スポーツナビ 梅田香子
2003/10/30
『松井秀喜 メジャー交友録』 VOL.35
ヤンキース優勝を阻んだのは豪腕ベケットと「9・11」の呪い?
ポストシーズンで話題に上った数々の呪い
松井秀喜は言った。
「僕は幽霊の存在は信じています。打撃でヒットが出るように頼んだりはしませんけれど」
宗教家の家庭で育ったせいかもしれない。ヤンキー・スタジアムに初めて足を踏み入れたときも、ベーブ・ルースたちのレリーフが並んだモニュメント・パークまで出向き、
「これからよろしくお願いします」
と敬意を表するのを怠らなかった。
それにしても、今年ぐらい大リーグにまつわる「呪い」が取りざたされたシーズンも珍しい。
カブスとレッドソックスという老舗(しにせ)球団が最後まで奮闘したせいなのだろうけれど、それぞれにまつわる「ヤギの呪い」と「バンビーノの呪い」が何度となく話題となった。
ストイックさで知られる『ニューヨーク・タイムズ』までもがそれに引っ掛けて、日本の阪神タイガースの紹介記事を載せ、前回の優勝のときに道頓堀に落とされたケンタッキーおじさんこと「カーネル・サンダースの呪い」について記していたほどだ。そういえば、ホワイトソックスにも「シューレス・ジョー・ジャクソンの呪い」というのがあって、ワールドシリーズから見放されて久しい。
デビュー戦でソーサ封じ 「いずれ殿堂入りする投手だ」
さて、そのホワイトソックスだが、前回のコラムではイバン・ロドリゲスのメジャー・デビュー戦の思い出について触れた。さらに、昔のスコアブックをひっくり返していて思い出したのだが、ワールドシリーズでヤンキースを完封したマーリンズの若い豪腕、ジョシュ・ベケットもデビュー戦の対戦相手がシカゴだったのである。もっともシカゴはシカゴでもカブスの方だった。
この試合のページには、わざわざ付箋(ふせん)が貼ってある。さらに、翌日の『シカゴ・サンタイムス』の記事も切り抜いて挟んであるのは、中日ドラゴンズ入団を白紙撤回したケビン・ミラー(現レッドソックス)が満塁本塁打を打ったためだ。もちろん先発して85球を投げ、6回1安打無失点、三振12を奪った弱冠21歳のベケットも強く印象に残った。同紙の記事も、
「いずれ野球殿堂入りすることになるピッチャーだ」
という出だしで始まっている。
2001年9月4日。いわゆる「セプテンバー・コールナップ」(9月にベンチ入り枠が広がって、マイナーの選手たちが加わること)で、ベケットはメジャー昇格を実現したばかりだった。もっともベケットの場合は、1999年のドラフト会議前、高校ナンバーワン投手としてかなり騒がれ、ジョシュ・ハミルトン(デビルレイズ)に続く全米2位でマーリンズが指名。4年700万ドルという好条件で入団契約を交わした、いわば黄金ルーキーだったから、かなりの注目を集めていた。
ベケットはテキサス州の出身で、ここはパワーピッチャーの生産地としても名高い。ノーラン・ライアンに始まって、ロジャー・クレメンス、ケリー・ウッドと続いたから、当然ベケットも彼らと比較されっぱなしだった。
それが重荷でないわけがないのだが、当のベケットはヘラヘラと笑う今風の若者で、初登板とはいえ、緊張した様子は見られなかった。時速155キロを超える速球と切れのいいカーブで、サミー・ソーサも完璧に抑え、
「まあ、僕がいい状態なら、あんなものでしょうよ」
と試合後、うそぶいたのだ。
ベケットのデビュー直後に起った悲劇
ベケットが初登板したとき、どこの野球場にものぞかで平和な空気が溢れていて、筆者の周辺には「戦争を知らない子どもたち」がいくらでも跳びはねていた。その1週間後に「9・11」のテロが起きるなんて、少なくともメジャーリーグ関係者はだれも想像できなかったはずだ。
「亡くなった人のことを考えると……ごめんなさい」
そう言って人目をはばからず、大粒の涙をこぼしたのは、元ニューヨーカー、現オリックスの吉井理人投手だった。
もう第一線から退いて日本に戻ってしまったスポーツ新聞のベテラン記者にSさんという、とても霊感の強い人がいた。沖縄でキャンプを取材していると、昔風の旅館だったので、障子がすっと開いて女の幽霊がそこに立っている。そして、部屋の隅に座ってしまう。締め切りが迫っているので仕方なく、机に向かって原稿を書いていると、いつのまにかすぐ横でのぞき込んでいて、ぎょっとしてしまい、
「このまま日本にいたら、とりつかれてしまうかも」
と思い、フリーになって大リーグ取材をする決意を固めたそうだ。ところが、波長が合わなかったのか、日本を離れたらまったく霊体験をしなくなったと話していたが、もしSさんが今回のポストシーズンを取材していたら、何をどう感じ取ってくれたのだろう。
多くの人の傷をいやした松井の活躍
非科学的と笑われるかもしれないが、「9・11」テロの後ヤンキースは一度もワールドチャンピオンになっていないのである。
結果として負けはしたけれど、阪神タイガース同様、松井の活躍に深く傷ついた心をいやされた人は、日米問わず数多かったはずだ。第2戦で先制の3ランを放った松井は、
「野球の好きな子どもたちが喜んでくれたら、すごくうれしい。そういう、いろいろな人たちのパワーにつながってくれれば僕もうれしい」
と語った。どうやら松井の澄んだ目には、ボールの軌跡やベース以外にもいろいろなものが見え、たくましい胸にはさまざまな思いが去来していたようだ。
こういう日本人が、ニューヨークという世界一の大都会で成功を収めたことを、今更ながら誇りに思わずにはいられない。
スポーツナビ 渡辺史敏
2003/10/27
『GODZILLA MEDIA WATCHING』 VOL.36
松井も優勝を宿命づけられたヤンキーの一員だった…
ヤンキースが3年連続タイトルを逃した意味
ご存知のように、4勝2敗でマーリンズがヤンキースを下し、今年のワールド・チャンピオンとなった。
勝負の決まった翌日26日付のニューヨーク地元新聞はいずれも落胆の色で染まった。「海に沈む」「終了」(『Daily News』)、「ジ・エンド」(『New York Post』)、「ブロンクスの浮浪者(愛称のブロンクス・ボンバーズをもじったもの)」『Newsday」などなど。
1面、裏1面はいずれもこんな見出しとキャプテンのデレク・ジーターや先発したアンディ・ペティットの落ち込む姿で彩られている。
もちろん中の紙面も同様で、「ファンが忘れられないであろう一夜」(Mike Lupika文)といったタイトルの記事を初め、3年連続でタイトルを逃したこの1戦と今回のワールド・シリーズについて多くの記事と写真が多くのページを占めている。たった3年なのだが、ヤンキース・ファンにとっては“3年も”ということになるのだから、やはりヤンキースは特別な存在なのだ。同時に“悪の帝国”と感じるファンが多く存在するのも当然かもしれない。
「ゴジラ、最後でしくじる…」
さて、気になる松井に関するこの日の報道だが、まず試合後ロッカールームで椅子に座り肩を落とす松井の写真を『Daily News』など2紙が大きく使っていた。あまり喜怒哀楽を大きく表現することのない松井のこんな姿はアメリカのメディアにとってある意味印象的であったのであろう。
さらに第5、6戦と4番に起用されながら無安打に終わった松井に注目し、振り返る記事を掲載したのが、Mike Haleによる『New York Post』の「ゴジラ、最後でしくじる」という記事。
この記事では松井が第1戦で3安打を放ち、第2、3戦で決勝打を打つなど大活躍をしながら、その後の3試合ではいきなり失速し、チームも3連敗を喫したことに言及している。
その上で第3戦以降、マーリンズ投手陣の攻め方に変化が見られたかとの問いに、「分からない。とにかく右投手も左投手もいいピッチングをしてきた」という松井のコメントを掲載。
さらにジョー・トーレ監督がシリーズ第5戦から2試合連続で松井を4番に起用した理由を「アルフォンソ・ソリアーノとジェイソン・ジアンビーが不調だったこともあるが、今ポストシーズンでチーム最多の11打点を稼いでいる松井の勝負強さに期待したため」だが、期待に沿う活躍ができたなかったことをあらためて指摘している。
そのうえで、同記事は「松井のルーキー・シーズンは成功だったと依然考えられているし、新人王も獲ると思われ、彼はポスト・シーズン11打点でヤンキースのトップだった」と評価した。
だが、あくまでも優勝こそが一番であることし、「チームの一員として、ワールドチャンピオンを勝ち取ることが目標だった。とても残念です」という松井のコメントで記事を締めくくっている。そう、今や松井もまた優勝を使命とするヤンキーなのだ。
ヤンキースの一員として認められる活躍を残しながらも、チャンピオンズ・リングを得ることは後一歩かなわず松井のMLB最初のシーズンはこうして終わることとなった。
スポーツナビ 梅田香子
2003/10/24
『松井秀喜 メジャー交友録』 VOL.34
松井に立ちはだかる最強の捕手ロドリゲス
中日に売り込んだ大リーグ最強の捕手
ほんの1年前まで、イバン・ロドリゲスは松井とともにFAの目玉商品だった。ところが、新労使協定の影響で市場が冷え込んでしまい、思うように高額な契約がまとまらない。オリオールズが松井とロドリゲスの両方に興味を持ったが、松井の意志は金銭よりもヤンキース入りに傾いていたし、ロドリゲスの方は条件が破格過ぎて、これも流れてしまったのだ。
年が明けてもロドリゲスの行き先は決まらなかったので、中日ドラゴンズに売り込んでみたほどだ。谷繁がいることは分かっていたから、エージェントいわく「外野手としてどうか?」と。ジョニー・ベンチの再来(かつての強肩強打の名捕手)と言われ、大リーグ最強の捕手として名高いロドリゲスだというのに急造外野手とは……。
そこで複数年契約はあきらめてフロリダ・マーリンズと1年契約。もっともマイアミと生まれ故郷のプエルトリコに自宅を構えているロドリゲスにしてみれば、悪い選択ではなかった。
「できたらずっとここでプレーしたい。家族もここを気に入っているからね」
家族思いなのだ……というより、弱みがあっていまだにマリベル夫人には頭が上がらないのである。
結婚式当日にメジャー昇格
ロドリゲスが結婚式を土壇場でキャンセルしたのは、1991年6月20日のこと。花嫁から逃げたわけではない。その逆である。
レンジャーズ傘下の3Aツルサでのダブルヘッダーの合間に、マウンドで結婚式を挙げることが決まっていて、前日にリハーサルも済ませていた。ところが、夜になってレンジャーズのトム・グリーブGMから、「メジャー昇格」の電話がかかってきたのである。
「結婚式は延期しよう。メジャー昇格は僕にとって人生最大の目標だった。分かってく れ」
ロドリゲスは19歳、同じプエルトリコの出身の花嫁マリベルは、まだ18歳。それを聞いて思わず泣き崩れてしまった。
ともかく20日の朝8時半、2人は市民センターに出向き、行列に並んで慌しく、入籍の手続きを済ませた。終わるとすぐにタクシーを拾い、2人はオクラホマ11時発のシカゴ行きの飛行機に飛び乗った。レンジャーズ対ホワイトソックスの試合に合流するためである。
当時レンジャーズの監督だったボビー・バレンタインはそれを聞いて、
「えっ、結婚式をキャンセルしたのか!? 何もそこまでやらなくても……。花嫁が気の毒だ」
敵にも味方にも驚嘆の目を向けさせた強肩
ホワイトソックスの先発はサイ・ヤング賞投手のジャック・マクドウェル、対するレンジャーズもノーラン・ライアンに次ぐ第2エースのケビン・ブラウンだった。ロドリゲスはほとんどと言っていいほど英語を理解していなかったが、身ぶり手ぶりを交えながら必死でブラウンとコミュニケーションを取った。幸いレンジャーズはホワン・ゴンザレス、ルーベン・シエラ、 フリオ・フランコと主力はスペインゴ圏出身ばかりだったので、代わる代わるマウンドに来て通訳を買って出てくれた。
もともとピッチャー出身だったから、肩の強さとコントロールには自信がある。ワレン・ニューソンとジョイ・コーラが盗塁を試みたとき、マスクを飛ばしながら全力投球。いずれもピシャリと2塁で殺して、敵も味方も驚嘆の目を向けた。さらに9回表には2人のランナーを返すタイムリーヒット。勝利を決定づけた。
「ともかくうれしい。幸運だ。初回は少しナーバスになったけど、あとは大丈夫。もうマイナーに戻りたくないから全力でプレーしようと思った」
試合後、20人あまりの報道陣に囲まれたロドリゲスは、熱っぽい口調で20分以上、仁王立ちした姿勢で両腕を組み、通訳を通して熱く語った。
「おいおい、パッジ!(イバンのあだ名)新婚早々、風邪をひくぞ」
と、シエラがタオルを投げてくるまで、自分が一糸まとわぬ姿だということにも気が付かなかったほど、われを忘れていたのだ。
唯一手に入れていないものはワールドシリーズの優勝リング
宿泊先のホテルに戻るとドアを開けながら、
「マリベル!見ていてくれたかい?」
とロドリゲスは叫んだそうで、
「私は“イエス”以外は何も口にすることができず、ドアに近づいてただ彼に抱きつき ました」
マリベルはテキサスの地元紙『ダラス・モーニング・ニュース』の取材にそう答えて いる。
「夕べは3時間しか寝ていなかったので、シカゴのホテルに到着すると私はうたた寝し てしまい、レンジャーズがいつどんなふうに彼を連れていったのか、分かりませんでし た。でも、試合はずっと見ていて、彼が9回2アウトの場面でタイムリーを打ったのです。私は素晴らしいプレゼントをもらったと同時に、これが彼の仕事なんだということ をようやく理解したのです」
2年後、ロドリゲスはプエルトリコにギリシア風の家を建てた。床は大理石で、天井にはシャンデリア。広い庭。馬小屋。プール。もちろん女主人はマリベルで、一男一女に恵まれた。野球シーズン中はほとんど一緒にいてやれないので、イバンはスキューバ・ダイビングや乗馬やテレビゲームを、子どもたちと楽しむようになった。
マリベル夫人はこう言った。
「子どもたちも家も馬も車も、家族みんなの健康も幸せも、キャンセルになった結婚式の 代用品として手に入れたような気がするからです」
たった一つ、まだロドリゲスが手に入れていないものがあるとすれば、それはワールドシリーズの優勝リングをおいて、ほかには考えられない。
スポーツナビ 渡辺史敏
2003/10/23
『GODZILLA MEDIA WATCHING』 VOL.35
松井の勝負強さはモンスター級!
「ゴジラ、再びモンスターに」
地元紙が松井を絶賛
激闘が続くワールドシリーズもいよいよクライマックスを迎えようとしている。
第2戦、第3戦の大活躍があって、ニューヨークの地元メディアでは松井の扱いがぐんぐん増えている状況だ。
第2戦翌日の20日、地元タブロイド紙などが一斉に1面で松井の豪快な初回3ランを伝えた様子は日本のテレビや新聞でも紹介されたということで、ご覧になった方も多いことだろう。
記事でも『New York Post』が「ヒデキはあらゆる点で伝統のヤンキーだ」と持ち上げたのをはじめ、絶賛の嵐となった。
そして第3戦は雨中での決勝打。やはり翌日の22日付新聞では、同じく『New York Post』が「雨の中の一振り」という見出しで、松井のバッティング写真を大きく掲載するなど、やはり1面、裏1面でその雄姿を伝えたものが多かった。
記事で印象深かったのがやはり『New York Post』のコラムニストMike Vaccaroによる「ゴジラ、再びモンスターに」と題されたもの。相手投手のウィリスをなかなか打ち崩せずにいたヤンキースに攻略の糸口が見えたとき、打席が回ってきた松井についてこんな風に表現している。
「そしてここで登場したのがマツイだった。故国日本でゴジラと呼ばれる男。大統領よりも多い随行記者団を連れて旅する男。今シーズン、アメリカのチーム・スポーツでプレーするどんな選手よりも、多くの注目を浴びて過ごしてきた男である」
ヒーロー登場の口上といった語り口であるが、彼のクラッチ・ヒッターぶりはまさに“モンスター級”という扱いになってきているのだ。
ちなみに記事の締めくくりは「そのヤンキーはゴジラと呼ばれている」。こんな日本人のヒーロー譚をニューヨークのタブロイド紙で読めることは、ちょっと感激ではあった。
記者、編集者には恨みの雨天中断…
1面に入ったスポーツ紙の言い訳
『Newsday』は「マツイは適応を続けている」(David Lennon文)と、ただ松井が勝負強いだけでなく、シーズンを通じてメジャーリーグの野球、さらにはこの日ウィリスの投球に適応していったことを紹介している。スロースターターと呼ばれることもあるが、こうした松井の能力が評価されてきていることも大事であろう。
ただちょっと残念だったことがある。この第3戦、ご存知のように雨で中断したため、試合が終了したのは米東部時間の午前零時すぎ。そのため、以上のような紙面や記事は、宅配などに使われる早版では間に合わなかったのである。『New York Times』の早番では「試合終了に間に合わなかったので結果は弊社ウェブサイトで」という言い訳がスポーツ・セクションの1面に入っていた。現場の記者や編集者はさぞ雨を恨めしく思ったことであろう。
ポスターに選ばれるほどの松井のヒーローぶり
日本人にとっては何ともビミョーなイラスト
ところで、かなり面白かったのが22日付の『Daily News』に折り込まれたワールド・シリーズを記念した松井のポスター。釣り上げたカジキ(マーリン)を持った松井のイラストが使われている。あごとか髪型とかはよくとらえているのだが、日本人にとってはなんともビミョーなイラストだなと思ってしまうのだが、いかがだろうか。
いずれにしろこんなポスターが作られるぐらいのヒーローなのだ。
スポーツナビ 梅田香子
2003/10/17
『松井秀喜 メジャー交友録』 VOL.33
“バンビーノの呪い”を解放する男、ガルシアパーラ
高校時代に対戦していたガルシアパーラと松井
ノーマー・ガルシアパーラと松井。これまで何度かガルシアパーラの好守備で、松井はヒットを損してきた。
出会いは1991年にさかのぼる。お互い日米高校選抜チームの一員として、ロサンゼルスのドジャー・スタジアムで対戦したとき、2人はともに4番を打っていた。その2人が、ワールドシリーズ行きの切符をかけて、敵と味方に分かれて戦うことになるとは……。
オールスターゲームのときは、その思い出話で盛り上がり、
「話しているうちに、松井は高校生のときの顔に戻り、おかしかったよ」
とガルシアパーラはケタケタ笑っていた。
サッカーW杯で首位打者レースから脱落!?
父親のラモンがメキシコ出身のせいか、サッカー一家に育った。前回のワールドカップ(W杯)にもいとこが出場していたし、弟のマイケルはアトランタ五輪の強化合宿メンバーに選ばれた。普段はどちらかといえば、もの静かなガルシアパーラも話題がサッカーに及ぶと、どうにも止まらなくなってしまう。
「いやー、米国対ドイツの試合は素晴らしかった! 興奮したよ。夜中だったけど、テレビにかじりつきっぱなし。大声で声援せずにはいられなかった。ホテルで僕の部屋の隣だった人は、たぶん眠られなかったかもしれない」
熱っぽい口調でそう語っていたものだ。
W杯は日韓共催だったから時差がある。米国時間だと夜中の3時ぐらいからの生放映になるから、さすがに野球の試合とは重ならない。それをいいことに、ガルシアパーラは全試合をライブ中継を見たそうだ。そのシーズン、首位打者レースから脱落したのは、これと無関係ではないだろう。
「自分でもどうしてこんなにサッカーに興奮してしまうのか、理由が分からなかったんだ。もともとは、どちらかといえば野球の方が好きだったんだけど、今はサッカーと距離を置いているから、よけい恋しいのかもしれない。オフは体力づくりも兼ねて、今でもサッカーボールを蹴っているんだけどね」
女子サッカーのスーパースターと結婚!
リッチ&フェイマスで、しかもハンサムな独身男とあって、パパラッチたちがそっとしておいてくれるわけがない。かつては女優のローレン・ホリーやジェニー・ターナーと浮き名を流したものだが、99年頃から、女子サッカー史上最強のフォワード兼ミッドフィルダー、ミア・ハムとの仲がゴシップ誌を騒がせるようになった。
2001年4月11日。ボルティモア・オリオールズが地元で開幕戦を行ったとき、始球式のマウンドに立ったのが彼女だった。トレードマークの栗色のポニーテールをなびかせ、相変わらずりりしく、美しい顔立ちをしていた。もっともその試合で、ボストン・レッドソックスの先発投手だった野茂英雄がノーヒットノーランを達成したため、翌日の新聞はその快挙で隅々まで埋め尽くされてしまったが……。
ノーマーより1歳年上のミアは、28歳の若さで逝去した弟をしのび、「ミア基金団体」を設立していたし、ノーマーも「ノーマー・ボウル」と名うったチャリティーのボーリング大会を催すなどしていたから、そうしたイベントにはお互い必ず出席し合った。
もともとミアにはヘリコプターのパイロットとして軍に勤務している夫、クリスチャン・コーリーがいた。けれども、同年8月にミアは離婚届を裁判所に提出。6年間の結婚生活にピリオドを打つ。
その年の冬、アリゾナでハード・トレーニングに取り組むガルシアパーラのもとへミアが飛び、トレーニングがてら同棲を始めたというから、なんともこの2人には似つかわしいエピソードた。
4割打者の意志を受け継いで世界一を目指す
それ以降、もうガルシアパーラは隠し立てをしようとはせず、ミアのことを「僕の恋人」と公言するようになった。フレンド、ラバー、フィアンセ、そして、マイ・ワイフ。呼び方は変わっても、2人のデートは相変わらずトレーニングで始まり、トレーニングで終わる。
ガルシアパーラは、ジョージア工科大で知り合ったマーク・バーステゲンというトレーナーと専属契約を結んでいて、オフシーズンだろうと筋力トレーニングを欠かさない。専用ノートに毎日メニューを細かく書き出し、その日の成果を細かくメモしている。
最後に4割打者が誕生したのは1941年、同じレッドソックスのテッド・ウィリアムズだった。ガルシパーラもよく比較されるのだが、
「偉大なテッド・ウィリアムズの名前が引き合いに出されることを、僕は光栄に思う。でも、彼の意志はおそらく打率4割ではなく、ワールドシリーズにあったと感じているから、僕はそれを遺言として受け止めるつもりだ」
と冷静に語っていた。
レッドソックスが最後にワールドシリーズを制覇したのは、1918年までさかのぼらなければならない。「バンビーノの呪い」(レッドソックスは20年にベーブ・ルースをヤンキースに放出して以来、ワールドチャンピオンから見放されている)を打破する日が来たとき、必ずそのグラウンドにはノーマー・ガルシアパーラの姿があるはずだ。
スポーツナビ 渡辺史敏
2003/10/16
『GODZILLA MEDIA WATCHING』 VOL.34
松井を吹き飛ばしたジマーの乱闘劇
「マツイは基本を理解している」と高い評価
とうとうア・リーグ優勝決定シリーズは第7戦までもつれることになった。といっても、この記事を書いているのは現地15日のゲーム前だったりするのだが……。
本連載も含めて週刊のスポーツ・メディアは、こういう時に苦しい事態になってしまう。実際、15日発売の総合スポーツ誌『Sports Weekly』はワールドシリーズ展望特集を組んだが、両リーグとも勝負がつかなかったため、4チームが掲載される事態となった。
さて、ア・リーグ優勝決定シリーズに入ってからの松井に関する地元メディアの報道だが、『Daily News』は11日付の紙面で「マツイは基本が普遍であることを証明」(Sam Borden文)という記事を掲載している。これは9日に行われた第2戦の5回裏、松井がヒットを放っただけでなく、2塁にいたバーニー・ウィリアムズを着実に生還させるための走塁を行ったことを高評価したもの。ただ勝負強いだけでなく、基本を理解している選手という点を認められることは素晴らしいことだ。
また、『Newsday』は15日の紙面で「ニュー・カマーがヤンキースで成功」(Howard Ulman文)という記事を掲載。松井やニック・ジョンソン、アーロン・ブーンといった2000年のワールドシリーズ制覇時にはいなかった新規加入選手が、チームの勝利に貢献していることにあらためて言及した。
ニューヨーカーの心を打ったドン・ジマー
と、松井の貢献は確実に認められているものの、今シリーズにおける松井の扱いと報道の印象はかなり低い。その原因はと言えば、もちろん11日の第3戦で起こった2つの乱闘騒ぎだ。
一つは、ブルペンでヤンキースのジェフ・ネルソンとカリム・ガルシアが、フェンウェイ・パークのグラウンド・キーパーと乱闘したこと。ボストンの警察当局がネルソン、ガルシア両選手から事情を聴取する意向であるという情報が流れ、ニューヨークのタブロイド各紙が、この件をスポーツではなく社会面で扱うほどの騒ぎとなっている。
しかしある意味、感情的な面でさらにショッキングだったのが、4回裏に起こったロジャー・クレメンスのマニー・ラミレスへの危険球をきっかけにする乱闘。その中で、レッドソックスのペドロ・マルティネスが72歳になるヤンキースのドン・ジマー・ベンチコーチをはたき込みで倒した場面は、テレビ中継で放送されたことで多くのファンに衝撃を与えることとなったのである。
ジマーはジョー・トーレ監督と並ぶほど人気があり、熱血漢としても知られている。さらにこの件では、つかみかかったのはジマーの方であり、“事件”翌日にはジマー自身が涙を浮かべながら謝罪会見を行ったことで、ヤンキース・ファンたちの心を打つこととなった。
2つの乱闘で盛り上がったヤ軍とレ軍のライバル意識
当然のことながら地元メディアは、このジマーの一件を連日、1面、裏1面まで割いて大きく報道し続けている。あと1勝でワールドシリーズ決定となった15日の『New York Post』など、裏1面で「最後に笑う」という見出しとともに、笑顔のジマーの写真を大きく掲載したほどだ。ニューヨークにとって、このシリーズの主役はジマーであったと言っても過言ではないだろう。
もちろん、この乱闘でヤンキースとレッドソックスのライバル意識がさらに高まったのは言うまでもない。しかもこの意識は、今シリーズの結果で決着、とはならず確実に来シーズン以降にも継続されていくのである。
ナ・リーグも第7戦までもつれ、近年になかった盛り上がりを見せている今年のポストシーズン。果たしてワールドシリーズにはどんなドラマが待ち受けているのだろうか。
スポーツナビ 渡辺史敏
2003/10/09
『GODZILLA MEDIA WATCHING』 VOL.33
宿敵レッドソックスを迎えるNYメディアの反応は?
「オールラウンダー」松井と「最高の得点製造者」ラミレスの対決
ツインズを撃破して見事アリーグ優勝決定シリーズに進出したヤンキース。ご存知のように今度の相手は宿敵レッドソックスだ。8日付の地元タブロイド紙はいずれも同日夕刻に開始される対戦を特別編成で特集している。
その中で『New York post』と『Daily News』の2紙が掲載したのが、一塁手、捕手、といったように両チームの同ポジションを比較し、優劣を判定した企画だ。
松井はレフト部門で、マニー・ラミレスとの“対決”となっている。気になる評価だが、
「ヒデキ・マツイはシーズン開幕から安定しており、ツインズに対して2つの大きなヒットを飛ばした。守備ではラミレスをかなり上回る」(『New York Post』)
「マツイはキレのあるオールラウンド・プレーヤーで、第3戦ではメトロドームのファンをがっくりさせた大ホームランを打った」(『Daily News』)
と、松井は地区シリーズでの重要な活躍も含めてかなりの高評価を得ている。
が、対するラミレスの評価はというと、
「マミーは注目されないことも多いが、おそらくこのシリーズのベスト・ヒッター」(『Daily News』)
「マニー・ラミレスはベースボールですべての投手に恐れられる最高の得点製造者になるかもしれない」(『New York Post』)
と、両紙ともまさに最高の評価を与えている。
このため、残念ながら両紙とも”対決”の結果はレッドソックス、つまりラミレスを勝者としている。
確かにここまでの成績や活躍度合いを考えると仕方はないが、今、重要なのはこのリーグ優勝決定シリーズでいかにチームを勝利に導く活躍ができるか、ということ。松井には打撃、守備両方でまさしくチームを勝利に導くプレーを見せてもらいたいものだ。
ダースベイダー率いる「悪の帝国」ヤンキース
ちなみに、この日は表裏の両方の1面でヤンキースを取り上げた新聞が多かったのだが、その中で面白かったのが『Daily News』の裏1面。「力を取り戻したレッドソックスが“悪の帝国”を狙う」という見出しに加え、ダースベーダーの格好をしたスタインブレナー・ヤンキース・オーナーに、レッドソックスのペドロ・マルティネスとノーマー・ガルシアパーラがライトセーバーを持って挑むイラストが掲載されているのだ。
レッドソックスの社長がヤンキースを「悪の帝国」と呼んだことに引っ掛けたものだが、スタインブレナー・ダースベイダーがなんともよく描けていて笑わずにはいられない。
重要なシリーズ開幕日にこんなイラストが裏1面に掲載されることも興味深いところだ。地元ファン、マスコミにとっても悪役に回ることの多いオーダーだが、一方で愛されてもいる微妙な位置付けが、こんなところにも出ているのである。
果たして“帝国”はレッドソックスの抵抗を退け、支配を広げるべく次のステージへと予定通りステップアップしていくことができるだろうか。
スポーツナビ 梅田香子
2003/10/08
『松井秀喜 メジャー交友録』 VOL.32
松井に刺激を与えるレッドソックスの主砲ラミレス
9番からスタートした野球人生
昔も今もヤンキー・スタジアムは周辺の治安が良好とは言えない。というか、最悪と言っていい。マンハッタンでタクシーを呼び止め、
「ヤンキー・スタジアムまで行ってくれ」
と頼むと、10台のうち9台がまず断わるのだ。
レッドソックスの主砲マニー・ラミレスはもともとドミニカ共和国の出身。12歳の時、両親に連れられて、ニューヨーク・シティーに引越してきた。父親のアリスティデスはタクシーの運転手になり、母親のワンルシダッドはお針子として働いた。
ヤンキー・スタジアムにほど近いワシントン・ハイツという町は、ヒスパニック系の移民が住むエリアだ。
「こういう別世界もあるんだとショックを受けた。道の角ごとに麻薬の売人が待ち構えていたし、ストリートギャングなんてそこら中にいた。」
とラミレスは述懐する。
ワシントンハイツのリトルリーグはレベルがかなり高く、ラミレスとて最初は9番バッターに甘んじなければならなかった。しかし同時に、ベースボールがドラッグディーラー以上の刺激と興奮をラミレスにもたらしたのである。
「僕は思う。北アメリカはスポーツがこれほど盛んで、至るところで試合が行われていて、みんなに平等に機会が与えられるような社会でなかったら、犯罪の数は今の10倍も20倍も拡張してしまったのではないだろうか」
大きな変革をもたらしたマニエルとの出会い
ラミレス少年はいつも午前4時30分起床し、まず近所の丘へ走った。時には古タイヤをロープを結んで腰に巻き、それを引きずりながら丘を上る。その後、リトルリーグのチーム練習に参加し、午後は空き地の草野球に加わった。
1991年6月、ドラフトでクリーブランド・インディアンズが全体で13位、1巡目でラミレスを指名。契約金のオファーは28万5000ドルだった。
ルーキー・リーグと1Aクラスを経て、2年後には順調に2Aクラスのイースタン・リーグ、カントンに昇格した。さらにシーズン途中から3Aクラスのシャーロット・ナイツへ。ここで後にインディアンズの打撃コーチ、監督に就任するチャーリー・マニエル(元近鉄)と出会った。
もともと、マニーはたぐいまれなスイングの美しさと力強さが、スカウトたちの間で高く評価されていたが、変化球やチャンジアップへの対応や相手ピッチャーの癖を見抜くプロのテクニックは、まだ備わっていなかった。
「それまでは一生懸命練習して、来た球を打つだけだったけれど、チャーリー・マニエルと出会ったことで打撃の奥深さを知り、ますます野球が好きになったんだ」
マニエルはテッド・ウィリアムズの打法など、参考になりそうなビデオは繰り返し見せて懇切、丁寧にレクチャーした。
初のニューヨークの試合でメジャー初本塁打!
93年8月末、21歳の時、ようやくメジャー行きの切符を手にすると、最初の試合はミネソタのツインドームで4打数ノーヒット。その次のシリーズが第2のホームタウン、ニューヨークでの試合だった。
93年9月2日。インディアンズのユニフォームを着て、ヤンキー・スタジアムのグラウンドに立ったその試合で、ラミレスが用意したチケットは実に50枚。マウンド上には同じドミニカ出身のミリード・ペレスがいた。そして、第1打席でいきなりフェンス直撃の2塁打。第2打席では早くもメジャー初本塁打をたたき込んだのである。
初めてのオールスター出場もワールドシリーズも、すべてクリーブランド時代にもたらされた。たちまち全国区のスターに成長したにもかかわらず、ラミレスは相変わらずオフシーズンを自宅で過ごし、球団関係者をハラハラさせていた。ワシントン・ハイツが以前と同じ犯罪の巣くつであることには変わりがなかったからである。
98年には日米野球で来日。東京ドームでは2打席連続ホームランを放ち、MVPに選ばれている。
ミリオネアになっても変わらないワシントン・ハイツのヒーロー
2000年のオフにFA宣言すると、争奪戦の揚げ句、レッドソックスが最高年俸のアレックス・ロドリゲスに次ぐ、8年総額1億6000万ドル(約176億円)の契約で落札した。
昔からラミレスを知るワシントンハイツ時代の友人たちは口をそろえて、こう言う。
「ミリオネアになってもヤツは全然変わらないで、オレたちに接してくれる。ワシントン・ハイツを離れたところで、ここのヒーローであることは昔も今も変わりがない」
さすがに自宅は別な所に建てたが、行きつけのソウルフード・レストランは今もなおヤンキー・スタジアムの近所にある。ヤンキースとのプレーオフ期間中も、必ずラミレスはそこに足を運び、旧知の友人たちとの交流を楽しむのだろう。
松井とラミレス。ポストシーズンではどちらに軍配が上がるにせよ、互いに刺激しあい、必ずプラスになるものがあるはずだ。
スポーツナビ 梅田香子
2003/10/03
『松井秀喜 メジャー交友録』 VOL.31
ヤンキースの前に立ちはだかるツインズってどんな球団?
ニューヨークとミネソタはまったくの正反対?
ニューヨークとミネソタ。まるで童話に出てくる都会のネズミと田舎のネズミのように、この2つの都市は見た目も中身もかけ離れている。同じ北米大陸とは思えないほどだ。それぞれに良さと不便さが同居していて、住民たちは強い愛情とプライドを常に漂わせている。
ツインズの本拠地であるメトロドームは、良く言えば全米で最も歓声が大きい、悪く言えば最もうるさいという評判で、外観は東京ドームそっくり。もちろん東京ドームの方が後からできたので、参考にしたのは向こうの方だ。そういえば、ここに限らずメジャーリーグでも鳴り物を使った応援が増え始めているのだが、あれは日本からの輸入品なのだろうか。
ともあれ、ツインズにはヤンキースのようなフリーエージェントの大物はいない。これが最大の特徴の一つだ。そして、その一方でマイナー組織や選手育成機関にはかなり力を入れている。
メジャー最強の守備力を誇る生え抜き集団
2年前のオフ、球団削減の対象としてエクスポズと共にやり玉に挙がったのは記憶に新しい。エクスポズと違ってその話が立ち消えになってしまったのは、裁判を起こすほど地元住民の反対運動が激しかったことと、新しいオーナーが名乗りを上げたこと、そして何よりも、2002年シーズンに圧倒的な投手力と守備力で地区優勝を遂げたためである。特に守備に関してはメジャーリーグ最強と言っていい。
これは引退した名将トム・ケリー監督が実践していたスタイルで、00年の日米野球で来日した際も、
「落合博満とカービー・パケット(当時ツインズ)を比較したら?」
という質問に対し、
「明らかにパケットの方が上だ。落合と違って打つだけではなく、守備も素晴らしい」
と斟酌(しんしゃく)のない口調で言ってのけた。これほど社交辞令からかけ離れた監督も珍しい。
後任のロン・ガーデンハイヤー監督はマイナーリーグも長かったが、ケリーの下では3塁ベースコーチとして参謀役を務めていた。守備を重んじる伝統はそっくりそのまま受け継がれ、守備に不安のある選手はツインズに来ると、特訓を受けるはめになるし、主力の多くが生え抜きで新人の頃から鍛えられている。
01年度のゴールデングラブ男、ダグ・ミントケイビッチを筆頭に、セカンド、ショート、サードとまったくスキがなく、控えのレベルも高い。外野に関しても同じで、センターのトリー・ハンターはファインプレー集の常連。おととしのオールスターゲームでは、バリー・ボンズのホームランを見事にキャッチして、アウトにしてしまった。
投手コーチのリック・アンダーソンもなかなかのアイデアマンだ。奇をてらうわけではなく、心理学の専門家の意見を聞きながら、選手たちの個性にあった育成術を見出していく。
24歳のサンタナが大ベテランを批判
ヤンキースとのプレーオフ第1戦で先発したヨハン・サンタナはおととしの5月、3Aのエドモントンから昇格した24歳。フレンドリーで陽気なベネズエラ男だが、なかなか感情の起伏が激しい。
春季トレーニング中、エース格のエリック・ミルトンがひざの手術を受けることになり、ツインズは穴埋めとして急きょ38歳のベテラン、ケニー・ロジャースを獲得した。
これを知ったサンタナは、
「先発ならオレがやれるのに、どうして年寄りなんか獲得するんだ!」
と激怒したのだ。
これがニューヨークなら、マスコミにデカデカと書きたてられたかもしれないが、ミネソタは幸せか不幸か、常駐している記者が少なく、大きな記事にはならなかった。とはいえ、たかだか2年弱しかメジャーでの実績がない若造が、超ベテランを侮辱したのだからチーム内での波紋は大きかった。
内紛を乗り越えてチームは一つに
ガーデンハイヤー監督はアンダーソンと相談して、キャンプ地に懇意にしている心理学者を呼び寄せ、カウンセリングも兼ねてサンタナと4人だけで長い話し合いの場を持った。結果としては、これが大きなターニング・ポイントとなったと、サンタナ自身が回想している。
「心理学とか難しい理論は分からなかったけど、首脳陣たちと腹蔵なくディッスカッションする機会が持てたことはラッキーだった。監督やコーチがどういう考えで僕を起用しているかが分かったし、彼らの方も僕が先発を熱望しているということを理解してもらえたと思う」
ガーデンハイヤー監督も、
「あの内紛をアンダーソンがうまく処理してくれたから、かえってチームが一つになれたのだと思う」
と分析していた。サンタナは今季、今までと同じリリーフ要員として起用されたが、途中からジョー・メイズに代わって、念願の先発ローテーション入りを果たしている。
さて、そのガーデンハイヤー監督に松井の印象について質問してみたところ、
「いいバッターだということは疑いようがない。守備も悪くない。スター性はあると思うが、野球はそれだけじゃないからね。まだ1年目なのだから、これからお手並み拝見といったところだろう」
と、これまた美辞麗句からかけ離れた率直な感想が返ってきた。
スポーツナビ 渡辺史敏
2003/10/02
『GODZILLA MEDIA WATCHING』 VOL.32
ファン激怒! プレーオフ第1戦の裏側
松井の評価は攻守に"勝負強い”
“ゴジラ”から“クラッチジラ” に変えるべき
いよいよ始まったプレーオフ。地区シリーズをツインズと争っているヤンキースは、初戦を1-3で落としたが、依然ヤンキースが有利、という評価は現地1日時点では揺らいでいない。
今回プレーオフが始まるに当たって、さまざまな予想記事が米メディアでは組まれている。そんな中で松井はどのように評価されているかというと、ほぼすべてのメディアで共通しているのが、“クラッチ”つまり勝負強い選手だということ。それも打撃だけでなく、守備を含めた総合的な面でだ。
そのことが一番よく出ていたのが、9月30日付『New York Post』の20ページにも及ぶ地区シリーズ特集に掲載された“トータル・ベースボール”という松井に焦点を当てた記事。
いきなり「彼のニックネームを“クラッチジラ”に変えるべきかもしれない」という書き出しから始まり、松井の今シーズンの得点圏打率が3割3分5厘でチーム最高だったことなどを紹介。さらに、「彼は素晴らしい強肩ではないが、いくつもの素晴らしい返球を見せた。それはクイック・リリースのおかげだ」と、守備での勝負強さを分析。さらに松井ほど多くのプレッシャーを受けてプレーしている選手はほかにないが、それをはねのける力が松井にはあり、「われわれは松井がヤンキースのために10月のベースボール(プレーオフ)のプレッシャーに立ち向かうことを目の当たりにするだろう」としている。
実際、地区シリーズ第1戦では初打席で安打を記録、第4打席でもあわや本塁打かと思わせるレフトへの大飛球を放ち、その実力を発揮している。今後のシリーズでクラッチ・プレーヤーの本領発揮となってほしいところだ。
ヤンキースファンが減少? メッツファンに移る?
伝統を誇る球団で起きたチケット問題
ところで、1日付の地元タブロイド紙は、いずれも当然のように、地区シリーズ第1戦を1面や裏1面などを使って大々的に報じたのだが、ちょっと興味深かったのが、『Daily News』の1面。シリーズのチケットを手になぜか渋い顔をしたファンたちの写真が大きく使われている。
実は、第1戦ではゲーム・チケットを持った約1000人のファンが一時入場を断られ、4回を迎えた頃にようやく入場できた人までいた、という異常事態が起こったのだ。
これは年間予約席を持つファンに配布された、MLB発行の冊子形式になったプレーオフ用チケットが問題となったもの。個別のチケットを切り離すとき、必要な半券が付かない状態で切り取ってしまったファンが多く、不正なチケットとしてチームが入場を認めなかったのである。さらに、チケットの再発行に1枚5ドルの手数料をとったため、激怒したファンが続出。中には、「これからはメッツのファンになるかも」と語るファンも出た。
長い伝統を誇るMLBで、しかもプレーオフの興行にも慣れたヤンキースですら、こんな混乱を生む。そんなところもプレーオフが普段とは違う場であることのあかしなのかもしれない。