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Columnコラム

読売新聞 松井が燃える 2006/07/19
はやる気持ち、されど急がず
 肩の力を抜いてバットを立て、腰を落とす。思い描いた投球に対してテークバックを取り、トップの位置を確認し、スイングする。当然、両手でバットを握り締めたまま。自宅マンションで6月下旬、こっそりと素振りを再開した。

 ぶんっ――。残念ながら、そこまで豪快な音は出ない。実に緩やかな動きだし、ボールを打ったところで3メートルも飛ぶかどうか。それでも「振らずにいられない」。

 骨折して2か月が過ぎた。「今の心境を一言で表現するとね」。寂しげに笑って「つまんない」。

 ふうっと、息をつく。

 「いつもは試合に備えてトレーニングも調整もするわけじゃん。状況は受け入れてるし、治ったときのための大切な練習だって分かってる。けどね……」。首をすくめて続けた。

 「やっぱ、つまんない」

 チームの敗戦をテレビ中継で眺めた夜、元気だったころと比べて自らの、悔しさの量が減っていると気付いた。「勝っても負けても、当事者であるっつうのは幸せなんだなあ」と、ぼやく。

 張りを失った毎日のようで、しかし、逆に「感情の起伏のコントロールに苦労してる」そうだから、選手の思考回路は面白い。


 落胆を制御する。

 強めの素振りでも骨折の傷は悪化しないと、医師に保証された。それなのに、フルスイングは控える。もちろん、「手首のじん帯が痛い」のは事実だけれど、体よりも心がストップをかけているらしい。「手首を返すときに、かなり痛むかもしんないでしょ。ショックを受けるのが嫌なんだよ。『ああ、まだダメなのか』って」

 希望も制御する。

 最近、「ドクターがね、ある時期から加速度的に良くなるって言った」という。「ちょっと楽しみにしてんの。朝起きて、『奇跡的に治ってねえかな』と願っちゃうよね」。一方で、「待てよ」と我が身を戒める。

 「(予測が外れて)がっかりすんのはねえ。期待するけど、期待しない。幅を広げとくって言えばいいのか、そんな感じ」


 多分、胸の奥で復帰の日を想像し始めた。「ごく普通に試合の空気に入れる状態で、帰りたいんだよ。守備に就いて、けがした瞬間をイメージしたり、感傷に浸ったり。そんなので戻りたくない」。故に、出来る限り心を波立たせぬよう“訓練”している。

 「三振して『けがしたし、仕方ないな』とか、打って『けがしたのに、すごいな』とか。そういう風に、もしファンが同情したらね、おれは耐えられない」

 特殊な環境にあって平静を保つのは、きっと難しい。何せ、理想像を説明しているうちに「必ず今まで以上のものを得たと自信をつかんで、戻ってみせる。徹底して下半身を鍛えて、体幹も強化して……」なんて結局、鼻息が荒くなるのだ。

 “修業”が足りない。だが、とことん熱くなる背番号「55」も一度、見てみたい。(田中富士雄)
読売新聞 松井が燃える 2006/07/05
試練は進化のチャンス
 世の言い伝えは、結構気になる。

 ニューヨークのマンションに入居する際、「これじゃ『北枕』になっちゃうよ」と強引にベッドを動かした。蛇が現れると聞いて「夜に口笛は吹かない」し、親族に不幸があると耳にしたから、街で霊きゅう車を見かけたら「そっと親指を隠す」。くしゃみが続けて2回。「2回は、良くないうわさ話をされてるって言うじゃん。もう1回出ろよって、腹立つもん」

 6月14日、和食料理店。電話の相手は用具メーカーの担当者だった。

 「可能なら、ブルーより濃くて紺色より薄いヤツ。ヒモは白で。うん、変えるのは(黄色だった)色だけ。形は、このままでいい」

 新しいグラブの“発注”を終えて、携帯電話を傍らに置き、「(けがは)グラブのせいじゃない。でも、さすがに縁起悪いかなって……。復帰して今年中に使うかどうか、迷ってんだけどね」と頭をかいた。


 左手首を骨折して、まもなく2か月。初めは強がりばかり口にしたが、近ごろは少し冷静に、当時の記憶をたどれる。「やっぱり悔しかった」そうだ。

 「大きなけがはしないと勝手に思い込んで、悪く言えば、うぬぼれてたしね。(戦線離脱という)現実にさらされたのが、まず悔しかった。そんで、『(負傷を防ぐのに)何かできたんじゃないか』ってね、考えもした」

 じめじめと湿度の高い感情から水分の蒸発を促すため、「運命だった」と自らを納得させた。ただし、ファンにとって早とちりは禁物。背番号「55」は遭遇した運命を、まだ「不運」であると結論づけていない。

 「おれにやれるのは頑張って頑張って、もっと頑張ることしかない。けどさ、いつか『けが、ラッキーだったな』と思える日が来るかもしんないよね」

 大きく出た。

 「そうかなあ。今の練習がシーズン中の調整の仕方にヒントをくれたり、手首に余計な力が入らなくなってスイングがスムーズになったり、そういう望みだってあるもんね」

 仮に運命が存在し、もし絶対に避けられないものだったとしても、解釈次第で未来は光を帯びる。

 「使命って重いか軽いか別にして、背負える人にしか与えられないと思う。おれがね、どう乗り越えていくのか、ある意味で楽しみにしてんの」

 試練は、運命への挑戦は新たな自分を見つけるチャンス――。松井秀喜流、運命の活用法だ。


 注文した「ブルーより濃くて紺色より薄い」グラブ。何かの験担ぎかと尋ねたところ、「いやいや、(あい色が基調の)ユニホームに似合うでしょ、きっと。単なるコーディネートだよ」と笑い飛ばされた。

 振り回した左の手のひらの、親指の付け根あたりから縦に十数センチ、手術の跡が残っている。目にするたび、元の皮膚の色に近づいている。(田中富士雄)