Matsui's Space 松井秀喜ファンサイト

Columnコラム

スポーツナビ 梅田香子 2004/06/28
サブウェーシリーズで二人の松井を気遣う男
梅田香子の『松井秀喜 メジャー交友録 2004』 VOL.8
ジアンビー「ヒデキは大舞台に強い」

「ヒデキはここぞという大舞台には本当に強い。ここ数日はもうプレーオフみたいなムードだったからね。こういう“サブウェーシリーズ”のような歴史的な場面に自分も居合わせることができて、ヤンキースにきて本当に良かった、としみじみ感動したよ」
 と試合後に語ったのは、ジェイソン・ジアンビー。今年のサブウェーシリーズは、25日(現地時間)が雨で流れたため、26日に初戦が行われた。松井秀喜はこの試合、4回に14号ソロを放ったが、5番に入ったジアンビーは無安打。ヤンキースも3-9で初戦を落とした。

 ジアンビーはロサンゼルス郊外で育ったにもかかわらず、父親の影響で子供のときから熱狂的なヤンキース・ファンだった。
「南カルフォルニア育ちなのに、どうして熱烈なヤンキーファンなのかって? 僕の親父世代では珍しいことではないよ。1950年代と60年代のヤンキースは毎年のようにワールドシリーズにでていたから、まさに“アメリカズ・チーム”だった」

 父のジョンはミッキー・マントルの大ファンだったから、二人の息子たちを左打ちの育てたのである。
「僕は決して器用なタイプではなかったから、ミッキー・マントルみたいにスイッチヒッターにはなれなかった。右打席に立つと、なんだか怖いんだ」
 リトルリーグでの背番号はマントルと同じ7番。もちろんヤンキースでは永久欠番なので、その代わりに足したら7になる数字を選んだ。

バルセロナ五輪では全日本と対戦!

 ロングビーチ州立大にいた91年6月には、日米大学野球選手権で来日している。神宮球場や仙台宮城球場で試合を行い、2年生ながら「3番・サード」でスタメン出場を果たした。
 その翌年、野球が初めてオリンピックの正式種目に認められ、ジアンビーはノーマー・ガルシアパーラやチャーリー・ジョンソンと共に8月、スペインのバルセロナへ飛んだ。

 米国はこの五輪、予選でも日本に敗戦を強いられたが、3位決定戦でも日本とぶつかった。
 1回表、二塁打で出塁した走者を置いて、一塁を守っていたジアンビーがお手玉。小久保裕紀の活躍もあって、日本は銅メダルを獲得した。米国は4位に終わったが、ジアンビーは打率2割9分6厘、9得点という、まずまずの出来だった。

「日本の野球はレベルが高かった。選手個人個人の資質もさることながら、フォーメーション・プレーといい、チームとしてもよく鍛えられていた」

元チームメートのマグワイアとは大の仲良し

 アスレチックス入りすると、マーク・マグワイアとはまるで実の兄弟のように、親しく打ち解けた仲となった。
 バッティング論を交わしても楽しくて時間を忘れたし、離婚暦のあるマグワイアに相談に乗ってもらい、ジアンビー自身も離婚手続きのため、弁護士を紹介してもらったこともある。

 ジアンビーは最初の妻となったデナとの間に子供はいなかったのだが、“スラッガー”と名付けたシェパードを、目の中に入れても痛くないほどかわいがっていた。絶対に手放したくなかったし、それは元妻の方も同じ気持ちだったから、それぞれの弁護士を交えてもめた。

 最終的に人間の子供のように、ジェイソンは春と夏、デナは冬と春季トレーニング期間中、交代でスラッガーを育てるということで、離婚は97年、合意に至ったのである。

松井秀とは意外な共通点が…

 前世や守護霊を見ることができる霊脳セラピストのアズラ・シャフィ=スキャグリアリニィを紹介してくれたのも、マグワイアだった。もともとマグワイアは元チームメートのロン・ダーリング投手から、
「ノストラダムスのような女性だ」
 と彼女を紹介されて、当時アスレチックスの選手たちはほとんどがハマっていた。

 未来予知がよく当たるので、一時期はジェイソンも1日一度のペースで電話でセラピーを受けていた。
 99年、トロントのスカイドームでの試合前、普段はめったにネガティブなことを言わないアズラが、
「今日だけはトニー・フィリップに試合を休んでと伝えて。とてもイヤな予感がする」
 とジェイソンに言った。

 ジェイソンは迷った揚げ句、結局フィリップにそう伝えたところ、一笑に伏されてしまった。が、フィリップはその試合で足を骨折してしまったのだ。

 日本はおそらく、オウム真理教のような事件が続いたため、仕方がないのだろうけれど、そういう超心理学や宗教に対して頭ごなしに「うさんくさい」と決めつけたがる傾向が強い。しかし、実際は勝負事にかかわっているせいなのか、日本でもアメリカでも何らかの宗教や霊脳の世界にハマっているアスリートや家族というのは、案外と多いのだ。筆者は無宗教なのだが、選手を通して長年いろいろ見聞きしてきて、中には明らかにウソなものもあったし、本物と信じられるものもあった。この点は国家試験がないだけで、医者や弁護士とやや似通っていているように思う。

 松井秀の祖母は霊感の強い人で、父親も宗教家として後を継いでいるから、特殊と言える家庭環境で育ったと言えるのかもしれない。日本だと週刊誌ネタのような話題になってしまうのだが、ジアンビーは真っすぐに受け止め、面白がり、興味を持っていた。

「へえ、ヒデキはそういう環境で育ったのか。でも、驚かないな。なんだか分かるような気がするよ。オーラを感じるもの。おばあさんに会ってみたかったな」

 子供の頃からの夢だったヤンキース入りがかない、クリチャンと再婚したジェイソンは、以前ほどセラビーに電話しなくなってしまった。
「今でも信じていないわけじゃないよ。でも、毎日電話なんてアズラからも“良くない”と言われていたし、セラピーに頼り過ぎたくない。それより家族と自分自身を信じるという原点に返りたいと思っているんだ」

「ヒデキとカズオはただ者じゃない」

 日本には何かと縁があるようで、2002年の日米野球では松井秀と同じ試合で、ホームランを打っている。両松井とも同じエージェント、アーン・テーラムと契約しているが、もともと彼を推薦したのはジアンビーだった。そのせいでもないだろうが、ジアンビーの気配りはかなり細やかで、松井秀が昨年のホーム開幕戦でホームランを打ったときも、松井稼が今年の開幕戦で初打席ホームランを打ったときも、
「あれをやると相手ピッチャーのマークが厳しくなるからなあ。オレの二の舞にはなるなよ」
 と気遣っていた。

 ジアンビー自身、ヤンキース移籍1年目、オープン戦の初戦でいきなり2本塁打。ところが、開幕してしばらく不振が続き、ヤンキー・スタジアムでブーイングを浴びるはめになったのだ。

「これだけ“サブウェーシリーズ”だ、“ゴジラ対カズ”だと騒がれているんだから、二人ともプレッシャーは相当なものだろう。そうじゃなくてもニューヨークのチームっていうのは、ほかとはまったく違うプレッシャーがあるんだし。二人ともやはりただ者じゃない。日本で見たときから分かっていたことだから、驚かないけどね」
スポーツナビ 2004/06/25
サブウェーシリーズの名場面をプレーバック!
遺恨を残したワールドシリーズのNY対決

 1997年から始まったサブウェーシリーズ。2003年までの対戦成績は、ヤンキースが24勝12敗と大きく勝ち越している。両者の対決は、毎年多くの名場面を生み出しているが、中でも語り継がれるのが、00年に実現したワールドシリーズという頂上決戦でのサブウェーシリーズだ。

 第1戦をヤンキースが延長サヨナラ勝ちして迎えた第2戦。ヤンキースの先発マウンドに上がったロジャー・クレメンスは初回、簡単に2死を取った後、打席にメッツの主砲マイク・ピアザを迎えた。クレメンスの投じたストレートをピアザがファウル。この際に折れたバットがクレメンスめがけて飛んだ。クレメンスはこれをうまくキャッチすると、何と一塁へ走りかけたピアザに向かって投げつけたのだ。ピアザが怒ってクレメンスに詰め寄ると、両軍の選手が一斉にグラウンドに飛び出して、一触即発の事態に。この“事件”以降、クレメンスvsピアザは「遺恨対決」として、注目を集めるようになる。結局、この試合も物にしたヤンキースが、4勝1敗でこの歴史的なシリーズを制した。

新庄vs松井秀もサブウェーシリーズで実現

 昨年は、日本人にとっては忘れられないサブウェーシリーズとなった。ヤンキースの松井秀喜とメッツの新庄剛志という、日本人選手対決が実現したのだ。松井は全6戦で、満塁本塁打を含む3本塁打を放つなど、23打数12安打10打点と大爆発。一方の新庄も、シェイ・スタジアムでの初戦、1安打に加え、守備でも好プレーを披露すると、ヤンキー・スタジアム初戦でも2安打。松井に劣らない活躍を見せた。新庄は、ダブルヘッダーとなった第4戦でスタメンを外れると、第5戦を前に3A行きを通告されてしまうが、両者ともサブウェーシリーズの舞台に、しっかりとその名を刻んだ。

 今年のシリーズは、史上最強打線を誇るヤンキース相手に、メッツ投手陣がどこまで踏ん張れるかが、カギを握る。また何といっても注目は、松井秀喜と松井稼頭央のダブル松井対決。日本でも、リーグが分かれていたため、オールスターを除けば、2人の対戦は日本シリーズでしか実現しなかっただけに、期待は膨らむ。果たして、サブウェーシリーズという最高の舞台で、両者はどのようなプレーを披露してくれるのだろうか。
スポーツナビ 山脇明子 2004/06/20
松井秀と野茂、2人で刻んだ歴史と新たな発見
人気チーム同士の対戦でスタンドは超満員に

 1981年のワールドシリーズ以来、23年ぶりの対決となったドジャース対ヤンキース。今でもプレーオフ、ワールドシリーズの常連であるヤンキースに対し、ドジャースはここ数年、すっかり勢いを失っているが、やはり伝統ある人気チームの対決。ドジャー・スタジアムは、シリーズ1日目に同スタジアムの史上最多観客動員数を記録するなど、多くの観客で埋め尽くされた。

 興味深かったのは、ロサンゼルスに来る前に戦ったダイヤモンドバックスのバンクワン・ボールパークで、ヤンキースファンが非常に多かったのに対し、ドジャー・スタジアムはほとんどがドジャースファンであったこと。ダイヤモンドバックスは、2001年のワールドシリーズでヤンキースと戦ったばかりであるにもかかわらず、もう20年以上も戦っていないロサンゼルスのファンの方が、ヤンキースに対し強い敵対心を持っているのだ。

 ヤンキースの選手のスターティングラインアップがアナウンスされると、大きなブーイングが起こり、ドジャースの時には大歓声が沸く。スタジアムはまるで、プレーオフを戦うかのような熱気に包まれていた。

 そこで、ドジャースの野茂英雄投手とヤンキースの松井秀喜外野手の戦いが行われた。6月19日(現地時間)、同シリーズの2日目で野茂が先発登板し、日本でもなかった公式戦での2人の対決が実現したのだ。

松井だけでなく野茂にも本塁打が…

 立ち上がりに苦しんだ野茂。初回、1点を奪われた後、なおも2死一、二塁とされ、打席には松井。松井は2ストライクから外角に落ちたフォークを体勢を崩しながらもとらえた。すると打球は右翼ポール際に入り3ラン。スタンドからどよめきが起こる中、松井は黙々とダイヤモンドを回り、野茂は無表情のまま立っていた。

 しかし野茂は、松井の第2、第3打席、ともにフォークで空振り三振に仕留め、やり返した。驚くことに、野茂は5回の打席で、自ら本塁打まで放ったのだ。しかもその打球は、松井が守るレフトに飛んだ。ボールを追いかける松井がその足を止め、レフト後方にあるブルペンに入っていく打球を見送ると、野茂は少し走塁のスピードを緩めて、ダイヤモンドを1周した。

 試合は結局、ヤンキースが勝利。野茂は2回以降、7回までをわずか1安打に抑えたが、松井に打たれた初回の本塁打が最後まで響いた。この試合は、日本人が日本人から本塁打を放った、また2人の日本人が同じ試合で本塁打を打ったメジャーリーグ史上初めての試合だった。

お互いを尊敬するも「特別な感情はない」

「ヒデキ・マツイとヒデオ・ノモ。2人のジャパニーズが~」。この日のスポーツニュースでは、こういうリポートが何度も流れた。試合後にそれぞれを囲んだ日本人メディアからのインタビューでも、野茂には松井のこと、松井には野茂のことについての質問が繰り返された。松井は野茂のことを、「ほかの選手と同じように(尊敬心を)持っている。あれだけの意志の強さ。そういうものがないと(最初にメジャー挑戦は)できなかったことだと思う」と話し、野茂は松井のことを「うまく(本塁打を)打たれた」と語った。

 この日の歴史は2人で刻んだ。しかし、そこに新たな発見があった。
 野茂も松井も、“日本人選手としてお互い頑張った”というよりも、“メジャーリーガーとしての敵”という態度を見せたからだ。松井は、「今はもう日本人の投手とか何人もいるし、今季も既に高津さんや大塚さんと対戦しているわけだし、そんな特別な感情はない。だから試合は普通通りだった」と言い放ち、野茂は「(松井)以前にもいい打者が並んでいるから、同じように神経を使う」と、この日の相手が松井だけではなかったことを強調した。

「日本人」という肩書きはもういらない

 野茂がメジャーリーグの扉を開いてから10年目となり、日本人メジャーリーガーの数は増える一方である。そして日本人ファンにとって、日本人選手の対決は、いつも新鮮かつ刺激的で興味深い。しかし、実際にプレーしている日本人選手の間では、同じ日本人でも敵であることに変わりはなく、試合では勝つために戦い、負ければ悔しい。

 いつか、米プロバスケットボール協会(NBA)の元スター、チャールズ・バークレーが、「試合中は嫌い合えばいい。試合が終わればハグ(抱き合う)すればいいのさ」と言っていたことがある。
 選手同士にあるのは、そんな感情なのである。

 この日、松井と野茂の活躍で、ドジャー・スタジアムで行われた“伝統の一戦”は、「ドジャース対ヤンキース」というよりも、「日本人2人が歴史を作った」一戦となった。
 そしてそれは、日本人選手がいかにメジャーリーグのレベルで、試合をドミネート(支配)できるかを、改めて証明した。日本人がメジャーで通用するかどうかというような話題は、もう皆無なのである。

 もはや、記録以外において「日本人」という肩書きはいらない。
「プレーボール」がコールされれば、彼らは立派なメジャーリーガーだ。ともに敵対心を持ち、戦い、そして結果が出る。それが「日本人初~」という記録につながれば、それはそれで喜べばいい。
 野茂と松井を見ていて、そう思った。
スポーツナビ 梅田香子 2004/06/19
たかがオールスター、されどオールスター
梅田香子の『松井秀喜 メジャー交友録 2004』 VOL.7
オールスター出場をバリバリ狙う大塚

「オールスター、出たいんですよ。バリバリに狙っています。どうしたら、いいんでしょうねえ」

 冗談とも本気ともつかないニコニコ顔で、大塚晶則はそう言った。ピッチャーの場合はファン投票で選ばれるわけではなく、監督推薦だから、せっせと自分で投票するわけにはいかない。出場したかったら、グラウンドで結果を残すしかないのだ。
 といっても、数字さえ残せば必ず選ばれるというものではないから、難しくなってくる。

「ともかく自分のところの監督には事前に“○○を選ぼうと思うけれど、どう思うか?”という打診がくるから、そのとき”疲れているから選ばないでくれ”とか、”投げたばかりだから、オールスターの日はちょうどダメ”とか断られたりしないように、自分のところの監督には”疲れはありません。オールスターなんかに出たら、心の弾みになって、もっともっと頑張れます”とアピールしておかないと……」
 と筆者が話したら、
「そうですか。じゃあ英語を覚えてどんどんアピールしなきゃ」
「それから、ニューヨークはやっぱりマスコミのメッカだから、絶対にいい仕事をする。特に松井秀は絶対に抑える!」
「そうですね。頑張りますよ」

努力して「目立つ」が美徳のアメリカ

 マック鈴木(現オリックス)が初めて春季トレーニングに参加したとき、投手コーチがよく、
「課題といえば、そうだね、もっと本人が目立とうとすることだ」
 と言っていて、その後も他の日本人大リーガーが続いたとき、同じセリフをたびたび耳にしたものだ。

 まさに国民性の違いというものだろう。大統領選挙に出馬するとなれば、必ず候補者たちは強力な実績を持つPR会社を雇い、宣伝活動に全力を注ぎ込む。子供の小学校に行ってみると、よく分かるのだが、努力して「目立つ」ことが美徳とされ、そのための教育を幼い頃から受けている。

 この点では、同じ外国人でも南米の選手はアジア人の上を行く。大塚のように例外はいくらでもあるにせよ、日本人や韓国人の大リーガーは「派手さ」と「目立ちたがり度」ではどうも後れを取っているようだ。

 それでは過去にオールスターに選ばれた野茂、イチロー、佐々木、長谷川はどうなのか。もちろん本人たちの圧倒的な実績と個性、それに伴う人気が主なる要因ではあるのだが、それ以外に大挙して押しかけた日本人メディアの存在も無視はできない。日常生活とは違う光景が自然と彼らを目立たせたのである。

野茂のメジャー昇格もメディアが後押し?

 これも国民性がくっきりと分かれて興味深かったのだが、
「金魚のフンみたいにたくさんのメディアが野茂を追いかけていて、みっともない」
 というのはたいてい日本からの声で、アメリカではただただ珍しがられ、驚かれていた。

 もちろんNBAでもブルズが強かったときは、『シカゴ・トリュビューン』だけで13人のリポーターが記者席に名を連ねたものだ。それは絶対的な強豪だっただけではなく、そこにマイケル・ジョーダンがいたためで、そこから野茂やイチローはどうやら日本ではジョーダンに匹敵するヒーローらしいという図式が生まれ、一目置かれるようになった。

 野茂がドジャースの春季キャンプに参加した初日、アメリカ人にとっては無名に等しかった。実戦から離れていたせいもあり、ブルペンでの投げ込みを見る限り、マイナー契約は妥当なものと思われた。トミー・ラソーダ監督にしてもまったくお客さん扱いで、視線は冷たかったが、メディアの数から「どうもすごい選手ではあるらしい」という情報はインプットされていたのだろう。日を重ねるにつれて野茂が調子を上げ、力のある球をビシバシ投げるようになると、ラソーダ監督をはじめとした首脳陣は、もうハタから見ていて、笑ってしまうほど表情や態度をホットなものに変えていった。

オールスターに選ばれるの紅白歌合戦より難しい!?

 一口に大リーガーと言っても、1球団25人として30球団だと750人、春季キャンプの段階ではマイナーからの招待選手がいるからその1.5倍の人数でスタートし、徐々にふるい落とされていく。

 そして、その中からオールスターゲームに選ばれるということは、本人の実力や人気もさることながら、必ずしも成績が上位にいれば選ばれるというものではなく、チーム状況や環境や運といったものにも大きく左右されてしまう。ある意味で紅白歌合戦に選ばれるよりも難関である。

 大塚を全試合カバーしている日本人のメディアは0人だし、それでなくとも西海岸が本拠地だと全米に知られるまで時間が掛かる。時差があるから、サンディエゴで午後9時から大塚がリリーフで投げたとすると、ニューヨークはすでに夜中の零時を回っているから、夜のスポーツニュースも間に合わない。

82億円打線を完ぺきに抑えた大塚

 6月12日、ヤンキースタジアムで始めて登板した大塚は、8回と9回を完ぺきに抑えた。バーニー・ウィリアムズ、アレックス・ロドリゲス、ジェイソン・ジアンビー、ゲーリー・シェフィールド、ホルヘ・ポサダ、松井秀喜の6人は年俸を合計すると7455万ドル、約82億円なり。

 パドレスのボウイ監督は、
「松井と対戦したがっていたからね」
 と言って、この日は9回も続投させた。

 プレッシャーをもろともせず、大塚は松井秀に対しては、徹底したパワーピッチング。この日一番速い球、151キロを投げてセンターフライに打ち取ったのである。4タコに終わった松井秀は、
「速球がカットボール気味にきましたね。次は打てるようにしたい。日本で対戦したことはなかったんじゃないかな。記憶にありません」
 と語った。それを伝え聞いた大塚のほうが、オトト……とずっこけポーズをとった。

「1998年のオールスター第2戦で当たっていますよ。初球のストレートでバットを折りました(投ゴロ)。間違いない。松井の印象には残っていないんですね~」

 たかがオールスター、されどオールスター。
スポーツナビ 梅田香子 2004/06/04
松井秀の同僚“問題児”シェフィールドの素顔
梅田香子の『松井秀喜 メジャー交友録 2004』 VOL.6
松井やジーターに結婚を勧める理由は?

「マツイってさ、どうして結婚しないんだろ? 結婚ていいものなんだけどな~。デリック(ジーター)もできたら早く結婚した方がいい」
 こんな言葉がゲリー・シェフィールドの口から聞かれようとは……。あきれ果てた。

「あなたみたいなプレイボーイには松井もジーターも言われたくないと思うよ」
 とからかったら、
「そんなこと言わないでくれよ」
 とニタニタ笑っていた。ほんの5、6年前まで、
「オレは絶対にだれとも結婚しないと思う。結婚するヤツの気がしれない。子供はかわいいと思うけど、女に縛られるのはイヤだ」
 と言っていたのに……。「男に二言はない」というのは、どう英訳するべきだろう。

どのチームでも悪評が付きまとう…

 さて、4月はどうなることかと思われたヤンキース打撃陣だが、どうやら調子を上げてきたようだ。もともとシェフィールドといい、バーニー・ウィリアムズといい、アレックス・ロドリゲスといい、ケニー・ロフトンといい、「スロー・スターター」タイプばかり。まったく予想できない事態ではなかったのだ。が、あれだけの大打者たちが、そろいもそろって「スランプ」となると、まさに「惨状」としか言いようがなかった。

 実はシェフィールドが新加入したことで、
「チームのムードを悪くしているのでは?」
 という声が、記者席ではちらほら聞かれた。というのも、過去に在籍したチームで、彼の評判は決して芳しいものではなく、2002年に石井一久がドジャース入りしたときも、
「僕は昨年を知りませんけど、チームのみんながシェフィールドがいなくなったから、今年はムードがいいって話してるんですよ」
 と邪気なく語っていた。

 ドジャースばかりではなく、過去に在籍したどのチームでも、もめ事が絶えなかった。外から見ていると、特にシェフィールドが異彩を放っているわけではなく、個性の強い面々はほかにいくらでもいるような気がするのだが、ともかく、「チームワークを乱す」というのがもっぱらの評判だった。

親戚はかつての豪腕投手グッデン

 しかし、ヤンキースのらつ腕GMは、その辺も調査済みで、往年の豪腕投手、ドワイド・グッデンいわく、
「結婚してから別人のように変わった。すごく大人になったから、問題は起こさないと思う」
 実はグッデンの姉のベティは、シェフィールドの母親に当たる。結束の固い一族だったので、シェフィールドとグッデンは、まるで兄弟のように育ったのだ。

 現在、グッデンは生まれ故郷のフロリダで、高級住宅地の一角に6件の家を所有し、血縁者たちとにぎやかなセミリタイア生活を楽しんでいる。さすがにシェフィールドは自分自身の家を所有しているけれど、グッデンの家とは近所なので、子供の頃と2人の関係は大して変わっていない。

シェフィールドを変えた一人の女性

「前からヤンキースでプレーしてみたかった」
 と語るシェフィールドが運命の女性と出会ったのは、1998年2月、冬のニューヨークだった。
 あの時、著者はちょうどNBAオールスターの取材でニューヨークにいたのだが、期間中に報道陣と出場選手の両方に割り当てられた5番街のホテルは人、人、人……。ロビーも喫茶コーナーも、むせてしまいそうなほど異様な熱気に包まれていた。

 もともと、そんなに低級なホテルではないのだが、ロビーも部屋もお世辞にも広いとは言えず、カール・マローンら幾人かの選手はカンカンに怒ってしまい、さらなる混乱を呼んだ。そんな喧騒(けんそう)をよそに、ロビーの横の喫茶店でシェフィールドが目尻を下げて、若い美しい女性と話し込んでいたとは……。英語でもこういうときは、「世間は狭い!」と言うのだが、相手の女性デリオン・リチャーズも筆者とは顔見知りだったのだ。

 彼女は3歳から教会で歌い始め、5歳からは日本をはじめ各国をツアーで訪れた。わずか9歳でグラミー賞にもノミネートされた天才ゴスペル・シンガーなのである。後で聞いたのだが、2人は友人の紹介で、あの日あの場所で初めて知り合ったとか。

 初対面だったにもかかわらず、
「いつかきみは僕の妻になると思うな」
 とシェフィールドは口にしたのだが、
「あなた、今まで何回そう言って口説いてきたわけ?」
 とデリオンに軽くあしらわれている。

 それもそのはず、シェフィールドは結婚歴こそなかったが、いわゆる「未婚の父」。エボニー、キャリサ、ゲリー・ジュニアという2女1男がいて、3人とも母親が違っていたし、長女はなんと彼が17歳のときの子供だった。

意外と傷つきやすいガラスのような心と神経

 けれども、そういう家庭環境や生い立ちを隠そうとはせず、熱っぽく語るところにデリオンは好感を抱いた。春季キャンプが始まっても、シェフィールドは2時間おきに電話攻勢をかけていたが、不思議と話題には困らなかった。敬けんなクリスチャンのデリオンは、意外と傷つきやすいシェフィールドのガラスのような心と神経に驚嘆し、なんとかいやしてあげたいと考えるようになった。シェフィールドもまた、人生の伴りょとして欠かせない女性だという確信を深めた。

 まずはデリオンの両親と会って結婚を認めてもらい、その年の12月23日にタンパの行きつけのステーキハウスの一室を借り切り、デリオンをいきなりそこに連れて行った。そこには両方の親とシェフィールドの一族が集まっていて、シェフィールドは皆の前でプロポーズをして、指輪をプレゼントしたのである。

 翌年の2月にはこのメンバーと一緒にチャーター機でバハマに飛び、アトランタ・ホテルで挙式を行った。さらに2000年2月にセント・ピーターズバーグでもう一度、友人たちを招待してお披露目。02年9月5日には男の子を授かり、ジャデンと名付けた。

ヤンキース入りして見せた“変化”とは

 「自分勝手」というレッテルをはられていたシェフィールドだが、ヤンキースへの移籍に当たって、「三塁を守りたい」と名乗り出るなど、これまでにない「心配り」を見せるようになった。確かにシェフィールドは遊撃と三塁手を経験済みだが、右翼にコンバートしてから久しいので、この提案はGMが丁重に断わっている。

 これまで故障が多かった夫のため、デリオンは試合のある日もない日も、祈りを欠かさない。夫婦の寝室には聖書が置いてあり、毎晩欠かさず2人で読む。日曜はもちろん教会に行くという。

 シェフィールドはしみじみとした口調で言った。
「ワールドシリーズ優勝ですら、どこか心が満たされなかったのに、彼女が空虚感を埋めてくれたんだ」