日本経済新聞
2015, 3, 12, 7, 02014/12/25
松井秀喜さん、現地訪問 肌で感じた「ドミニカ野球」
元ヤンキースの松井秀喜さん(40)が、チームメートだったロビンソン・カノらの故郷として興味があったというドミニカ共和国を11月、訪問した。カノらのパワー、そして自由な動きの源はどこにあるのか。どんな苦境でも野球を楽しむ姿勢はどうやって身についたのか……。松井さんの謎解きの旅を追った。(この模様はBSジャパン「松井秀喜 カリブを行く」として新年1月3日よる6時半から放送されます)
サイ・ヤング賞3度のペドロ・マルティネス、通算609本塁打のサミー・ソーサ、3度のMVPに輝いたアルバート・プホルスら、球史に名を刻む選手がこの国から出ている。
2013年ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)ではカノらの強打で勝ち進み、2連覇していた日本にとって代わり“世界一”になった。
人口1040万人のカリブの国が、どうしてここまでの野球大国になりえたのか。興味津々でこの地に降り立った松井さんがまず度肝をぬかれたのは交通マナーだったという。
少年野球、練習せずにいきなり試合
交通ルールなどあってなきようなもので、車は勝手に走り回り、歩行者は平気で道に飛び出す。メジャーで将来を期待されていた選手が交通事故で亡くなったばかり。選手が加害者として死亡事故を起こしたというニュースも流れていた。「あの状態では自分がハンドルを握っていても事故になるかもしれない」とヒヤヒヤしたそうだ。
ニューヨーク暮らしが長く、たいていのことでは驚かない松井さんもびっくりだったが、現地ではそれが日常。交通ルールのことは一例にすぎず、何事も日本人的な感覚でみてはいけないと思ったという。
少年野球のチームをみても、練習はせず、いきなり試合。ノックで守備を鍛えるというシーンはなく、少年たちは思い思いに体を動かしていた。
生活全般に見られる「自由さ」は野球のスタイルに影響しているかもしれない、と松井さんは言う。「あの国で生まれ育ってね、やっぱりみんな陽気なんですよ。いいじゃん、楽しくやろうよって。だから、悲壮感とかが漂ってこない。彼らのDNAにはそういうものが入ってるんじゃないかと」
一瞬一瞬の判断で超人的なプレー
カノや巨人時代の同僚だったドミンゴ・マルティネス選手らはいずれも陽気で、チームや自分の調子が悪いときでも、明るさを失わず、野球を楽しもうとしていた。今回、彼らの育った環境を肌で感じ、合点がいったという。
誰にもまねできない超人的なプレーもみせるカノら、ドミニカ共和国出身選手の守備も、その環境に育まれたものだとみる。日米野球で来日したロイヤルズの遊撃手、アルシデス・エスコバルもバックハンドのグラブトスというアクロバティックな守備をみせていた。
「『こうしなきゃいけない』みたいな、そういうものにとらわれていないのだろう。だから、その状況において自分の一番いい動きはこれだというような、一瞬一瞬の判断で動いている気がする。日本でああいうプレーをしていると『何だそれは』といわれてしまうけれど」
「なりたい自分」の欲求に素直に従い
日本では少年野球の段階で、スラッガータイプとか巧打者タイプとかに分かれていくが、ドミニカ共和国ではあくまで「なりたい自分」をあきらめずに追求していた。ホームランを打ちたい、投手なら三振を取りたいという欲求に素直に従っているのがわかった。
「子どものときから、いけるところまで自分がやりたいようにやらせてあげる、という土壌があるような気がする。少年野球レベルで、バントをしなさいとか、右打ちばかりしなさいというのはないでしょう」。数々のパワーヒッターや豪腕を生み出してきた秘密の一端がそこにあるようだった。
ドミニカ共和国の人材に着目したメジャー各球団は1980年代ごろから、続々と現地にアカデミーを設け、選手を発掘、育成してきた。広島もアカデミーを設けている。
「野球うまくなり稼いで家族を楽に」
その一つであるエンゼルスの施設を訪れた。何面もあるグラウンドやトレーニング施設は立派だったが、宿泊施設が日本の2軍の寮などとは違っていた。日本では個室だが、アカデミーは16人部屋。選手たちはここで、いつかスターになる日を夢見ながら過ごす。
ある野球少年の家庭を訪問した。日本の生活レベルからすると「ショック」というくらいの暮らしぶりだったという。「野球がうまくなって、お金を稼いで家族を楽にさせたいんだ」という少年たちの言葉が脳裏に刻まれた。
なじみの顔にも再会した。日本のロッテでも活躍したフリオ・フランコさんは長寿選手の代表格。07年5月、48歳で放った本塁打はメジャー最年長記録とされる。
生年について諸説があるフランコさんは今でも現役復帰できそうな引き締まった肉体を披露し、松井さんに「日本のコーチの仕事はないかい」と尋ねたという。
ヤンキースの宿命のライバル、レッドソックスの主砲として活躍していたマニー・ラミレスさんはまだ現地のウインターリーグでプレーしていた。功成り名を遂げてもまだプレーしたりないという姿に、野球を覚えたばかりの少年のような純粋さを見た。
移民に日本人のプライドと底力感じ
ドミニカ共和国の社会、翻って日本人というものを考えさせられる出会いもあった。
1950年代の日本の就職難の時代に、ドミニカ共和国への農業移民が進められた。土地はやせ、育つ作物が見つからず、多くの人々が帰還した。大失敗とされる政策だったが、それでも歯を食いしばって現地に根を張った人々がいた。
そんな日本人の家族に会えた。「日本人のプライドを感じた。ほとんどの人が引き返すなか、その家庭の人々は『来た以上、何もなく帰るわけにはいかない』といって残った。ここで生き続けようと、農業とはまったく関係ない仕事をやって、何とか成功し、3人のお子さんを大学まで行かせた、と。日本人のプライドというか、底力というか……」
松井さん自身、日本人が世界でここまでやれるという勇気を与えてくれる存在だったが、今回は勇気をもらう側になった。
「移民として渡ったのは戦後の大変な時代を生きた方々で、まだまだ日本は貧しく、大変な苦労をされた。ああいう世代の人々の人間的な強さや根性は今の世代とは違うのかもしれない」と思ったそうだ。
今回の訪問は驚異の選手たちを生み出すドミニカ共和国の風土への純粋な興味から。指導者になるための勉強ではなかったというが、再びユニホームを着るときまでの「充電期間」の貴重な体験になったのは間違いないようだ。
サイ・ヤング賞3度のペドロ・マルティネス、通算609本塁打のサミー・ソーサ、3度のMVPに輝いたアルバート・プホルスら、球史に名を刻む選手がこの国から出ている。
2013年ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)ではカノらの強打で勝ち進み、2連覇していた日本にとって代わり“世界一”になった。
人口1040万人のカリブの国が、どうしてここまでの野球大国になりえたのか。興味津々でこの地に降り立った松井さんがまず度肝をぬかれたのは交通マナーだったという。
少年野球、練習せずにいきなり試合
交通ルールなどあってなきようなもので、車は勝手に走り回り、歩行者は平気で道に飛び出す。メジャーで将来を期待されていた選手が交通事故で亡くなったばかり。選手が加害者として死亡事故を起こしたというニュースも流れていた。「あの状態では自分がハンドルを握っていても事故になるかもしれない」とヒヤヒヤしたそうだ。
ニューヨーク暮らしが長く、たいていのことでは驚かない松井さんもびっくりだったが、現地ではそれが日常。交通ルールのことは一例にすぎず、何事も日本人的な感覚でみてはいけないと思ったという。
少年野球のチームをみても、練習はせず、いきなり試合。ノックで守備を鍛えるというシーンはなく、少年たちは思い思いに体を動かしていた。
生活全般に見られる「自由さ」は野球のスタイルに影響しているかもしれない、と松井さんは言う。「あの国で生まれ育ってね、やっぱりみんな陽気なんですよ。いいじゃん、楽しくやろうよって。だから、悲壮感とかが漂ってこない。彼らのDNAにはそういうものが入ってるんじゃないかと」
一瞬一瞬の判断で超人的なプレー
カノや巨人時代の同僚だったドミンゴ・マルティネス選手らはいずれも陽気で、チームや自分の調子が悪いときでも、明るさを失わず、野球を楽しもうとしていた。今回、彼らの育った環境を肌で感じ、合点がいったという。
誰にもまねできない超人的なプレーもみせるカノら、ドミニカ共和国出身選手の守備も、その環境に育まれたものだとみる。日米野球で来日したロイヤルズの遊撃手、アルシデス・エスコバルもバックハンドのグラブトスというアクロバティックな守備をみせていた。
「『こうしなきゃいけない』みたいな、そういうものにとらわれていないのだろう。だから、その状況において自分の一番いい動きはこれだというような、一瞬一瞬の判断で動いている気がする。日本でああいうプレーをしていると『何だそれは』といわれてしまうけれど」
「なりたい自分」の欲求に素直に従い
日本では少年野球の段階で、スラッガータイプとか巧打者タイプとかに分かれていくが、ドミニカ共和国ではあくまで「なりたい自分」をあきらめずに追求していた。ホームランを打ちたい、投手なら三振を取りたいという欲求に素直に従っているのがわかった。
「子どものときから、いけるところまで自分がやりたいようにやらせてあげる、という土壌があるような気がする。少年野球レベルで、バントをしなさいとか、右打ちばかりしなさいというのはないでしょう」。数々のパワーヒッターや豪腕を生み出してきた秘密の一端がそこにあるようだった。
ドミニカ共和国の人材に着目したメジャー各球団は1980年代ごろから、続々と現地にアカデミーを設け、選手を発掘、育成してきた。広島もアカデミーを設けている。
「野球うまくなり稼いで家族を楽に」
その一つであるエンゼルスの施設を訪れた。何面もあるグラウンドやトレーニング施設は立派だったが、宿泊施設が日本の2軍の寮などとは違っていた。日本では個室だが、アカデミーは16人部屋。選手たちはここで、いつかスターになる日を夢見ながら過ごす。
ある野球少年の家庭を訪問した。日本の生活レベルからすると「ショック」というくらいの暮らしぶりだったという。「野球がうまくなって、お金を稼いで家族を楽にさせたいんだ」という少年たちの言葉が脳裏に刻まれた。
なじみの顔にも再会した。日本のロッテでも活躍したフリオ・フランコさんは長寿選手の代表格。07年5月、48歳で放った本塁打はメジャー最年長記録とされる。
生年について諸説があるフランコさんは今でも現役復帰できそうな引き締まった肉体を披露し、松井さんに「日本のコーチの仕事はないかい」と尋ねたという。
ヤンキースの宿命のライバル、レッドソックスの主砲として活躍していたマニー・ラミレスさんはまだ現地のウインターリーグでプレーしていた。功成り名を遂げてもまだプレーしたりないという姿に、野球を覚えたばかりの少年のような純粋さを見た。
移民に日本人のプライドと底力感じ
ドミニカ共和国の社会、翻って日本人というものを考えさせられる出会いもあった。
1950年代の日本の就職難の時代に、ドミニカ共和国への農業移民が進められた。土地はやせ、育つ作物が見つからず、多くの人々が帰還した。大失敗とされる政策だったが、それでも歯を食いしばって現地に根を張った人々がいた。
そんな日本人の家族に会えた。「日本人のプライドを感じた。ほとんどの人が引き返すなか、その家庭の人々は『来た以上、何もなく帰るわけにはいかない』といって残った。ここで生き続けようと、農業とはまったく関係ない仕事をやって、何とか成功し、3人のお子さんを大学まで行かせた、と。日本人のプライドというか、底力というか……」
松井さん自身、日本人が世界でここまでやれるという勇気を与えてくれる存在だったが、今回は勇気をもらう側になった。
「移民として渡ったのは戦後の大変な時代を生きた方々で、まだまだ日本は貧しく、大変な苦労をされた。ああいう世代の人々の人間的な強さや根性は今の世代とは違うのかもしれない」と思ったそうだ。
今回の訪問は驚異の選手たちを生み出すドミニカ共和国の風土への純粋な興味から。指導者になるための勉強ではなかったというが、再びユニホームを着るときまでの「充電期間」の貴重な体験になったのは間違いないようだ。