Matsui's Space 松井秀喜ファンサイト

Columnコラム

講師の心.com 広岡勲 2009/05/25
「不動心の理由」Vol. 1 『出逢い』
1992年11月21日の第28回ドラフト会議。この日が彼のその後を、そして、「今」を決定づけたと思っている。

中日、ダイエー、阪神の順で各監督がクジをひき、最後の残りクジを巨人、長嶋監督が引いた。4球団が競合したこの年の目玉選手、星稜高校野手、松井秀喜、18歳。

高校時代、1年生で強豪チームの4番にすわり、3年間の通算本塁打数は60本。1992年夏の甲子園大会での5打席連続敬遠は"事件"にもなった。プロ野球ファンならずとも、いやでも世間の耳目を集める怪物高校生だった。

「どうしても松井が欲しい!」。4球団の監督は並々ならぬ思いであっただろうが、昔の人はいいことを言ったものである。「残りものには福がある」、と。結果、13年ぶりに巨人軍監督に返り咲いた長嶋茂雄氏に軍配が上がったのだ。

ちなみにこの年の巨人軍は、話題に事欠かなかった。前述のとおり、長嶋監督は1980年に監督を退いてから13年ぶりに背番号「33」をつけての復帰。あわせて、息子の一茂選手もヤクルトからトレードで巨人入り。そして、この運命的なドラフトを経ての松井秀喜の入団、である。

松井選手の入団初年度は大変な狂騒だった。

この頃、私自身は、桑田真澄投手やジェシー・バーフィールド野手(ニューヨーク・ヤンキースから入団)など、巨人軍担当記者として文字どおり駆けずり回っていた。松井選手はルーキーながらも番記者がついていたので取材対象者として直接からむ関係ではなかったが、彼の情報は自然と耳に入ってきた。また、球場に行けば彼の周りにはいつも人だかりが出来ていて、こちらもついつい目で追ってしまう。新人としての緊張感をたたえながらも、何かやりそうな雰囲気を併せ持つ、オーラのあるルーキーだった。

当時の印象深い出来事は、ご存知の方も多いかもしれないが宮崎キャンプでの"珍事(?)"だ。見学に訪れていた巨人OBの張本勲氏が、松井選手に即席のバッティング指導を始め出したのだが、いかんせん、松井選手は一向にアドバイスを取り入れようとはしない。一応、「はい、わかりました」と話自体は聞いているのだが、それを試そうとしないのだ。

張本氏がアドバイス松井選手:「わかりました」また同じことを張本氏がアドバイス松井選手:「わかりました」―以下繰り返し...。

大先輩で、しかも野球界のご意見番の張本氏を相手に、弱冠18歳の新人選手が折れるそぶりを見せないのだ。私は、その光景を見ていて、「こいつは只者ではないな」と感じたものだった。長嶋監督はというと、ただただ苦笑いするだけである。

これには、きっと賛否両論があるだろう。たとえ自分の意に反する内容であったとしても、そこは大先輩のアドバイスなのだから試すくらいはしてもいいのではないか。逆に、大先輩といえども自分が納得できないのであれば、体裁を取り繕う必要はない。どちらの態度を取るかは人それぞれだが、松井選手は後者を選んだ。ただ、その場にいた長嶋監督が口出しせずに見守っているだけだったということは、もしかするとバッティング技術に関して火急のアドバイス内容ではなかったのかもしれない。

とにもかくにも、頑固な男である。そして、信念の強い男である。これが、私の彼に対する人となりの第一印象である。

だがそれは、言い換えればマイペースでもあるということだ。幼い頃から野球の素質を開花させ、中学、高校と努力を積み重ねてきた事実が彼の財産である。単なる頑固者であったならば、今日の松井選手は存在していない。試行錯誤を繰り返し、自分なりにつかんだ「これ」というものを信じる。そうしたブレのなさは今現在も変わっていない。もちろん、自分でも納得すれば、他者からのアドバイスに感じる「これ」は、きちんと受け入れる。そうした姿勢は、私自身も彼のヤンキース入団後に目の当たりにしている。それはまた、いずれかの回で記述しようと思う。

余談になるが、松井選手1年目のある日のこと。彼の担当記者がたまたま休みだったときに何かの話の流れで、私の車で都内を走ったことがあった。ハンドルを握ったのは松井秀喜。車中、大した内容の話はしていないが、新宿を走っていたときだ。「やっぱり、都会はすごいなあ...」と、新宿副都心の超高層ビル群を見上げて驚きの声を上げていたのをおぼえている。そんな彼も、今ではニューヨークの摩天楼に暮らしている。

そして、もうひとつ。免許を取って日が浅いにもかかわらず、運転がうまかったのも印象に残っていることだ。何かにつけて、勘のいい男なのだ。そして、この勘のいい男の番記者として翌年から長い付き合いが始まるとはお互い想像もしていなかった。