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Columnコラム

スポーツナビ 渡辺史敏 2003/03/27
『GODZILLA MEDIA WATCHING』 VOL.5
MLB開幕間近! 松井は中距離打者or長距離砲?
ショッキングな見出し… 『松井は本物?』

 イラク戦争という暗い影が世界を覆っているが、いよいよMLBが来週開幕となる。今週の週刊メディアや新聞では、開幕特集や連載を掲載しているものが多い。その中で特にヤンキース、そして松井はホットな存在として扱われている。

 ヤンキースに関しては、松井を含めとにかく豪華すぎる陣容で、(デービッド・)ウェルズの暴露本騒動などはあったものの地区優勝は必至、といった感じの評価がほとんど。ワールド・シリーズ・チャンピオン奪還の可能性も高いとする専門家、メディアも多いようだ。


 が、そんな中でちょっと気になったのが、松井の評価だ。『Sports Illustrated』はチーム紹介のページで松井を「日本リーグで3度のMVP(になった松井)はこの春、素晴らしいバット・コントロールを見せた」と紹介している。  そし全国紙の『USA TODAY』は25日付けのスポーツ・セクションで「松井は本物?」(Mel Antonen文)というちょっとショッキングな見出しの記事を掲載した。内容は日本で昨年50本の本塁打を打った松井は、今シーズン果たして何本の本塁打を打てるか、というもの。過去の例などから、かなり減る可能性があると言及されている。

 この2つを見ると、シュアなラインドライブ・ヒッター、中距離打者として評価が固まりつつあるように思える。と同時に、本塁打は日本にいる時ほどは無理だろうとも。

 が、同じ『USA TODAY』が発行している週刊スポーツ誌『Sports Weekly』は、やはり開幕特集のチーム分析で「30~40本は打てそう」としており、どうも評価が分かれているようだ。

評価、分析の大きなファクターは“本塁打”

 むしろこれらの記事に共通していることは、やはり本塁打が大きなファクターなのだということである。「何本、本塁打が打てるか?」は日本ではヤンキース入りが決まる前からさかんに議論されてきたトピックと聞いている。

 こちらでは、松井に関する加熱報道を知らせる記事で「本塁打が何本打てると思うか? という質問ばかりされる」というアメリカ人記者のグチが使われたほどで、当初はそれほど真剣に語られることはなかった。それがここに来て、アメリカのメディアまでが松井の本塁打数を気にするようになったのである。

 確かに2月の段階では松井のプレーを見たことある現地メディア関係者は少なく、評価のしようがなかったのも事実。春のオープン戦を通じて、いよいよ松井への分析、評価が本格化し始めたと言える。そして、彼らもやはり松井の実績から”本塁打”を重要な要素と感じたのかもしれない。

 松井自身は「ホームランに対する考え方が多少、変わった」と、本塁打を狙う意識を減らすことを語っている。が、MLBはもともと、本塁打が日本以上に評価される世界でもある。これからのプレー内容によっては、さらに意識変革を地元メディアが迫る、というような事態になるかもしれない。
スポーツナビ 梅田香子 2003/03/26
『松井秀喜 メジャー交友録』 VOL.4
目指せ新人王! 松井にジーターの輝きを
ニューヨークで新人王獲得は至難の業?

 さて、松井秀喜は「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」(新人王)を獲得できるのだろうか。

 気が早いといわれることは百も承知している。ニューヨークは新参者にとって、決してやさしい環境とは言えない。すぐに結果を求めたがる気短なファン。競争意識が強く、プライバシーも容赦なく批判する地元のマスコミ。治安の問題もあって、全米で最もストレスフル(ストレスの多い)な都市と言われ、もともと精神科のクリニックやカウンセラーの数は多かった。9・11テロ以降は、どこも予約をとるのが大変なほど、商売繁盛しているようだ。

 1980年代以降、ニューヨークが生んだ「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」は。デーブ・リゲッティとデリック・ジーターの2人だけ。そのジーターは、松井には何かと気配りを見せ、バット談義など共通の話題を見つけては話しかけている。

ホームシックに悩んだジーターのマイナー時代

 こと野球に関して言えば、挫折らしい挫折を知らないジーターだが、苦労がなかったわけではない。父親のチャールズが黒人、母親のドロシーが白人だったため、幼い頃は住むためのアパートがなかなか見つからないという経験もしている。

 デリックの母親は13人兄弟だったから、大学の奨学金目的で軍隊に志願し、赴任先のドイツでアラバマ出身のチャーリー・ジーターと出会い、恋に落ちた。除隊した後はそれぞれ大学に進み、ドロシーは税理士、チャーリーはカウンセラーの資格を取って公立高校に就職した。

 長男のデリック・サンダーソン・ジーターが生まれたのは、74年6月26日。祖母のドットはヤンキースの大ファンだったので、
「未来のヤンキーが誕生したよっ!」
 と大喜び。この祖母がデリックにキャッチボールを教え、ヤンキースタジアムに連れていき、ジョー・ディマジオの打球がいかに素晴らしかったかを繰り返し説いたため、デリックは子供の頃から大のヤンキース・ファンだった。

 それだけに、92年のドラフト会議でヤンキースから全体6番目で指名された時は、喜びを抑えることができなかった。が、さっそく入団契約を交わし、マイナーリーグに送り込まれたものの、ホームシックに悩まされた。

「何度荷物をまとめて帰ろう、と思ったか知れやしない。最初の1年は、日に7度も8度も家に電話してしまい、月給のほとんどが電話代を支払ったらなくなってしまったよ。試合では、記録されないものも含めたら、ほとんど毎日エラーしていた。だから、深夜になっても、ほとんど毎日泣きながら親に電話していたんだ」

 父親がカウンセラーだと、こういう時は便利かもしれない。チャールズは環境が激変したことからくる「ストレス」が精神のバランスを崩したのだと判断し、
「エラーを次の日まで持ち込むな。終わったことをクヨクヨ悩んではいけない」
 繰り返しそう話して聞かせた。

ルーキーのジーターを抜擢したトーレ新監督

 95年5月29日、ついにジーターはメジャー昇格。ずっとあこがれていたヤンキースの本物のユニフォームにそでを通すことができた。

 この年、ヤンキースは東地区2位ながら、ワイルドカードで14年ぶりにプレーオフ進出を果たしたが、第1ラウンドでマリナーズに2連勝の後、3連敗で敗退。エキセントリック(風変わりな)で独善的なチーム愛で知られるオーナー、ジョージ・スタインブレイナーは、新監督にジョー・トーレを招聘(しょうへい)することを発表した。

 トーレ監督はかなり早い段階で、
「ショートストップはデリック・ジーターを起用したい」
 と発言したため、デリックは全身の血が逆流するような興奮を覚えずにいられなかった。オフは4カ月間、ずっとタンパにあるマイナーリーグのトレーニング・センターで過ごし、徹底的に鍛え上げた。

ニューヨークのファンは松井に何を期待する?

 ヤンキースはトーレ政権の1年目、故障者が続出したにもかかわらず、なんとか首位を守り続け、ワールドシリーズにもコマを進めた。

 オリオールズとのアメリカンリーグ・チャンピオンシップ第1戦の8回裏、3対4とリードを許した場面で、デリックに打順が回った。おっつけた打球はライトへの大飛球となり、外野手がグラブを出して待ち構えていたが、フェンスからヒョイと身を乗り出した12歳の少年がこれをキャッチしてしまったのだ。これを審判がおもわずホームランと判定してしまう、歴史的な珍事が起こった。

 そしてワールドシリーズでは、下馬評はブレーブスが優勢だったが、ヤンキースが2連敗の後、4連勝。何年かかってもチャンピオンリングに手が届かないベテランはいくらでもいるというのに、デリックの場合はメジャーに定着した1年目にそれを成し遂げてしまった。慌ただしかった旅の揚げ句にたどり着いたのは、ワールドシリーズ優勝という栄光と「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」という名誉だった。

 もちろんニューヨークの野球ファンはあの日のデリックがどれほど輝いていたか、昨日のことのようにリアルに記憶している。そして、それと同じ興奮と期待を松井に向けているのだ。

デレック・ジーター/Derek Jeter 1974年6月26日生まれ。米ニュージャージー州出身。走好守3拍子そろった大型遊撃手で、その甘いマスクから「ニューヨークの貴公子」と呼ばれる。92年のドラフトで、ヤンキースから1巡目指名(全体6位)を受けて入団。95年にメジャー昇格を果たすと、96年にはルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)を獲得し、18年ぶりのワールドシリーズ優勝に貢献。2000年には、オールスターとワールドシリーズの両方でMVPに輝くなど、特に大舞台で抜群の勝負強さを発揮する。
スポーツナビ 渡辺史敏 2003/03/20
『GODZILLA MEDIA WATCHING』 VOL.4
武力行使直前! アメリカのスポーツメディアは……
MLBコミッショナー「危機的状況での日本行きは先行き不透明」

 今回は松井報道を離れてイラクへの武力行使とアメリカ・スポーツ界をめぐる報道を紹介する。

 ちなみにこの原稿を書いているのはブッシュ大統領が設定した期限の約12時間前、現地19日の午前だ。まだ攻撃は始まっていない。

 この日のスポーツ・メディアはやはりこの件に関し、どのスポーツに、どんな影響が出ているかをトップ・ニュースとして持ってきたところが多い。中でも全国紙の『USA TODAY』の場合、「ベースボール、日本での開幕戦をキャンセル」(Hal Bodley、Jack Carey文)と、マリナーズとアスレチックスの東京で予定されていた開幕戦をMLBが中止したことをトップに掲載している。

 この記事自体はMLBのみならず、日本人選手も参加しているNFLヨーロッパがアメリカでの開催になる可能性があることや、NBAやNHLが警備強化などについて対応に追われていることなど、アメリカ・スポーツ界全体的な影響についてまとめたもの。MLBに関しては、バド・セリグ・コミッショナーの「この危機的な状況で選手たちが家族たちから地球を半周したところに行くには先行きが不透明すぎる」というコメントを掲載している。

イチローはムード湿らせ「戦争がいつまで続くか心配」

 興味深いのはベースボール欄に掲載された「日本行き中止は多くのマリナーズ、アスレチックスにとって良いこと」(Mel Antonen文)という記事。「マリナーズのリリーフ投手、アーサー・ローズは日本へ行きたくなかった。『飛行機に乗りたくないんだ』と彼は火曜の朝に語っている」といった具合に、戦争とそれに伴うテロへの不安から両チームの選手の多くに日本行きを不安視していた選手が多いことを、紹介しているのだ。

 開幕戦中止で喜んでいる選手が多いことは、日本人としてちょっと寂しくもある。日本の安全体制は信用されていないのか、とも。が、確かに日米間にはかなりの地理的な距離があり、この時期の海外行きに不安感を持つ選手が多いのも致し方ないところなのであろう。

 同記事はイチローについても「彼は(日本でプレーし)エキサイトすることを楽しみにしていたが、戦争への不安が彼のムードを湿らせた」と、複雑な心境に触れている。「戦争を心配しているだけではないです。気がかりなのはどれぐらい戦争が続くか、です。詳細が分からないので」というイチロー自身のコメントも添えられている。

NYメディアも松井の本塁打より開幕戦中止がトップ

 ニューヨークのメディアについても、この日は前日DHで本塁打を放った松井の活躍はほとんど扱われることなく、MLBに関しては開幕戦中止が一番の記事となっている。

 また、スポーツ・ニュース全体では、まだ先のMLB開幕戦よりも、現在進行中の大学バスケットボール選手権(NCAA)がとりあえず延期されることなく行われる決定が下ったことをトップとして扱ったメディアが多かった。

 アマチュアなどでは反戦の態度を表明する選手もいるが、同時に“非国民”としてとらえられる例もあり、問題は複雑だ。事態が刻々と進行する中、これ以上スポーツに悪影響が出ないことを祈るばかりである。
スポーツナビ 梅田香子 2003/03/18
『松井秀喜 メジャー交友録』 VOL.3
松井に“ヤンキースの誇り”を教えるバーニー・ウィリアムズ
マッティングリーがバーニーに教えたものとは……

 オープン戦もたけなわ。開幕がいよいよ迫ってきた。ヤンキー・スタジアムで、ジェイソン・ジアンビーとバーニー・ウィリアムズの間に、「ヒデキ・マツイ」の名が連なる日は近い。

 ある日、打撃練習中にバットを折ってしまった松井は、バーニーの黒バットを借りて少し試していた。しかも、ほんの数分だけ。その後、小走りでクラブハウスに向かい、自分のバットを取ってきた。

 バーニーは言った。
「僕の時(入団当時)はさんざんいじめられたからね。そういう時にドン・マッティングリー(現ヤンキース臨時打撃コーチ)が何かとかばってくれて、本当にうれしかったんだよ。彼は素晴らしい人格者だった。彼が僕に“ヤンキースの誇り”を教えてくれたから、今度は僕がマツイにそれを教えてあげるつもりだ」

史上最強のスイッチヒッター誕生秘話

 バーニーは、カリブ海に浮かぶ南国の島、プエルトリコのベガアルタという街で生まれ育った。勉強ができたから将来は医者になるつもりだったし、ギターの腕前も天才的だったから音楽の名門校から奨学金のオファーを受けた。9歳になる直前、野球を始めると、これもたちまち上達し、陸上でも選抜チームに選ばれ、鉄棒や平行棒なども楽々こなした。

 16歳の時、ヤンキースから勧誘されたが、スカウト間の取り決めで、17歳未満とは契約交渉が許されていなかった。そこで、当時ヤンキースのラテンアメリカ担当スカウト部長で、現モントリオール・エクスポズの国際担当部長のナブーロ・フェレイラが一計を案じた。

「費用は全額ヤンキースが負担するから6カ月間、17歳になるまでコネチカット州のベースボール・キャンプで過ごしてほしい」
 と提案し、ライバル球団のスカウトから、バーニーを隠してしまったのである。そして、約束どおり17歳の誕生日に入団契約を交わし、マイナーリーグへ送りこまれた。

 さて、1988年に手首を骨折したバーニーは、それが癒(い)えると、久しぶりに弟たちと試合をすることになった。
「プロなんだからハンデをつけよう。右じゃなくて左で打ってくれ」

 弟のこの言葉にインスパイア(触発)されたバーニーは、そのオフからスイッチヒッターになるべく、本格的な練習を始めた。もともとプロ入りする前までは、左でもよく打席に立っていたのだ。当時マイナーリーグの監督だったバック・ショーウォルターも賛成してくれた。

「左でも打てるのか。それはいい。君だったら“パワー・スイッチ・ヒッター”(長打の打てるスイッチ・ヒッター)になれるぞ」

 その言葉どおり、パワー・スイッチ・ヒッターとしても、外野守備の要としても、今のバーニーはヤンキースにとっては欠くことのできない存在である。

ADD(注意欠陥障害)を乗り越えて

 しかし、ここまで何もかも順調にきたわけではない。6歳になった長男のバーニー・ジュニアがADD(注意欠陥障害)と診断されたことは、彼に大きな試練を与えた。

「病院でいろいろな検査を受けた結果、(障害は)先天性なもので、ジュニアだけではなく、僕にも同じ障害があることが分かった。それからはADDについて、いろいろな本を読んでみた。確かに社会生活では何かと困難が付きまとうけれど、うまく付き合っていけば特別な才能を発揮することが分かってきたんだ」

 ADDというのは行動が衝動的で落ち着きが無く、名前を呼ばれても気がつかなかったりする症状を指す。心の病気や脳の欠陥が原因というよりも、脳神経の発達の特性からくるものだということが最近の研究で明らかになった。元ブルズのデニス・ロッドマンは典型的なADDで、練習時間を守れなかったり、女装するなど奇行が目立った。が、確かに豊かな人間性の持ち主だった。

ギターを奏でるバーニーは“ヤンキースの誇り”を体現する人格者

 バーニーは集中力が散漫になったり、神経がとがってきたのを感じると、フェンダー製のストラトキャスター・ギターを手にして、自分の好きな曲を奏でることにしている。ロジャー・クレメンスいわく、 「バーニーがギターを弾くと、クラブハウスがたちまちカーネギーホール(音楽の殿堂とも言われるニューヨークのコンサート会場)になるんだ」

 父親のバーニャベが亡くなったとき、バーニーは一晩中、父が好きだった「Verde Luz」を演奏し続けた。
「集中治療室で人口呼吸器を付けて横になった父は、危篤なのにじっと僕を見て、両手を必死にあげて飛行機のパントマイムをしたんだ。“ヤンキースに戻れ”と言いたかったんだと思うよ」

 もうマッティングリーはとうの昔に引退してしまっていた。ふと気がつけば、バーニー自身が“ヤンキースの誇り”を体現する人格者に成長していたのである。

バーニー・ウィリアムズ/Bernie Williams 1968年9月13日生まれ。米自治領プエルトリコ出身。イチローもあこがれる走攻守3拍子そろったメジャー屈指のスイッチヒッターで、ヤンキース一筋の不動の4番。昨シーズンもリーグ3位の打率3割3分3厘の成績を残し、8年連続3割以上を記録する。守備でも4年連続ゴールドグラブ賞受賞。

ドン・マッティングリー/Don Mattingly 1961年4月20日生まれ。米インディアナ州出身。ニューヨーク・ヤンキース最後の主将で、抜群の統率力でチームをまとめ「球団史上最高のキャプテン」とも呼ばれる。通算成績は、2153安打、222本塁打、1099打点、打率3割7厘。背番号「23」は永久欠番。現在はヤンキースの臨時打撃コーチとして松井を指導する。
スポーツナビ 渡辺史敏 2003/03/13
『GODZILLA MEDIA WATCHING』 VOL.3
ファンタジー・ベースボールで分かる松井への意外な評価
アメリカで大人気のファンタジー・ベースボールとは?

 ファンタジー・ベースボールをご存知だろうか?

 日本では、スポーツナビが今季から再開する予定だが、アメリカでは以前から大人気のゲームだ。簡単に説明すると、自分の好きな現役選手(日本ではプロ野球、アメリカではMLB)を選んで、架空の自分だけのチームを結成。現実の選手成績によって独自の得点が入る形式で、ほかの参加者とその得点合計を競うのだ。アメリカではさまざまな企業がこのファンタジー・ベースボールを主催しており、上位成績者に多額の賞金を出すところが多い(日本では法律上、賞金を出すことはできない)こともあって人気が急上昇。それに伴い、近年は関連の専門誌や情報サービスなども増えている。

 今回注目してみたのは、そんなファンタジー・ベースボールの専門誌。
 ファンタジー・ベースボールでは、前述したように実際のチーム成績は関係なく、個人成績が重要な要素となる。打者ならば打率、本塁打数、打点、盗塁数などが評価ポイントとなり(例えば本塁打1本で30点、盗塁なら10点といった具合)、これらの成績が総じて良い選手が高評価を受けることになる。

 また、スーパースター選手ばかりを集められるとゲーム性を欠くため、独自の年俸設定があるのも特徴だ。ということは、各ゲームで設定された年俸は、その主催者による各選手への絶対評価による予想と受け取ることも可能なのだ。

 その上で賞金のことも考慮すると、専門誌の予想がどれだけシビアなものになるか分かるだろう。

松井が活躍すれば「お買い得な選手」の一人に

 では、その専門誌における、気になる松井の評価はどうだろうか?
 自社でファンタジー・リーグを主催している老舗(しにせ)スポーツ総合誌『Sporting News』発行の専門ガイド『The Sporting News Fantasy Baseball Owners Manual 2003』では、松井は外野手部門で26番目の年俸評価となっていた。また盗塁、パワー、打点といった評価項目で、チェックが入ったのはアベレージ(打率)の項目のみ。ちなみに、イチローはホワイトソックスのマグリロ・ロドリゲスに続く2位だった。

 また、ファンタジー・ベースボール専門の『Fantasy Sports』誌では、外野手部門で35番目の評価。本塁打は30本は打つという予想が多いにもかかわらず、われわれ日本人にとっては低すぎる評価に見えるかもしれない。

 だが、これらの雑誌の専門性を考慮してみると、こういった評価はむしろ妥当と考えたほうがいい。なにしろ松井は、これまでMLBでの実績がない“新人”なのである。時にお金のかかったゲームの予想で、これ以上の評価をするのは無理だろう。実際、両誌とも松井より上位に新人選手は1人も選ばれてはいない。言い換えれば、新人として松井はトップ評価というわけだ。

 日本で行われた過去のファンタジー・ベースボールでも、アマチュアでかなりの実績がある新人選手でも、1年目は総じて低い年俸設定となっている。日本でもアメリカでも、“新人”がいきなり結果を残すことがいかに難しいか、ということがここから見て取ることができるのではないだろうか。

 イチローは安打だけでなく、盗塁でもMLBトップクラスであるため、ファンタジー・ベースボールでは評価を受けやすい。とはいえ、松井と比べて、既にそれだけの実績がある大選手として扱われていることも確かだ。

 今回のこれら専門誌の評価は確かに十分納得できるのだが、松井が今シーズン大活躍すれば、同ゲームにおいて設定年俸以上の「お買い得な選手」となることは間違いない。
スポーツナビ 梅田香子 2003/03/12
『松井秀喜 メジャー交友録』 VOL.2
松井と有終の美を! クレメンスのゴジラびいきの理由
クレメンスがメディア嫌いになったのは……

 メディア嫌いで知られるロジャー・クレメンスは、例外はあれど、原則として登板した試合の後しか活字媒体のインタビューには応じない。

 とにかく東海岸のマスコミは論調がきついので、ボストン・レッドソックスの大エースだった時代から、さんざんな目に遭わされてきたためだ。「新車と一緒に写真を撮らせてくれ」と言われて承諾したら、「甘やかされている」という内容の記事だったり、たまたまサインする時間がなくなっただけなのに、病気の子供がいる親に冷たい態度をとったと書かれたり……。若かりし日のクレメンスは、カーッと頭にきて、地元記者に食べかけのハンバーガーを投げつけたこともあった。

 もちろんすべてのマスコミを排除しているわけではない。ESPNテレビのコマーシャルでは、なかなかの演技を見せていたし、『スポーツ・イラストレーテッド』誌の水着特集では、ボディービルダーのデビー・クレメンス夫人と一緒に、セントラルパークで夫婦仲良く、見事な肢体を惜しみなくさらしている。

日本人には心を開くクレメンス 松井にも敬意を表す

 さて、もう一つの「例外」は意外なことに「日本人記者」だったりするから、皮肉な話だ。筆者も昔からクレメンスにはインタビューを断わられたことがない。クレメンスにしてみると「見せつけ」の意味もあったのだろう。米メディアを遠巻きにしながら、マウンドでは見られない気さくな笑顔を見せ、興味深いエピソードを話したものだ。

 ニューヨークで華やかに催された松井秀喜の入団会見に、トーリ監督だけではなく、クレメンスが出席した時、
「よく承諾したなあ」
 と地元の記者が驚嘆していたが、これもクレメンスらしいといえばクレメンスらしかった。というのも、彼の長男は数年前まで熱心なゴジラのファンだったのである。

「最近はゴジラよりポケモンに夢中なんだけどね」
 とクレメンスは苦笑いしていた。家族思い、息子思いで知られる男だけに、
「今日、ゴジラに会ったよ」
 と自慢したかったのではないだろうか。

「まあね。日本で成功しているのに、それをなげうって海を越えてきた松井に敬意を表したかったのさ」

 そうであった。1995年に野茂英雄が大リーグ入りした時も、
「才能も勇気も素晴らしい。メジャーリーグを代表してノモに敬意を表する」
 と称賛を惜しまなかったのが、クレメンスなのだ。

息子思いのクレメンスはメジャー屈指の問題児

 サイ・ヤング賞(最優秀投手賞)に選ばれること、実に史上最多の6回。三振のKにちなんで、4人の息子たちは上から、コビー・アーロン、コリー・アレン、キャスティ・オースティン、コビ・アレック、と名付けたのは有名である。
「サイヤング賞は一つ一つ、子供たちそれぞれに捧げたい」

 決して優等生タイプではなく、2000年のワールドシリーズで、マイク・ピアザ(メッツ)の折れたバットを拾い、投げつけたシーンはいまだ記憶に新しい。あの時の目つきは尋常なものではなかった。さっそくコミッショナーは5万ドル(約580万円)の罰金を課し、ロジャーは反発して自分のホームページに次のように書きこんだ。

「オレはぶつけるつもりがなかった。だから、謝らない」

引き際もクレメンスらしい? 松井と有終の美を飾れるか

 先日、オープン戦で2度目の登板した後、日本の報道陣との会見で「引退」を示唆したというから、なんだかいかにもクレメンスだ。もっとも以前から、
「34歳で引退して家族と共に過ごしたい」
 と語っていたから、40歳になった今、そういう心境になったのは当然と言えるだろう。

 1988年のワールドシリーズ終了後、シャンパン・シャワーを浴びながら4人の息子を抱きしめ、男泣きに泣いたクレメンス。有終の美を松井と共に飾ることができたら……。これ以上の子孝行は考えられないはずだ。
スポーツナビ 渡辺史敏 2003/03/06
『GODZILLA MEDIA WATCHING』 VOL.2
松井第2号に見る日米メディアの温度差
豪快第2号も話題の中心は巨人関係者

 オープン戦初戦(2月27日)の初ホームランに続き、3月3日の“第2号”を含む3打数3安打と、松井のいきなりの活躍に日本のマスコミは大騒ぎになっているが、アメリカの反応は?

 27日のホームランに関しては、日本でもかなりの報道がされたが、ニューヨークの地元紙も大きな扱いでその活躍を報じた。地元タブロイド紙である『New York Post』と『Newsday』は、ともに松井のバッティング写真を大きく裏1面で使い、さらに老舗(しにせ)の『The New York Times』はスポーツ・セクションのトップに掲載と、まさにトップ・ニュースだったのである。

 しかし、3日の活躍については、日本では「現時点でチームの3冠王」などという見出しが出ていたのに対し、米メディアでは裏1面どころか、地元紙でもこの日の活躍を大きく扱ったものは皆無だった。タブロイド紙は一応、3安打1ホームランといった内容を伝えたものの、『Daily News』の「松井はまた、旧チームのためにショーを開いた」(Anthony McCarron文)、『Newsday』の「ヨミウリの関係者、松井を訪ね強烈な印象を受ける」(Ken Davidoff文)といったような見出しがすべてを物語っているように、その日の松井関連の注目ポイントは観戦に訪れていた読売ジャイアンツ関係者の方に集まっていたのだ。

 よく言われているように、松井のFAによる移籍は、同時にヤンキースの日本市場でのビジネス展開と、その上での巨人との提携を絡めて語られることが多い。特に米メディアはその点にかなり注目しており、それゆえ、この日も松井以上に読売関係者が注目されたのだろう。

松井報道はまだまだ地元と専門メディアレベル

 それでも3打数3安打でホームランまで打ったのだから、「その点をもっと報道してもいいのでは?」という声もあるかもしれないが、現在はあくまでオープン戦の序盤。27日は「鮮烈なデビュー」という点で注目されたが、活躍するたびに毎回大騒ぎされることはない。実際、地元紙はまだしも全国メディアとなると、27日の活躍ですらほとんど報道されていないということも理解するべきだろう。

 例えば、サンフランシスコの老舗日刊紙『San Francisco Cronicle』の28日付紙面には、松井の“Ma”の字どころか、ヤンキースに関する記述などまったくなかった。松井報道は、現在はあくまで地元と専門メディアのレベルにとどまっている。

 ヤンキース関連の話題では現在、デビッド・ウェルズ投手が出版予定の自叙伝について、その内部の暴露的内容が取りざたされており、世間の関心も高い。米メディアは、球界全体を揺り動かすかもしれないそちらの取材に注力しており、松井報道もしばらくは小さくなるだろう。むしろ、日本のメディアがこの問題にあまり触れないのも不思議な感じがするのだが……。
スポーツナビ 梅田香子 2003/03/04
『松井秀喜 メジャー交友録』 VOL.1
マツイを辛抱強く見守る指揮官、ジョー・トーレという男
松井にとって一番の初物は新しいタイプの「ボス」

「マツイにとってすべてが新しい環境なのだから、対戦するチームもピッチャーもすべて初物ばかりのはずだ。われわれ首脳陣もファンもマスコミも辛抱強く、彼を待たなければならない。カギを握るのは“ペイシェンス”(忍耐)だと思う」

 こう発言したのは、ほかならぬニューヨーク・ヤンキースのトーレ監督だが、松井にとっては何よりもまず、このジョー・トーレという男こそが「ボス」としては初めてのタイプなのだ。巨人時代の監督だった長嶋茂雄や原辰徳との共通点といえば、3塁手だったことぐらいか。

 1960年、ミルウォーキー・ブレーブス(現在のアトランタ・ブレーブス)で、トーレは捕手で4番に座った。ちなみに3番打者はあのハンク・アーロン(755本の大リーグ通算本塁打記録保持者)。同年、トーレはプロ選手として初めての車、サンダーバードを購入するが、この時に世話してもらった一介のセールスマンが、大リーグの現コミッショナー、バド・セリグだった。

 69年、セントルイス・カージナルスに移籍して、3塁にコンバート。71年には首位打者とMVPに輝き、日米野球でも来日しているくらいだから、なかなかのスター選手だったのである。

 ニューヨーク・メッツに移籍した後は、プレーイング・マネージャーにも就任、82年には最優秀監督にも選ばれており、常に日の当たる道を歩いてきたと言っていい。けれども、ワールドシリーズとはなかなか縁がなく、カージナルスでも優勝のチャンスがありながら実現せず、94年は首位を走りながらストライキに泣かされた。

 トーレはヤンキースの監督に招聘(しょうへい)された時、会見でそれを指摘されると、
「ワールドシリーズなんて私は17歳の時に体験しているよ」
 とうそぶいたものである。といっても、それはスタンドで観戦したにすぎなかった。兄のフランクがミルウォーキー・ブルワーズの選手で、ヤンキースとワールドシリーズでぶつかったのだ。

野球に夢中だった少年時代 「勉強は野球ほど好きになれなかった」

 もともとトーレ一家は、ニューヨークのブルックリンではよく見かける、典型的なイタリア系アメリカン・ファミリー。ジョー・トーレは5人兄弟の末っ子としてブルックリンのマディソン・パーク病院で生まれた。

 母親はイタリア生まれの移民だったが、父親はニューヨークで生まれ育ち、長じてニューヨーク警察の刑事になった。もっとも刑事でありながら、ポーカー遊びと競馬が3度の飯より好きで、結局それが原因で身を崩してしまい、離婚した後は何人かの女性と結婚を繰り返した。

 ジョーと2人の姉と2人の兄は、母親のもとで愛情深く育てられ、兄が2人とも野球に夢中だったので、ごく自然にのめり込むようになった。幼い頃からジョーは勉強もよくできたので、
「両親は私が大学に行き、弁護士になることを望んでいた。でも、あいにく勉強は野球ほど好きになれなかったんだ」

さまざまな個性をまとめ上げるトーレ監督はやはり一流?

 トーレは、96年にヤンキースの監督に就任するな否や、チームを18年ぶりのワールドチャンピオンに導き、その後も毎年のようにワールドシリーズにこまを進めて、新たな黄金時代を築き上げたのは周知のとおり。

 ヤンキースといえば、名物オーナーのジョージ・スタインブレイナーが次々と惜しみなくFAの大物選手を獲得したため、
「だれが監督をやってもあれなら勝てる」
 という声が聞かれ、トーレの監督としての評価は今でも高いとは言い切れない。

 しかし、豊富な人材と言っても、裏を返せば強烈な個性を持ったミリオネア(億万長者)の集団なのだ。並大抵の掌握術では、彼らのハーモニーを一つに取りまとめることはできなかったはず。猛獣使いみたいなものだ。ましてやヤンキースの監督といえば、オモチャを与えられた子供のようにやんちゃで移り気なオーナーと、すぐに結果を求める気短なファン、全米で最も論調がきついと言われるニューヨーク・マスコミの間に挟まれ、奮闘することを義務付けられている。ただ野球に専念すればいいというものではなく、さまざまな不可条件を常に求められ、トーレがそのほとんどすべてを満たしているのは、だれもが認めるところだ。

ニューヨークでは難しい新人王 松井はジンクスを打ち破れるか

 もちろん、同じことが選手にもある程度当てはまり、あまりにも置かれている状況が新人には厳しいせいか、なかなかニューヨークを本拠地にするチームからルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)が生まれないのも現状である。その点をトーレ監督に指摘すると、
「だからといって、私はマツイにルーキー・オブ・ザ・イヤーを取ってほしいとか、そういうことは考えていない。何度も言っているように、特に1年目は“ペイシェンス”を持って、彼を見ることが大切なんだからね」
 と松井に関しては発言がどこまでも慎重だった。

 もの静かなイメージが強いが、99年3月に前立腺ガンが発見され、5月18日まで欠場。その間にガンのあらゆる対策を試したため、今でも話題をそちらに振るととたんに別人のように雄弁になる。

「精神的に一番プラスをもたらしたのは、禅とめい想について研究し、実践したことだ」
 やはりトーレという男、ただ者ではない。彼の指揮下でなら、松井もまた新たな一面を見せてくれるのでは……という予感が無性に漂っている。