スポーツナビ 梅田香子
2004/06/28
サブウェーシリーズで二人の松井を気遣う男
梅田香子の『松井秀喜 メジャー交友録 2004』 VOL.8
梅田香子の『松井秀喜 メジャー交友録 2004』 VOL.8
ジアンビー「ヒデキは大舞台に強い」
「ヒデキはここぞという大舞台には本当に強い。ここ数日はもうプレーオフみたいなムードだったからね。こういう“サブウェーシリーズ”のような歴史的な場面に自分も居合わせることができて、ヤンキースにきて本当に良かった、としみじみ感動したよ」
と試合後に語ったのは、ジェイソン・ジアンビー。今年のサブウェーシリーズは、25日(現地時間)が雨で流れたため、26日に初戦が行われた。松井秀喜はこの試合、4回に14号ソロを放ったが、5番に入ったジアンビーは無安打。ヤンキースも3-9で初戦を落とした。
ジアンビーはロサンゼルス郊外で育ったにもかかわらず、父親の影響で子供のときから熱狂的なヤンキース・ファンだった。
「南カルフォルニア育ちなのに、どうして熱烈なヤンキーファンなのかって? 僕の親父世代では珍しいことではないよ。1950年代と60年代のヤンキースは毎年のようにワールドシリーズにでていたから、まさに“アメリカズ・チーム”だった」
父のジョンはミッキー・マントルの大ファンだったから、二人の息子たちを左打ちの育てたのである。
「僕は決して器用なタイプではなかったから、ミッキー・マントルみたいにスイッチヒッターにはなれなかった。右打席に立つと、なんだか怖いんだ」
リトルリーグでの背番号はマントルと同じ7番。もちろんヤンキースでは永久欠番なので、その代わりに足したら7になる数字を選んだ。
バルセロナ五輪では全日本と対戦!
ロングビーチ州立大にいた91年6月には、日米大学野球選手権で来日している。神宮球場や仙台宮城球場で試合を行い、2年生ながら「3番・サード」でスタメン出場を果たした。
その翌年、野球が初めてオリンピックの正式種目に認められ、ジアンビーはノーマー・ガルシアパーラやチャーリー・ジョンソンと共に8月、スペインのバルセロナへ飛んだ。
米国はこの五輪、予選でも日本に敗戦を強いられたが、3位決定戦でも日本とぶつかった。
1回表、二塁打で出塁した走者を置いて、一塁を守っていたジアンビーがお手玉。小久保裕紀の活躍もあって、日本は銅メダルを獲得した。米国は4位に終わったが、ジアンビーは打率2割9分6厘、9得点という、まずまずの出来だった。
「日本の野球はレベルが高かった。選手個人個人の資質もさることながら、フォーメーション・プレーといい、チームとしてもよく鍛えられていた」
元チームメートのマグワイアとは大の仲良し
アスレチックス入りすると、マーク・マグワイアとはまるで実の兄弟のように、親しく打ち解けた仲となった。
バッティング論を交わしても楽しくて時間を忘れたし、離婚暦のあるマグワイアに相談に乗ってもらい、ジアンビー自身も離婚手続きのため、弁護士を紹介してもらったこともある。
ジアンビーは最初の妻となったデナとの間に子供はいなかったのだが、“スラッガー”と名付けたシェパードを、目の中に入れても痛くないほどかわいがっていた。絶対に手放したくなかったし、それは元妻の方も同じ気持ちだったから、それぞれの弁護士を交えてもめた。
最終的に人間の子供のように、ジェイソンは春と夏、デナは冬と春季トレーニング期間中、交代でスラッガーを育てるということで、離婚は97年、合意に至ったのである。
松井秀とは意外な共通点が…
前世や守護霊を見ることができる霊脳セラピストのアズラ・シャフィ=スキャグリアリニィを紹介してくれたのも、マグワイアだった。もともとマグワイアは元チームメートのロン・ダーリング投手から、
「ノストラダムスのような女性だ」
と彼女を紹介されて、当時アスレチックスの選手たちはほとんどがハマっていた。
未来予知がよく当たるので、一時期はジェイソンも1日一度のペースで電話でセラピーを受けていた。
99年、トロントのスカイドームでの試合前、普段はめったにネガティブなことを言わないアズラが、
「今日だけはトニー・フィリップに試合を休んでと伝えて。とてもイヤな予感がする」
とジェイソンに言った。
ジェイソンは迷った揚げ句、結局フィリップにそう伝えたところ、一笑に伏されてしまった。が、フィリップはその試合で足を骨折してしまったのだ。
日本はおそらく、オウム真理教のような事件が続いたため、仕方がないのだろうけれど、そういう超心理学や宗教に対して頭ごなしに「うさんくさい」と決めつけたがる傾向が強い。しかし、実際は勝負事にかかわっているせいなのか、日本でもアメリカでも何らかの宗教や霊脳の世界にハマっているアスリートや家族というのは、案外と多いのだ。筆者は無宗教なのだが、選手を通して長年いろいろ見聞きしてきて、中には明らかにウソなものもあったし、本物と信じられるものもあった。この点は国家試験がないだけで、医者や弁護士とやや似通っていているように思う。
松井秀の祖母は霊感の強い人で、父親も宗教家として後を継いでいるから、特殊と言える家庭環境で育ったと言えるのかもしれない。日本だと週刊誌ネタのような話題になってしまうのだが、ジアンビーは真っすぐに受け止め、面白がり、興味を持っていた。
「へえ、ヒデキはそういう環境で育ったのか。でも、驚かないな。なんだか分かるような気がするよ。オーラを感じるもの。おばあさんに会ってみたかったな」
子供の頃からの夢だったヤンキース入りがかない、クリチャンと再婚したジェイソンは、以前ほどセラビーに電話しなくなってしまった。
「今でも信じていないわけじゃないよ。でも、毎日電話なんてアズラからも“良くない”と言われていたし、セラピーに頼り過ぎたくない。それより家族と自分自身を信じるという原点に返りたいと思っているんだ」
「ヒデキとカズオはただ者じゃない」
日本には何かと縁があるようで、2002年の日米野球では松井秀と同じ試合で、ホームランを打っている。両松井とも同じエージェント、アーン・テーラムと契約しているが、もともと彼を推薦したのはジアンビーだった。そのせいでもないだろうが、ジアンビーの気配りはかなり細やかで、松井秀が昨年のホーム開幕戦でホームランを打ったときも、松井稼が今年の開幕戦で初打席ホームランを打ったときも、
「あれをやると相手ピッチャーのマークが厳しくなるからなあ。オレの二の舞にはなるなよ」
と気遣っていた。
ジアンビー自身、ヤンキース移籍1年目、オープン戦の初戦でいきなり2本塁打。ところが、開幕してしばらく不振が続き、ヤンキー・スタジアムでブーイングを浴びるはめになったのだ。
「これだけ“サブウェーシリーズ”だ、“ゴジラ対カズ”だと騒がれているんだから、二人ともプレッシャーは相当なものだろう。そうじゃなくてもニューヨークのチームっていうのは、ほかとはまったく違うプレッシャーがあるんだし。二人ともやはりただ者じゃない。日本で見たときから分かっていたことだから、驚かないけどね」
「ヒデキはここぞという大舞台には本当に強い。ここ数日はもうプレーオフみたいなムードだったからね。こういう“サブウェーシリーズ”のような歴史的な場面に自分も居合わせることができて、ヤンキースにきて本当に良かった、としみじみ感動したよ」
と試合後に語ったのは、ジェイソン・ジアンビー。今年のサブウェーシリーズは、25日(現地時間)が雨で流れたため、26日に初戦が行われた。松井秀喜はこの試合、4回に14号ソロを放ったが、5番に入ったジアンビーは無安打。ヤンキースも3-9で初戦を落とした。
ジアンビーはロサンゼルス郊外で育ったにもかかわらず、父親の影響で子供のときから熱狂的なヤンキース・ファンだった。
「南カルフォルニア育ちなのに、どうして熱烈なヤンキーファンなのかって? 僕の親父世代では珍しいことではないよ。1950年代と60年代のヤンキースは毎年のようにワールドシリーズにでていたから、まさに“アメリカズ・チーム”だった」
父のジョンはミッキー・マントルの大ファンだったから、二人の息子たちを左打ちの育てたのである。
「僕は決して器用なタイプではなかったから、ミッキー・マントルみたいにスイッチヒッターにはなれなかった。右打席に立つと、なんだか怖いんだ」
リトルリーグでの背番号はマントルと同じ7番。もちろんヤンキースでは永久欠番なので、その代わりに足したら7になる数字を選んだ。
バルセロナ五輪では全日本と対戦!
ロングビーチ州立大にいた91年6月には、日米大学野球選手権で来日している。神宮球場や仙台宮城球場で試合を行い、2年生ながら「3番・サード」でスタメン出場を果たした。
その翌年、野球が初めてオリンピックの正式種目に認められ、ジアンビーはノーマー・ガルシアパーラやチャーリー・ジョンソンと共に8月、スペインのバルセロナへ飛んだ。
米国はこの五輪、予選でも日本に敗戦を強いられたが、3位決定戦でも日本とぶつかった。
1回表、二塁打で出塁した走者を置いて、一塁を守っていたジアンビーがお手玉。小久保裕紀の活躍もあって、日本は銅メダルを獲得した。米国は4位に終わったが、ジアンビーは打率2割9分6厘、9得点という、まずまずの出来だった。
「日本の野球はレベルが高かった。選手個人個人の資質もさることながら、フォーメーション・プレーといい、チームとしてもよく鍛えられていた」
元チームメートのマグワイアとは大の仲良し
アスレチックス入りすると、マーク・マグワイアとはまるで実の兄弟のように、親しく打ち解けた仲となった。
バッティング論を交わしても楽しくて時間を忘れたし、離婚暦のあるマグワイアに相談に乗ってもらい、ジアンビー自身も離婚手続きのため、弁護士を紹介してもらったこともある。
ジアンビーは最初の妻となったデナとの間に子供はいなかったのだが、“スラッガー”と名付けたシェパードを、目の中に入れても痛くないほどかわいがっていた。絶対に手放したくなかったし、それは元妻の方も同じ気持ちだったから、それぞれの弁護士を交えてもめた。
最終的に人間の子供のように、ジェイソンは春と夏、デナは冬と春季トレーニング期間中、交代でスラッガーを育てるということで、離婚は97年、合意に至ったのである。
松井秀とは意外な共通点が…
前世や守護霊を見ることができる霊脳セラピストのアズラ・シャフィ=スキャグリアリニィを紹介してくれたのも、マグワイアだった。もともとマグワイアは元チームメートのロン・ダーリング投手から、
「ノストラダムスのような女性だ」
と彼女を紹介されて、当時アスレチックスの選手たちはほとんどがハマっていた。
未来予知がよく当たるので、一時期はジェイソンも1日一度のペースで電話でセラピーを受けていた。
99年、トロントのスカイドームでの試合前、普段はめったにネガティブなことを言わないアズラが、
「今日だけはトニー・フィリップに試合を休んでと伝えて。とてもイヤな予感がする」
とジェイソンに言った。
ジェイソンは迷った揚げ句、結局フィリップにそう伝えたところ、一笑に伏されてしまった。が、フィリップはその試合で足を骨折してしまったのだ。
日本はおそらく、オウム真理教のような事件が続いたため、仕方がないのだろうけれど、そういう超心理学や宗教に対して頭ごなしに「うさんくさい」と決めつけたがる傾向が強い。しかし、実際は勝負事にかかわっているせいなのか、日本でもアメリカでも何らかの宗教や霊脳の世界にハマっているアスリートや家族というのは、案外と多いのだ。筆者は無宗教なのだが、選手を通して長年いろいろ見聞きしてきて、中には明らかにウソなものもあったし、本物と信じられるものもあった。この点は国家試験がないだけで、医者や弁護士とやや似通っていているように思う。
松井秀の祖母は霊感の強い人で、父親も宗教家として後を継いでいるから、特殊と言える家庭環境で育ったと言えるのかもしれない。日本だと週刊誌ネタのような話題になってしまうのだが、ジアンビーは真っすぐに受け止め、面白がり、興味を持っていた。
「へえ、ヒデキはそういう環境で育ったのか。でも、驚かないな。なんだか分かるような気がするよ。オーラを感じるもの。おばあさんに会ってみたかったな」
子供の頃からの夢だったヤンキース入りがかない、クリチャンと再婚したジェイソンは、以前ほどセラビーに電話しなくなってしまった。
「今でも信じていないわけじゃないよ。でも、毎日電話なんてアズラからも“良くない”と言われていたし、セラピーに頼り過ぎたくない。それより家族と自分自身を信じるという原点に返りたいと思っているんだ」
「ヒデキとカズオはただ者じゃない」
日本には何かと縁があるようで、2002年の日米野球では松井秀と同じ試合で、ホームランを打っている。両松井とも同じエージェント、アーン・テーラムと契約しているが、もともと彼を推薦したのはジアンビーだった。そのせいでもないだろうが、ジアンビーの気配りはかなり細やかで、松井秀が昨年のホーム開幕戦でホームランを打ったときも、松井稼が今年の開幕戦で初打席ホームランを打ったときも、
「あれをやると相手ピッチャーのマークが厳しくなるからなあ。オレの二の舞にはなるなよ」
と気遣っていた。
ジアンビー自身、ヤンキース移籍1年目、オープン戦の初戦でいきなり2本塁打。ところが、開幕してしばらく不振が続き、ヤンキー・スタジアムでブーイングを浴びるはめになったのだ。
「これだけ“サブウェーシリーズ”だ、“ゴジラ対カズ”だと騒がれているんだから、二人ともプレッシャーは相当なものだろう。そうじゃなくてもニューヨークのチームっていうのは、ほかとはまったく違うプレッシャーがあるんだし。二人ともやはりただ者じゃない。日本で見たときから分かっていたことだから、驚かないけどね」