Matsui's Space 松井秀喜ファンサイト

Columnコラム

スポーツナビ 梅田香子 2004/09/27
レッドソックスの強さの秘密
梅田香子の『松井秀喜 メジャー交友録 2004』 VOL.15
イチローの狙う安打記録より古いライバル物語

 顔が広いと言われる方だが、さすがに筆者も1920(大正9)年生まれの友人知人に心当たりはない。松井秀喜なら川上哲治元監督を挙げればいいと思うが、いくら「打撃の神様」でもまだ大リーグの情報は届かなかったはずだ。ちょうどその年にジョージ・シスラーがシーズン最多257本のヒットを記録した。84年ぶりにイチローがその記録に迫っているのだから、いやはやすごい話だ。

「いや、もう、なんて言っていいのか、分かりませんね。でも、イチローさんならやり遂げるのではないかな」
 松井秀もただただ感嘆するばかり。

 当時はまだ白人しかメジャーリーグ入りが許されていなかったのだから、野球の質が違う。まだ西海岸には球団がなかったから、移動も楽だった。1シーズン250本以上のヒットを打ったのは、シスラーだけではなかったのだから、今、イチローのやっていることのほうが快挙のはずだ。

 その一方で当時から、否、その前から今日に至るまで飽きることなく、延々と継続して火花を散らしているのが、レッドソックスとヤンキースなのである。これほど年季の入ったライバル物語も珍しいのではないだろうか。先日もよせばいいのに、ジョージ・スタインブレナーが挑発的な発言をし、レッドソックスの経営陣から怒りを買っていた。この2球団は首位争いだけではなく、FA選手の獲得など、グラウンドの内外で常にライバル意識をむき出しにして戦い続けてきたのである。ファンもそれに乗せられて祖父母の代から本気で怒ったり、楽しんだりしてきたわけだ。

優勝回数には分があるヤンキース

 もともとヤンキースは12年まで本拠地の球場『ヒルトップ・パーク』が文字どおり高台にあったため、「ニューヨーク・ハイランダーズ」と名乗っていたが、後に「長すぎる」という理由で、「ヤンキース」と呼ばれるようになった。

 04年にシーズン最後までヤンキースとレッドソックスが優勝争いを繰り広げ、最後の最後の直接対決5連戦で、ヤンキースが1勝した後に3連敗。2位に終わった。ヤンキースの初優勝は、レッドソックスから破格のトレードマネーで引き抜いたベーブ・ルースが59本塁打を記録した21年まで待たなければならない。

 49年には最終の直接対決2連戦で、ヤンキースがレッドソックスに連勝して逆転優勝。ここからヤンキースは5年連続ワールドシリーズを制覇し、ボストンのファンが憤りを募らせる結果につながった。

 78年には7月19日の時点ではレッドソックスが14ゲーム差をつけていたにも関わらず、ヤンキースに追いつかれてプレーオフでは4対5と破れてしまう。この年、ヤンキースは2年連続でワールドシリーズに優勝。以後はどうも形勢が逆転してしまい、優勝回数ではヤンキースのほうに分があるようだが、今季も夏前からヤンキースとレッドソックスがし烈な首位を争いを続けてきたのだから、盛り上がらないわけがない。実際、エピソードには事欠かなかった。

旧戦力と新戦力がかみ合った攻撃陣

 まずエースのペドロ・マルチネスがシーズン途中だというのに、
「球団にはもう十分な時間とチャンスを与えたのだから、これ以上話をすることもない」
 と事実上、このオフのFA移籍宣言。生え抜きのノーマ・ガルシアパーラも契約交渉でこじれていたのだが、オフの再交渉を待たず、四角トレードでカブスに放出してしまった。

 その時、獲得したダグ・ミントケイビッチ一塁手、オーランド・カブレラ遊撃手、ドジャースから獲得したデーブ・ロバーツ外野手がいずれも好調だったため、一時はかえって使い道に困るほどだった。一塁手兼外野手のケビン・ミラーが、
「8月になってもスターティング・ラインアップが固定されないなんておかしい」
 とテリー・フランコーナ監督のさい配を批判し、1対1で話し合いの場を持ったほどである。

 その直後にポッキー・リーズやマーク・ベルホーンが故障したため、マイナー落ちしたばかりのケビン・ユーキリス三塁手を呼び戻し、ドタバタとした。ところが、8月15日にはそのユーキリスが本塁上のクロスプレーで足を痛めてしまう。翌日はミントケイビッチが急造二塁手として先発し、初回いきなり難しい当たりを軽快にさばいて、周囲をあぜんとさせた。

 しかしケガ人が出たにもかかわらず、指名打者のデビッド・オティーズとマニー・ラミレス外野手がホームラン王と打点王を争うなど、旧戦力と新戦力がうまくかみ合った。

ゴタゴタがあってもグラウンドでは一丸のレッドソックス

 加えてナックルボーラーのティム・ウェイクフィールドやカート・シリングら安定したピッチング・スタッフ。ついこの間デビューしたような気がするのに、ウェイクフィールドも37歳。エンゼルス戦でライナー性の打球が利き腕の肩を直撃するアクシデントがあったものの、まだまだ健在だ。松井秀がずっと苦手にしてきたナックルボーラーで、昨年はポストシーズンでも散々手こずった。が、ついに攻略。手元にボールを引き寄せてから、フルスイングを心掛け、ホームランを打ったばかりだ。

 カート・シリングも37歳になったが、すでに20勝をマーク。まだまだ勝ちそうな勢いだ。過去にトレードを5回経験しているシリングだが、最初の球団はこのレッドソックスだった。代理人を使わず、自らが辣腕GMのセオ・エプスタインと昨年の感謝祭中、息が詰まるような交渉のドラマを持ったとか。
「それはちょっと大げさだけど、自分で交渉を持つことで、ずいぶんたくさんのことを学べたからね。これは超高額ビジネスと言っていい。セオは誠実さと尊敬の心を持ったGMだから、私も選手として同じような心で取引に応じたつもりだ」

 ゴタゴタがあってもすぐになんらかのアクションを起こし、一両日中に解決してしまい、グラウンドでは常に一丸となって戦う。それがレッドソックスの伝統を支える強さなのだ。
スポーツナビ 梅田香子 2004/09/18
松井秀のコーチは巨人で活躍
梅田香子の『松井秀喜 メジャー交友録 2004』 VOL.14
3年間、巨人でプレーしたヤンキースのコーチ

「ヒデキはかなり英語を理解できるようになったぞ。相当に努力をしているのだろう」

 松井秀喜がヒットで一塁に出ると、必ずといっていいほど肩に手をかけて話しかけるコーチ、それがロイ・ホワイトだ。巨人ファンじゃなくても、昔からの野球ファンにはなんともたまらない光景である。

 名門ヤンキースで15年間活躍した後、1980年のシーズンから3年、巨人でプレーした。今よりも日本とアメリカの距離が遠く、情報はほとんどない時代のことだったから、それはもう、ホワイトにとってカルチャーショックの連続だった。

 巨人のほうも外国人選手を受け入れるようになって歴史が浅かったので、不手際の連続だったのだ。六本木の一等地に高級なマンションを用意したのだが、英語で「マンション」といえば「豪邸」という意味だったから、
「マンション? これは単なるコンドミニアムではないか……」
 と到着するなり、ホワイトをがっかりさせた。

 しかし、何よりもショックを受けたのは、巨人が専用練習場にしていた多摩川グラウンドを見たときだった。
「まったく芝生がない、土だらけのグラウンドにほこりが舞っていた。あれは今でも忘れられない。本当にプロがこんなところで練習するのか、と悲しくなってしまったんだ」

10歳から時給50セントでアルバイト

 ホワイトの生まれ故郷はロサンゼルス。裕福な家庭で育ったわけではなかったが、遊び場所やグラウンドには不自由しない環境にあり、野球といえば芝生のカーペットの上でボールを追うものだという観念が強かったのだ。

 白人の父親マーカスと黒人の母親のマーガレットをもち、3人兄弟の長男ということもあって、幼いころから責任感と使命感はおう盛だった。7歳のときに親が離婚して、母親はレストランのウェイトレスとして働き始めた。が、もともと体が丈夫ではなかった。高血圧症で無理が利かなかったから、生活保護に頼り、ホワイトは10歳のときからクリーニング屋や空港で働き始めた。
「そのときの時給が50セント。忘れられないよ(笑)。毎日4時間アルバイトで働かせてもらい、2ドルの収入になった。これで夕食を買うんだ」

 つらいアルバイトではなく、山積みになっている古い雑誌をかきわけ、野球の記事やスター選手たちの自伝ものを読むのが楽しみだった。カージナルスのスタン・ミュージアルがお気に入りだったから、週末のリトルリーグだけではなく、草野球では大人も一緒になってスター選手になりきってプレーした。
「僕は当然スタン・ミュージアルだった。だから本当は右利きなのに左打席に入り、結局それがスイッチヒッターにつながったんだ」

 本を読むのが好きだったから、学業成績もよく、クラスメートより一足早く高校の単位を取り終えてしまった。地元のコンプトン・カレッジで美術を専攻しながら、各大学からスポーツ奨学金の申し込みがあるのを待っている状態だったが、ヤンキースから熱心に勧誘されると心を動かされた。

「大リーガーになったら家族を楽にできると思ったからね」

日本での適応能力が成功の一番の理由

 高校までは二塁か、遊撃を守る内野手が主だったが、マイナー時代には外野も守った。68年からはまず代打専門でメジャーに定着。左右に打ち分けるクレバーな打撃が光っていて、ジョー・ペピトーン(後にヤクルト入り)の骨折でレギュラーの座をつかんだ。

 ヤンキースでは77年と78年にワールドシリーズに出場し、とくに78年は打率3割5分と打ちまくり、シリーズMVP候補に挙げられるほど活躍した。

 巨人では開幕戦初安打が初ホームランという好スタートを切った。ホエールズのエース、平松政次に4回までパーフェクトに抑えられていたのだが、5回2死から4番の王貞治がホームラン、5番のホワイトがこれに続くアベック・ホームラン。さらに9回にもホワイトは2号ホームランを放ち、長嶋茂雄監督と巨人ファンをしびれさせた。

「私が日本で成功できた一番の理由は、適応能力があったことだと思う。それでも2カ月かかったけどね。力だけでは日本でもアメリカでも成功することなんかできない。どちらが大変かと言えば、メジャーに適応するほうが大変じゃないかな。30球団もあるからピッチャーの癖を覚えるのも大変だし、カナダとフロリダじゃ気候も球場もまったく違う。ヒデキは本当によく頑張っていると思うよ」

ミッキー・マントルの前を打ち、王貞治の後ろを打った

 来日1年目にホワイトは打率と安打数で、チーム最高の数字を残した。が、巨人は3位。最終戦を終えた翌日、帰国する成田空港ロビーで、長嶋監督解任を知った。

 来日2年目は藤田元司監督の指揮下で、ヘッドコーチに牧野茂、助監督に王というトロイカ体制となり、乱数表やサインプレーが使用される精密というか、複雑な野球に一変してしまったため、ホワイトはまたまた1から「適応」に苦労する羽目になった。それでもチームへの貢献度は高く、日本シリーズへ巨人を導き、日本ハムと戦って4勝2敗で制した。

 3年目のシーズンは首脳陣との確執が決定的なものとなり、ベンチを暖める時間が長い寂しいものとなったが、
「私はミッキー・マントルの前で打ち、それから王の後にも打った。もちろん日本に行ったことを後悔なんかしていないよ。すばらしい体験をさせてもらった」

 いつの日か、松井秀も一塁コーチャースボックスでそんなことを語る日がくるのだろうか。
スポーツナビ 梅田香子 2004/09/10
松井秀、本塁打量産の裏側
梅田香子の『松井秀喜 メジャー交友録 2004』 VOL.13
「マッサージ屋さん」の意味合い強い日本のトレーナー

 「マネージャー」と言えば、日本のプロ野球では雑用や移動の責任者を指すし、メジャーではずばり「監督」のことだ。「トレーナー」と言えば、最近はだいぶ変わってきているとはいえ、日本ではまだまだ「マッサージ屋さん」という意味合いが強い。

 各球団のトレーナーたちは本拠地での試合はもちろん、遠征先でも各選手の部屋を回り、もみもみとマッサージをする。選手だけではなく、ときには監督までマッサージしなければならないから、試合後が終わった後、深夜まで彼らの仕事は続く。

 大学出は少なく、選手経験者からの転身も珍しくない。マッサージの専門学校に通うなどしてテクニックを身に付け、鍼灸(しんきゅう)の免許も大抵は持っている。メジャーリーグとはだいぶ違う。彼らはあくまで「アスレティック・トレーナー」なので、大学で学び、インターンを経て、免許を取得しているのだ。

「マッサージはできません」
 と明言するトレーナーも数多く、鍼灸などとんでもない。インディアンズの多田野投手も初先発のときは、千葉からマッサージ師を呼び寄せたほどだ。10年ぐらい前までは米国ではまったく東洋医学を信用しないトレーナーやチームドクターが多く、一度体験した選手のほうが気にいってしまい、内緒ではり治療をしてもらっていたぐらいだ。

クレメンスの絶大な信頼を勝ち取ったコンディショニング・コーチ

 ヤンキースのジェフ・マンゴールドにしても正式な肩書きは、「コンディショニング・コーチ」であり、「強化コーチ」であり、トレーナーとしてはエリート街道を歩んできた。セント・アンブローズ大学で学位を取った後、ネブラスカ大やフロリダ大で経験を積み、『フェーズ4・フィットネス』という自分の会社を立ち上げた。ヤンキースでアシスタント・コーチを勤めた後、1993年からメッツに引き抜かれた。が、97年からは晴れてヤンキースのチーフ・トレーナーに就任。ロジャー・クレメンスやポール・オニールから絶大な信頼を勝ち取った。シーズン中はヤンキースに同行し、オフはやはりヤンキースの選手を中心に、トレーニングに明け暮れている。

「オフの筋力トレーニングは絶対に必要不可欠だと思う。やりすぎは禁物だけど、適度は運動は続けないと、いったん休んだ筋肉を元に戻すのに大変な負担が掛かってしまうから、ケガにつながりやすい」
 とオフのトレーニングの重要性について話す。

 マンゴールドは、今季の松井秀について次のように語った。
「ホームランの数が増えたからって、僕は驚かないな。日本にいたときから彼は筋力トレーニングをやっていたけれど、去年はシーズン半ばからちょっとダンベルの重さや回数を変えてみたんだ。だいたい効果が現れるのは1年後だから、打球の飛距離が伸びたのは当然のことなんだよ」

トレーナー業の日米間ギャップは縮まっている

 日本人のアスリートたちは野球はもちろん、バスケットボールもアメフトもマラソンもスケートも、北米に滞在しているときはマッサージ探しに苦労している。体に疲れを残しているとケガにつながりやすい。体が資本なのだから、彼らは食事と同じぐらいマッサージには気を使っているし、投資も惜しまない。

 ところが、日本人でも何人かに1人は、マッサージをあまり必要としない体質を持っていたりする。松井秀もそうだ。日本にいたときから、ほとんど必要としていなかった。とはいえ、筋肉をほぐす必要を感じていないわけではないようで、ヤンキースの誰より頻繁にトレーナー室にあるジャグジーを愛用している。もっとも日本式の風呂がコンドミニアムにもホテルにもないから、単にジャグジーで代用しているという説も有力なのだが。

 それにホワイトソックスの高津臣吾投手も言っていたが、ヤクルトの海老名貴勇トレーナーといい、最近は日本のプロ野球でもアメリカ式のコンディショニングを導入しているから、
「やっていることは同じだから、戸惑いがまったくなかった」

 立花龍司トレーナーもメッツに在籍していたとき、
「知っていることばかりで、新しく学ぶことはあまりなかった」
 と語っていたから、トレーナー業は日米間のギャップは確実に縮まりつつあるようだ。

日本人監督が誕生する日も近い!?

 と言うのも、松井秀の古巣、巨人の鴇田忠男トレーナーこそが大リーグ方式の草分け的に存在なのだ。苦労に苦労を重ねてグリーンカードをとり、90年前半をドジャースの職員としてすごし、長嶋茂雄監督が2度めの巨人の監督となると同時に日本へ戻った。以前、スポーツ医学の権威といわれる人たちは、ドジャースのフランク・ジョーブ博士を筆頭に東洋医学をまったくといっていいほど信用していなかった。マッサージやはりで軽減できる痛みも、ともかくどんどん外科手術に踏み切ってしまう。長いリハビリを経て無事に復帰できたらいい。けれども、半数以上がそのまま引退を余儀なくされてしまい、消えていったのである。

 ところが、ある時期からジョーブ博士は考えをガラリと変えてしまい、
「これは鴇田のところへ行って、マッサージをしてもらえ」
 と診断するようになり、誰よりも鴇田トレーナーが驚いた。

 今ではロサンゼルス・レイカーズの選手にしても、台湾人のはり師のところへ行くし、東洋医学を頭ごなしに否定する風潮は激減した。「朝鮮ニンジン」を愛用している大リーガーも多い。マリナーズにもエクスポズにも日本人のトレーナーがいて、選手たちからは絶大な信頼を集めている。いつの日か、日本人の大リーグ監督が誕生する日もくるのだろうか? そうなるとやはり、松井秀、イチロー、長谷川滋利あたりが有力候補になりそうだ。
Number Web MLB Column from USA 2004/09/10
松井秀喜の大間違い。
 日本では「タイムリー・ヒット」と言うが、アメリカでは「クラッチ・ヒット(clutch hit)」と言うのが普通である。また、「クラッチ・ヒッター(clutch hitter)」は、「クラッチ・ヒット」をしょっちゅう打つ「勝負強い打者」の意味だが、決して「タイムリー・ヒッター」とは呼ばないので注意が必要だ。

 さて、勝負強さを現す指標としてもっともよく使われる数字は、「得点圏に走者を置いたときの打率(runners in scoring position の頭文字をとってRISPと略される)」であるが、これで見ると、ア・リーグ1位はレッドソックスの2割9分4厘(8月30日現在)であり、錚々たる顔ぶれのスーパースターで「史上最強打線」を編成したはずのヤンキースは2割7分6厘とリーグ5位にしか過ぎない。しかも、「アウトカウントが2死のときのRISP」は2割3分2厘(リーグ12位)と、数字は、ヤンキースの打線が意外とチャンスに弱いことを示している。

 チャンスに弱いヤンキース打線を象徴するのが、アレックス・ロドリゲスだ。RISP2割1分4厘は、(チャンスでの打席数100以上の選手中)リーグ77位と、「並み」にも満たない成績であるだけでなく、ヤンキースのレギュラーの中でも最低の数字なのである。ロドリゲスについては、「ニューヨークのプレッシャーの下で活躍できるか」ということがシーズン前に危惧されたが、今の所、「しっかりプレッシャーに負けている」と言ってよいだろう。最近は、チャンスで凡退する度にヤンキー・スタジアムで激しいブーイングを浴びるようになったが、年俸2170万ドルとメジャー一の高給を取っているのだからこれも仕方あるまい。

 では、チャンスに弱いヤンキース打線を支えているのは誰かといえば、これは、ゲリー・シェフィールド(RISP3割2分8厘)と松井(同じく3割0分8厘)の二人につきる。しかも、松井の場合、本人が「不本意だった」とした昨シーズンでさえもRISP3割3分5厘はチーム1位だったのだから、その勝負強さはを特筆に価する。

 こうした松井の「勝負強さ」は、当地のヤンキース・ファンにも、当然、明瞭に認識されている。たとえば、ヤンキース専属アナウンサーのマイケル・ケイが、ラジオ聴取者を対象に「ワールドシリーズ第7戦終盤、ここで打てば同点というチャンスに打席に立たせたいのは誰?」というアンケート調査を行ったところ、「是非松井に打たせたい」という答えががダントツの1位を占め、同率2位のシェフィールドとジーターを大きく引き離したのである。昨季ア・リーグ選手権第7戦8回裏にペドロ・マルティネスから放った痛烈な二塁打を始めとして、松井が放った劇的ヒットの数々が、ヤンキース・ファンの脳裏に鮮烈な印象を焼き付けたからこそのアンケート結果に他ならないのである。

 ちなみに、ケイが、「ファンがクラッチ・ヒッターとしての松井をどれだけ頼りにしているか」というこの調査結果を伝えたところ、松井は「No, no, they must be wrong(ファンの間違いに違いない)」と答えたそうである。松井の奥ゆかしい性格が言わせた言葉なのだろうが、RISPを見ても明らかなように、数字はファンが正しいことをしっかり証明している。

 ……松井君、間違っているのは君の方なのだぞ。