スポーツナビ 梅田香子
2004/07/30
松井の相棒ロフトンはコミュニケーションの専門家
梅田香子の『松井秀喜 メジャー交友録 2004』 VOL.11
梅田香子の『松井秀喜 メジャー交友録 2004』 VOL.11
メジャーの外野守備レベルは年々低下?
長い歴史を持つメジャーリーグだ。その間、さまざまな変化があり、“流行”もあった。
ここ5年ほど、かつてないほどハイペースでホームランが量産されているのは、周知の事実と言えるはずだ。マーク・マグワイアを例に挙げるまでもなく、サミー・ソーサやバリー・ボンズらのバットによって、次々と記録が塗り替えられている。
その反面と言えるのかどうか分からないが、かつてないほど外野守備のレベルは低下しているようだ。と言うか、シーズン中はもちろん、春季キャンプ中ですら外野守備の練習に割く時間は非常に短い。ヤンキースはまだいい方で、ジョー・トーレ監督はきっちりとフォーメーション・プレーを練習させている。ツインズもこの点はしっかりとしているから、やはり常に首位攻防に食い込む球団はひと味もふた味も違う。
外野守備の練習に関しては、多くの球団が「シート打撃のときボールを追う以外、選手たちの自主性に任せている」のが現状だ。もっとも、早い時間に球場に来て打撃練習や筋力トレーニングを行う選手はいても、「特守」を買って出るケースは非常にまれなのである。
松井とロフトン、謙虚な2人が“お見合い”
19日(日本時間20日)にトロピカーナ・フィールドで行われたデビルレイズ戦、松井秀喜は左中間に飛んだロバート・フィックの打球を中堅のケニー・ロフトンとお見合い。2点を献上してしまった。
いったんは捕球体制に入ったにもかかわらず、
「ロフトンの動きが分からなかったけれど、最初は僕が声を出して取りに行った。でも、彼の声が聞こえたので、どいた。仕方がないと言えば仕方がない」
と松井は試合後に語っている。
確かにロフトンと松井のコンビは、春季キャンプでは慎重に練習を重ねてきたのだから、このケースはあくまで「ミス」。メジャーではキャッチする方が、「アイ・ゴット・イット!(I got it)」と叫ぶので、松井はまずこの「アイ・ゴット・イット!」を覚えた。
アメリカではやや異質に思える松井の「謙虚ぶり」は、既にオールスターゲームのホームラン競争辞退でも証明されているが、実はロフトンの方も「オレがオレが」というタイプが多い中、かなり松井に近いタイプなので、それも「お見合い」に作用してしまったのだろう。
オフにヤンキースがフリーエージェント(FA)のロフトンと2年契約を結んだとき、ニューヨークのメディアは早くも、それまで中堅を守っていたバーニー・ウィリアムズとの確執を予想し、代理人の「バーニーの指名打者(DH)転向に同意するつもりはない」という発言を報道した。
もっともロフトンの方はさらりとジョークでかわした。
「僕の定位置はセンターだけど、ヤンキースのためならDHでも駐車場係でもするよ」
祖母に育てられた少年時代
名門アリゾナ大学にバスケットボールの奨学生として入学したロフトンは、一人では勝てないというチームスポーツのごくごく初歩のセオリーについて熟知している。
生まれ育ったのはシカゴ南東にあるインディアナ州のゲーリーという町で、歌手のマイケル・ジャクソンの出身地でもあり、ここは非常にバスケットボールが盛んなのだ。
ロフトンは父親の顔を知らない。母親のアニーが彼を産んだときはまだ14歳で、父親はどこで何をしているか、もう既に分からなかったそうだ。アニーは、学校に通ってみたり、職を求めてアラバマに行ったりしたので、生活保護を受けながら祖母のロージーに育てられた。面倒を見てもらうというより、祖母は緑内障で失明していたから、物心がつくようになると、ロフトンの方が祖母を助けた。ロージーは大のカブスファンだったから、毎日のようにテレビ観戦をして、7回表の攻撃が終わると故ハリー・ケリー(カブスの元専属アナウンサー)のダミ声に合わせて、「私を野球につれていって」を大声で歌うのが日課だった。
「祖母は器用な人だったから、繕い物でも料理でも何でもできた。スポーツだけではなく、勉強にも厳しくってね。よく一緒に図書館に行き、本を借りて、それを読まなければ日曜に遊びに行くことも許してもらえなかった」
とロフトンは述懐する。
松井と共に自ら歴史を紡いでいく…
アリゾナ大では2年生ながら、55スチールという大学記録を打ち立ててしまい、NCAA(アメリカの大学バスケットボールトーナメント)でも準決勝に進むなど、スターダムを駆け上がってしまったため、ロフトンを野球選手として見るスカウトは少なかった。このときチームメートだったスティーブ・カーは、後にシカゴ・ブルズでマイケル・ジョーダンらと共に黄金時代を築いている。
けれども、ロフトン自身は考えに考えた揚げ句、
「僕は野球の方がバスケットボールよりも好きだ」
という結論を出し、アストロズのスカウトに自ら売り込み、1988年のドラフト17巡目で指名してもらったのだ。
祖母との約束だったから、オフは大学にも通い続けて、学位も取得した。専攻は、マスコミの仕事に興味があったから、「コミュニケーション」だった。コミュニケーションの専門家が松井秀とお見合いしまったのだから、こぼれたミルクを嘆くようなもので、確かに仕方がない。巻き返しもあるだろう。
「子供のときから歴史はあまり好きではなかった。過去のことなんか学んでも仕方ない、といつも感じていた。今は年のせいか、割りといろいろな歴史の本を読んでいるんだけどね。一番得意だったのは算数だな」
と言うロフトン。このまま松井と共に自らが「歴史」を紡いでいくことになりそうだ。
長い歴史を持つメジャーリーグだ。その間、さまざまな変化があり、“流行”もあった。
ここ5年ほど、かつてないほどハイペースでホームランが量産されているのは、周知の事実と言えるはずだ。マーク・マグワイアを例に挙げるまでもなく、サミー・ソーサやバリー・ボンズらのバットによって、次々と記録が塗り替えられている。
その反面と言えるのかどうか分からないが、かつてないほど外野守備のレベルは低下しているようだ。と言うか、シーズン中はもちろん、春季キャンプ中ですら外野守備の練習に割く時間は非常に短い。ヤンキースはまだいい方で、ジョー・トーレ監督はきっちりとフォーメーション・プレーを練習させている。ツインズもこの点はしっかりとしているから、やはり常に首位攻防に食い込む球団はひと味もふた味も違う。
外野守備の練習に関しては、多くの球団が「シート打撃のときボールを追う以外、選手たちの自主性に任せている」のが現状だ。もっとも、早い時間に球場に来て打撃練習や筋力トレーニングを行う選手はいても、「特守」を買って出るケースは非常にまれなのである。
松井とロフトン、謙虚な2人が“お見合い”
19日(日本時間20日)にトロピカーナ・フィールドで行われたデビルレイズ戦、松井秀喜は左中間に飛んだロバート・フィックの打球を中堅のケニー・ロフトンとお見合い。2点を献上してしまった。
いったんは捕球体制に入ったにもかかわらず、
「ロフトンの動きが分からなかったけれど、最初は僕が声を出して取りに行った。でも、彼の声が聞こえたので、どいた。仕方がないと言えば仕方がない」
と松井は試合後に語っている。
確かにロフトンと松井のコンビは、春季キャンプでは慎重に練習を重ねてきたのだから、このケースはあくまで「ミス」。メジャーではキャッチする方が、「アイ・ゴット・イット!(I got it)」と叫ぶので、松井はまずこの「アイ・ゴット・イット!」を覚えた。
アメリカではやや異質に思える松井の「謙虚ぶり」は、既にオールスターゲームのホームラン競争辞退でも証明されているが、実はロフトンの方も「オレがオレが」というタイプが多い中、かなり松井に近いタイプなので、それも「お見合い」に作用してしまったのだろう。
オフにヤンキースがフリーエージェント(FA)のロフトンと2年契約を結んだとき、ニューヨークのメディアは早くも、それまで中堅を守っていたバーニー・ウィリアムズとの確執を予想し、代理人の「バーニーの指名打者(DH)転向に同意するつもりはない」という発言を報道した。
もっともロフトンの方はさらりとジョークでかわした。
「僕の定位置はセンターだけど、ヤンキースのためならDHでも駐車場係でもするよ」
祖母に育てられた少年時代
名門アリゾナ大学にバスケットボールの奨学生として入学したロフトンは、一人では勝てないというチームスポーツのごくごく初歩のセオリーについて熟知している。
生まれ育ったのはシカゴ南東にあるインディアナ州のゲーリーという町で、歌手のマイケル・ジャクソンの出身地でもあり、ここは非常にバスケットボールが盛んなのだ。
ロフトンは父親の顔を知らない。母親のアニーが彼を産んだときはまだ14歳で、父親はどこで何をしているか、もう既に分からなかったそうだ。アニーは、学校に通ってみたり、職を求めてアラバマに行ったりしたので、生活保護を受けながら祖母のロージーに育てられた。面倒を見てもらうというより、祖母は緑内障で失明していたから、物心がつくようになると、ロフトンの方が祖母を助けた。ロージーは大のカブスファンだったから、毎日のようにテレビ観戦をして、7回表の攻撃が終わると故ハリー・ケリー(カブスの元専属アナウンサー)のダミ声に合わせて、「私を野球につれていって」を大声で歌うのが日課だった。
「祖母は器用な人だったから、繕い物でも料理でも何でもできた。スポーツだけではなく、勉強にも厳しくってね。よく一緒に図書館に行き、本を借りて、それを読まなければ日曜に遊びに行くことも許してもらえなかった」
とロフトンは述懐する。
松井と共に自ら歴史を紡いでいく…
アリゾナ大では2年生ながら、55スチールという大学記録を打ち立ててしまい、NCAA(アメリカの大学バスケットボールトーナメント)でも準決勝に進むなど、スターダムを駆け上がってしまったため、ロフトンを野球選手として見るスカウトは少なかった。このときチームメートだったスティーブ・カーは、後にシカゴ・ブルズでマイケル・ジョーダンらと共に黄金時代を築いている。
けれども、ロフトン自身は考えに考えた揚げ句、
「僕は野球の方がバスケットボールよりも好きだ」
という結論を出し、アストロズのスカウトに自ら売り込み、1988年のドラフト17巡目で指名してもらったのだ。
祖母との約束だったから、オフは大学にも通い続けて、学位も取得した。専攻は、マスコミの仕事に興味があったから、「コミュニケーション」だった。コミュニケーションの専門家が松井秀とお見合いしまったのだから、こぼれたミルクを嘆くようなもので、確かに仕方がない。巻き返しもあるだろう。
「子供のときから歴史はあまり好きではなかった。過去のことなんか学んでも仕方ない、といつも感じていた。今は年のせいか、割りといろいろな歴史の本を読んでいるんだけどね。一番得意だったのは算数だな」
と言うロフトン。このまま松井と共に自らが「歴史」を紡いでいくことになりそうだ。