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Columnコラム

デジタル大衆 2012/06/19
松井秀喜「38歳で迎えた全盛期」これだけの証拠 vol.2
3Aで若手とともに汗を流す

「渡米後、松井はマンハッタンから車で40分ほどの距離にある、打撃ケージを備えたスポーツクラブで練習するようになったんですが、ケージとは名ばかり。とてもメジャーの選手が使うレベルの施設ではありませんでした」(在米スポーツ紙MLB担当記者)

星稜高、巨人、ヤンキースと、常に陽の当たる道を歩んできた松井にとって、これほど苦しい自主トレは初めての経験だった。
「メジャーリーグでは、シーズンが開幕してもベテラン選手の所属球団が決まらないことは、決して珍しくありません。たとえスーパースターでも、結果が残せなければお払い箱。そういう点は、日本以上にシビアでドライな世界なんです」(前同)

4月30日に、ようやくレイズとマイナー契約。
傘下の3Aダーラムに合流した松井は、10歳以上も年の離れた若手選手とともに汗を流すことになる。
メジャーとマイナーでは、移動手段や食事などの待遇で、天と地ほどの差があるが、松井は若手と同じ練習メニューをこなしながら、全試合に出場した。
「松井は、いかにも彼らしく、気負ったところもなければ、悲壮感も感じさせずに、自分のやるべきプレーに専念している姿が印象的でした」(日本人特派員)
13試合に出場して、打率1割7分、本塁打0、打点4。
メジャー昇格にふさわしい成績とはいえないが、主力がケガで次々に戦線離脱しているチーム事情もあって、レイズのマドン監督は松井の昇格を決断した。

昇格当日、インディアナポリスを出発した松井だが、飛行機が遅延。
球場入りが遅れたため、試合前の練習にも参加できなかった。
だが、マドン監督に出場の可否を問われた松井は、「アイム・レディ(準備はできている)」と即答。
「6番・レフト」で先発し、メジャー通算174本目となる今季第1号を放ったのは前述したとおりだ。
「マドン監督は代打の起用が多く、打順も固定せずに"日替わり打線"で戦うのが好きですからね。松井のことも先発、代打、DHと臨機応変に起用するはず。そういう意味では、松井に合っている監督といえます」(前出・福島氏)

ただ、それも松井が勝負強い打撃で、しっかり結果を出してこその話。
5日のヤンキース戦から復帰した正左翼手のジェニングスをはじめ、離脱していた主力が今後、次々にチームに戻ってくる。
「成績次第では、松井のマイナー降格やトレードもあり得ない話ではない。それもまた、厳しい現実なんです」(前出・デスク)

だが、たとえそうなっても、09年のワールドシリーズでMVPに輝いた松井の勝負強いバッティングを、ポストシーズンの切り札として必要とする球団は、必ず現われるはずだ。
それより何より、ア・リーグ東地区で首位争いをしているレイズに、松井の打棒は必要不可欠。
2度目のワールドシリーズMVPも決して夢物語ではない。

"ゴジラの逆襲"はまだ始まったばかり。
進化し続ける38歳のスラッガー、松井の大爆発に期待したい。
デジタル大衆 2012/06/18
松井秀喜「38歳で迎えた全盛期」これだけの証拠 vol.1
ヒーローの逆襲ブランクも年齢も関係なしでホームラン量産!

新背番号「35」のついたタンパベイ・レイズの真新しいユニフォームを身にまとい、メジャーリーガー・松井秀喜が帰ってきた。
そして、メジャー昇格初戦となった5月29日(現地時間=以下同)のホワイトソックス戦の第2打席で、ライトスタンドに122メートルの大ホームラン。
挨拶代わりの一発を放った松井は、3試合目のオリオールズ戦でも、元中日のチェンからライトスタンド上段に132メートルの特大2号を叩き込み、地元ファンのハートをガッチリ掴むことに成功した。
「特に2本目は、全盛期の松井を彷彿とさせる豪快なホームランでしたね。巨人時代の松井が東京ドームの天井にぶつけたり、ナゴヤドームの4階席に放り込んだりするシーンを何度も見てますが、あの高い弾道こそ、松井本来のバッティングなんです」(スポーツ紙ベテラン記者)

野球解説者の江本孟紀氏も、あの一発にゴジラ復活の兆しを感じたという。
「うまい具合に力が抜けた、実にきれいなフォームで打ってましたね。あれだけのホームランが打てるバッターは、メジャーにもそうはいない。いったいメジャーの球団は、どこを見てるんだといいたいね」

さらに続けて
「メジャー昇格前にマイナーで調整できたのが、結果的によかったんでしょう。もともと力はあるわけですから。松井自身、現役生活が終わりに近づいていることはわかっているだろうし、開き直りというか、達観した部分もあるのでは。それがプラスの面に出てくれば、野球人生の集大成にふさわしい結果を残すこともできるでしょうね」
長年、苦しんできたヒザの状態がいいことも、松井にとっては明るい材料だ。

「松井の恩師である長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督も"今シーズンの渡米前、松井はヒザの状態が近年になく、いいといっていた。必ずメジャーの舞台へ復活できるという確信があるんだろうね"と話してました。現に、レイズの本拠地、フロリダ州セントピータースバーグのトロピカーナ・フィールドは人工芝ですが、松井は難なく外野の守備をこなしてますからね」(スポーツ紙デスク)

守備につくことを重視する松井にとって、ヒザを気にせずに外野を守れることは大きい。
守備は打撃にも好影響を与えるからだ。
大リーグ研究家の福島良一氏は、こう話す。
「松井が打った2本のホームランは、ここ数年なかったような素晴らしい打球でした。アウトになった打席でも鋭い打球を飛ばしていたし、今年の仕上がり具合は、かなりいいと思います。
昨年までの松井は、打席でじっくり投球を見るタイプでしたが、今年は積極的に打ちにいっている。事実、2本のホームランは、いずれも初球でした」
メジャー10年目を迎え、松井はさらなる進化を遂げようとしているのだ。
「オフの松井は、東京とニューヨークで骨盤トレーニングを行なっています。体重移動を最小限にして、骨盤を軸に、コマのように体を回転させるこのトレーニングによって、スイングスピードが増し、打球をより遠くに飛ばすことができるようになった」(前出・デスク)

だが、メジャーに昇格するまでの道のりは、決して平坦なものではなかった。
昨年オフ、アスレチックスと再契約せずにFAとなった松井だが、年が明けてもメジャー球団からのオファーはゼロ。
"無所属"のまま、2月に渡米した松井は、ニューヨークで自主トレを開始したが、スプリングキャンプが始まっても、所属球団は決まらなかった。
アサ芸プラス 2012/06/15
松井秀喜「逆襲のフルスイング」(8)
過酷な移動にも耐え続けた

 メジャーでの生存競争はもとより、3Aでの選手生活は過酷そのものだ。メジャー昇格を果たす直前の5月27日、松井と3A・ダーラムの選手たちはノーフォークへの遠征で約300キロを「陸路」で移動させられている。その試合後、いったんダーラムに戻り、28日の試合のため、約920キロ先のインディアナポリスに向かった。

 前出・特派員が語る。

「インディアナポリスからセントピーターズバーグへの移動もそうですが、この3日間の移動は並大抵ではありません。マイナーでの移動中、寂れた球場での試合の連続の中で、マドン、モントーヨ両監督はメジャーの恵まれた環境との落差についていけず、ダメになった選手を大勢見てきました。松井はマイナーの劣悪な環境にひと言も文句を言いませんでした」

 メジャーの移動手段はチャーター機だ。1人に2人分の座席が与えられるが、マイナーは一般客と同じ座席で大半は「陸路でのバス移動」だ。元メジャーリーガーは、ゲーム以前に移動だけでめいってしまうが、松井は“自分”を失わなかった。球場入りすると入念にストレッチを行う。ランニングやキャッチボールなどの全体練習が始まる前に汗を流し、シャツも何枚か替えている。試合後はたとえ延長戦のあとでもティー打撃やマシンでの「居残り練習」をこなしているという。

 こうした寡黙な姿がライバルたちからの異例の拍手につながったのである。

 メジャー情報に詳しいスポーツジャーナリストの友成那智氏が、松井の今後をこう分析する。

「6月5日からのヤンキース3連戦あたりから、故障で離脱していた正左翼手のデズモンド・ジェニングスがチームに合流する流れになってきました。ジェニングスは『不動の1番バッター』であり、外すことのできない選手です。『4人目の外野手、左翼手の2番手』のマット・ジョイスは28打点、9ホーマー(5月29日時点、以下同)、DHのルーク・スコットは32打点(リーグ12位)、8ホーマー(同)。ジェニングスが帰ってくるまでは松井を使うと思います。これからが正念場でしょう」

 ヤンキース戦とそのあとのマーリンズとの3連戦で「本当の評価」が下されるだろう。

 古巣・ヤンキースの先発ローテーションを見ると、ペティット、ノヴァ、サバシアの順。ペティット、サバシアと好左腕が出てくる。松井はサバシアを「通算15打数ノーヒット」と苦手にしている。しかし、ジョイス、スコットはそれ以上に左投手を苦手としており、松井にも十分にチャンスはある。

 また、ヤンキースには巨人時代からのライバル、黒田博樹(37)もいる。今回は対戦しないが、「気にしている」と松井の去就を懸念していた。両者の通算成績は67打数21安打(6月5日時点で、3割1分3厘)。松井も「打ち込んだという印象はない」と、黒田を称賛していただけに、ジェニングス復帰後のサバイバルレースにも勝って、好勝負を再現してもらいたい。

「スタメン出場しなかった時は、どこかで出る準備をしている。深いカウントまでいけたし、内容的には悪くなかった」

 復帰2戦目の対ホワイトソックス戦の試合後、松井はそう語っていた。

 6回に代打で出場したが、三振。フルカウントからの低めのボールを見送ったが、判定は「ストライク」だった。第2打席は「あとひと伸び」が足らず、センターフライ。しかし、高い放物線を描いた飛球は、昨季後半戦の好調時と同じだ。結果には結び付かなかったが、初戦の試合後よりも明るかった。師匠の背番号を加えた“ニューゴジラ”は、確実に復活の手応えをつかんだように見える。
アサ芸プラス 2012/06/14
松井秀喜「逆襲のフルスイング」(7)
師匠から学んだ「プロの心構え」

 師匠の教えは「技術」だけにとどまらなかった。

「試合を休むな」

 それが長嶋監督のプロとしての教えでもあった。それは松井本人のためだけではない。ファンのためでもあり、大勢の観客の中には1年に1度、地方在住の人なら、一生に1度しか東京ドームに来られない人もいる。「そういう人のために」という意味であった。

 松井がメジャー昇格直後、マドン監督に「アイム、レディ」(準備はできている)と即答したのは「ファンのため」であり、「プロとしてどんな状況下でも準備を怠らない」という、師匠・長嶋の教えが導いた答えでもあった。

 いわばプロとしての心構えに日本の野球もメジャーの違いもない。

 松井はメジャー昇格が言い渡された際にも、思わぬハプニングが起こったという。

「(5月28日のマイナー戦の)試合後、(ダーラムの)チャーリー・モントーヨ監督にメジャー行きを命じられると、他のマイナー選手から祝福の拍手が送られたというのです。彼らはメジャー昇格を争うライバル同士です。握手などの祝福は見たことがありますが、全員がまとまって拍手をしたのは前例がないと思います」(前出・米国人スポーツライター)

 祝福を送る輪の中には“昇格”を争ったレスリー・アンダーソンの姿もあったという。アンダーソンはマイナー40試合を消化した時点で、打率3割2分4厘。WBCでキューバ代表にも選ばれた期待の選手だ。松井と同じ左バッターで、「将来性」を考えれば、アンダーソンが昇格してもおかしくはなかった。

 だが、守備に問題があった。レイズの球団記録となる10人のDL入り(故障者リスト)を受け、松井がDHで出場した試合ではテスト的にレフトの守備にも入っている。しかし、一塁手の急造外野手だったため、極端に守備範囲が狭く、マドン監督のニーズに合わなかったため、松井に先を越される結果となった。

「松井のメジャーでの勢いが止まったら、アンダーソンの存在が再びクローズアップされるはず」(前出・米国人スポーツライター)

 松井の試練はこれからも続くのである。
アサ芸プラス 2012/06/13
松井秀喜「逆襲のフルスイング」(6)
師匠がメジャーに「送り出した」

 巨人関係者が証言する。

「実は、松井がFA権を取得した巨人最終年(02年)、原(辰徳)監督、長嶋終身名誉監督は極秘に松井と食事をしています。3人の話題は当然、松井の去就でした」

 原監督は心底から巨人の「残留」を訴えた。松井も指揮官の誠意を感じ、返答に迷った。何度か、こうした三者会談の場は設けられたが、松井は曖昧な物言いしかできなかった・・・。そこには、松井のメジャーに対する特別な思いがあったことは想像にかたくない。しかし、その一方で、巨人に対するなみなみならぬ恩義を感じていたのも松井の人柄ならではだろう。

 原監督は「残留してくれると思う」とフロントに報告したそうだが、長嶋終身名誉監督の心証は違った。「松井のメジャーへの憧れは強く、誰にも止められないだろう」と・・・。師匠の目には、松井のホンネはお見通しだったのである。

「長嶋氏も内心『残ってほしい』とは思っていたはずです。でも、同じ野球人として、最高峰のステージにチャレンジしてみたいという思いにも理解を示していました。松井にも巨人に対する愛着はありました。FA宣言した時、『無言』を貫いたのは長嶋氏の教え子・松井に対する愛情であり、ある意味、その理解が迷っていた松井の背中を押したとも言えます」(前出・巨人関係者)

 長嶋氏が巨人監督に復帰した92年オフ、ドラフト1位指名したのが、他ならぬ松井である。当時の長嶋監督は「4番定着1000日構想」と称し、チームの将来を託した。打撃力を生かすための「外野コンバート」も長嶋氏の“判断”だった。

 それだけではない。長嶋氏は4番定着後も松井を慢心させることはなかった。

 前出・関係者が振り返る。

「第2期長嶋政権は松井のためにあったと言ってもいい。落合博満は彼のお手本、清原和博、江藤智はカンフル剤として獲得したとも考えられなくもない。試合で打っても、スイングがおかしいと長嶋監督が思えば、ゲーム終了後に松井を呼び出し、東京ドームの素振り室でマンツーマン指導していました」
アサ芸プラス 2012/06/12
松井秀喜「逆襲のフルスイング」(5)
 メジャー昇格直後に、ツーランホームランを放ち、健在ぶりをアピールしたレイズの松井秀喜。プロ入団以来、長年親しんできた背番号「55」から「35」に変更して、心機一転。その裏には、チーム事情のみならず、プロとしての矜持が込められていたのだ。

監督も絶賛「マツイは真のプロ」

 松井秀喜外野手(37)がメジャー昇格と同時に“一発回答”を出した。5月29日(現地時間)、タンパベイ・レイズに合流し、いきなり「6番・左翼」でスタメン出場した。メジャー通算4球団目となる白地の新ユニホームに刻まれた背番号は「55」ではなく、「35」。若手有望株の左腕、マット・ムーアが「55」を付けているため、「空き番号」の中からこの背番号を選んだという。

 新ユニホームに袖を通した直後、松井はジョー・マドン監督に呼ばれた。

「3Aダーラムの遠征先であるインディアナポリスからレイズの本拠地・セントピーターズバーグまで、松井は飛行機で4時間強の強行移動でした。27日にも3Aで『ダーラム─ノーフォーク間』を陸路で3時間以上もかけて移動していたので、マドン監督は松井のコンディションを心配していました」(米国人スポーツライター)

 しかし、松井は「アイム、レディ」と即答した。

「準備はできている」

 その不退転の決意が第2打席での一撃につながり、マドン監督も「マツイは真のプロフェッショナルだ」と確信した。

 スタンドのファンも“ニューゴジラ”を拍手で迎えた。

 この日の報道陣の数は日米合わせて、約50人。好奇の目、独特の緊張感が漂う中で結果を出したのは、さすがである。翌日の地元メディアも「マツイのバットがレイズに利益をもたらす」「尊敬すべきマツイがみずからの価値をすぐに証明した」(タンパ・トリビューン・電子版)、「敗戦の中での光明」(タンパベイ・タイムズ)と、好意的に伝えていた。

「ダイヤモンドを一周した時は厳しい表情でした。ナインに出迎えられ、初めて笑顔が見られました。緊張していたと思います」(現地特派員の一人)

 試合後、松井は報道陣の要請で会見に応じている。「マイナーでの1カ月間」について聞かれると、少し考えてから、「このあと、いいプレーができれば、いい期間だったということになるんじゃないですか」と答えた。「35番」の新しい背番号を選択した理由については、こう答えている。

「5番も残したかった。一番の理由は師匠の番号を一ついただきました」

 師匠とは、説明するまでもないだろう。長嶋茂雄巨人終身名誉監督のことである。巨人時代の両者の関係をよく知るプロ野球解説者の橋本清氏が、松井の心境をこう評する。

「55番にこだわっているのは日本のファンだけで、とにかく、メジャーでもう一回プレーしたい・・・。その気持ちが松井本人にとっての最優先だったと思います。左膝の故障のことが長く懸念されていたが、松井は昨季、何試合か(課題の)守備にも就いているし、レイズがいくら故障者続出でも、DHで打つだけだったら、今日の契約はなかったと思います。『守備もできる』ということも証明できたから、復活できたんでしょう。今後も厳しいサバイバルレースが続くと思いますが、いいスタートが切れたんだから頑張ってほしいし、長嶋さんも皆も応援していると思います」

 師匠・長嶋氏は各メディアを介してエールを送っている。

「松井君らしい豪快なホームランに感動しています。シーズン途中に、しかもマイナーからのスタートでしたが、そこからはい上がり、(中略)そのたびに逆境を乗り越えてきた彼の強さを見た気がしました。本拠地のファンをつかんだ背番号『35』のさらなる活躍を心から祈っています」

 この「師弟関係」こそが、松井をマイナーからはい上がらせた原動力と言っても過言ではないだろう。
日本経済新聞 メジャーリポート 杉浦大介 2012/06/12
レイズ・松井、新天地での「我慢」と「新たな挑戦」
 レイズの一員として遅ればせながら2012年シーズンを開始させた松井秀喜。最初の3戦で2本塁打して、その時点ではいきなり全開かと期待させた。しかし以降は当たりが止まって現在の打率は1割台、7日以降は4戦連続で先発落ちするなど「我慢」の状態が続いている。

 チームに不可欠の存在とはいえない現状の中で、松井は調子を上げてレイズの中で居場所を築けるのか。そしてプレー時間を少しでも増やすために、何をやっていけばいいのだろうか(成績は10日現在)。

昇格直後の試合でいきなり2ラン

 5月29日にメジャーに昇格した松井は、その日のホワイトソックス戦の2打席目に、いきなり右翼へホームランを放つという華々しい活躍をみせた。

 「2ラン本塁打を放った松井秀喜はすでにタンパベイでは伝説だ」

 ESPN.comのバスター・オルニー記者のツイッター上での発言は褒めすぎだとしても、ドラマチックな働きが多い松井らしい見事なレイズでのデビュー戦だったといってよい。

 さらに、6月1日のオリオールズ戦でも、元中日のチェン・ウェインから2号本塁打を放ってパワーをアピール。今季チーム打率でメジャー26位、長打率20位と必ずしも破壊力抜群とはいえないレイズ打線に、強力なインパクトを与えるかとも思われた。

ヤンキース戦では4番に座る

 ところが、その後は沈黙。2~6日の4試合で1本しかヒットが出ず、この期間は合計15打数1安打と低迷。打率もすぐに1割台に急降下してしまった。

 それでもニューヨークで古巣ヤンキースと対戦した5日には、メジャー昇格6戦目にして今季初の4番に座っている。

 「ニューヨークの試合だし、松井は劇的な男だ。他にも選択肢はあったけれど、今夜に関しては松井を4番に据えるのが正しいことのように思えたんだ」

 レイズのジョー・マドン監督は試合前にそうコメントした。そんな粋な計らいに応えて結果を出せれば、“頼れる男”として松井の株は上がり、チーム内での地位を築くのに役立っていたかもしれない。

 しかし、2008年4月以来となる右翼の守備にもついたこのゲームでは、元同僚アンディ・ペティットらの前に4打数無安打。内容的にもう一つの打席が多く、盛大なスタンディングオベーションで迎えてくれたニューヨークのファンに勇姿をみせることはできなかった。

松井に手厳しい「見出し」も

 このため、翌日のニューズデー紙に「ペティットはオールドマジックをみせたが、松井はただのオールド(年寄り)だ」などと手厳しい見出しを付けられることにもなった。

 続く6日も5番指名打者で出場したものの、4打数無安打。3本の大飛球を放ったが、すべてフェンス間際で失速して捕球されてしまった。

 松井本人は「微妙にズラされましたけれど、内容は悪くない。あとは結果が出てくれればよい」とポジティブに語っていた。しかし打者有利といわれるヤンキースタジアムで、ホームラン性の打球が次々と勢いを失ってしまうあたり、まだ全開にはほど遠い状態といえそうである。

打率は1割台に低迷

 10日までの8試合では25打数4安打で打率.160。左翼、右翼の守備を無難にこなしたのは好材料だが、打撃面ではやはりスイングの鈍さが目立った感じは否めない。

 DH制のないナショナル・リーグ本拠地での交流戦が始まったこともあり、10日まで4日連続でスタメンを外れる結果となってしまった。

 マイナーの調整期間も打率.170と振るわなかった。独自でトレーニングを積んでいたとはいえ、やはりスプリングキャンプに参加できなかった影響は大きく、試合勘も十分に戻っていないのかもしれない。

 今回のメジャー昇格も、ケガ人の多いチーム事情という面があり、昇格後すぐに数字が残せなくても仕方ない部分もあるだろう。

 だが、松井にはそうもいっていられない事情がある。5日に正左翼手のデズモンド・ジェニングスが故障者リストから復帰し、定位置争いは激化。DHはルーク・スコット(今季ここまで35打点はチームトップ)、右翼はマット・ジョイス(11本塁打はチームトップ)がレギュラー扱いだけに、彼らが力を発揮すれば松井は弾き出されてしまう。

過酷なイス取りゲーム

 松井と仲が良いと伝えられるヤンキースのデレック・ジーターは、「レイズに入れたのは彼にとって良かった」と語っていた。

 確かに低迷チームならベテランを使う理由はないだけに、今季も優勝を争うだけの戦力を備えたレイズは、松井の勝負強さや経験が必要とされる適切な職場だといえる。ただその一方で、強豪であればあるほどチーム内の競争も激しくなる。

 高レベルのア・リーグ東地区で現在0.5ゲーム差で首位に立っているとはいえ、ヤンキースなどとしのぎを削っているチームに、不振に悩むベテランを我慢して使っている余裕はない。

 実際、6日のヤンキース戦前には4月中旬にアスレチックスから移籍してきたブランドン・アレンが成績不振(13打数2安打、打率.154)を理由に解雇された。これから先も、過酷なイス取りゲームは続くだろう。

 特に7月下旬のトレード期限あたりで、チームがさらなるテコ入れを図るため、席を空けようとして現在のロースター内の誰かを解雇することは十分に考えられる。

一塁の守備練習に挑戦

 決して安泰ではない自らの立場を理解しているだろう松井は、7日のヤンキース戦に初めて一塁の守備練習にも臨んだ。「前から(監督に)いわれていた」と語っていて、今後も継続して練習に取り組んでいく様子である。

 DH制のない敵地での交流戦に備えての準備だが、実際には交流戦が開催されている間に無難にこなせるようになるのは難しいだろう。しかし、練習を重ねて交流戦が終わるころに、ある程度、一塁も守れるようになれば、チームだけでなく、松井本人にとっても大きい。

 今季からレイズに戻った正一塁手のカルロス・ペーニャが、ここまで打率1割台と不振。DH以外に一塁も守れるスコットも、昨年の夏に手術した右肩の回復が遅れ、守備につくのは難しい状態が続いている。

一塁は狙い目のポジション

 そんな現状で外野やDHと比べて、一塁は松井にとって狙い目のポジション。もちろんレギュラーとはならなくても、左翼、DH、右翼に続き、一塁手としても出場可能になれば打席に立つチャンスも必然的に増える。

 いまの松井はいわばユーティリティー(便利屋)的な選手。チームに必要なことは何でもトライしていかなければならない。

 そして、何よりも重要なことは、松井が好きな夏が近づいてきていることだ。アスレチックスでプレーした昨季もオールスター前の前半戦の打率が.209だったのに対し、後半戦は.295。チームとして勝負どころである終盤戦で、「頼りになる男」になれることを証明しなければならない。

 そのためにも、さらに一層汗をかき、体のキレを増していくことが重要だろう。

今は「我慢」と「新たな挑戦」のとき

 「(09年のことは)思い出さないようにしている。今の自分には決してプラスにならない。野球をやめるまで心の中にしまっておこうと思う」

 ヤンキース戦の前、顔なじみのニューヨーク地元メディアに囲まれた際、松井はそう語っていた。

 ヤンキースを世界一に導いた09年のワールドシリーズでのMVPを頂点に、松井のキャリアが下降線をたどっているのは紛れもない事実。だが、本人がそれを自覚し、地道に突破口を開こうと模索し続けるなら、新たな道が開ける可能性は必ず残る。

 結果を残せなければ、マイナー落ち、あるいは解雇されても驚くべきことではないのかもしれない。だが、何らかの形で貢献できることを証明しさえすれば、過去4年で3度ポストシーズンに進出したレイズの一員として、再びプレーオフで活躍するチャンスがくるはずだ。

 松井にとって、今は「我慢」と「新たな挑戦」のとき。今後どんな結末が待ち受けているのか、もうしばらく目が離せそうにない。
NHKスポーツオンライン 高橋洋一郎 2012/06/11
現実~松井秀喜~
ニューヨーク、ヤンキースタジアム。
2009年のワールドシリーズ。
泣き、笑い、飛び跳ね、抱きあい、歓喜を体いっぱいにほとばしらせたこのフィールド。
今年もまた帰って来た。戻ってくることができた。

タンパベイレイズとマイナー契約した松井秀喜選手が5月29日にメジャーに昇格、そのあと最初に訪れることになった遠征地がまさにニューヨークだった。
6月にしてはやや肌寒い。
フロリダ州ポートシャーロット、ノースカロライナ州ダーラム、そしてレイズ本拠地セントピータースバーグ、ずっと蒸し暑いところで過ごしてきた。
肌にまとわりつかない硬めの冷気がありがたく、薄手のジャケットが心地いい。
対ヤンキース3連戦の初戦。
レイズのマッドン監督は、ヤンキース時代の実績、ゆえにこのニューヨークという街に愛された松井選手を4番ライトで起用する。
しかし4打数0安打。
指名打者での先発起用となった2試合目、4度打席に立つもこの日も無安打。
敵地にかかわらず打席に入る際には誰よりも大きな歓声を浴びた。
ライトの守備位置に走って行くその姿を、「マツイ、マツイ…」のコールが迎えた。
しかし結果を出すことはできなかった。
翌日。スタメン表から松井選手の名前が消える。
そのかわりに、試合前慣れないしぐさで戸惑いながら、通訳から借りたファーストミットで一塁の守備練習をする松井選手がいた。
これが現在の松井選手の姿である。
守備につく事ができずに去ったこのフィールドで、いま一塁で打球を追う練習をしている。
これが現在の松井選手の事実である。

「マイナー契約というのは今の僕の現状」。
レイズ入団会見の際、笑顔一つ見せずにそう語った松井選手。
以来、彼はその「現実」と向き合い、「現実」をそのまま受け入れ続けて来た。
ポートシャーロットでは炎天下のなか、若い選手たちと一緒にプレーした。
3Aダーラムではマイナー特有の過酷な移動、そのまま試合という経験もした。
一度出場したら監督に途中で「代わるか?」と言われようが最後までプレーし続けた。
松井選手にとってとても苦くもあり、しかし喜びにも満ちた、まだプレーできているという「現実」。

ヤンキースタジアムでの3戦目以降、松井選手は4試合連続でスタメンを外れる。
その間の打席はたったの1度だった。
現地時間6月9日、マイアミ・マーリンズとの交流試合の最終回。3試合ぶりの打席。
すでにレイズの大量リードで試合は決まっていた場面。
どれもが現実ではある。
しかし、松井選手にとって、唯一そして最も意味のある現実はそこで2塁打を放ったこと、納得のいくバッティングができたことそれだけである。
どのような状況であろうが、どのような起用であろうが。
どれだけ間が開こうが、どれだけ回数が少なかろうが。
すべてを受け入れ、その与えられたチャンスに自らができることをすること。
そこで最大限の結果を出すこと。それだけが松井選手の今、そして現実である。

ヤンキース3連戦前、地元アメリカ人記者に囲まれ、2009年ニューヨークでの思い出が頭をよぎることはないか、と聞かれた。
「うーんどうかなあ……」と一瞬迷った後、きっぱりと言い切った。
「思い出さないようにしている。今の自分には決してプラスにはならない。
現役を辞めるまで心のなかにしまっておこうと思う」。

今となっては過去の実績はすべて輝かしい「事実」ではあるが、「現実」ではないのである。
Number Web プロ野球亭日乗 2012/06/10
華々しい本塁打の影に貧打の苦しみ。松井秀喜は“忍”の一字で機運を待つ。
 内容が良くても結果が出ない。

 それがバッティングを崩す大きな要因となることがある。

「どこまで我慢できるかですね」

 タンパベイ・レイズの松井秀喜外野手がこうつぶやいたのは、6月6日(日本時間7日)、ニューヨーク・ヤンキース戦の試合後のことだった。

 いったい何を我慢するのかというと、打てども打てども、なかなか安打につながらないという現実をだった。

 約1カ月間のマイナー調整を終えて、5月29日にメジャー昇格を果たした松井は、昇格初戦となったシカゴ・ホワイトソックス戦で名刺代わりの一発を放って華々しいレイズデビューを飾った。

 その2日後のボルティモア・オリオールズ戦。ア・リーグ東地区の首位攻防戦となったこの試合でも、元中日の左腕・チェンから特大2号。松井はたった3試合でその存在感をいかんなく発揮して、順調なメジャー復帰を飾ったように見えた。

本塁打を含めてヒットはわずか3本という惨憺たる現実。

 だが、である。

 そんな華々しい印象とは裏腹に、現実の数字はひどいことになっている。

 ヤンキース戦を終えた7日(同8日)時点で、打率は1割台の前半と低迷している。メジャーで放ったヒットは、そこまで本塁打の2本と3日のオリオールズ戦で放った左前安打の合わせて3本だけというのが実際の結果だったのだ。

「内容は悪くないと思うんです」

 松井は言う。

「ダーラム(最終調整していた3Aのダーラム・ブルズ)のときは、自分でも納得できない部分があったんですけど、上に上がったら良くなった。理由は自分でも分からないです。ただ、意識はしていないけど、(メジャーでプレーするという緊張感など)やっぱり精神的な部分があるかもしれないですね」

 これは決して負け惜しみではない。

内容は悪くないのに、結果が伴わない不運もあった。

 確かにヤンキース戦を終えるまでの凡退には中身が伴っていた。

 打球はきちっと角度がついて上がっている。3Aの試合では、どこか相手のタイミングでスイングしているように見えたのが、いまはしっかりと自分のタイミング、間合いでボールを捕らえられている。

 だからむしろタチが悪いのかもしれない。

 結果だけが思っているものと違うのだ。

 いい感じでとらえた打球が正面を突く。鋭いライナー性の打球が、相手野手の好フィールディングに阻まれる。そうしてスコアボードには「H」のランプがなかなか灯らなくなっているのだ。

「打者に一番の必要な精神は忍耐」とミスターは説く。

「打者の好調は長くて3週間なんです」

 こう語っていたのは、松井が師と仰ぐ長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督だった。

「その3週間を過ぎれば多かれ少なかれ、調子の波はくる。ただ、いくら調子が良くても結果に結びつかないこともある。そのときに結果を求めると、逆に好調の周期は短くなるんです。そういうときの一番の敵は、バッター自身の焦りなんです」

 だから結果が出ないときほど、戦いの相手は自分自身だとミスターは説く。

「結果が出ないと、どうしても打ちたくてボールを追いかけるようになる。自分のタイミングでどっしりと自分の狙っているボールを待つのではなく、打てそうなボールにあたり構わず手を出してしまう。これがバッティングを狂わす原因になる。だから打者に一番必要な精神は忍耐なんです」

 我慢できる心がトータルしたら高いアベレージを維持することにつながる。その教えを胸に刻み込んでいるから、松井はいま自分自身を戒める言葉を吐いたわけだった。

本塁打を追わず四球を選ぶ忍耐強さを松井は持っている。

「僕はことバッティングに関しては、我慢できるのが特性だと思います」

 これは松井の自己分析だった。

「3打席連続ホーマーを打って10点差で勝っている最終打席。そこでボール球には手を出さないでフォアボールを選べるか。それともホームランを狙えると思ったら、ボール球にも強引に手を出して、結果的にホームランも打つかもしれないけど三振もする。それが松井と僕の違いだと思う」

 かつて巨人で松井とクリーンアップを組んだことのある清原和博さんは、こうスラッガーとしての二人の違いを評していたことがあった。

 まさに松井とはそんな男であり、そういう忍耐強い打者なのである。

DH制の試合が減る交流戦で、いかにアピールできるか?

 故障者が続出したレイズは、これから徐々に主力選手が戦線に復帰してくる。しかもメジャーは8日から一斉にインターリーグに突入。ナ・リーグの試合では指名打者制度がなくなるために、松井にとっては狙えるポジションが1つ減ることにもなる。

 そういう意味では、松井にとってレイズでの生き残りをかけたサバイバル戦は、決して楽観視できるものではない。

「ヒデキは打席の内容は悪くないし、左投手を苦にしないのも分かっている。守備に関しても問題なくこなしている」

 選手の能力、状態を見抜く目利きと言われるジョー・マドン監督の松井評だ。結果だけではなく、実績と内容をしっかりと見定めている。

 そんな監督の下でプレーできる。それがなかなか結果の出ない松井にとっては、一番の救いでもある。
産経新聞 土・日曜日に書く 2012/06/09
論説委員・別府育郎 水を運ぶ少年と松井秀喜
 一枚の写真が語るストーリーは、何百行を費やすより雄弁であることがままある。原稿書きとしては、嫉妬するしかない。デジタルの時代となってもそれは、目に、心に、焼き付けられる。

宝物

 東日本大震災直後に、宮城県気仙沼市の被災地で撮られた「水を運ぶ少年」の写真は、強烈な印象を残した。

 津波によるがれきの町を、水を入れた焼酎の特大ペットボトルを両手に持ち、唇をかみしめて力強く歩を進める少年。共同通信が配信した写真は、国内外の多くのメディアで紹介された。

 感動した一人に、俳優の高倉健がいる。高倉は新聞の切り抜きを映画の台本に貼り、写真の少年の姿を見ると「ギュッと気合が入る。宝物です」と話した。

 持ち歩いているわけではないが、大事にしている新聞の切り抜きがある。2003年、松井秀喜のヤンキース1年目、宿敵レッドソックスと戦ったリーグ優勝シリーズ第7戦。劣勢の八回に同点のホームに滑り込んだ松井が両の拳(こぶし)を握りしめたまま体を丸め、高々とジャンプし、言葉にならない叫び声をあげている写真だ。

 「平常心」や「不動心」を唱えていつも冷静な松井が、壊れてしまったのかと思わせるほどの興奮ぶりだった。

 後年、大ジャンプの心境を本人から聞く機会があった。

 「プロ入り後、体で感情を表すことはなかったかもしれません。ゲームの大きさ、展開、いろいろなことで感情が爆発してしまったのでしょう。僕だって人間なので感情が上下するのは当たり前。ただそれを僕は抑えられるし、そのことがいいプレーにつながると思っています。ただあの瞬間は、そういうものを超えてしまったのでしょう」

 専属広報として米国の松井に同行する広岡勲によれば、巨人時代にも拳を突き上げたシーンがあったという。1997年6月、ファンの少年が交通事故で重体となり、松井は試合前に励ましのサインをボールに書いた。

 願いむなしく少年は試合中に息を引き取ったが、「松井選手はきょう必ずホームランを打つよ」と言葉を残した。悲しい知らせを聞いた松井は延長十四回に左中間本塁打を放ち、拳を突き上げたままダイヤモンドを駆けた。それはガッツポーズというより、天に届けとのメッセージだったのだろう。

あなたは一人ではない

 6年前の秋、全国でいじめに悩む子供の自殺が相次いだ。当時社会部で、「一人でも思いとどまってくれる紙面を作れないか」と話し合い、広岡に相談した。

 移動の車中で依頼を聞いた松井は「いじめている子と、いじめられている子、どちらに書けばいいのだろう」と悩み、260字のメッセージは2日後に届いた。

 《もう一度考えてほしい。あなたの周りには、あなたを心底愛している人がたくさんいることを。人間は一人ではない。一人では生きていけない。そういう人たちが悲しむようなことを絶対にしてはいけない》

 呼びかけは、翌日の産経新聞1面に掲載された。

 そういう男である。昨年の大震災にも、平静ではいられなかったろう。松井はこう話していた。

 「自分から勇気づけたいなんておこがましい気持ちはありません。ニュースで僕が打っているのを見て少しでも元気になってくれる人がいたらうれしい。少しでもいいプレー、少しでもいいニュースをお伝えしたい」

 だからこそ、不本意な成績に終わった昨年は苦しかったはずだ。今季は開幕時に契約球団が決まらず、それでも黙々と練習を続けた。松井にはなぜか耐え忍ぶ姿が似合う。ルーキー時代に「松井は高倉健に似ている」と語ったのは、確か青田昇さんだった。

 シーズン途中のマイナー契約から自力ではい上がり、5月29日、メジャー昇格初戦で会心の本塁打を右翼席に放った。

 確実な感触が手に残ったのだろう。弾道を確かめるように少し顔を上げると、次の瞬間には伏し目がちに唇をかみしめ、駆けだした。いつもの姿の松井に、少年の写真がだぶってみえた次第。

豪快に飛ばしましたね

 「水を運ぶ少年」は、気仙沼市の小学6年、松本魁翔(かいと)君という。震災直後は1カ月半も断水が続き、特大の焼酎のペットボトルを両手に、片道1キロの井戸へ毎日3往復以上を歩き続けた。

 いまも仮設住宅で家事を手伝いながら、この土日は少年野球の試合がある。内野を守る魁翔君の憧れは巨人の坂本勇人だが、松井の復活弾はニュースで見た。

 「豪快に飛ばしましたねえ」

 元気は、確かに伝わっている。
アサ芸プラス 2012/06/08
松井秀喜「逆襲のフルスイング」(4)
ちらついた「引退」の二文字

「浪人生活」が長くなるなるにつれ、周囲からは「引退」の噂もささやかれていく。

 巨人時代を知る日本の関係者から「引退」の二文字が口に出されたのは、この頃だった。その根拠は2010年1月1日付のスポーツ報知での“告白”だ。09年─10年オフといえば、松井はワールドシリーズMVPに輝いた。同紙は同年日本シリーズMVPの阿部慎之助との対談を企画し、松井は自身の引退について、こう答えていた。

「どこからも必要とされなければ、引退するしかない。引退は自分の基準ではない。いかに自分がチームの力になっているかどうかで判断する。俺がいて、ただ迷惑なだけとか、力になれないなと思われているのなら、もうやらないな。数字を残していても・・・」

 2年を経て、まさにその言葉どおりになったと、関係者のみならず周囲の誰もが判断したのだ。

 引退カウントダウン・・・。

「今もメジャーを目指すことに変わりはない」

 松井とのメールのやり取りを父・昌雄は、地元紙に明かした。それが松井が出した答えだった。もうこの時点では、故障者を抱えたメジャー球団しか入団の可能性は残されていなかったが、松井の闘争心はまだ消えていなかったのだ。

 その願いはレイズに届いた。レ軍のジョー・マドン監督は25人のベンチ入り要員を使いきるくらい、試合序盤から代打を使う戦術に長けている。過去4年のレギュラーシーズンで平均127通りの「日替わり打線」を編成してきただけに、松井はその勝負強さから「クラッチヒッター」(チャンスに強い打者)と称されてきた。指揮官からすれば「使ってみたい選手」のはずだ。

 さらに、このタイミングでメジャーに昇格すれば、松井にとって絶好のチャンスとも言える。松井はこうも称されている。「セカンドハーフ・ヒッター」

 つまり、後半戦に強い選手という意味だが、言い換えれば、「スロースターター」でもある。

 レイズは松井獲得後も補強を続けており、後半戦まで「スロースターター」の松井を待ってくれない可能性もゼロではない。

 4打数無安打に終わった22日の試合後、松井はティーやマシンでの打撃練習を行った。誰の指示でもない。巨人時代から変わらずこなしてきたルーティンである。

「打球が野手の正面を突いているだけ。悲観しなくても・・・」

 現地入りした日本人メディアからはそんな声も聞かれた。寡黙にバットを振るベテランの背中は、若い3Aの選手の胸にも響くものがあったはずだ。
アサ芸プラス 2012/06/07
松井秀喜「逆襲のフルスイング」(3)
ダルの移籍で後回しにされた

 メジャーの世界では、30代後半の指名打者タイプが買い叩かれること。そしてメジャーは、選手の実績ではなく、チームの経営状況で年俸が決まり、不景気で選手契約が遅れがちな傾向はわかっていたはずだ。

 だが、松井自身も「浪人状態」が、今年5月まで長引くとは、この時、想像していなかったのではないだろうか。

 年が明けた今年の1月4日、松井は母校・星稜高校を訪ね、恩師・山下智茂総監督と会談した。所属先が決まらないままでの母校挨拶は、渡米後初めてである。

 山下総監督が教え子の胸中を代弁した。

「日本球界への復帰はないと思う。『巨人を裏切って出ていった』という思いがあるから。そういうところはすごく真面目で」(同日会見より)

 そうした中、移籍先としてロサンゼルス・ドジャースが急浮上してきた。

「いくつかの企業グループが破産したドジャースの買収を進めているが、そのうちの1つにアーン・テレム氏も参画する企業がある。買収(競売)に成功すれば、氏が球団社長に就くのではないか」(11年12月28日付 ロサンゼルス・タイムズ紙)

 アーン・テレム氏は、松井の代理人を務めている。「社長就任のあかつきには松井も一緒に」と“想像”を膨らませた一部メディアもあったが、多くの米国メディア側は一笑に付した。

 前出・メジャー代理人事務所スタッフがその舞台裏を明かす。

「テレム氏にとっては例年以上に多忙なオフでした。ダルビッシュ有(25)=レンジャーズ=の契約に加え、MLBの労使問題の調停役も務めていました。松井が二の次にされたとは言いませんが・・・結果として出遅れることとなった」

 去就未定のまま、松井は再び米国に向かう。

 ニューヨーク郊外の自宅近くで練習を再開した松井だが、去就問題は一向に進まない。今年1月16日付の米各紙には、

「ヤンキースGMが松井、ジョニー・デーモンとも接触した。100万ドルから200万ドルの予算で『第2DH候補』を探している」

 という内容が一斉に報じられた。恐らく松井も古巣帰還に期待していなかったといえばウソになるだろう。

 だが、事態は一向に進まなかった。キャンプはもちろん、オープン戦も始まった。松井ではなく、ヤンキースの「第2DH」の座を射止めたイバニェスがオープン戦で打率1割5分と不振で、「(ヤ軍の)キャッシュマンGMはマツイの電話番号を覚えているはずだ」(CBSスポーツ)と、ラブコールがささやかれたが結局、ナシのつぶてだった。
アサ芸プラス 2012/06/06
松井秀喜「逆襲のフルスイング」(2)
打率復活でも残留できず…

 振り返れば、松井の苦闘は、シーズン開幕から始まったことではなかった。昨季在籍したアスレチックスと今季、再契約できなかった時から始まっていたのかもしれない・・・。

「マツイはトレード要員」

 松井の去就問題が最初に地元のサンフランシスコ・クロニクル紙に報じられたのは、昨年8月14日だった。

 アスレチックスは、同6月から指揮官がボブ・メルビン監督に交代すると同時に、松井を3番に指名。すると、それまで打率2割1分6厘と不振だったが、スタメンに定着するや松井のバットは上昇気流をつかんだ。

 夏場の成績は、87打数39安打。後半戦だけの成績を見れば、2割9分5厘、出塁率も3割5分3厘と高く、辛口の米メディアを黙らせている。

 松井自身も「復活=アスレチックス残留」と解釈していた。しかし、地元メディアの「サンフランシスコ・クロニクル」紙は、好成績を尻目にさらに追い打ちをかけていく。

「再契約の可能性も大きいが・・・」(9月28日)

「やっぱり、再契約の可能性は消えているようだ」(10月29日)

 一連の報道は「スーザン・スラッサー」という同紙のトップ記者による執筆だった。

 この記事の中では、松井の微妙な立場とともに、再三にわたって「ステイ・ヤング」という言葉が繰り返された。いわゆるチームの「世代交代」であり、地元ファンの関心も、松井の去就から、完全に若手選手に移っていた。

 チーム事情が松井の評価を覆すことはなかった。

 そして松井は、去就未定のまま、帰国の途に着く(11年12月28日)。

 松井は飛行機に搭乗する直前、現地日本人メディアに囲まれた時、ある記者が発したこの質問に言葉を詰まらせた。

「マイナー契約でも米球界に残るのか──」

 少し考えてから松井は、

「まだそこまでは考えていない」

 と返すのが精いっぱいだった。
スポーツナビ 杉浦大介 2012/06/06
レイズの4番として再び聖地に帰ってきた松井
「ヤンキースタジアムで、これだけの数の日本メディアを見るのは久しぶりだな……」

 6月5日(現地時間)のヤンキース対レイズ戦前のこと。伝統のヤンキースタジアムのフィールドに所狭しと陣取った日本人報道記者たちを目の当たりにして、知り合いの現地記者がそう呟いていた。
 松井秀喜がヤンキースに所属していた2009年までは見慣れた光景だったものが、もう珍しいシーンになった。日本人選手の活躍が当たり前になった現在でも、何年も変わらず、これほど大量の記者の視線を東海岸に集められるのはやはり松井しかいない。

 関心の高さはメディアの間からだけでなく、ニューヨークの地元ファンからも同じである。2010年はエンゼルス、昨季はアスレチックスの一員となっても、ヤンキースタジアムに帰還の際には常にスタンディングオベーションが送られてきた。そして、この夜のの2回表に巡ってきた第1打席――レイズの4番打者として打席に立った松井は、再び温かな拍手で迎えられた。

過去の栄光を封印して臨んだヤンキース戦

「(ワールドシリーズMVPを獲得した09年のことは)思い出さないようにしている。今の自分には決してプラスにならない。野球を辞めるまで、心の中にしまっておこうと思う」
 この日の試合前に本人はそう語ったが、しかし、周囲は09年ワールドシリーズでの驚異的な活躍(打率6割1分5厘、3本塁打)を忘れてはいない。松井に関して言えば、“ニューヨークで愛されている”という言葉は誇張ではない。これから先も、引退した後でさえも、この街に戻って来るたびに盛大なオベーションとともに迎えられ続けるのだろう。

 しかし、そんな中で迎えたこの日の試合では、松井は4打数0安打。元同僚のアンディ・ペティットの前に、第1打席は力ない遊ゴロに倒れ、第2打席はレフトフライ。甘い球が多かったようにも思えた第3打席もファーストファウルフライ、9回も代わったフレディ・ガルシアの前に空振り三振と、最後まで良いところがないままだった。

晴れ舞台でアピールする絶好機を逸した

「ニューヨークの試合だし、松井は劇的な男だ。ほかにも選択肢はあったけど、今夜に関しては、松井を4番に据えるのが正しいことのように思えたんだよ」
 この日のゲームで松井を今季初の4番、そして久々のライトで起用したことに関し、試合前にレイズのジョー・マッドン監督はそう語っていた。

 相手の先発がサウスポーのペティットだっただけに、策士として知られるマッドンが左腕に過去通算打率2割8分5厘と強い松井に中軸を任せるのは自然ではある。ただそれと同時に、松井の功績とニューヨークのファンにまで配慮して4番に据えた部分もあったのかもしれない。

 そんな小粋な演出に応えられれば、松井のレイズ内での株はさらに上がり、チーム内での立場を確立する助けになっていたことだろう。しかし、この日を終えて打率は1割5分(20打数3安打)にまで下がり、チームも0対7でで完敗を喫した。
 もちろんこの日は松井だけが打てなかったわけではない。だが、古巣相手の晴れ舞台でアピールする絶好機を逸した感も否めない。

正左翼手の復帰で、定位置争いは激化へ

 5日には正左翼手のデスモンド・ジェニングズが故障者リストから復帰し、今後は定位置争いが激化すると予想される。もともとDHはルーク・スコット(今季ここまで9本塁打、35打点はチームトップ)、右翼はマット・ジョイス(9本塁打はチームトップタイ)がレギュラー扱い。ニューヨーク初戦のハネムーンは終わり、6、7日は松井の先発出場も、もう保証されているわけではない。

 繰り返すが、松井の“ニューヨークの成功者”として立場はもう永遠に揺らぐことはない。松井のことを「Venerable(尊敬すべき選手)」と呼んだ地元記者がいたが、ヤンキース時代の献身的な活躍と真摯(しんし)な姿勢への評価はそれほど高い。少々気の早い話だが、例えば引退後に恒例のオールドタイマーズゲーム(OB戦)にでも出場すれば、その年の目玉として迎えられることだろう。

タンパベイでの地位を確立できるか!?

 ただ、ニューヨークではなくタンパベイでの松井は、現時点で知将マッドン監督が使いこなす有用なピースの1つに過ぎない。
 打てば出場機会は当然増えるが、現在のような打率で沈み続けた場合、それほど我慢強くは使ってもらえないはず。今季はマイナー契約というゼロに近い位置からスタートした松井が、それに気付いていないはずがない。
 前記した「(09年のことは)思い出さないようにしている。今の自分には決してプラスにならない」という本人の言葉は、自らの立場をしっかりと理解してのものだったに違いない。

 このままレイズに所属し続けたとすれば、次にヤンキースタジアムを訪れるのは9月14〜16日。その時には、聖地は再び多くの日本人メディアに満たされ、元ヒーローは大歓声で迎えられるのだろう。しかし、ペナントレースも佳境を迎えているであろうその時期に、松井自身はどんな立場となっているのか。
 プレーオフ出場も有力なチームの主力打者として確立しているか。あるいはプラトーン(相手先発投手によって使い分ける選手)、もしくは代打が専門の選手となっているか。それとも……。

 そのバットで、常に道を切り開き続けなければならないメジャー10年目。松井にとっての2012年は、長く、険しく、それゆえにエキサイティングな旅となりそうである。
アサ芸プラス 2012/06/05
松井秀喜「逆襲のフルスイング」(1)
 今シーズン、マイナースタートという屈辱を味わったレイズの松井秀喜。チーム合流後もバットから快音はほとんど聞かれず、打率も低迷。しかしここにきて、にわかに“光明”も見えてきた。チーム事情の悪化に、首脳陣がゴジラの咆哮に期待を寄せ始めたのだ。

「ケミストリーを起こせる選手」

 タンパベイ・レイズ傘下3A「ダーラム・ブルズ」でメジャー昇格を目指す松井秀喜外野手(37)が、シャーロット戦に『4番・指名打者』で出場したのは5月22日のことだった。しかし、結果は4打数無安打。前日の同カードでは延長10回にサヨナラ安打を放っており、翌日のデーゲームということもあり、「出場するかどうかは松井の意思に任せる」とチーム首脳陣は話していた。

「1日でも早く実戦感覚を取り戻したい」との思いもあったのだろう。松井は「出る!」と即答したのだが・・・。

 5月15日のチーム合流後、「8連戦連続フル出場」と意気込んだが、5月22日時点での成績は30打数4安打4打点、本塁打ナシ。打率1割3分3厘は「チーム野手19人中18位」という成績である。ライバルの元キューバ代表・アンダーソンが打率3割、3本塁打と絶好調なだけに厳しい状況だ。しかし、この低打率にもかかわらず、にわかに松井周辺が騒がしくなってきた。

「近日中にメジャー昇格を果たすらしい」

 低迷する成績をよそに多くの米スポーツメディアがそう報じていたのだ。

 メジャーリーグ情報に詳しい友成那智氏(スポーツジャーナリスト)がレイズの戦況をこう解説する。

「レイズは4月のチーム総得点が『106』でア・リーグ14球団中4位。それが5月に入って『78得点10位』に落ちています。原因はスタメン野手陣の相次ぐ故障・離脱です。DHのルーク・スコットが調子を落としているところに、1番打者のジェニングス(レフト)、3番・サードのロンゴリア、セカンドのケピンジャーを故障で欠き、ライトのゾブリスト、ファーストのペーニャ、4番目の外野手のジョイス、左の代打要員のアレンが不振。ダーラムのアンダーソンもいますが、彼らはレフトを守れない。消去法で松井の名前が浮上してきたんです」

 さらに、松井にとって追い風となったのは、5月25日からのレッドソックス3連戦を控えていたことに他ならない。08年以降、松井はレ軍先発ローテーションの一角、ジョシュ・ベケットを“カモ”にしてきただけに、球団首脳は、松井がベケットに対する相性のよさを発揮してくれれば、下降気味にあるチームの起爆材になると思ったのだ。いわば、故障者続出のチーム状況から考えると、今回の“駆け込み契約”は「ラッキーだった」とも言える。

 だがその一方で、シビアな見方もされている。

「近く昇格するらしいが、ケン・グリフィーJr.の晩年のように、やることがなくて、ベンチで居眠りでもするんじゃないか?」

 この記述は米MLBマニアのサイトに書かれたもの(現地時間5月13日付)。辛辣な内容も多いが、しっかりとした取材に裏打ちされた記事によって構成されているだけに、メジャーファンの間でも非常に信頼性も高い。そのため「すでにマツイは終わった」と思っているメジャーファンも少なくないのだ。

 しかし、メジャー10年目を迎える松井に対する賛辞の声はいまだに根強いものがある。メジャー選手代理人事務所のスタッフが言う。

「マツイは『ケミストリーを起こせる選手』と、こちらでは評価されています。フォア・ザ・チームの精神、好機での勝負強さ、夏場以降尻上がりに調子を上げていく点などがそうです。数字に表れない“化学反応”でチームを変えることのできる選手という意味です。レイズと契約する前、ヤンキースのジラルディ監督、ヤ軍時代の打撃コーチに当たるドジャース・マッティングリー監督が称賛の言葉を並べたのは、日本人メディア向けの社交辞令ではありません。そういうマツイの長所をよく知る監督、コーチのいるチームと契約できなかったのは『アンラッキー』でしたが・・・」

 松井にとって、マイナーでの打率低迷も、“ゴジラの逆襲”に向けての準備期間なのかもしれない。
産経新聞 大リーグ通信 2012/06/03
長嶋元監督との絆 松井、背番号「35」に秘めたメジャー昇格の思い
 10年目のメジャー再出発は、この男らしく豪快な本塁打で幕を開けた。レイズとのマイナー契約からメジャー昇格を果たした松井秀喜(37)が、今季初出場となった5月29日(日本時間30日)のホワイトソックス戦で鮮やかな先制2ランを放ち、健在ぶりを見せつけた。過去の所属球団で着けていた背番号「55」とも決別し、「35」を着けることになった松井。そこには、巨人時代の“師匠”でもある、長嶋茂雄元監督への思いが込められていた。(浅野英介)

完全試合右腕から一発

 レイズでの“デビュー戦”となったホワイトソックス戦。豪快な一打は、四回の第2打席で生まれた。

 ホワイトソックスの先発ハンバーは今年4月に完全試合を達成した右腕。そのハンバーが投じた145キロの速球をとらえた打球は、右翼席中段へと吸い込まれた。本拠地トロピカーナ・フィールドに詰めかけたファンは、背番号35をスタンディングオベーションで出迎えた。

 勝負強さを発揮した松井に、レイズのマドン監督も「すごくいいスイングだった」と絶賛。メジャー復帰戦を本塁打で飾り、MLBの公式サイトは「松井、好スタート」との見出しで活躍を速報した。

 試合後には「特別何かを意識したことはない」と平常心を強調した松井だが、マイナーでは打率.170と結果が出ていなかっただけに、その表情には安堵(あんど)感がにじんだ。

長嶋元監督との「絆」

 松井の背番号といえば、巨人やヤンキースなど過去の所属球団で必ず着けていた「55」が代名詞だった。だが、レイズではすでに先発投手のムーアが「55」を着けている。初戦を終えた松井の口から、新たな背番号「35」を選択した理由が語られた。

 「(35が)空いていたから。5番も残したかった」。そのうえで、巨人時代に指導を受けた長嶋茂雄元監督の背番号3を念頭に「一番の理由は“師匠”の番号を一ついただいた」と打ち明けた。

 松井と長嶋元監督とは浅からぬ縁がある。ドラフトで自らを引き当て、現在も屈指の名勝負として語られる「10・8決戦」(1994年)の巨人-中日戦では、監督と選手としてともに戦った。プロ野球の象徴的な存在でもある長嶋元監督から、さまざまな薫陶(くんとう)を受けてきた松井にとっては、まさに「師匠」のような存在だ。

 今年1月、東京都内のホテルで行われたDeNA・中畑清監督の「監督就任を祝う会」。そこでは、長嶋元監督と松井の“ツーショット”が、公の場で久々に実現した。中畑監督から国内復帰のラブコールを受けると、「長嶋監督がOKと言わないといけないんで…」とジョーク交じりに切り返した松井。その言葉に笑顔を浮かべる長嶋元監督との光景は、2人の絆を改めて感じさせた。

激しさ増す「競争」

 華々しい復帰戦を飾った松井だが、厳しい現実も待ち受ける。

 現在はジェニングズ、ロンゴリアなど主力野手が故障しているレイズだが、復帰すればチーム内での競争は当然激しくなる。短期間で結果を残さなければ「即解雇」もあり得る厳しい世界だ。

 それでも、松井は言う。「しっかりと準備して、行けと言われたときに、しっかりといいプレーができるようにしたい」。松井のメジャー再出発は、まだ序章にすぎない。
J SPORTS The Challenger 2012 ~MLBの挑戦者たち~ 出村義和 2012/06/01
松井秀喜 復帰デビューアーチで新たな章へ
極上のメジャー復帰デビューだった。六番、ライトのスタメン出場、その第2打席。
4月に史上21人目の完全試合を達成したフィリップ・ハンバーの投じる90マイルの外角ファストボール。
新背番号「35」をつけた松井秀喜、渾身のフルスイング。打球は鮮やかな放物線を描いてライト中段に飛び込んでいった。
ゴジラ大逆襲はついに始まった。

1か月に及ぶマイナーでの生活。結果は出せなかった。
トリプルAで13試合に出場して、打率170、打点4、ホームランはとうとう1本も打てなかった。
「正直なところ、(昇格の知らせを受けて)素直にうれしいとは思えなかった。ちゃんとした成績を残していきたかった」

だからこそ、デビュー戦での一発はドラマ性を高めた。
先制点となった第1号は勝利に結びつかなかったが、松井という選手のクォリティーの高さを十分に証明するものだった。
「本当に凄かった」と、マドン監督は語る。
しかし、彼は豪快な一発だけではなく、第3、第4打席での凡ゴロを打ったあとの姿に着目していた。
「一塁まで本当に一生懸命走っていた。長期間移動(昇格前の4日間で約3100キロ)してきたにもかかわらず、懸命にプレーしていた。尊敬に値する」

それにしても、デビュー戦に強い男だ。
03年、ピンストライプを着た初めてのオープン戦で、いきなりホームラン。
メジャーデビュー戦となった開幕のブルージェイズ戦でも初打席で左前タイムリー。
地元ニューヨークの開幕戦で、ニューヨーカーの大喝采を浴びる満塁ホームラン。1年目から選ばれたオールスターでは初打席で左前打。
ポストシーズンに入って、地区シリーズの初打席で中前打、ワールドシリーズ第1戦では3安打といった具合。
さらに、エンジェルスに移籍した10年には開幕戦でホームランを放っている。

こうした活躍はいずれ伝説として語り継がれていくだろう。

しかし、ホームランでデビュー戦を飾り、そのストーリーに新たな1ページを加えたからといって、松井の置かれている危うい立場が変わるわけではない。現実は控えのDHであり、外野手。そして、代打要員だ。
実際、翌5月30日(現地)のスタメンには松井の名前はなく、6回一死からの代打出場。その後、左翼の守りにつくという役割が与えられた。
「こういう形の出場は多くなると思う」と、本人も十分に覚悟している。

レギュラー左翼手のデズモンド・ジェニングスは現在DL(故障者リスト)に入り、やっとマイナーでリハビリ試合に出場できるようになったばかり。
彼の復帰までは、守備も任される。本拠地球場は人工芝。心配なのは古傷のヒザへの負担だ。
「不安もあったが、やってみて大丈夫」と語るが、試合を重ねていくうちに悪化しないとも限らない。
オフの時点では「手術をして以来、状態は一番いい状態」といっていたが、ヒザを故障する原因となったのは人工芝。
マドン監督は、前回のコラムで書いた通り、アクティブな監督である。
様々な戦術を用い、ベンチ入り25人の選手全員で戦うスタイルを貫いている。
従って、松井が外野守備につくケースは、本人や周囲が考えているよりも、ずっと多くなるかもしれない。

しかも、間もなく迎える誕生日で、38歳になる。年齢からくる肉体的な衰えもある。
ゴジラの最終章になるのか。それとも、さらに新たな章を加えていくことができるのか。
日米通算20年目のシーズン。松井の再チャレンジはスリルに満ちたものになることだけは確かだ。
Number Web Sports Graphic Number 2012/06/01
<再出発の決意を語る> 松井秀喜 「“20年前の気持ち”で挑むメジャーへの道」
 フロリダ州のタンパ国際空港からレンタカーを駆って南に約1時間半。メキシコ湾を望む小さな港町、ポート・シャーロットにあるタンパベイ・レイズの施設で、松井秀喜はボールを追いかけていた。

 実戦練習に入る前の5月5日のことだった。 ユニフォームも与えられずに短パンとTシャツ姿。周りにいるのは1Aやルーキーリーグ、もしくはそこにも入れない教育リーグの選手たちで、年齢も二十歳そこそこという若者ばかりだ。その中で、ひと目見て、松井の何が目立ったかと言えば、短パンからのぞくふくらはぎの白さだった。

 その白さが、ニューヨークで孤独なトレーニングを続けてきたこれまでの苦労を、妙に実感的に物語っているようにも思えた。

「アメリカでのオファーを待つって決めていたから。とにかくそれだけ。あとは何もなかったですよ」

 契約が決まらないままに日本を発ったのは、2月22日のことだった。

 当初はロサンゼルスなどの暖かい場所で自主トレを行なうのではと見られていたが、結局、松井が決めたのは自宅のあるニューヨークでのトレーニングだった。

一般のバッティングセンターなどで行っていた孤独な自主トレ。

「何らかのあてがあるのなら、そういうところに行って練習をすることも考えたかもしれないけど……。でも、あの時点ではまったくあてもなかった。いつになったら契約が決まるとか、そのメドもなかったからニューヨークでやるしかなかったんですよ」

 そうして始まった孤独な自主トレ。当初はマンハッタン近郊のバッティングセンターなどで打ち込みを行なっていた。

 そこでは自分がワールドシリーズでMVPをとった元ヤンキースの松井秀喜であるということも一切明らかにしないで、黙々とボールを打っていた。施設の関係者も、まさかこんなところにあの松井がいるとは想像しなかったのだろう。ウォーミングアップのために軽く施設内をランニングしていると「ここでは走るな!」と注意をされたり、特別扱いは一切してもらえなかった。

 その後は、知り合いの紹介でマンハッタンから30kmほど離れた室内練習施設を見つけると、そこに連日通って打ち込みなどを行なうようになった。

広報と通訳が、自主トレの打撃投手を務めていた。

 この自主トレ用に、60球のボールが入ったカゴを用意した。トスバッティングでそのカゴをまず、3個分打つ。それから練習相手の広岡勲広報とロヘリオ・カーロン通訳が打撃投手を務めて1個ないし1個半ずつを打つ。もちろん専門の打撃投手ではないのでストライクが入ったり入らなかったり。それでもじっくりとボールを見極めて1日約300スイング、一心不乱にバットを振り続けた。

 打撃練習が終わったら、最後のクールダウン代わりに今度は松井がマウンドに立って、2人を相手にボールを投げ、肩も鍛えた。

 それが自主トレ期間の最低ノルマだった。

「振り込みという点では、それなりに出来たと思います。もちろん実戦はやっていなかったので、こっちにきたらそういう感覚を徐々に上げていくことがまず最初の課題。でも、それもこうして練習してみたら、あまり問題はなかったように思います」

 5月2日から始まったレイズでの練習。フリー打撃から実戦形式のライブBP(打撃練習)、シート打撃と内容を上げていき、練習試合に初出場したのが9日だった。

 ツインズ傘下のマイナーチームを相手にしたこの試合では5度打席に立ち、2安打を放って1打点をマーク。12日のオリオールズ傘下のマイナーチームとの試合では、最終打席で豪快な右越え本塁打も放って、調整が順調に進んでいることを見せた。

なぜ松井は「20年前」を思いだすのか?

「何だか20年前を思い出していますよ」

 練習後のホテルで、松井がフッとこんなことを語りだした。

「20年前」とは、巨人に入団した1993年のことだった。

「あの年は開幕に二軍に落ちて5月に一度、上(一軍)に上がったんだけど、7月にまた落とされた。下では一軍に上がるために、結果を残そうと必死になってやっていましたからね」

 そんな状況が、今の自分の境遇に似ているというのだ。

 プロ2年目以降、巨人ではもちろん二軍のグラウンドに立ったことはない。メジャーでも、'06年に左手首を骨折した際に手術、リハビリを経て、復帰のための実戦調整でヤンキースのマイナーの試合に出場したことがあるだけだ。そのときもあくまで自分の実戦感覚を取り戻すための調整で、結果は二の次だった。

「でも、今度は違いますからね」

 松井は言う。

「あの頃の僕もギラギラしていたんだと思う」

 マイナー施設での調整を終えて、ノースカロライナ州のダーラム(ケビン・コスナー主演の野球映画の傑作『さよならゲーム』の舞台となった街だ!)に本拠を置く傘下の3Aチーム、ダーラム・ブルズに合流した。

 そこでいよいよメジャー昇格をかけた“実戦テスト”が始まったわけだ。

「結果を求めてマイナーでプレーするのって、あの巨人での1年目以来なんですよ。今、周りでプレーしている若い選手たちみたいに、あの頃の僕もギラギラしていたんだと思う。まあ、今は若い頃のように表だってギラギラはしないだろうけど、でも、これからはそういう気持ちで結果を求めてプレーしなければならないと思っています」

 松井は静かに言った。