退の決断に後悔はない」

――やり残したことはありますか?

 「今振り返ると結果論になる。いくつかそういうことは出てくる。でも、そのときの自分が考えて決断したことに後悔はないです」

――日米通算507本塁打について

 「本塁打は魅力の1つ。でも常に意識したのはチームが勝つこと。そのために努力することしか考えてなかった。たまたまこういう結果が出ただけです」

――印象に残っている選手、刺激を受けた選手は誰か

 「たくさんいます。巨人の4番を全うするつもりでした。ぼくが入団した当時の4番は原辰徳さん。生え抜きとして、いい形でつなぎたいという思いはあった。後輩では高橋由伸。同じ左打ちで高い才能があって、僕が抜けた後、中心になってくれた」

 「ヤンキースではスーパースターばかりで、すごい人とチームメートで不思議だったけれど、この人と同じ空気を吸って話し合う。名前は挙げきれないです」

引退は「寂しい気持ちとホッとした気持ち」

――米国は日本のキャリアの続きでなく、別のキャリアと話していましたがどうですか?

 「確かに違うのは事実。振り返ると、区別することはない。日米同じ気持ちでプレーしていた」

――米社会から学んだことはあるか?

 「全ては実力次第。それが一番ですね」

――日本は内向きと言われますが、海外に出る方にアドバイスを?

 「特別にない。それぞれ考えて行動すること。外国に行くから偉いわけでも、内向きだから悪いというのもない。好きなことをやるしかない」

――人生において野球はどんな意味を持っていたか?

 「正直、哲学的なものはない。最も好きなモノ。その一言ではないかと思います」

――引退を発表した今の心境は?

 「寂しい気持ちとホッとした気持ち、いろんな気持ちがある。複雑ですね。引退とは思わないし、これから草野球でもプレーしたい」

――自分にかけたい言葉はありますか

 「思いつく言葉はない。『よくやった』『頑張った』という気持ちはない。そんな努力したかな? という気もない。日々頑張ってきて、『もう少しいい選手になれたかも』ですね」

 「逆に、僕がどう見られていたのかな? とは思う。常にチームが勝つために何ができるか? それを常に考え、気持ちでプレーしてきたと思います。運良く巨人に指名されてクリーンナップを打てて、4番も打て、ヤンキース、エンゼルス、アスレチックス、今年でさえもクリーンナップ。非常に有りがたい。誇りであることは間違いないです」
スポーツナビ 杉浦大介 2012/12/28
松井秀喜引退、悲しみよりも祝福を “ゴジラ”がニューヨークにもたらした幸せ
12月27日は一時代が終わった日

 一時代が終わった日――。スポーツ界では使い古されたフレーズであるが、特に日本人である私たちにとって、米国時間の12月27日(日本時間28日)は紛れもなくそう呼ぶにふさわしい1日だったのだろう。

「私、松井秀喜は、本日をもちまして20年間に及ぶプロ野球人生に区切りをつけたいと思います。20年間、応援をしてくださったファンの皆さんに感謝の気持ちを伝えたいと思います」

 ニューヨークのミッドタウンで行われた記者会見で、松井は一言一言かみ締めるように言葉をつないだ。その声は、いつにも増してか細いもの。当初は涙をこらえているのかと思えたが、久々に公式の場に出てきた緊張もあったのだろう。時間が経つにつれて、いつも通りの穏やかな表情に戻っていった。

「チャンスをもらいながら、今季の結果が振るわなかった。これが(引退を決めた)一番大きな要因です。命懸けでプレーし、メジャーという場で力を発揮するという気持ちで10年間やってきたが、結果が出なくなったことで命懸けのプレーも終わりを迎えた」

引退は“椅子取りゲーム”に勝てなくなった結果

 そんな言葉通り、区切りの10年目となった2012年は松井にとって苦しい1年だった。開幕までに所属先が決まらず、4月30日にやっとレイズと契約。5月29日にメジャー昇格も、34試合で打率1割4分7厘、2本塁打、7打点と散々な成績に終わり、7月25日に戦力外通告を受けた。

 両膝に爆弾を抱える38歳。外野守備にはつけても、そのスキルはメジャーでは最低レベルで、打撃成績もここ3年は下降線をたどる一方だった。これだけ悪い条件が重なれば、次の所属先など簡単に見つかるはずもない。

「野球が好きなんで、プレーしたいという気持ちはあった」と松井本人も未練があったことは認めている。日本復帰は考えられなかったとしても、米国の球団から現実的なオファーがあればおそらくそのチャンスに懸けていたのではないか。日本が生んだ最高の長距離打者の引退は、最終的には、加齢とともに“全米が舞台の椅子取りゲーム”に勝てなくなった結果と言っていい。

 ただそれでも、メジャーリーガーとして、特にヤンキース時代の松井の活躍が見事だったこと、そしてその野球人としての軌跡が素晴らしかったという事実が変わるわけではもちろんない。

色あせないワールドシリーズの記憶

 米国では、キャリアを立派にまっとうして引退する選手には「おめでとう」という言葉を送るもの。今回の松井のケースに関しても、終わりを悲しむより、祝福の言葉の方がふさわしいのではないだろうか。

 メジャー通算1236試合で打率2割8分2厘、175本塁打、760打点。中でもヤンキース時代の打率2割9分2厘、140本塁打、597打点は立派な成績であり、その貢献度は数字が示す以上に高かった。ニューヨークでは主に4〜6番という重要な打順を任され、勝負強さと献身的な姿勢でスター軍団の中でも存在感を築き上げた。

「パワー自体は“ゴジラ”という愛称で喧伝(けんでん)されたほどではなかった」という声も聞こえてくるが、それでも安定して20〜30本のホームランが期待できる日本人選手は他にいないし、これから先も出てこないかもしれない。

「ヤンキースで7年間もプレーできたことは最高の出来事だったし、最高に幸せな日々でした。初めてヤンキースタジアムでプレーしたこと、最後にプレーした日のことは、一生忘れることなく心の中にあり続けると思います」

 そう感じているのは松井だけでなく、ニューヨークのファンも同じだろう。
 伝統の球場で初めてプレーした03年4月8日のゲームでは、松井は右中間への満塁ホームランを放った。最後となった09年ワールドシリーズ第6戦では、ヤンキースを9年ぶりの世界一に導き、自らのシリーズMVPも決定付ける3安打、1本塁打、6打点。以降のヤンキースは世界一から見放されていることもあり、松井が打率6割1分5厘、3本塁打と爆発したワールドシリーズの記憶はニューヨーカーの中でいまだに鮮明である。

MLBとヤンキースを身近にしてくれた

 ここで少しだけ個人的な話をさせてもらえば、筆者はニューヨークに住んでいてもヤンキースファンではないし、09年の世界一の際にも特別に歓喜したわけではない。公平さを保つために選手に必要以上に近づかないというポリシーもあって、松井とも親しかったわけではまったくない。
 それでも、この街で短くない時間を過ごしてきた人間の1人として、その存在をリスペクトしているし、感謝もしている。

 松井入団直後のニューヨークには、おかげで日々の楽しみが増えたというファンが山ほどいたし、スタジアムにも以前にも増して日本人ファンが見受けられるようになった。松井の活躍はビジネス面でも多くの人にさまざまな影響を及ぼし、その恩恵を受けた中には筆者も含まれるのだろう。

 そんな人々の見守る前で、松井は故障時以外は休むこともなく、黙々とグラウンドに立ち続けた。勝っても負けても、打っても打たなくても、同じように記者たちの質問に答え続けた。そんな不器用なやり方で、MLBとヤンキースを私たちにとってより身近なものにしてくれたのだ。

これから先も盛大なカーテンコールを

「1999年のオフ、ヤンキースの試合を1日でいいから見てみたいと思い、米国に行きました。ヤンキースタジアムで試合を見たことが運命のような気がします。3年後にFAになるのは分かっていたので、このチームから欲しいと言われるような選手になりたいと思いました」

 現役時代は当たり障りのない発言が多かった松井だが、スタートの地・ニューヨークでの引退会見でのそんなコメントは胸に響いた。

 自身が“運命”と呼んだその日以降も、日本で成績を残し続けることでヤンキースから認められ、希望通りの道を切り開いた。それは本当に運命だったのか、偶然だったのか、あるいは松井らしい努力の結果だったのか。その答えはどうあれ、こうして引退の時を迎えた今、10年前にそんなシナリオが実現したことにあらためて感謝したい。

“ゴジラ”が上陸したことは、ニューヨークで暮らす人々にとっても喜びだった。日本人にとっても、米国人にとってもそれは同じだった。だからこそ、これから先も、何年の時が経とうと、この街に戻ってくるたびに、松井は盛大なカーテンコールを浴び続けるに違いない。
YUCASEE MEDIA 2012/12/28
打たずに有名になった松井秀喜選手
 NYヤンキース、巨人などで活躍したプロ野球選手の松井秀喜選手(38)が27日(現地)、引退を正式発表した。名言は数多いが、あえて「打たずに有名になった」をベストな名言と位置付けてみたい。

 5打席連続敬遠。92年の高校野球選手権大会の2回戦で明徳義塾と対戦した松井選手の星稜。松井選手はまったく勝負をさせてもらえず、社会的な反響は高校野球史上でも最大のものとなった。

 後に自分のことを「打たずに有名になった」と語り、さらにはその時の投手との対面では「俺の価値を上げてくれた」とも語っていた。

 筆者が後に明徳の馬渕史郎監督に聞く機会があったが、その際には「高校野球に一人だけプロが混じっているようなものだから」と述べていた。

 ただ、巨人に入ってからも似たようなものだった。四球が100を超えたシーズンは10年間で5年もある。おかげで出塁率は7年連続で4割超えとなっている。すべてが勝負を避けたとは言わないが、勝負を避けたい打者ではある。

 特に渡米直前の2002年は敬遠が自己最多の17。出塁率は46.1%、強打者を測る指数の一つ
OPS(出塁率+長打率)は1.153とズバ抜けた数値となっていた。

 日本のプロ野球でプレーしても、「バリバリのメジャーリーガーが混じっているようなもの」という状態だと言ってもよいだろう。つまり、死に場所はメジャー以外になかったことになる。浪人状態ということを除けば、メジャーリーガーとして野球人生を全うできたことは幸せだっただろう。本当に打たずに凄さを感じさせる名選手だったのだろう。
ブログ報知 蛭間豊章記者の「Baseball inside」 2012/12/28
お疲れ様でした松井秀喜
 献身的なプレーでヤンキース・ファンを虜にした松井秀喜がユニホームを脱ぐという。地元ビートライターの「彼は、2009年ワールドシリーズMVPの思い出をファンが覚えているうちに、引退した方がいい」が現実になった。けっしてスマートな選手ではなかった。日本であれだけ猛威を振るったバッティングも海の向こうでは2004年の31本塁打が精一杯。それでも他の日本人選手が一度もマークしていないシーズン20発以上を5度もマークした。1年目の2003年にヤンキース担当記者からグッド・ガイ賞を受けた。これは吉井理人投手がメッツの2年目の1998年以来日本人2人目のこと。試合ごとに報道陣に対応する姿が地元記者の心を打った。

 今年で野球記者40年目になる私だが、松井の本塁打を現場で見る機会は少なく甲子園大会は0。巨人入り後も公式戦や日本シリーズは内勤ため、もちろんヤンキース入り後も観光で訪れた2004年は打たず、2006年は故障で左手首骨折のリハビリ中だった。2004年に東京ドームで開催されたヤンキース・デビルレイズ(現レイズ)との開幕リーズではオープン戦での一発は遭遇したものの、開幕2試合目は私用のため記念の一発を見損なうという相性の悪さだった。わずかに、日米野球取材班として1996年2本、98、00年各1本ずつ。それでも98年に66本塁打を引っさげて来日したサミー・ソーサは「彼ならメジャーの球場でも25~30本は本塁打を打つよ」と単にリップサービスではないコメント残し、その言葉通りになった。

 ヤンキースでは過大な期待を乗り越えて毎年のように地区優勝に貢献した松井。2006年レッドソックス戦の左手首骨折が無ければ、と多くのファンは嘆くだろうが、個人的にはパワーをつけるための体重アップが両膝に負担をかけて、フル出場が出来なくなった要因だと思う。それでも、あの2009年のワールドシリーズは忘れられない。個人的にはノマー・ガルシアパーラがレッドソックスと1日だけマイナー契約して、引退記者会見を行ったように、ヤンキースにとって21世紀唯一の世界一に大貢献した松井を1日だけ復帰させ、その場で引退の花道を作ってあげたらと思った。しかし、それも叶わなかった。

 渡米後の10年間はメジャー担当デスクとして、海の向こうから一喜一憂させられた。一番の思い出は2009年ワールドシリーズの号外作製。第6戦に本塁打含む6打点を挙げてMVPとなり、あわてて100行を30分かからずに書いた。1試合だけで、こちらを慌てさせる日本人大リーガーは、やはり野茂英雄と松井秀喜しかいない。いい時代を共有させてもらった。ゆっくり休んで第2の野球人生を熟慮してください。そして、中西太さんのように、若い選手への的確な指導をする姿を期待しています。お疲れ様でした。
読売新聞 2012/12/28
「チームのため」一貫、米国人の心打った松井
 日米球界で活躍した松井秀喜選手(38)が、プロ20年目のシーズンを最後に、引退を決意した。

 誰からも愛され、尊敬される現役生活だった。

 象徴的なシーンがある。2010年4月13日、ヤンキースからエンゼルスに移籍し、初めて古巣のヤンキースタジアムに遠征した試合だ。自身がMVPとなった前年のワールドシリーズ優勝のチャンピオンリング授与のセレモニーで松井選手がグラウンドに姿を現すと、5万人の観衆が総立ちとなり元同僚たちが取り巻いた。「一生忘れられない瞬間になった」と振り返った。

 ファンだけではない。松井選手がスランプに苦しんでいた時期にも我慢強く起用し続けたジョー・トーリ監督は、03年1月に松井選手が入団会見のため渡米した当日、01年米同時テロで被害を受けた世界貿易センターの跡地(グラウンド・ゼロ)を訪れたことを知り、深く感銘を受けたという。

 先発出場の機会が激減していた11年のアスレチックスでは、ボブ・メルビン監督代行が、「力のある打者」と評価し、シーズン途中の就任直後から3、4番で起用。2か月足らずしかプレーしなかった今年のレイズでも、ジョー・マドン監督は「いつか結果は出る」と、最後まで機会を与え続けた。

 逆境にある時にも揺るがなかった指揮官との信頼関係の背景には、野球に対する誠実な姿勢があった。「自分が無安打でもチームが勝てばいい」という一貫した態度は、監督たちの心に確かに響いた。日本人では、ただ一人シーズン30本塁打を超えるなど、大リーグで実力を証明した。だが数字以上に、米国で力勝負を挑み、故障に苦しみながらも全力で戦い抜いた人間「ヒデキ・マツイ」の姿を、野球の本場で暮らす人々の心に刻んだことこそ、日本人として誇れる功績だ。(前ロサンゼルス支局員 萱津節)