Matsui's Space 松井秀喜ファンサイト

Columnコラム

Full-count 2015, 3, 12, 7, 02015/05/20
【米国はこう見ている】
ヤンキースGM特別補佐の松井秀喜氏が3Aで指導 勝負強さの伝授に期待?
若手打者を指導した松井氏、現役時代の勝負強さに「彼の血管には氷が流れている」の声

 今季から古巣ヤンキースのGM特別補佐に就任した松井秀喜氏が、傘下3Aスクラントンで指導を行ったことをニュージャージー州最大のニュースサイト「NJ.com」が「ゴジラがヤンキースの若手打者とともに新たな役割へと足を踏み出す」と報じている。

 3月にブライアン・キャッシュマンGMの特別補佐に任命された松井氏が、マイナーチームに姿を現した。19日にスクラントンの本拠地PCNフィールドを訪問。メジャー昇格を目指して切磋琢磨するプロスペクト(若手有望株)の打撃練習を見守ったという。

「スイングについての話をしました」

 松井氏はそう語っている。

 メジャー生活10年間で通算打率2割8分2厘、175本塁打、760打点。2009年にヤンキースがワールドシリーズを制覇した際にはMVPにも輝いたスラッガーには、様々な期待がかけられているようだ。

 GM補佐就任発表当初、キャッシュマンGMは「マツイはユニホームを着てダッグアウトに入り、チームの監督、打撃コーチ、選手たちと一緒に仕事をする」と説明していたが、今回、スクラントンのマーカス・トーマス打撃コーチは記事の中で「彼が最初にやってきた時にミーティングを開いた。選手には伝えた。『もしも、彼に質問があるのなら、彼のところまで行って、話しかけるんだ』とね。彼は誰かに駆け寄って彼らのスイングについて説明したりはしない」とコメントしている。

期待される“特殊能力”の伝授、「緊迫した状況や勝利のかかった場面での成功は感銘的」

 若手に打撃のコツなどを伝える役目を果たすべくスクラントンに足を運んだ松井氏だが、チームとしては選手に伝授してもらいたい“特殊能力”があるようだ。それは絶大な勝負強さだという。

「ビッグチャンスが来ると、ヒデキは凄かった。彼の血管には氷が流れているんだ。どんなプレッシャーも存在しない。パニックにもならない。選手には、彼のような人間からそういう話を聞いてもらいたいんだよ」

 トーマスコーチはこう語っている。

 今回がスクラントンでの3度目の指導だったという松井氏。選手はすでに刺激を受けている様子だ。

 スレイド・ヒースコレット外野手は「彼(の話)には、みんな耳を傾けている。彼の成績、成功を見ればそうなる。特に緊迫した状況や勝利のかかった場面での彼の成功を見れば、その成績は感銘的だよ。勝負強くなるには、安定感を手にするためには、どうすべきか。すべての打席にどのような心づもりで臨むべきか。それを知る必要がある。彼はどんな状況であろうが、常に動じないことを熟知している。それを聞くことは財産になる」と語っている。

 また、2012年に松井氏がレイズとマイナー契約を結んだ際、3Aダーラムで一緒にプレー経験があるコール・フィゲロア内野手は「みんな彼にすごくアドバイスを求めているんだ。彼の英語もうまいし、すごく話しやすいよ」と話している。

 “ゴジラ二世”の育成という大役に、松井氏は尽力しているようだ。
日刊スポーツ 「未来へ」~高校野球を愛する君に送る~ 2015, 5, 19, 7, 02015/05/18
5敬遠は松井ひとりだけ/松井の甲子園データ編
 星稜・松井の記録といえば、あの5敬遠である。92年夏の明徳義塾戦。捕手が座っていたとはいえ、全20球ともバットが届かない外角球だった。夏の甲子園の個人1試合5四死球は最多で、過去4人いる。95年には松山商の2番・田中が旭川実戦で5四球を選んだが、これは敬遠ではない。5敬遠は松井1人だけだ。

明徳義塾戦松井5敬遠時の状況

夏の甲子園・個人1試合最多四死球

 甲子園の敬遠は時々見られる。06年夏、大阪桐蔭・中田(現日本ハム)が横浜戦で2度歩かされた。走者がいれば、作戦としてあり得る。松井は7回、走者なしでも勝負を避けられた。高校野球の無走者敬遠は怪物ぶりを示している。松井と同じ左のスラッガーで55年春優勝の浪華商・坂崎は、決勝(対桐生)で4度敬遠された。それでも3打席目は2ストライクが入ったことで、勝負してもらえた(結果は2点本塁打)。松井が坂崎のように1打席でも勝負してもらえれば、違う伝説が生まれていたかもしれない。
産経新聞 書評 2015, 5, 17, 23, 02015/05/17
論説委員・別府育郎が読む『エキストラ・イニングス 僕の野球論』松井秀喜著
努力がつくりあげた「左打ち」
 プロアマを問わず、野球選手の多くは自らや仲間、指導者や裏方の人々も含めて「野球人」という言い方をする。他競技の選手から「サッカー人」「陸上人」といった言葉を聞くことはない。

 本書の第1章も「僕が出会った『野球人』たち」で始まるから、日米で活躍した松井秀喜も同様なのだろう。ただし、彼は「野球人」としては極めて希有(けう)な存在である。野球を語る本だから、そのことがより鮮明となる。

 例えば松井は、団体競技である野球の魅力をこう書く。

 「チームを勝利に導く喜びがある反面、自分がまったく活躍しなくても勝ってしまうことがある。それが野球のいいところでもあり、そこから多くを学ぶ」

 唯我独尊の投手ら、豪打自慢のスラッガーだけでなく、犠打や好守の選手らも、ほぼ皆、勝利は自分のおかげと考える。松井は、そうは考えない。「本塁打を打ちたいと打席で思ったことは、子どものころからほとんどない」のだという。

 これほど自律的な強打者の存在は、奇跡に近い。常に平常心で打席に立ち、痛みには静かに耐え、グラウンドでは敵と親しくしない。自ら求める「野球選手らしさ」を体現し続けた現役生活は、感動的ですらあった。

 勝手な感慨だが、そうした松井の姿にはいつも、CMでの高倉健のせりふ「不器用ですから」を重ねていた。

 右投げ左打ちの松井は、本書でこう書く。

 「僕がもしスイッチだったら、右の方が自然な打者だったろうと思う。左はつくりあげたもの。不器用で一歩一歩積み重ねていかなければいけなかった」

 巨人入団とともに始まる長嶋茂雄監督と一対一の素振りの日々は、本書でも巻頭のエピソードとなる。不器用だからこそ努力を積み重ねた左のスイングが、彼の野球人生の象徴だったのだろう。

 だからこその、ないものねだり。右打席で自在にバットをコントロールする松井の姿も見てみたかった。そこに全く違った「野球人」ができあがったかもしれない。(文芸春秋・1200円+税)
日刊スポーツ 「未来へ」~高校野球を愛する君に送る~ 2015, 5, 14, 19, 02015/05/13
指導者の魅力=人生の礎に貢献/松井の甲子園3

星稜・松井の甲子園成績

 12年シーズンを最後に日米20年間にわたる現役を引退した松井氏は、13年夏、最初の「取材先」として甲子園を訪れた。第95回全国高校野球選手権の開会式と母校・星稜の試合だけでなく、他校の試合も観戦した。実に21年ぶりに目にした高校野球は、時を経ても新鮮だった。

 「やっぱり開会式はいいですよね。今までは歩く立場だったし、スタンドで見たことがなかったですからね。日本らしくていい。全体を見渡すと気持ちいいですよね」

 星稜時代は豪快な本塁打を量産し、「ゴジラ」と呼ばれた。92年ドラフト1位で巨人入り。その一方で、真剣に大学進学を考えた時期もあった。もし、大きな故障でもしていたらプロに進めなかった可能性もある。「自分でプレーできなくても、野球を続けたい気持ちがあれば、もしかすると高校生に教えたいという気持ちになったかもしれないですね」。ひょっとすると、高校野球の指導者になっていたかもしれない。

 高校生を指導する魅力とは何だろうか。

 「あの熱さや甲子園というよりも、彼らの次の人生に、何か礎になるようなものを植え付けてあげたい。それが楽しいんじゃないかと思いますね。彼らが大人になって振り返った時、必死にボールを追いかけた高校時代が今の自分の基になっている、そう思ってもらえたら、高校野球の監督はうれしいと思います。高校3年間はアッという間。そこでは何も、はかれない。強豪校の監督にしても、甲子園で勝った、負けただけではなく、社会にどういう人材を送り込んだか。個人的にはそこだと思います。マスコミはそう見ないですけど、本来はそういうことだと思います。あの高校時代があったからこそ、今の自分がある。そう思ってもらえるようになることが、実は一番大切なことじゃないかと思います」

 松井氏は、勝利至上主義を否定しているわけではない。ただ、高校野球は勝ち負けだけで評価されるべきものでもなければ、大人の論理だけで運営されるべきものでもないと考えている。最近、話題になっているタイブレーク制導入についても、「故障は心配」としながらも、あえて結論付けようとはせず、慎重に言葉を選んだ。

 「これは難しい問題。野球という競技の本質を守るか、球児の体を守るか。そこは徹底的に議論して落ち着くところに落ち着けばいいと思います。どっちがいいとか悪いとかではない。みんなが納得するところはないでしょうけどね」

 100年にわたり、国民から愛され続けてきた高校野球。「甲子園は僕の原点」と言い切る松井氏の語り口は、灼熱(しゃくねつ)の甲子園のように、最後まで熱かった。(おわり)
日刊スポーツ 「未来へ」~高校野球を愛する君に送る~ 2015, 5, 14, 19, 02015/05/13
5打席連続敬遠が人生をプラスに/松井の甲子園2
 甲子園には春1回、夏3回出場し、2年夏には準決勝まで進んだ。迎えた3年夏。2回戦の明徳義塾(高知)戦で、松井氏が受けた「5打席連続敬遠」は、日本高野連が異例の声明を発表しただけでなく、直後の国会でも話題となるなど社会問題にまで発展した。

 「あの時は悔しかったけど、あとで振り返ると5打席連続敬遠は僕を成長させてくれた。敬遠される存在になったということを証明してくれたからね。あれは、その後の野球人生にとってプラスになったと思います」

 今となればサバサバと振り返る。5敬遠も、高校通算打率4割5分、60本塁打も、過去の出来事にすぎなかった。

92年夏2回戦星稜対明徳義塾スコア

 「中学の練習も厳しかったけど、高校の仲間とは一緒にいる時間が全然違いましたからね。結局、今でも思い出として残っているのは、野球部の仲間の顔なんですよね。チームメートと過ごした時間、それが一番の財産です。ああいう濃密な時間を過ごしましたから、つながりが続いているんです。今では、それぞれ家族があったりして、なかなか全員は集まれないですけどね」

 プロ入り後は、松井氏が年末年始を利用して帰省するたびに、野球部の同期が集まり、石川県内の温泉で同窓会を開いてきた。メジャー入り後は「定期開催」ではなくなったが、都合がつく友人で集まることは欠かしていない。多感な高校時代。理不尽な大人や社会にあらがいたくなる気持ちを抑え、甲子園という同じ目標に向かっていた仲間は、松井氏にとって今もなお、かけがえのない「財産」なのだ。

 「あの熱さ、情熱があったからでしょうね。あれはあの年代だけしか出せないものです。プロ野球選手になっても、あの熱さは毎日出せない。高校野球は、毎日が『10・8』(94年、公式戦最終戦が優勝決定戦となった巨人―中日戦)みたいなものですからね。だからこその仲間だし、あの熱さがあったからこそだと思います。僕らは寮じゃなかったけど、朝から晩まで一緒にいました。しかも、みんな同じような田舎から集まってましたから、まとまりが強かったのかもしれません。高校野球は3年間しかないし、負けたら終わり。すべてが凝縮されてますからね。あの熱さで野球をやることは、後にも先にも、もうあり得ないですから」

 だからこそ、松井氏は高校野球の将来、さらに少子化などに伴う野球人口の減少を真剣に心配している。

 「甲子園は日本の野球文化であって、完全に春夏の季節の風物詩。あれだけ国民に根付いているのはすごいし、日本の野球文化を支えている大きなものだと思います。それは、もう間違いないことです。なぜかというと、あそこには選手たちのドラマの続きがあるから。プロに進んでスターになった選手にしても、アマチュアからのストーリーがあるし、ずっとつながっているんです。つまり、甲子園、高校野球は、ストーリーの始まりなんですね。それは非常に大きいものですし、これからも絶対に続いて欲しいものです」

 自らの思い出から高校野球の将来へと、話題が移るにつれ、松井氏の口調は熱気を帯びた。今、高校生に何を伝えたいのだろうか。(つづく)
日刊スポーツ 「未来へ」~高校野球を愛する君に送る~ 2015, 5, 14, 19, 02015/05/13
足が震えた唯一の舞台/松井の甲子園1
 1915年(大4)に「全国中等学校優勝野球大会」として始まった、全国高校野球選手権大会は今夏、100周年を迎えます。歴史を彩ってきた選手や名勝負、明暗を分けた1球など、さまざまな角度から高校野球の魅力をひもときます。第1回は巨人、ヤンキースで活躍した松井秀喜氏(40)の単独インタビューです。いまも語り継がれる5打席連続敬遠で得たものや魅力をたっぷりと語ってくれました。これからも続くドラマの主役となる球児たちへ、「未来へ」と題してお届けします。

 いつも落ち着いた口調で淡々と話す松井氏が、時折感情を込めて、熱く語り出した。プロとして残した偉大な実績の一方で、高校野球への思いは人一倍強い。メジャー挑戦後こそ、なかなか情報を入手できなくなったが、かつては自称「高校野球オタク」を公言していたほど熱心に観戦していた。その当時の優勝校や選手名などの詳細な記憶は、極めて正確だ。

 「最初に見たのは、ちょうど池田(徳島)が強かった頃かなあ。水野(雄仁)さん(池田―巨人)とかがいて、荒木大輔さん(早実―ヤクルト)がフィーバーしていた頃かな。ただ、ハッキリ記憶に残っているのは、星稜―箕島(79年)なんですよ。なぜかと言うと、あの試合だけはナイターでやっていたから。地元の高校だから、家族全員で見ていました。それは幼心に何となく覚えているんですよね。小学校に入る前ぐらいだったけど、みんなでテレビにかじりついて見ていた記憶があります」

 小学3年から野球を始め、田園地帯が広がる石川・根上町(現能美市)の自宅前の原っぱで、夢中で白球を追いかけた。最初の目標は、おのずと高校野球で甲子園へ出場することになった。

 「プロ野球選手になりたいというよりも、甲子園に出たいという思いが強かったんです。その当時、プロ野球はあまりにも遠い世界でしたからね。甲子園は憧れの存在だったし、地元の人が出ていたりするから、自分の身近な目標としてありましたね」

 根上中時代から「超中学生級」の打者として知られていた松井氏は、星稜に入学するとすぐに4番を任された。3年に村松有人(ソフトバンク3軍外野守備走塁コーチ)ら有力選手をそろえていた当時の同校は、夏の石川県大会を順当に勝ち抜き、甲子園出場を決めた。1年夏に初めて聖地に足を踏み入れると、独特の雰囲気に圧倒された。

 「まず、デカいと思いましたね。あの大きさ、サイズの球場でプレーしたことがなかったですから。平常心でいられなくなる、そういう感じがありました。それこそ浮足立つ、そういう感じでした。田舎育ちの16歳。いきなりあんなところに出てしまって、やっぱり緊張しましたね」

 2回戦の日大鶴ケ丘(西東京)戦は、「4番一塁」で先発出場した。顔色こそ変えなかったが、これまでに経験したことのないほどの緊張感に襲われた。

 「第1打席は、自分で足が震えていたのが分かりました。おそらく、打席で足がブルブルとなった記憶はその時ぐらいです。巨人に入った時の東京ドームや、メジャーに行ってからヤンキースタジアムで初めて打席に立った時も、足が震えることはなかったですから。ただ、甲子園の時だけは別でしたね」(つづく)
日刊スポーツ 「甲子園」100年物語~輝いた東北の男たち~ 2015, 5, 14, 19, 02015/05/13
松井秀喜と真っ向勝負 2発浴び「ゴジラ」定着
<岩手・宮古 元田尚伸投手>

 松井秀喜を“ゴジラ”にした男は「絶対、勝てる」と信じて疑っていなかった。1992年(平4)春のセンバツで、30年ぶり2度目の出場の宮古(岩手)が開幕戦を射止めた。対戦相手は、強打者松井率いる星稜(石川)だった。直球128キロと参加校で最も遅い球を投げる横手投げ元田尚伸投手(現在41)。真っ向勝負を挑んで3ラン2本を含む4安打7打点を許し、華々しく散った。

 92年から甲子園が広くなった。「ラッキーゾーン」が撤廃された。甲子園の練習でマウンドに立った元田は逆の感覚にとらわれた。

 元田 うわっ、狭い。と感じました。アルプスやバックネットとかスタンドがやたらと大きいから、フィールドが小さく見えた。

 松井との勝負はイメージできていた。敬遠はまったく考えていなかった。

 元田 だって、同学年ですよ。勝負でしょ。

 同じフォームから直球、スライダー、シュート、チェンジアップを投げ分け、外角低めの相手の届かないエリアで勝負してきた。星稜戦も同じ。松井との1打席目は四球。このとき128キロの外角低めの直球で空振りさせた。「勘違い」の始まりだった。

 元田 寒くてアンダーシャツ2枚重ねでした。しかも、阪神電車のストで試合開始でも応援スタンドは誰もいない。ちょっと動揺しましたね。2回終了で0-0。そのころには応援もそろってきた。シャツも1枚脱いで、エンジンがかかってきた…と思えたんです。

 2打席目は走者2人がいた。2死二、三塁。2ストライクまで追い込んだ。勝負の外角低めをファールされたが、タイミングは合っていない、と思った。ベンチから伝令が飛んできた。

 元田 「クサいところを突け」という内容でした。ボクは、もうやる気満々なので「クサいところを突いて勝負しろ」と受け取った。でも、佐々木(忠夫)監督は「クサいところを突いて歩かせろ」と指示したかったと思うんです。それで、カキーン、です。

 3打席目も追い込みながら3ランを浴びた。結局、3-9の敗北。松井には2本塁打を含む4安打7打点。翌日から松井の呼び名は「ゴジラ」で定着した。

 元田 周囲からは「野球を何だと思っているんだ」とか、いろいろ言われました。でも、その年の夏に5敬遠があって「よく勝負した、えらい」という声に変わった。世の中、怖いと感じましたね。

 一般入試で東北学院大に進学して野球部に入った。

 元田 松井という一番すごい打者と対戦してもう「やり切った症候群」。集中できない。大好きだった野球から20歳で離れました。

 宮古市に工場のある電子機器関係の会社に就職し、営業部門に配属された。

 元田 商談の相手は、ボクを知らないけど、松井が甲子園で2本塁打を打ったことは覚えている。だから、仕事ではかなりいい思いをさせてもらいました。

 現在は横浜市在住。小学5年の長男が少年野球チームに入ったことで、コーチとして野球に“復帰”できた。仲間の草野球チームにも入った。今年4月中旬、6回を投げて勝利投手になった。

 元田 成人してから初勝利。しかも、松井が2軍で汗を流した多摩川グラウンドでした。野球はやっぱり面白い。きっかけをつくってくれた息子、それと松井に感謝してます。

 自宅には23年前の試合の録画データがあるが、1度もみていない。「近々、しっかり見ます。今年の秋は完投したいから、そのヒントがみつかるかも」。ようやく松井の呪縛から脱出できそうだ。(敬称略)