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Columnコラム

スポーツナビ 梅田香子 2004/05/21
松井秀喜の守備に見る「基礎力」の重要性
梅田香子の『松井秀喜 メジャー交友録 2004』 VOL.5
「スポーツ大国」を生み出す「環境」

 プライベートな場所でよく会うロシア人の男女2人が3月末、フィギュアスケートの世界選手権のペア競技で優勝して金メダリストになった。彼らは生粋のロシア人だし、コーチもロシア人なのだが、意外なことに母国のロシアは「練習場所に恵まれていない」そうで、普段はシカゴに住んでいる。

 スケートだけではない。マラソンにしても、バスケットボールにしても、野球にしても、強化合宿や自主トレの場としてアメリカを選ぶのは、今にして始まったことではない。土地が余っているからと言ってしまえば、それまでだが、ひょっとすると「スポーツ大国」としてのアメリカの強さは、「人材」というより「環境」から来るものの方が大きいのではないだろうか。

環境によって発想も違う練習方法

 米誌『スポーティング・ニュース』は5月17日号で、「ファンダメンタリー・ジャパニーズ」という特集記事を組んでいた。主に松井秀喜と稼頭央、イチロー、田口壮について触れていて、リードの部分にはこう書いてある。
「日本人選手たちはアメリカ人のメジャーリーガーたちを打ち負かす、基礎的な能力を備え持っている。それは練習に次ぐ練習、そしてまた練習から得たものだ」

 これを読んで受け取り方は千差万別だと思う。そして、その受け取り方が読み手の置かれている、それぞれの「スポーツ環境」を反映させていると言ってもいいはずだ。例えば、前述したロシア人ペアだったら、
「基礎的な能力は練習に次ぐ練習から得る? そんなの当たり前じゃないの」
 と一笑に伏しそうで、日本のアスリートと考え方が近いような気がする。

 しかし、一般的なアメリカ人の発想は違う。つまり、練習はあくまで試合のための「準備」であり、「調整」にすぎないのだから、やり過ぎは禁物である。ロバート・ホワイティング著『日米野球摩擦』(朝日新聞社刊)にも、「日本人は練習をすればするほどうまくなると思い込んでいるようだが、最近、こういう考え方は生理学的に見て時代遅れであることがアメリカで裏付けられた」
 という一節があり、スポーツ医学の権威であるフランク・ジョーブ博士の、
「春季キャンプの後半や、シーズン中の試合前の練習、それに試合のない日は練習量を80パーセント以下に抑えること」
 という提言に続く。筆者も何度かジョーブ博士は取材しているので、その理論には納得しているし、大リーグ津々浦々にそれが浸透していると言っていい。

守備での評価は高い日本人選手たち

 しかし現実に目を向けてみれば、こと守備練習に関して、大リーガーたちが「80パーセント」も、シーズン中にやっているとは思えない。シーズン中は、シート打撃のときに軽くボールを追って、グラブを慣らす程度だ。そもそも試合がない日の練習自体が、めったに行われないのだから、限りなく0パーセントに近い。

 『スポーティング・ニュース』誌の記事は、松井秀喜の外野守備について、ボールを取った後のスローイングの素晴らしさを絶賛している。松井自身、
「いやー、守備についてはイチローさんにかなわないですよ」
 と謙そんしているし、客観的に見てそのとおりなのだろう。

 松井秀の守備は日本にいた頃より格段に上達しているようには見えない。が、事実アメリカではさほど見劣りはしていないし、確かに高く評価されている。それだけ守備にプライドを持ったアメリカ人が減ってきていると言ったら、言い過ぎだろうか?

 そのほかの日本人選手の守備の評価は、と言えば、松井稼頭央については、「人工芝のスピードにまだ対応できていない」と前置きしながらも、「両手の動きは良く、ダブルプレーをとる動きは見事だ」とこちらも絶賛。田口については、カージナルスのトニー・ラルーサ監督が記事の中で、「うちで一番基礎力のある選手だ」とコメントしていた。

 イチローの守備に関しては、今さら……というところだが、イチロー本人が「基礎力」の重要性について、熱く語っていて、それはそれで興味深かった。

環境に恵まれるアメリカにも欠点が……

 さて、日本の友人がアパートの駐車場で息子とキャッチボールをしたら、「車にぶつかるからやめてくれ」と隣人から苦情が出たと嘆いていた。
 アメリカなら、グラウンドはそこら中にあふれているから、練習場所を確保するためにヤキモキする必要はない。学習塾もないから時間もたっぷり。両親も週末は、子供のスポーツに付き合わなければ非常識扱いされるから、たいてい協力的だ。才能が秀でていた、高校や大学はスポーツ奨学金という手があるから、将来もある程度は約束される。

 確かに「環境」は子供の頃から絶対的に恵まれているのだから、次々と名アスリートが世の中に送り出されてくるのも納得がいく。だからこそ、それに甘えてごう慢になっている部分があったのも事実だ。

 『スポーティング・ニュース』誌の記事の根底に流れているのは、そうした「メッセージ」である。アメリカに比べ恵まれない環境において、練習に次ぐ練習で基礎的能力を得てきた日本人大リーガーたちの活躍が、決して一過性のブームではない、という現状を納得させてくれるものだった。
スポーツナビ 梅田香子 2004/05/08
「野球」という「道具」を駆使するイチローと松井
梅田香子の『松井秀喜 メジャー交友録 2004』 VOL.4
日本野球に関して間違いが目立つ 『The Meaning of Ichiro』

 ロバート・ホワイティング著『The Meaning of Ichiro』(ワーナー・ブックス刊)を読んだ。その販促のトークショーを、ホワイティング氏はシアトルで行ったそうだ。イチローは取材には協力したそうだが、その場に立ち会ってはいない。

 米紙『シアトル・ポスト』も『シアトルP・I』も同著について、「日本については、ともかくメジャーリーグの出来事など、とんでもない間違いが並んでいる」と書いていた。けれども、筆者はそれ以上に、日本の野球などについて「とんでもない間違いが並んでいる」のが気になった。

 さて、そうしたミスを除外すると、お薦めできる本なのだろうか。少なくとも読んで面白いと感じる人は、日本にもアメリカにも存在するはずだ。おそらく映画の『パールハーバー』ぐらいの価値はあるだろう。そういえば、(映画を)見にいった友人がこんな感想を漏らしていた。
「映画よりも日本人の私が見に来ているってことで、ぎょっとしたり、じろじろ見たりする人たちの反応を眺める方が面白かった」
 早い話、反日感情というものは、まだまだ商売につながるのだ。

松井秀の胸中はさまざまな感情が渦巻いていた

 さて、もう一つ気になったのは、選手や関係者の言葉と、作者自身の「私見」が妙にごちゃまぜにしてある点だ。何を言いたいのか、意図が分かりにくい。これはホワイティング著の『日出ずる国の奴隷野球』(後に『海を超えた挑戦者たち』と改題)にも当てはまった。
 例えば、松井秀喜はイチローの成功のせいで、大リーグ行きを余儀なくされたというのは事実なのだろうか?

 確かに松井秀は大リーグ行きを決断するまで、約1シーズン、迷いに迷った。元報知新聞の記者が退社して、彼のアシスタントを務めていることからも分かるように、マスコミ関係者にも本音を明かし、相談するタイプだったから、「大リーグに行くか巨人に残るか、かなり気持ちが揺れ動いているらしく、1週間ごとに違うことを言っている」
 と伝え聞いていた。

 いずれにせよ、しょせん人間の感情を白か黒か、2色に分けること自体に、無理があると思う。
 仮に100の感情が、松井秀の胸中で渦巻いていたとして、そのうちの幾つかの要素がイチローの成功がリンクしていたというのは、充分にあり得る。つまりホワイティング氏の“私見”はある意味で正しいのだろう。

 同著にある、イチローが道具を大切に扱うことが仏教と関係ある、というのも違う気がする。しかし、それもしょせんは筆者の“私見”に過ぎない。イチローに限ったことではなく、松井秀にしても、日本人大リーガーたちは野球道具をかなり大事に扱う傾向が強いのだ。

アメリカでは誤解される? 松井とイチローの関係

 さて、正月のテレビ番組でイチローと松井秀が対談したものをビデオで見たが、両者の互いへの好奇心や野球への思い入れが如実に表れていて、とても面白かった。
 シアトルの同業者にこれを話したら、「ぜひ見たい」ときた。それは構わないのだが、「英訳したものを添えてほしい」と言うから、四苦八苦しながら訳したものだ。というのも、文化や生活習慣がまったく違うからだ。

 松井秀は星稜高校時代、イチローのいる愛工大名電高校を訪れ、練習試合を行った。対外試合の後、星稜の選手たちは愛工大名電の寮に泊めてもらう習慣があり、風呂場で松井秀とイチローと一緒になる。イチローは一番風呂が好きだったし、1年先輩だったからムっとしたと述懐するのだが、松井秀は大笑いしながら胸を張る。

「僕たちはお客ですから!」
 ただこれだけのことなのに、「年功序列」を説明しなければ、イチローのこだわりを理解してもらえない。さらにどうして風呂場で一緒になるのか、その構造も説明しておかないと、それこそ「とんでもない間違い」につながりそうだ。

イチローの英語力も努力なくして身に付かない

 確かに、悪意のない誤解というものは、アメリカで生活していれば身近にはんらんしている。

 例えば、日本人は概して中学生英語ぐらいの知識だと「あまり英語はできません」と答えるの対し、アメリカ人はほんのあいさつ程度でも「私は日本語ができます!」とたちまち日本通を自負する傾向があるから、これはもはや国民性というよりほかにない。

 野茂英雄はメジャー1年目を終えたオフから「ベルリッツ」で英語を習った。長谷川滋利もそうだが、イチローの上達ぶりを見ていると、どう考えてもそれなりに努力しているはずだ。その国に住んだからから自然と語学が身に付くなんて、子供には当てはまるかもしれないが、大人は無理だと思う。

 先日も娘が小学校で日本について習い、宿題のレポートを書くために図書室で数冊「JAPAN」を紹介した本を借りてきた。そのうちの1冊は、リトルリーグの子供が表紙で、世相を反映していた。ところが、中を読むと天皇陛下と総理大臣を入れ替えていたり、中国との区別がついていなかったりしていたから、『The Meaning of Ichiro』ぐらいで驚くべきではない。

大切なのはお互いを認め理解する心

 それよりも、今さらながら驚かされるのは、松井秀やイチローが、「言葉」ではなく「野球」という「道具」を駆使して、たちまちアメリカでも野球ファンの心をとらえてしまったという「現象」と言えるだろう。

 程度の違いはあれ、人種差別が存在しない国は世界中のどこを探しても見つからない。大切なのはお互いを認め合い、ときには許し、最大限に理解しようとする心で、そのツールの一つとして野球が果たす効果はあまりにも大きいのだ。

 そういえば、イチローの松井との対談で、今年のテーマは「許す」ことだと言いきっていたのが印象に残っている。