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Columnコラム

スポスタ 2015, 7, 21, 0, 02015/07/19
今だから振り返りたい!日本を代表する4番・松井秀喜のすごさ
かつてジャイアンツの4番として不動の地位を築いた松井秀喜。MPBでは10年間で332本の本塁打を放ち、3度の本塁打王を獲得。さらには日本一の栄冠も3度手にしています。これほどまでの4番バッターを今だからこそ振り返っていきたいと思います。

日本時代は本塁打王3回!

松井秀喜といえば高校時代からとびぬけた存在でした。3年生の夏の甲子園2回戦、明光義塾戦での5打席連続敬遠はあまりにも有名でしょう。当時社会問題にまで発展し、高野連が会見を開くほどの事態になりました。ですが、相手の監督をして「高校生の中に1人だけプロがいる」と言わしめるほどにおそれられた存在だったのです。

そして1992年のドラフトの際は4球団の競合の末、巨人に入団。ルーキーイヤーは開幕2軍でしたが、12試合で4本塁打の活躍を見せるとすぐさま1軍に昇格。5月1日のヤクルト戦でいきなり7番レフトでスタメンを果たします。プロ初打席こそセカンドゴロに終わりますが、2打席目にはライトフェンスを直撃するツーベースを放ってプロ初安打を記録します。

さらに翌日の試合では高津臣吾投手からプロ初本塁打を記録。この年は新人ながら11本塁打を記録する活躍を見せます。2年目(1993年)には全試合に出場して20本塁打、日本シリーズにも出場し、弱冠20歳ながら日本一に貢献しました。

4年目(1995年)には初の打率3割に、これまた初の30本塁打超えとなる38本塁打を記録。惜しくも本塁打王には1本届きませんでしたが、22歳での38本塁打はあの王貞治さんに並ぶ記録となります。

その後も順調に活躍を続け、7年目(1998年)には初の32本塁打で初のタイトルである本塁打王を獲得しました。翌年1999年には42本塁打を放ち、自己最高の記録を残したものの、この年ヤクルトに加入したペタジーニ選手に本塁打王を奪われてしまいます。その後は毎年のようにタイトル争いを繰り広げたのも印象に残っているのではないでしょうか。

翌年(2000年)にも42本塁打を放ち、今度は本塁打王と打点王を獲得し、シーズンMVPを獲得すると、さらに日本シリーズでもMVPを獲得し、誰もが認めるジャイアンツの4番打者となりました。

2001年にはまたもペタジーニ選手に本塁打王と打点を打を奪われますが、初の首位打者を獲得。日本最後の年となった2002年には日本人では落合博満さん以来の50本塁打を記録し本塁打王と打点王を獲得。さらに日本一へと輝き有終の美を飾ります。

 結局この10年間で332本の本塁打を記録、本塁打王3回、打点王3回、首位打者1回を獲得し、メジャーリーグへと舞台を移します。

日本人初!ワールドシリーズMVP!

ヤンキースに移籍後の1年目(2003年)は本塁打こそ16本に終わりますが、106打点を記録しました。入団当初はなかなか本塁打
が出ず、ヤンキースタジアムでの本拠地開幕戦ではメジャー初本塁打となる満塁本塁打を放ち、観客からスタンディングオベーションが沸き起こりました。2年目には31本塁打と日本人野手で初めて30本塁打以上を記録。

シーズン後半にはヤンキースの4番として定着するなど、前年以上に目覚ましい活躍を見せてくれました。さらに3年目(2005年)には打率3割を記録して、イチロー選手よりも高打率を残すなど、順調にメジャーに適応していきます。

4年目(2006年)は手首の骨折もあり、満足な成績は残せませんでしたが、5年目(2007年)には復活を果たし25本塁打に103打点を記録。これで5年間で4度の100打点を記録します。日本時代に比べると長打が少なくなりましたが、勝負強さを兼ね備えた中距離打者へとプレースタイルを変更して活躍しました。

圧巻だったのは2009年。この年のはひざの故障の影響で指名打者での出場となりましたが、メジャー自己2番目の28本塁打を放つなど安定した活躍でした。ですが、この年の本当にすごいのはワールドシリーズです。

2戦目で決勝本塁打を放つと、第3戦でも2試合連続本塁打、さらに第6戦ではまたも本塁打を放つと3安打6打点の大活躍!13打数8安打で打率は.615、3本塁打に8打点の成績で文句なしのMVPを活躍しました。世界一の称号を自らの手で勝ち取ったのです。

心・技・体全てがそろった4番バッター

松井秀喜のすごさを語るのであれば、やはりバッティングの話は欠かせません。日本時代は10年間で332本塁打を記録するなど、王貞治さんに負けずとも劣らないペースで本塁打を量産していました。ただ96年には中日・山崎武司選手に1本差、97年にもヤクルト・ホージー選手に1本差、99年にもヤクルト・ペタジーニ選手に2本差で本塁打王争いに敗れるなど、これだけ打っていても本塁打王を3回しか獲得できなかったのは惜しいところ。しかしその圧倒的なパワーに洗練された技術、そのすごさは語るまでもありません。

それだけでなく本当にすごいのは野球人としての振る舞いです。特に上原浩治さん(現レッドソックス)からは「表裏のない人、人間的にも野球選手としてもすごい」と語っていました。松井秀喜を知る人物で彼のことを悪く言う人は全くいません。

思い返しても高校時代の5打席連続敬遠の際も、これに抗議するわけではなく淡々と受け入れていました。普通の高校生ならどこかで態度や表情に不満を出てしまうものなのですが、彼の場合は一切そんなことはありませんでした。ジャイアンツ時代も審判の判定に不服な態度を出したり、デッドボールに怒ったりすること見たことありませんでしたね。

いつでもどんな時でも毅然とした態度で野球に臨むことができる。それが松井秀喜のすごさなのです。ジャイアンツの4番やヤンキースの4番なんてプレッシャーだったでしょう。ですが技や体だけでなく、心も伴っているからこそあそこまでの成績を残せたのだと思います。

さいごに

いかがだったでしょうか?振り返れば振り返るほど、松井秀喜のすごさがわかってきますね。

 恵まれた体格から生み出される圧倒的なパワーに、洗練された技術、そしてどんな時でも毅然とした態度でいられる心、全てを兼ね備えた4番バッターでした。はたして今後、彼を超えるような4番バッターは現れてくれるのでしょうか。
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サンケイスポーツ 高校野球100周年 激闘の記憶 2015, 7, 21, 0, 02015/07/19
松井氏、17万人の球児にメッセージ(下)
 米大リーグ、ヤンキースのゼネラルマネジャー(GM)特別アドバイザーを務める松井秀喜氏(41)が米ニュージャージー州トレントンで応じたサンケイスポーツの単独インタビューの後編は、代名詞ともいえる本塁打がテーマだ。今年で100周年を迎えた高校野球の歴史に名を刻む松井氏の記憶には、石川・星稜時代に放った甲子園での4発を含む60本の本塁打が鮮明に残っている。同氏が「とりつかれた」という本塁打の魅力を語った。(取材構成・峯岸弘行)

 松井氏にとって、甲子園は夢の舞台だった。兄・利喜さんの影響もあって、小学校入学前から、テレビ中継にくぎ付けになった。1年生の4番として初出場した1990年夏の初戦、日大鶴ケ丘(西東京)戦では無安打に終わり、敗退。あこがれの場所での初本塁打は、91年夏の竜ケ崎一(茨城)戦だった。

 「もちろん覚えています。右中間への、結構大きいホームランでした」

 「ゴジラ」伝説の始まりを告げる一撃。プロ入り後は本塁打を放っても感情を表に出さなかったが、このときは空に向かって右手を突き上げた。

 「あの頃はストレートに感情が出ていた。まだ、そういうことをコントロールできる年齢じゃありませんでした」

 2回戦の市沼津(静岡)戦で負傷した米久(こめきゅう)主将が欠場。先輩への思いもあった一発だった。

 「(勝って)少しでも甲子園に長くいられればいいなとは思っていました。小学校、中学校でも米久さんは一緒だったので」

 2本目は、3年生で迎えた92年春の1回戦、宮古(岩手)戦。外野のラッキーゾーンが撤廃されて初めての大会。拡張された“新生甲子園”での初本塁打を、バックスクリーン右に運んだ。

 「ラッキーゾーンがなくなって広く感じましたよ。センターは変わらなかったけど、レフト、ライトの後ろは広くなったなと思いました」

 しかし、高校生離れしたパワーを誇っていた松井氏には問題にはならなかった。この試合ではもう一本のアーチをかける。甲子園3本目は、2打席連続弾だった。

 「3ランでした。打球は右中間に高く上がりましたね」

 2回戦の堀越(東京)戦で4本目。内角低めのカーブをすくいあげた。

 「すごくカーブがいい投手(山本幸正、元阪神)でした。もともと、低めの球が好き。見た目ほど嫌いな球ではなかったです」

 春夏を通じて4度出場した甲子園では4本塁打を記録した。打率・344、13打点。ただ、聖地で残したこの数字には満足していない。

 「そんなにいいとは思わないです。もっとすごい選手はいた。キヨさん(清原)とか、すごかったわけですから」

 高校通算60本塁打の中には、甲子園以外でも強く記憶に残っている本塁打がある。

 「最後の60本目は印象に残っていますよ。山形での国体。高校野球の最後の打席で、インコースのストレートをライトに打ちました」

 92年10月の山形国体、決勝の尽誠学園(香川)戦の八回。ドラフト会議間近とあり注目を集める中、高校生活を締めくくる節目の一発を右越えに運び、国体優勝を決定づけた。その後、巨人で332本、メジャーで175本と507本のアーチを描いた。本塁打の魔力にとりつかるとともに、難しさを知ったのも高校時代だった。

 「ボールがフェンスを越えていく快感。ダイヤモンドを1周ゆっくり走れる。やっぱり魅力がありますよね。ただ、その魅力を追いかけすぎると遠ざかる。ちょうどいい距離感というのが難しい。常に意識はしますよ、ホームランを打ちたいと。でも打席に入って、それを意識してうまくいくことはほとんどないのです」

 メジャーでも「GODZILLA」の愛称で親しまれ、2012年を最後に引退するまで本塁打にこだわった野球人生。星稜での「ゴジラ」伝説の序章は、今でもファンの心に刻まれている。

松井秀喜の高校通算60号VTR

 1992年10月8日の国民体育大会決勝(vs尽誠学園、山形県野球場)。1点リードの八回に“高校最後の打席”が回ってきた松井は内角直球をライナーで右翼席に運ぶ2ラン本塁打。59号で足踏みが続いていただけに「いいところだけ持っていってしまう。自分らしい」としきりに照れた。3-0で勝利した星稜が優勝し、甲子園での5打席連続敬遠の鬱憤を晴らした。

松井氏・前編では…

 星稜高時代に計4度出場した甲子園について「すべてがいい思い出。すべてが次へのいいエネルギーになっている気がします」と振り返った。全国17万人の高校球児には「『得たものがいっぱいあった』『人生に役立った』と、振り返って思えるような高校野球であってほしい。上下関係とか指導者との関係、礼儀も含めて社会に出ても役に立っていくことですから、そういうことも3年間で身につけてほしい」とエールを送った。

被弾も勲章

 松井氏に“甲子園1号”を献上した竜ケ崎一の右腕、藁科智尉(わらしな・としやす)さん(42)は「打たれた瞬間に“やられた”と思った」と振り返る。

 当時、藁科さんは3年生で松井氏は2年生。「1年生から4番を打っている打者、というくらいしか予備知識はなかった」そうで「小さい打者よりは、的が大きくて投げやすい」と強気に勝負。外角高めに抜けたシュートを狙われた。「相手は国民栄誉賞ですからね。今では子供に自慢しています」と時を経て、被弾した投手にとっても“勲章”になった。
サンケイスポーツ 高校野球100周年 激闘の記憶 2015, 7, 21, 0, 02015/07/18
松井氏、17万人の球児にメッセージ(上)
 高校野球が、次の人生へのエネルギーになる-。米大リーグ、ヤンキースのゼネラルマネジャー(GM)特別アドバイザーを務める松井秀喜氏(41)が、米ニュージャージー州トレントンでサンケイスポーツの単独インタビューに応じた。今年で100周年を迎えた高校野球の歴史に、甲子園通算4本塁打や5打席連続敬遠などで名を残した「ゴジラ」は、全国約4000校、17万人の高校球児に人生のメッセージを送った。 (取材構成・峯岸弘行)

 ニューヨークから車で約1時間半。ニュージャージー州トレントン。松井氏は曇り空の下、ヤ軍のGM特別アドバイザーとして、傘下2Aの選手たちを見つめていた。

 日本の高校野球は1915年に第1回全国中等学校優勝大会が開催されてから、今年で100年。松井氏は90年から夏は3年連続で、春は92年に甲子園に出場。通算4本塁打を放ち、豪快な打球に「ゴジラ」のニックネームがつけられた。

 「甲子園はすべていい思い出ですよ。もちろん最後は悔しい負け方でしたけど、僕にとっては全てが次へのいいエネルギーになっている気がします」

 92年夏、明徳義塾(高知)との2回戦での5連続敬遠は「高校野球らしさ」をめぐる社会問題にもなった。松井氏にとって、敬遠は野球人生の出発点だったと振り返る。

 「甲子園は、夢という意味では一番大きくもあり、身近でもあったような気がしますね。プロ野球はまだ遠すぎる場所でした」

 野球少年が最初に目指す場所が、甲子園。それは松井氏も変わらない。初めて甲子園の土を踏んだ90年夏。星稜の1年生4番打者は初戦の日大鶴ケ丘(西東京)との2回戦で無安打。足が震えた。

 「1年生のときは、そうでしたね。完全にまだ、自分の心をコントロールできないくらいの何かがあったんじゃないですかね」

 甲子園に出られるのは4000近い出場校のわずか1%にすぎない、49校。松井氏の視線は自然と99%の球児に向く。

 「みなさん(メディア)は甲子園にスポットライトを当てるでしょうけど、それだけじゃないんです。甲子園はすばらしい場所だし、3年間では最高の目標かもしれない。でも終わってみたら、残るのは甲子園よりも、3年間の時間なんですよね」

 15歳から18歳。多感な時期を仲間とともに過ごす時間こそが、次のステップに生きている。

 「あれだけの情熱を持って毎日野球をやるのは、高校時代だからこそ。いい仲間と巡りあって、一つの目標に向かってやり続けた時間があった。だからこそ、今でも仲間との深い付き合いが残っているんだと思いますよ。いい思い出になるし、次の人生のエネルギーにもなる」

 濃密な3年間こそが、選手にとって次の人生の糧になる。そして彼らのプレーを見る者の感動を生む。その歴史が100年間続いてきた。

 「甲子園に出ても出なくても、『得たものがいっぱいあった』『人生に役立った』と、振り返って思えるような高校野球であってほしい。常に全力でプレーし、仲間との時間を大切にする。上下関係とか指導者との関係、礼儀も含めて、いろいろ学ぶことがあるんです。社会に出ても役に立っていくことですから、そういうことも3年間で身につけてほしい」

 高校卒業から22年が過ぎ、遠くアメリカ大陸と太平洋を隔てたニューヨークにいる。それでも松井氏の野球人生には、星稜での3年間がどっしりと根づいている。

 高校野球では、プロへの手応えもつかんだ。北信越地区(石川、福井、富山、新潟、長野)のライバルだった松商学園(長野)で1学年上のエース、上田佳範(現中日外野守備走塁コーチ)が印象に残る。

 「上田さんとはよく当たりましたね。北信越でも、甲子園でも、2年には国体の決勝でも。なかなか打てなかった。その後(日本ハムの)ドラフト1位になったので、ドラフト1位になるのは、ああいう投手なんだと思いました」

 昨夏は母校の星稜が、石川大会決勝で小松大谷に0-8から逆転勝ち。米国内でも報道されて、注目を集めた。

 「こちら(米国)ではなかなか見る機会がないですが、甲子園じゃなくて予選でしたけど、久しぶりに母校が頑張ってくれた。そういう意味ではうれしかった。気になりますよ。監督も僕の1つ下のキャプテン(林和成氏)がやっていて、常に応援しています」

 母校に期待していることは、甲子園出場だけではない。

 「いい人材を次(のステージ)に送り込んでいってほしい。甲子園は出られればラッキーだけど、出られないことの方が多い。経験できればいいけど、経験できなくてもいい。逆に甲子園に出たことでマイナスになることもあると思いますよ。(15歳から18歳の)不安定な時期に注目されすぎるのは、いいところがあれば、悪いところもありますから」

 松井氏は注目を浴びながら、成長していった。

 「僕はそれをエネルギーに変えられましたから。それに僕の場合は負けて終わったので、甲子園で打った印象がそんなにないんですよ。最後は敬遠で負けて、敬遠されたことを次へのエネルギーにできた。そういう意味ではよかったのかな」

 それでも松井秀喜は、敬遠だけではない豪快な本塁打の記憶を、ファンに残した。「みなさん、僕のホームランよりも、僕の敬遠しか印象に残っていないと思いますよ」。そう笑いながら、甲子園で「ゴジラ」が生まれた瞬間を振り返り始めた。

松井氏の近況

 松井氏は現在、ヤ軍傘下の3Aスクラントン、2Aトレントンを巡回指導。練習をサポートするほか、試合ではベンチにも入る。25歳前後の若手が中心で、巨人で1993年の入団1年目から1軍だった自身と比較しても「全然違う。レベルが高い」。5月までトレントンの一員だったメイソン・ウィリアムズ外野手(23)が6月11日にメジャー初昇格し、デビュー戦で初安打初本塁打をマーク。「メジャーに行っていきなり活躍するとは、思わなかった」と喜んだ。 

松井氏と甲子園

★1年夏(1990年) 「4番・一塁」で初の甲子園出場。初戦の2回戦(対日大鶴ケ丘)で3打数無安打に終わり、3-7で敗れた。
★2年夏(91年) 1年秋から「4番・三塁」。初戦の2回戦(対市沼津)に勝利し、3回戦(対竜ケ崎一)で右翼席へ甲子園初本塁打。準々決勝(対松商学園)も勝ったが、準決勝(対大阪桐蔭)で敗れた。
★3年春(92年) この大会からラッキーゾーンが撤去。開幕戦(対宮古)で2打席連続の3ランを含む4安打、大会タイの7打点。2回戦(対堀越)でも2ランを放ったが、準々決勝(対天理)で敗れた。
★3年夏 1回戦(対長岡向陵)に勝利。2回戦(対明徳義塾)では走者なしの場面を含め、5打席連続敬遠。バットを一度も振らず2-3で敗戦。敬遠は社会問題にまで発展した。
G-TIMES 2015, 9, 24, 7, 02015/07/11
ON、若大将、ゴジラ〜球史を作った『巨人の4番』たちの通算成績を調べてみた
巨人の4番 = 球界の4番

入団3年目で4番打者を経験した松井選手ですが、その後は3番での起用が続きました。日本プロ野球12球団の中でも、唯一「歴代4番打者」という表現が用いられ、「第○代」と数えられていく読売ジャイアンツの4番打者。今まで82人の打者が、4番打者として名を連ねてきました。

巨人軍の歴史だけでなく、プロ野球史に残る大打者たちが担ってきたこの重責。その歴史ある「巨人の4番」の中で、特に存在感を放っていた打者は誰なのか?今回は、「巨人の4番」での成績にスポットライトを当ててみました。

「4番」出場試合ランキング

・1位 川上哲治 1658試合
・2位 長嶋茂雄 1460試合
・3位 王貞治 1231試合
・4位 原辰徳 1066試合
・5位 A.ラミレス 511試合
・6位 松井秀喜 470試合
・7位 中島治康 410試合
・8位 落合博満 331試合
・9位 清原和博 297試合
・10位 阿部慎之助 279試合

ダントツ1位は「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治選手。実は、「4番ピッチャー」での出場も3度経験しています。19歳で初めて首位打者に輝くと、4番として第一次黄金時代似合ったチームを牽引していきました。

「4番」本塁打ランキング

・1位 王貞治 392本塁打
・2位 長嶋茂雄 314本塁打
・3位 原辰徳 255本塁打
・4位 川上哲治  162本塁打
・5位 A.ラミレス 139本塁打
・6位 松井秀喜 138本塁打
・7位 清原和博 67本塁打
・7位 阿部慎之助 67本塁打
・9位 李承燁 57本塁打
・10位 落合博満 48本塁打

本塁打数トップはやはり王貞治選手。V9時代の中心であった「ON砲」の2人の活躍はやはり別格であったと言えるでしょう。また、現在チームの指揮官を務める原辰徳監督がONコンビに続いています。5位以降は近年の選手が並ぶことからも、80年代のジャイアンツ打線の中核を担っていたことがわかるでしょう。

「4番」打率ランキング(1000打数以上)

・1位 松井秀喜 .322 (1660打数535安打)
・2位 川上哲治 .317 (6420打数2034安打)
・3位 王貞治 .315 (3994打数1258安打)
・4位 長嶋茂雄 .314 (5396打数1694安打)
・5位 A.ラミレス .308 (1978打数610安打)

打率1位は、「ゴジラ」松井秀喜選手。入団3年目で4番を経験した松井選手ですが、

「次に松井を4番に据える時は、松井一本で行くとき」

そう言って長嶋監督は、3番での起用を続けました。2000年。長嶋監督はついに松井選手を開幕4番で起用します。以後、2002年までの全試合4番としてフルイニング出場。

・2000年 打率.316 42本塁打 106打点 本塁打王 打点王 MVP 日本一
・2001年 打率.333 36本塁打 120打点 首位打者
・2002年 打率.334 50本塁打 114打点 本塁打王 打点王 MVP 日本一

安定感と破壊力を兼ね備えたバッティングで、3年間で2度の日本一に貢献しました。

「4番」はまさにチームの顔

「巨人の4番」の歴史を辿ることは、すなわち「巨人軍の歴史」を辿っているといっても過言ではありません。今回はまだほんの一部。あなたもその歴史を紐解いてみてはいかがでしょうか。もしかして、巨人の未来も見えて来るかもしれません。