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Columnコラム

日本経済新聞 メジャーリポート 杉浦大介 2011/07/25
松井、チーム優先貫きながら打った「500号」の価値
 アスレチックスの松井秀喜が20日、タイガース戦で日米通算500本塁打を達成した。日本で332本、アメリカで168本を積み重ね、プロ生活19年目にして到達した記念すべきマイルストーン。日本の巨人時代、そしてメジャーで常にフォア・ザ・チーム、チーム優先の姿勢を貫きつつ達成した記録だから大きな意味がある。

記念の一打はライトポールを直撃

 ただそんな記録の祝賀ムードにわく一方で、今季は渡米以来最低の成績で低迷する松井の立場は決して安泰とはいえない。ひとつの節目を迎えたスラッガーのキャリアは、これからどんな方向に向かっていくのだろうか。

 6月16日に499号を放って王手をかけてから、その後の24試合は不発。苦しみぬいた末の一発は20日、デトロイトのコメリカ・パークで行われたタイガース戦で飛び出した。

 6回の第3打席で左腕ビーローの88マイルの直球をとらえると、緩やかな放物線を描いた打球はライトのポールを直撃。ベンチではチームメートたちに祝福され、松井も会心の笑顔を見せた。

通算500号は大リーグでは25人

 通算500号は大リーグでは25人、日本では8人が達成しているだけ(松井は除く)。ただ、松井の場合は日米で積み重ねた数字を合算してのものだけに、記録の真の価値に関しては意見が分かれるところかもしれない。

 「日本とアメリカを足しての数字だから、それほど重要とは考えていない」

 22日の古巣ヤンキースとの対戦前、松井は取り囲んだニューヨークの記者たちに対してそう語ったという。

 イチローが日米通算3000、3500本安打を達成した際にも、その数字の正当性に関して地元メディアから疑問の声があがったように記憶している。「ボールの大きさ」「1シーズンの試合数」「球場の広さ」など多くの基準が異なる2つのリーグの記録を合計するのは、確かに少々無理があるようにも思える。

 ただそれでも、これまで松井が積み上げてきた記録が、称賛に値するものであることに異論の余地はない。過去にメジャーに挑んだ日本人野手の中で、年間20本塁打以上を打ったのは松井だけ。ケガで長期休養した年以外は、メジャーでも常に毎年20本以上、90~100打点前後が計算できる貴重な打者であり続けてきた。

日米の一番の違いはパワー

 「日本とアメリカのレベルの差が年々縮まっているというのは本当だと思う。けれども、残っている一番の違いはパワーだろう。その部分を埋めるのは難しいのかもしれないね」。日本ではソフトバンクに在籍したことがある左腕投手、ペドロ・フェリシアーノ(現ヤンキース)はかつてそう語っていた。

 実際、福留孝介(日本での最多34本→メジャーでの最多13本)、井口資仁(同30本→同最多18本)、城島健司(同36本→18本)、松井稼頭央(36本→9本)、岩村明憲(44本→7本)ら多くの日本人野手が渡米後に本塁打数を激減させている。そんな厳しい環境の中でも、松井だけはメジャーでも長打力を誇示してきた。

「松井は真のプロフェッショナル」

 本数が減少したのは松井も同じだが、それでもヤンキース時代の2004年にマークした31本塁打は見事な数字である。シーズン30号を突破し、メジャー通算でも150本塁打以上を打てる日本人選手などこれから先、なかなか出てはこないのではないか。

 そして松井の場合、常に勝利への貢献を求められるヤンキースで140本ものホームランを打ったことも評価されてしかるべきだろう。

 「松井は僕のお気に入りのチームメートの一人だった。毎日プレーする準備ができている。彼は真のプロフェッショナルで、重要な場面で打席に立ってほしいと思える選手の1人でもあった」。ヤンキース時代の元同僚デレック・ジーターは松井をそう表現する。

 メジャーレベルでは「天性のホームラン打者」とまではいえない松井が、一発ばかりを意識したとして、全盛期にどれだけ打てたかは分からない。

確実な打撃で打点を稼ぐ

 だが、ライトまでの距離が短いヤンキースタジアムでなら、確実性を減らしてでも本塁打を狙えば、本数はもう少し増えたのかもしれない。

 しかしそういった自己中心的な打撃に走らなかったがゆえに、松井はヤンキース時代に地元で大きな評価を勝ち取り、同時にジーターの「お気に入り」になったのだろう。

 自分を犠牲にしての進塁打を決していとわなかった。走者を得点圏に置いた打席では、強振はせずに、確実なコンパクトな打撃で打点をあげていった。そんな姿勢を貫き、それでいて日本人としては破格のパワーも誇示してきたからこそ、松井は競争の激しいメジャーリーグで生き残ってこれたのだ。

主力打者としては寂しい数字

 ただ、マイルストーン到達の興奮が冷めてみれば、いまの松井がかなり苦しい立場にいることに変わりはない。

 23日に古巣のヤンキース戦で501本目の本塁打を放って大きな歓声を浴びたが、この試合終了時点で打率.224、8本塁打、44打点も中軸を任されている選手としては寂しいかぎり。

 44勝56敗の借金12でア・リーグ西地区3位に低迷するアスレチックスを、主力打者として助けるにはいたっていないのが現状だ。

 前半戦は打率.209、6本塁打と特に厳しい数字だった。もっともその時点では「ゲレン前監督によって先発を外されることが多く、波に乗れなかった」という理由もあっただろう(5月以降は6月8日までの36試合中、先発落ちが15試合)。

メルビン新監督になってからも

 しかし、6月9日にメルビン監督が後を次いで以降は37戦中33戦に先発しながら、それでも成績は上がってきていない。6月の月間成績は打率.200、3本塁打、7月は打率.264、2本塁打。

 「日米通算500本塁打を達成したばかりの松井だが、アスレチックスにトレードを打診するチームはまだ一つも現れていない」

 スポーツイラストレイテッド誌の電子版で、ジョン・ヘイマン記者も22日付でそう記述している。7月いっぱいでトレード期限を迎えるが、こうした成績では補強要員として獲得を狙うチームは今のところ出てきそうにない。

2年前のヤンキースの判断は…

 2年前には打率.274、28本塁打、90打点でヤンキースの世界一に貢献した松井だが、エンゼルスでプレーした昨年は21本塁打、84打点と成績は下降。そして今季はそれをさらに大きく下回る数字で終わってしまう可能性が現状では高い。

 09年のワールドシリーズで最優秀選手賞(MVP)を獲得した松井を積極的に引き留めなかったことで、ヤンキースは一部の地元ファンから痛烈に批判を浴びた。しかし今振り返ってみれば、その判断は正しかったといわざるをえない。

 そして、もし低迷したままシーズンを終えてしまうと、09年のヤンキース、昨年のエンゼルスに続き、アスレチックスも来季の契約更新を見送るかもしれない。今季終了後に獲得を望むメジャー球団が一つも現れない可能性だってある。

 だとすれば、今季の後半戦は松井にとってはメジャーでの選手生命をかけた戦いといっても大げさではないのだろう。

球宴後は復調気配

 オールスター以降の7試合で、27打数10安打、2本塁打、10打点と復調気配。23日のヤンキース戦で今季8号、通算501号となる一発をライトスタンドに打ち込んだ後、「良い状態になってきている。もっと上げていけるように、そして続けていけるように頑張るだけです」と松井は語っている。

 過去のメジャーキャリアをひもといても、前半戦は通算打率.280なのに対し、後半戦は打率.291と、球宴後に強いというデータが出ている。昨季もオールスターまでは打率.252に終わったが、打率.309と巻き返した。

巻き返しが必要

 11年も同じことができるのかどうか。下位に低迷するチームの中でも、最後まで集中力を切らさずに打つことができるか。

 松井が初夏に放った日米通算500号は、日米の多くのファンの心の中に長く刻まれていくことだろう。そしてそのマイルストーンを「メジャー生活最後のハイライト」にしないために、後半戦の松井には例年以上の巻き返しが必要なことは間違いなさそうである。
読売新聞 松井が燃える 2011/07/22
ゴジラ 大砲の証し
日米500号 「光栄とは思う」

 【デトロイト(米ミシガン州)=萱津節】米大リーグ、アスレチックスの松井は20日、タイガース戦に4番・指名打者で先発し、2―2の同点で迎えた六回無死で、メジャー初登板の25歳左腕ビーローから右翼ポール直撃の7号ソロ本塁打を放ち、日米通算500本塁打を達成した。6月16日の6号以来、25試合、103打席ぶりのホームランで、日本球界9人目の大台に苦しみながら到達した。

 巨人での332本、米国での168本。記録に素っ気ない松井は、「アメリカと日本を合わせた数字には特に関心がない」という。中でもメジャーで半減した本塁打は、そこに詰まった技術が、日本時代とは違う。「一緒にしてほしくない」という思いがある。

 ヤンキースに移籍後、ボールの捉え方が変わった。日本では、スピンをかけてボールを上げ、スタンドまで運んでいた。だが、「東京ドームで飛ぶボールでやっているのとはわけが違う」。広い球場、飛ばない試合球に対応するため、より精密な打法への改造を目指した。導き出した答えは、「芯に強く当たって角度がつけばボールは飛んでいく」。日本時代よりも、ホームランはヒットの延長に近くなった。

 37歳。今季はキャンプインの時点で約100キロだった体重が2、3キロ落ち、オープン戦は1本塁打。開幕後も、1か月以上本塁打が出ない時期が、今回も含め2度もあった。だが、「フリー打撃では飛んでいる。パワーの問題なら練習でも飛ばない。活躍できる日は来る」と信じ続けた。5月中旬ごろから球場の室内練習場にこもるなど、ひたすら本来のフォームを取り戻す調整に没頭した。

 一発を狙ってはいい結果が出ないと分かっているが、「打ちたいと言えば打ちたい」と、控えめに話す。本塁打こそが、日本最高の長距離打者として大リーグに挑んだ証しなのだから。(萱津節)
ブログ報知 蛭間豊章記者の「Baseball inside」 2011/07/22
記念アーチはベッドの中で・・・
 アスレチックスの松井秀喜外野手が7月20日、デトロイトのコメリカ・パークでのタイガース戦で日米通算500号本塁打を放った。大台にあと3本となってから大あわてで企画を考えて用意したのに、24試合も足踏み。ようやく達成して久しぶりに1面から3面までを埋め尽くした。長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督、記者・広報として19年間も見守った広岡勲氏の「思い出の2本」。そして公式戦全アーチの表などいかがでしたか。

 もっとも記念の一発を私はリアルタイムで知った訳ではない。連日の不発に緊張感が無く、最初の2打席の結果を見て“二度寝”。熟睡していたところへ、地方部の記者からの電話で初めて500号を打ったことを知った。そう言えば、1993年のプロ入り1号の時も私は、同じようにベッドで観戦だった。というのもその年の開幕直後に、胆石の手術のために緊急入院。5月2日、午後9時過ぎで病院の消灯時間直後、カーテンを閉めてコインテレビで観戦していた。高津臣吾投手のボールをライナーで右翼席にたたき込んだ18歳の松井に驚嘆。同じ思いを感じた野球ファンが入院患者に多かったのだろう。本塁打を打った瞬間、何と病院の各部屋から歓声が聞こえてきたのを鮮明に覚えている。その後は記録室の題材としての付き合い。ここで松井2年目のオフに書いた記録コラムを再録したい。

今年、巨人の打点トップは落合の68点で66点の松井を抑えた。ところが、走者を二塁に置いたケースで2人が外野への単打を打った時に二塁走者は

三塁ストップ=松井9、落合2。本塁生還=松井4、落合8。

松井の時の三塁ストップが極端に多く、この差が2打点差につながっている。
二塁走者のゴー、ストップは三塁コーチが、外野手の位置、走者の脚力、後続打者との関係を判断材料にして決めるが、最大の要素は打球の速さだろう。
松井と落合が打席に入った場合、相手外野陣の守備位置の深さはだいたい同じ。単打が出た時の二塁走者の進塁状況は打球の速さに大差があると言わざるを得ない。ブラッグス(横)も打球が速いとされているが、同じ状況で単打した10回中8回までは二塁走者が生還しており、松井の打球でストップの方がかなり多い。参考までに松井の単打で三塁ストップのケースでの次打者・落合は8打席(他の1度は元木)で7打数1安打1四球。自重したのが裏目になっている。

高校球界の名門・横浜高で長年野球部長を務めていた小倉清一郎氏も夕刊紙の連載で「(星稜高時代の)松井は爆発的なスイングスピードでぶつけるように打つ。守っている選手が恐怖を感じる打球だ」と述懐している。つまり松井の打球の速さは、ライナーで飛び込んだ1号アーチが証明しているように他を圧していた。

ヤンキース入り後は、メジャー担当として紙面構成の面で、イチローとともに毎日結果を注目する選手となった。168本塁打は2位イチローの91本を大きく上回っている。本塁打率(本塁打1本当たりの打数)は巨人時代の13.77から米国では24.48と落ち込んだが、他の日本人打者はいずれも大幅ダウン。渡米前307本打ち、本塁打率15.76と大差なかった中村紀洋は2005年ドジャースで1本も打てずに帰国したのを見ても、日本人最高のスラッガーを証明している。
唯一、私が残念に思うのは、ジャイアンツ時代に見せていたような強烈なライナーが減ったことくらい。イチローとともに、後半戦復活劇を魅せて欲しいものだ。
スポーツナビ 樋口浩一 2011/07/21
松井らしく打ち建てた金字塔=日米通算500号本塁打達成
「ちょっと時間がかかりすぎ」

 米大リーグ・アスレチックスの松井秀喜がついに日米通算500本塁打を達成した。20日(現地時間、以下同)のタイガース戦、6回。この回先頭で登場し、メジャー初登板の先発左腕デュエイン・ビロウから右翼ポール直撃の一発を放った。「真ん中の甘いストレート。いいバッティングでした」(松井)という、手ごたえ十分の当たりだった。
 6月16日以来、103打席ぶりの本塁打。1カ月以上足踏みが続いた。「ちょっと時間がかかりすぎな感じはしますけど、試合も勝って良かった」と口にした。

 通算500本塁打は、過去日本では8人、長い歴史を誇るメジャーでも25人しか到達していない大台だ。「日米と分けることはない。500本塁打は素晴らしいことだ」とボブ・メルビン監督代行は称えた。
 ボブ・ゲレン前監督の下では出番が減っていたが、先月9日に同監督代行が就任してからは「打線の中心には頼りになるベテランが必要」との方針で、出場機会が増えた。松井にとってはありがたい指揮官である。ちなみに同監督代行は、2004年にイチローがシーズン最多安打記録を樹立したときのマリナーズ監督でもあった。

 それほどの偉業であるが松井は「(500本塁打への意識は)本当になかった。こんなに(長く)かかるんだったら、もっと意識すればよかった。そうしたらもっと早く出たかも。早く打ってしまいたい、とすら考えなかった」。こう言うほど気にしていなかったのだという。

チームの勝利のために

 松井らしい、と思った。日頃から「チームの勝利に貢献することがすべて」と言い、この日も「(個人の)記録は見ている方が喜んでくれればいい」と改めて話していた。本塁打についても「(他の安打に比べて)特別。最高の結果ですから。でもそれを目指して打席に立つことはない」。変わらぬ姿勢を貫いている。

 このような強い気持ちがなければ、高校時代から常に大きな期待を背負ったなかで、これだけの結果を残せなかったかもしれない。
 プロ1号は巨人入団1年目の1993年5月2日のヤクルト戦。抑えの高津臣吾から放ったものだった。この現場に居合わせたが、負け試合だったのに長嶋茂雄監督は試合後「松井が打った、うん、松井が打った」と繰り返していた記憶が残っている。敗戦の悔しさよりも松井が本塁打を打った喜びの方が大きかった。長嶋監督にとって大きな出来事だったのだ。
 期待通りに成長し、巨人では10年間で332本塁打。2003年にはメジャーに舞台を移す。イチローの活躍で日本の巧打者がメジャーで通用することは証明されていた。ただ、長距離打者は疑問視されており、そこへ松井が登場した。

本塁打数だけでは測れない信頼

 結果的には日本でのように本塁打を量産することはできなかった。
 2004年の31本が最多だ。投手の力が違う。球場の広さも違う、ボールも違う。そういった違いがあることは確かだ。

 そして、メジャーのパワーヒッターを目の当たりにして、自身がチームに貢献できる役割を打点に求めたこともある。1年目の2003年、16本塁打だったものの、41本塁打で107打点のジェーソン・ジアンビ(現ロッキーズ)に次ぐチーム2位の106打点をマークした。当時のジョー・トーリ監督は「チームのために、状況に応じたバッティングができる賢い打者」と高く評価した。その後3年連続100打点を記録することになる。

 「もっと本塁打を狙ってほしい」と願った日本の球界関係者やファンは多かっただろう。筆者も正直なところ、打率や打点をある程度犠牲にして、どれだけ本塁打が打てるか見てみたい気持ちはあった。しかし、それは松井の流儀ではなかったのだ。
 さらに左手首の骨折、両ひざの故障という試練を経験した。年齢的な衰えとも戦わなければならない。そんななか、チームプレーヤーとしてメジャーで168本塁打を記録してきた。
 本塁打にこだわることなく信念を貫き、本塁打数だけでは測れない信頼を得た。スターぞろいのヤンキースで打線の中核に座り、37歳の今もアスレチックスで4番を任されている。このことに一番満足を見いだしているのだと思う。
朝日新聞 2011/07/20
松井秀喜選手からメッセージ「思い出、最高の仲間と」 福島大会
 「勝ちたい気持ちが原動力」。1、2回戦を終えた第93回全国高校野球選手権福島大会(朝日新聞社、県高野連主催)を戦う球児たちに、米大リーグのオークランド・アスレチックスの松井秀喜選手から激励メッセージが届いた。日米通算500本塁打目前の強打者は震災、原発被害の中でも原点を大事に、と訴えた。


 福島県の状況は、ニュースやインターネットなどで見ています。東日本大震災の後は大リーグでも様々なチャリティーイベントが行われ、ぼくにも大勢の方が声をかけてくれました。米国でも多くの人が気にかけて、心配しています。

 高校生のみんなも、今回の震災で大変な目にあったと思います。その中で迎えた夏の大会。色んな思いを持って臨むと思うけど、特別にやらなければいけないことはないはず。今までやってきたことを思い切って出す。そう心がけてプレーすれば、被災された方々に元気を与えられると思います。高校球児のみんなはその可能性を秘めています。

 石川・星稜にいたぼくの高校時代を思い出すと、地方大会は独特の緊張感がありました。負けたら終わり。絶対に負けられないという思いは、地方大会の方が強かった。自分たちは負けるわけがないと思いながら、もしかして……という怖さがありました。

 だからこそ、自分が毎日やってきたことを、どれだけ試合に出せるかが重要だと考えました。そのころから今でも変わらずに持ち続けているのは、勝ちたいという気持ち。それがすべての原動力になっています。勝ちたいから、いいプレーをする。いいプレーをしたいから、練習をする。練習してきたことを、試合で出す。ケガをしても何をしても、これだけは昔から変わっていません。

 高校野球は、3年間しかできないからこそ特別だと思います。3年間、仲間と毎日ずっと同じ時間を過ごし、一瞬の試合のためにずっと頑張ってきた。仲間意識はプロのチームメートより、高校時代の方が強かったような気がします。

 東北地方と言えば、3年になる1992年の春の選抜大会で、宮古(岩手)と対戦したのを覚えています。石川県の自分たちと同じ雪国の雰囲気を感じるチームでした。長い冬を過ごして、ようやく野球が出来るんだという思い。震災後は練習する時間も少なくて、厳しい時を過ごしたと思いますが、その中でも自分たちがやってきたものを最後にしっかりと出し切ってもらいたいと思います。

 高校球児に限らず、高校生はこれからの未来を背負って立つ人たち。将来へ、たくさんの可能性を持っているみんなに、この3年間に学校や野球で学んだこと、感じたことを生かしていって欲しいと思います。

 最高の仲間と、一生語り合えるような夏の思い出をぜひ作って下さい。

(オークランド=上山浩也)

松井選手、今でも壁を乗り越えて成長

 1997年から3年間、巨人を担当した。当時は長嶋監督時代。投手陣は桑田、槙原、斎藤の3本柱が健在。清原を西武からFAで獲得し、高橋由が慶大から入団してきた。だが、並み居る花形選手の中でも松井の存在感は別格だった。

 東京ドームで試合前に彼を囲んだ時だ。高校時代に5敬遠された明徳義塾の河野和洋投手が専大を経て社会人デビューし、活躍したニュースが流れていた。マスコミが興味津々でコメントを求めると、松井は言った。「あれは良い思い出。お陰で5敬遠は自分の勲章にもなった。河野君には是非、頑張ってもらいたい」

 技術を極めるイチローはタイプが王貞治さんと似ていると言われる。松井もプレースタイルは天才というより努力型。本来なら王さんに近い。だが、彼は長嶋監督のように周囲を自分の味方にする能力を備えていた。表情、コメント、雰囲気。マスコミにも彼のファンがたくさんいた。

 あの頃、松井がスランプになると長嶋監督は実は喜んでいたように思う。「若い時にたくさん悩み、自分を磨けばいい」。あれから10年以上時が流れた。海を渡って活躍する「ゴジラ」を見るたびに、壁を乗り越えて成長していくたくましさを感じる。(竹園隆浩)
読売新聞 松井が燃える 2011/07/05
「打って守る」日常に喜び
 監督交代――。19年目のプロ人生で初めて経験するシーズン途中の緊急事態を、「変わりましたね」と、少し驚いて受け止めている。

 変化はプラスに働いた。ボブ・ゲレン前監督(49)が成績不振を理由に解任され、ボブ・メルビン監督代行(49)が就任したのが6月9日。同じ日に、久しぶりに4号本塁打が出て、1週間余りで3本塁打を放った。チームも6連勝するなど目に見えて効果があった。

 口数の少なかった前監督と違い、毎日のように会話をする。特に、先発か控えか、指名打者か守備につくのか、当日まで分からなかった以前とは一変し、遅くとも前日には指示が出る。「試合に出ても出なくても球場入りの時点で整理ができる」。家を出る前から、心構えが違うのだ。「準備がしやすい。そういうのは自然とグラウンドで出てくると思う。やっぱり」

 「前監督を批判したくはない」と思っている。打てなかった責任も当然感じている。ただ、メルビン代行の前向きな姿勢と指示の明確さは「このチームに必要なこと」と痛感している。

 21日からの1週間は、「打って守る」という野球選手の日常が一時的に戻ってきた。指名打者制のない敵地での6試合中5試合に左翼で先発。「寝付きがいいし、寝起きもすっきり」と、20歳代では当たり前だった快眠も戻った。「指名打者」としての役割も自覚しているが、やはり心地良さは違う。

 メルビン体制では、欠場は「休養」の1試合だけ。毎日出場できる喜びを改めて感じている。巨人での新人時代、ヤンキースでの大リーグ1年目には、長嶋監督も、トーリ監督も「結果が出なくても、我慢して使い続けてくれた」。振り返れば、自分を理解し、信じてくれた人々への感謝にたどり着く。今は、その感覚を思い出すことができる。

 信頼が大きい分、求められる働きも重い。巨人でもヤンキースでも、それに応えることができた。地区最下位のチームの浮上のためには、今の成績ではとても満足できない。「これからです」という言葉を現実にした時、思い出に残る指揮官との関係が、もう一つ築けるはずだ。(萱津節)