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Columnコラム

スポーツナビ 梅田香子 2003/11/11
『松井秀喜 メジャー交友録』 VOL.36
「松井は尊厳を勝ち取った」 新人王に込められたJ・ロビンソンの理念
惜しくも新人王を逃した松井 「ベストは尽くした」

 個人的な意見を言わせてもらうと、松井が新人王に選ばれなかったのは納得のいかない結果だが、松井本人はエンジェル・マリア・ベロアの新人王選出について、
「ベストは尽くした。悔いはないし、取れなかったことに関しても残念という気持ちはそうない」
 と、気持ちのいいコメントを出しているから、一応よしとしておこう。

 念のため断わっておくと、記者投票で選ばれる賞は、すべてプレーオフ前に締め切られているから、ワールドシリーズでの仕事は対象外である。そうでなかったら、松井秀喜が(新人王の)選から漏れるわけがない。

新人王のルーツはメジャー初の黒人選手

 さて大リーグは、新人王、サイ・ヤング賞、MVPと、各賞を毎週一つずつ発表していく。これは、オフシーズンでの話題をアメフトやNBAに取られてしまうから、(メディアなどで)少しでも大きく扱ってもらうための苦肉の策なのだ。企業努力と言ってもいい。

 時代は猛スピードで流れているのだから、形状がオリジナルから少しずつ崩れていくのは、仕方がないことなのかもしれない。けれども、ここであえて「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」(新人王)のルーツについて触れておく。

 松井の年齢がどうの、プロ経験がどうのと取りざたされたようだが、ルーキー・オブ・ザ・イヤーの第1号は1947年、かのジャッキー・ロビンソンだった。当時28歳。松井と1歳しか違わない。

 もともと彼の功績があまりにも素晴らしかったために設定された賞で、最初の2年はメジャーリーグ全体から一人、49年からはア・リーグとナ・リーグそれぞれから一人ずつ、全米野球記者クラブによって選出された。80年からは選考資格のある記者が3人の候補を書き出し、1位には5得点、2位には3得点、3位には1得点を与えて、合計して選ぶという今のやり方になった。

 71年からは、前年まで130打席、50イニング未満しかメジャーでの出場経験がなく、45日未満しかメジャーに在籍していない選手が対象になると定められた。
 また87年からは「ジャッキー・ロビンソン賞」という、これまでのニックネームが正式名称として認められている。だから、日本でプロ経験のある選手は賞の対象から外すべきという意見もあるようだが、これは本来の趣旨から外れてしまうことになるから、実際にはなかなか通らないはずだ。

相手投手だけでなく迫害とも戦ったロビンソン

 ロビンソンにもメジャー以前にプロ経験があって、ニグロリーグのカンザスシティー・モナクスでプレーしていた。ニグロリーグについては、佐山和夫氏の『史上最高の投手はだれか』といった一連の著作に詳しいが、テレビがまだ普及していなかった時代は人気があったから繁栄を極め、レベルも相当なものだった。それはロビンソンをきっかけに各球団が次々とニグロリーグの選手と契約し、成功を収めたことで証明できるだろう。

 チームの内外であからさまに差別されて、遠征先のホテルでも拒否され、バスもチームメートたちと一緒には乗れなかった。ロビンソンは相手ピッチャーをKOしただけではなく、そうした迫害とも戦い、最後には尊厳を勝ち取ったのである。そして、大リーグだけではなく、世の中を少しずつ変えていった。それを過去の出来事と片付けてしまうのではなく、決して忘れるべきではないし、忘れ難いから「ロビンソン賞」と名付けたはずだ。

 昔からアメリカに住んでいる日系人と話をすると、ほんの50年前ぐらいまでは日本人も黒人同様、入れるレストランやホテル、アパートはごく限られていて、大変な思いをしたそうだ。黒人と白人の間に生まれたデリック・ジーターも子どものころ、アパート探しをしていて、黒人の父親が持ち主と交渉すると、「そこはもうふさがっている」と断わられ、代わって白人の母親が出掛けて行くと歓迎されるという体験をしている。

賞に選ばれなくても、シーズンに残したものを変えたりはしない

 今回の選考に人種差別という意識が働いたと述べているのではない。それは現在の流れから言って、まずあり得ないことだ。大リーグでは黒人の観客動員数を増やすために、さまざまなキャンペーンを行っているし、ニグロリーガーたちの功績をたたえて、機会あるごとに表彰している。それよりもっと大切なのは、過去にプロ経験があろうとなかろうと、だれもが一度は大リーグで1年生を経験するのだから、ロビンソンの理念を忘れるべきではないという点だ。

 ロビンソンは現役を退いた後も、72年10月に心臓病で永遠の眠りに就くまで、実業家あるいは政治家として黒人問題に精力的に取り組み、麻薬撲滅のために戦った。ベトナム戦争から帰ってきた息子のジャッキー・ジュニアは、麻薬中毒患者として入退院を繰り返した。それを知ったロビンソンは隠そうとはせず、コミッショナー事務局に足を運んで、麻薬撲滅のキャンペーンを提案し、実施している。
 賞は結果として付いてくるもので、選ばれようが選ばれまいが、そのシーズンに残したものを変えたりはしない。

 松井は1シーズン、ピンストライプのユニフォームを着続けて、チームメートたちやファンに夢を与え、満足させ、尊厳を勝ち取った。その事実は少しも変わらないはずだ。