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Columnコラム

スポーツナビ 梅田香子 2003/05/30
『松井秀喜 メジャー交友録』 VOL.13
取材攻勢も慣れっこ!? 名選手たちを知るベンチュラ
「松井よりジョーダンのときの方がすごかった」

「日本のマスコミがたくさん集まった」という、米マスコミのマンネリ報道にいささか飽きてきた。同業をかばっていると、とられられるかもしれないが、筆者はそこまでお人よしの人格者ではないと自覚している。

「その話題に触れるな」とまでは言わないけれど、テレビのニュースなんて日本の報道陣を映すだけで、肝心の試合や選手の言動を無視するパターンが目につく。野茂のときはまだ珍しかったのだろうが、イチロー、松井に至るまで同じような現象が繰り返されているとは……。

 ロビン・ベンチュラはよく言ってくれた。
「マイケル・ジョーダンのときの方がすごい騒ぎだった。今は野球のことを質問されるから、だいぶマシだ」

 NBAのスーパースター、ジョーダンがメジャーリーガーを本気で志し、招待選手として春季トレーニングに参加した時、ベンチュラも同じホワイトソックスに在籍していた。確か、キャンプの初日は約300人の報道陣が集まったはずだ。あのときはベースボール・ライターだけではなく、バスケットボール・ライターもスポーツ・キャスターたちも一通り集結したから、確かに相当な騒ぎだった。

 米国内だけでなく、南米や欧州、中国、日本からもそれぞれ3、4人のメディアがいて、常にジョーダンの一挙一動を追い、コーチング・スタッフやチームメートたちにコメントを求めたものだ。ベンチュラは卓球が好きで、よくクラブハウスでジョーダンとコンコン勝負していたから、感想を聞かれて苦笑いしていた。

「卓球やってみてどうだった、と聞かれてもね。まあ、あれはあれで今となってはいい思い出だよ。あのマイケル・ジョーダンと同じユニフォームを着てプレーできたんだもの。チームに溶けこむためにマイケルは必死だったよね。外では規制されていたけれど、クラブハウスではいつ見てもサイン攻めだった。もちろん僕ももらったけれどさ」

広報もプロぞろいのメジャー 人気チームは取材申請も大変

 取材証というものは、申し込んだら、申し込んだ数だけ発行されるわけではない。特にヤンキースやマリナーズのような人気チームは審査が厳しく、記者席の数も限られているから、まず優先されるのは地元の記者、それから全国区の有力雑誌や有名コラムニストたち。日本のメディアにはいわば“お余り”が割り当てられる。

 逆に米マスコミが100人も日本のオールスターゲームに殺到したら、広報担当者はとてもさばき切れないだろう。メジャーでは選手やスタッフはもちろん、広報担当者も筋金入りのプロフェッショナルぞろいなのだ。

 実際、1994年に労使協定の話し合いがこじれて、ワールドシリーズが中止になったとき、天下の『スポーツイラストレーテッド』誌が代替で日本シリーズ特集を企画した。が、あえなく日本のプロ野球機構に「ノー・スペース」と断られ、日本の提携雑誌に泣きついて取材証を分けてもらったといういきさつがある。

ベンチュラはジョーダンに続きライアンとも“対戦”?

 卓球といえば、ジョーダンの打った球がそれて、ベンチュラのわき腹を直撃したことがあった。もちろんよくあることだし、小さなボールだから痛くはない。けれども、見物人から、
「いけー、ロビン! ヘッドロックだ!」
 とやじられ、ベンチュラ自身、笑いころげたものだ。

 そのちょうど前年、売り出し中の26歳だったベンチュラは、テキサス・レンジャーズの名投手ノーラン・ライアンと対戦して、デッドボールを食らった。思わずカーッときて、マウンドに向かったのだが、一瞬だけ躊躇(ちゅうちょ)してしまったところ、あべこべにライアンに抱え込まれて、ガツンガツンと6発も一方的に殴られ、揚げ句の果てに審判からベンチュラだけが退場を宣告されてしまった。

 翌日、ベンチュラは殴られている写真で初めて『USAトゥディ』など各紙のトップを飾り、
「ライアンは引退した後はボクサーとしても通用するのではないか」
 と記事は締めくくられていた。

好守巧打の3塁手で全国区の人気者

 笑ってはいけないのだろうけれど、ベンチュラのきょとんとした表情は笑いを誘ってしまい、今でも「珍プレー好プレー」といったたぐいのビデオクリップでは必ず放映される。ボビー・バレンタイン元監督が経営するスポーツバーでも、目立つところにこの時の写真が飾ってあった。

 意外かもしれないが、好守巧打の3塁手は今のメジャーでは人材難である。ベンチュラはじっくり球筋を見極めるタイプのバッターで、守備のセンスも抜群。ハンサムな風ぼうと誠実さとユーモアあふれる気性で、たちまち全国区の人気者となって1998年のオフ、FA宣言してメッツ入り。ここでは新庄とチームメートになったので、日本の取材攻勢は既に経験ずみなのだ。そして2001年の12月、引退したデービッド・ジャスティスと交換でヤンキースにやって来た。

 ケガもあってスランプが続き、年俸を大幅にダウンして今季は1年契約を結んでいる。トッド・ジールもいるし、マイナーでは新人も育ってきているから、うかうかとはしていられない。もっともそれがヤンキースの層の厚さなのだろう。
スポーツナビ 渡辺史敏 2003/05/29
『GODZILLA MEDIA WATCHING』 VOL.14
名物オーナーのゴジラ批判騒動の真意は?
日本でも有名になった「ゴロ・キング」
“辛口表現”は日ごろから

“NYのメディアがとうとう松井バッシングを始めた”と、日本で騒がれているようだ。前々回で紹介したように、打撃の調子が上がらないことから、批判が出そうな雰囲気は以前からあった。ただ、今回のバッシング騒動は単に松井をスケープゴート(批判の的)にしようというものではないように感じている。今一度、その流れと内容を見直してみたい。

 まず日本で有名になった「ゴロ・キング」という見出しの記事を掲載したのは22日付の老舗(しにせ)新聞『New York Times』。Tyler Kepner記者による“Ground Ball King”というスポーツ・セクションに掲載された記事で、この日の時点で、安打も含め、松井が大リーグ最多の97となるゴロ(グラウンド・ボール)を打っていることに言及したものだった。

 さらに同日、タブロイド紙の『Newsday』は、「パワーのないマツイはさび付いた門のようなスイングをしている」(Ken Davidoff文)と題した記事を掲載しており、“バッシング”を印象付けたようだ。

 ただし、これらの記事によってNYのメディアが、松井バッシングに一斉に向かった、というのは言い過ぎのように思う。例えば、『New York Times』は、まさに同じ22日のスポーツ・セクション1面に、小さいながらも松井が9回に松井がスライディング・キャッチのファインプレーをした場面の写真を掲載して、ロジャー・クレメンスの299勝目を手助けしたことを称えているのだ。

 さらに、上記2つのバッシング記事にしても、トップ扱いではない短い記事で、いずれも不振だが、松井や関係者は改善に向けて動いている、といった構成になっている。“さび付いた門のような”という表現など日本人にはきつく感じるかもしれないが、マリナーズとの対決第1戦の最終回、0対6でリードされている中、長谷川から安打を放ったことに「意味のないヒット」と表現した新聞があったほどで、“辛口表現”は日ごろからのものなのだ。

事態を一転させた名物オーナーの発言
開幕から大きく変わった松井の評価

 そんなわけで、NYでは当初、日本ほど”松井バッシング”が注目されていたわけではなかった。が、27日になって、事態が動くこととなった。

 同日のタブロイド紙『Daily News』が、「ボス、秀喜とウィーバーにゲキ」(Bill Madden、Christian Red文)という記事を大きく掲載したのだ。5連敗を喫した26日のレッドソックス戦後に、ボスことジョージ・スタインブレナー・オーナーが記者たちに話した言葉をまとめたもので、その中で同氏は「今のマツイはパワーヒッターと見込んで契約した選手ではない」と語っている。

 これまでにも数多くの騒動を生んでいる名物オーナーのこの発言には、さすがにNYのメディアが一斉に動くこととなり、翌28日、すべての地元新聞がオーナーの松井批判発言についての記事を掲載した。

  が、意外にもその内容は、勢いに乗ってさらに松井をたたくというよりも、松井の不振を自覚した上で「ベストを尽くしています」というコメントを掲載し、いわば松井の真摯(しんし)な姿勢を評価しているものがほとんど。『New York Times』も「ゴロ・キング」と書いたTyler Kepner記者自身が27日のゲームで、「マツイは昨夜、5打数1安打だったが、3つは外野フライだった」と復活に期待する書き方をしているほどだ。これはオーナー自身の談話も松井だけを狙ったものではなく、連敗、首位陥落となったチーム全体に対する批判だったことも関係していると思われる。毎度ともいえるオーナーの“現場介入”、という大きな問題ととらえられ、その中でこれまでどおり殊勝な態度をとる松井はむしろ好意的に受け止められている、といった方がいいのかもしれない。

 とりあえず、現在、松井に対してバッシングの集中砲火が浴びせられているわけではない。とはいえ、松井の評価が開幕当初とは大きく変わってきたのも紛れもない事実ではある。
スポーツナビ 渡辺史敏 2003/05/23
『GODZILLA MEDIA WATCHING』 VOL.13
ゴジラがNY日本人社会に与える影響
“ゴジラロール”に“三冠丼”、便乗商品は好意的に受け止められるも……

 ヤンキースの本拠地、ニューヨーク(NY)。世界に名だたるこの大都市に住む日本人は周辺地域も合わせると約6万人に上る。

 ロサンゼルスと並びアメリカ最大規模の日本人コミュニティーにとって、松井のヤンキース入団は当然のことながら大きなニュースとなった。今回はNYの日本人コミュニティーと松井についての話題をお伝えしたい。

 「寿司屋が“ゴジラロール”を考案した」「“55”をあしらった弁当を日系食料品店が発売した」といったいわば松井狂想曲的ニュースは、日本でも何度も報道されたと思う。

 これらは日本向けの話題づくりというだけでなく、筆者を含む現地の日本人にとっても、ある意味明るいニュースとして受け止められていた。日本と同様にアメリカでも景気後退が進んでいる上、テロや戦争などで、ここのところ日本人コミュニティーでも暗い雰囲気が流れていただけに、「松井を応援しよう」という流れは悪いものではなかったのだ。松井にちなんだ商品が次々と発売されたのには、便乗しようという意図も見え隠れしたが、「明るい話題だし、まあいいじゃない」というようなところもあったのである。

 が、さすがに浮かれ過ぎという面も出ている。さまざまな店で似たような商品が半ば乱立。“ゴジラ丼”(天丼、カツ丼、卵丼が一つになったもの)という丼を出していた日本食レストランが、商標問題でクレームが出たため“三冠丼”に改名した、などという話も流れている。程度というのは難しいものだ。

NYは松井にとってオフフィールドでも最良の地となるか!?

 そしてこうした雰囲気の中で、松井がNYで生活することの大変さ、も感じる。というのは、「Aという日本食レストランで松井が食事をしていた」、「居酒屋Bに松井とマリナーズの長谷川、デーブ大久保が一緒に来ていた」といった話が口コミやネットを通して、ほとんどその日のうちに複数の経路で伝わってくるようになったからだ。それも、そういったうわさ話に興味のなさそうな人からだったりするから驚く。過去、野茂や伊良部がいた時は、これほどではなかった。

 6万人規模とはいえ、大都市ニューヨークにとっては小さな日本人社会。いかに松井が現地の日本人から注目を集める存在で、四六時中、衆人環視の中にいるのだということを改めて思い知らされるばかりだ。

 幸い今のところトラブルのようなものは起こっていないようで、ネガティブなうわさ話もない。さすが松井、といったところだろうか。

 さらに、最近はそういった“応援”商品乱発やうわさ話もだいぶ落ち着いてきた。ニューヨークの日本人コミュニティーにとっても既にゴジラ級の存在となった松井。この地が彼にとってオフフィールドでも最良の地となってくれるといいのだが……。
スポーツナビ 梅田香子 2003/05/22
『松井秀喜 メジャー交友録』 VOL.12
松井に敬意を表す“ポパイ”ドン・ジマー
シカゴでは「レジェンド」として人気

 手塚治虫の名作『鉄腕アトム』を読むと、月旅行とかテレビ電話とか、書かれた当時の「夢物語」がかなり現実となってるところが面白い。ヤンキースの作戦参謀、ドン・ジマーが松井秀喜と一緒にいるのを見ると、それと似た思いが去来してしまう。ジマーこそがまだ野茂がドジャース入りするずっと前から、
「いずれは日本人が大リーグでも成功を収めるよ。王(貞治)と長島(茂雄)が来ていたら、絶対に通用していた」
 と主張していた人物だからである。

 ドナルド・ウィリアム・ジマーこと、ドン・ジマーは、1989年にカブスがナリーグで優勝した時の監督なので、何かとニューヨークを敵対視したがるシカゴ市民の気質を差し引いても、今もなおシカゴではNFLのマイク・ディトカと並ぶ「レジェンド(伝説)」として根強い人気を誇っている。

 あのころは、まだ日本のメディアが珍しく、のんびりとした時代だったので、試合が終わった後、日系人の用具係主任ヨシ・カワノと一緒に監督室でハンバーガーをごちそうになったりしたものだ。そう、ジマーはハンバーガーが大好物で、
「東映フライヤーズから2年目もオファーされたのだが、日本にはハンバーガーショップがなかったから、仕方なく断わったんだよ」
 とうそぶく。
「あの時(1966年)、東映の監督は水原茂で、ケーシー・スタンゲルのような人だった。いつも3塁コーチボックスに立っていて、バッターに指示を出すんだ」

流浪の野球人生でメジャーの生き字引
最高の野球選手は「ウィリー・メイズ」

 決して花形スターではなかったけれど、あるときは捕手、あるときは2塁手あるいは3塁手か遊撃手として、ドジャースを皮きりにカブス、メッツ、レッズ、セネタースを渡り歩いた。大リーグの生き字引的存在で、生まれ育ったシンシナティに始まって、アラバマ、ミネソタ、インディアナ、プエルトリコ、日本、モントリオール、コロラダ、ユタなど、ありとあらゆるところでジマーは野球のユニフォームを着続けた。監督歴はレッズとレンジャース、カブス。ヤンキースでは、トーレ監督がガンで手術した時や、退場を宣告された時、代理監督を務めた。

 さかのぼれば、ウェスタン・ヒルズ高校の時代に、当時の全国大会で優勝して、チームメートとともにベーブ・ルースから表彰された。ルースが亡くなる前年のことだったという。

 ドジャースでは、ジャッキー・ロビンソンとチームメートになり、メッツではケーシー・スタンゲルの指揮下でプレーをした。ちなみにこれまで見た中で、最高の野球選手と言えば、
「もちろんウィリー・メイズだ。そりゃーヤツと比較したら、松井はまだまだだね」

日本とアメリカの距離がかけ離れていた時代

 今でもかなり面影は残しているが、監督室に飾られた結婚式の写真を見ると、やぶにらみの目といい、ぷくっと膨らんだ頬(ほお)といい、マンガのポパイそっくりだ。当然あだ名は「ポパイ」だったが、ほうれん草ではなく、ハンバーガーばかりムシャムチャと食べているので、よくからかいのネタにされていた。

「ハンバーガーとキャンベル社のトマト・スープさえあれば、私はどこででも生きていけるのだが……。ずっと後になって日米野球(1990年)で監督として来日した時、マクドナルドが至るところにあったのには驚かされた。それと野球のレベルも上がっていて、大リーグで通用する選手がゴロゴロとしていた。先発した野茂はフォークがすごかったし、バッターでは池山のスイングが印象に残った。私が東映にいた時は大リーグでやれそうなのは、長島と王と張本の3人だけだったと記憶している」
 それほど日本とアメリカの距離はかけ離れた時代だったのである。

 ジマーは、それまで大リーグでは年俸9000ドル程度の選手だったが、東映の提示額は3万ドルで、当時のレートでは1ドルが360円だった。それ以外にも契約条項には「家族が2度、来日する費用を持つ」とあったにもかかわらず、ジマーは決して家族を日本に呼ばなかった。

「まだ子どもたちがローティーン(10代前半)で、私はジョー・スタンカの息子の悲劇を知っていたから、どうしてもそういう気持ちになれなかったんだ。今考えると、惜しいことをした。若いときに異文化に接することは、見聞を広めるいいチャンスだからね」
 スタンカ(元南海ホークス)の息子は自宅のバスルームで、ガス漏れで亡くなっている。

春季トレーニングに元気が出てくる72歳

 確か、ジマーは90年ぐらいから毎年のようにシーズン終了間際には、
「今年限りで引退して、アリゾナでのんびりと暮らすよ」
 と引退を口にしているのだが、春季トレーニングが始まると元気がムクムク出てくるらしい。

  31年1月17日に生まれの72歳。プロ生活48年目の年から背番号48を付け始め、毎年一つずつ背番号を増やしてきた。このままでいくと、今年は松井と同じ55番のはずだったが、
「あれはもう去年で止めたよ」
 と54番のまま春季キャンプに登場した。はるばる海をこえてやって来た松井に敬意を表したのかもしれない。
スポーツナビ 渡辺史敏 2003/05/16
『GODZILLA MEDIA WATCHING』 VOL.12
地元メディアを独占した松井三振の写真
敗戦を伝えるには松井が一番と判断

 2度目の日本人対決でも打撃の不振が続いたらバッシングが始まってしまうかも、という不安を先週の記事で書いたら、その夜のマリナーズ戦で3号2ランを放った松井。さらに翌日、翌々日と2安打を記録し、いよいよ上昇ムードか、と安心しかけたのだが、その後がいけなかった。

 皆さんご存知のように、10日、11日とアスレチックス戦で無安打に終わってしまったのである。10日はそれでも「初敬遠」という“初物”トピックが日本では前面に出たようだが、もちろんここニューヨークではそんな見出しが出ることはなかった。ただこの試合、5対2でヤンキースが勝利したこともあって、良くも悪くも松井が取り上げられることはなかったのであるが……。

 ただ11日は違った。ヤンキースは、ここまでで既に5勝を挙げていた左腕のマルダーによってわずか4安打に抑えられ、2対5と完敗したのだが、中でも悪い意味で目立ったのが松井だったのだ。

 第1打席は2死走者1、3塁のチャンスに空振り三振。第2打席がファーストゴロで、第3打席は2死走者1、2塁で見逃しの三振。第4打席が9回表、1死走者1塁で、セカンドゴロ、これが併殺打になって試合終了。この日は見事なまでに”ブレーキ”役となってしまったのである。

「こりゃまずいなぁ」と思いつつ翌12日、NY地元紙を見たら「やっぱり」という紙面が目に飛び込んできた。『Daily News』が裏1面で、『New York Post』はスポーツ面内部だったものの、やはりカラーで大きく松井が第1打席で三振する写真を掲載していたのだ。さらに『New York Times』も小さくではあったが、スポーツ・セクションの1面で三振して引き上げる松井の写真を載せていた。
 前日の敗戦を伝えるには松井が一番だ、と各紙が判断したということである。

そう責めたてることもない。だけど……

 だが、「こんな写真が載ってるんだから松井がつるし上げられてるんだろう」と思って記事を読むといずれも意外にそうでもなかった。確かに好機でことごとく打てなかったことはレポート記事に出てくるのだが、それ以上の突っ込みはなく、淡々と紹介され、むしろマルダーにチーム全体が抑え込まれたことを伝えるものになっていた。選手個人に注目した記事では、目の感染症で欠場したジアンビーや、この日3敗目を喫したペティットの敗戦がいずれも西海岸のチーム相手だったことなどに、焦点が当てられていたのである。

 たかだか1試合ブレーキになり、2試合打てなかったところで、そう責めたてることもない、というのが各紙に共通してあったのだろうか。

 ヤンキースはさらに13日のエンゼルス戦でも3対10と完敗し、連敗となったが、現在のところメディアの話題はけがから復帰した遊撃手ジーターに集中している状態。特に松井を取り上げるメディアはない。

 とはいえ、今回は写真だけだったものの、悪い面でもいきなり大きな扱いを受けることが実証されたとも言える。そろそろ本当に本調子になってほしいのだが……
スポーツナビ 梅田香子 2003/05/15
『松井秀喜 メジャー交友録』 VOL.11
モンデシーがヤンキースで取り戻したもの
パワーあふれる打撃と素晴らしい外野守備

 今更ながらヤンキース打線の層の厚さには驚かされる。3割バッターがずらり。中でもラウル・モンデシーの復活ぶりは驚異といっていい。

 モンデシーといえば1994年のルーキー・オブ・ザー・イヤー。マイク・ピアザ、エリック・キャロス、野茂英雄、トッド・ホランズワースらと名を連ね、ドジャース勢が5年連続受賞した華やかなイメージがつきまとう。

 何よりもあのパワーあふれるバッティングと外野守備の素晴らしさは一度見たら忘れられない鮮烈なものがあった。それだけに日本の野球ファンにもなじみが深いはずだ。特に野茂がドジャース入りした1995年は、モンデシーにとっても思い出深いベスト・シーズンと言えた。松井目当てで日本の報道陣がつめかけた時も、
「野茂のときもこんなだったなあ」
 と懐かしそうに目を細めていた。

 17歳のときにドジャースと契約して、ドミニカン・リーグで2年、北米のマイナーリーグで3年あまりの下積みを経験したモンデシーはあの年、初のオールスター出場を果たし、初のゴールドグラブ賞にも選ばれた。打率.285、26本塁打、88打点、27盗塁という好成績で、晴れて「20-20」クラブ入り。さらに2年連続トップの16捕殺のおまけつきで、ドジャースは地区優勝して、ポストシーズンに駒を進めた。

 1997年には「20-20」どころか、打率.310、30本塁打、87打点、32盗塁で、ドジャース球団史上初の「30-30」クラブ入り。2度目のゴールドグラブ賞も獲得している。

プライドを傷つけられた外野手とのトレード

 ところが、その年のオフ、辣腕エージェントのムーラッドが要求した希望額と球団側のオファーはかなりの開きがあり、契約交渉が難攻。年が明けてからようやく年俸調停の直前にドジャースと4年総額3600万ドルで合意に達した。
「長期契約の姿勢を絶対に見せてもらいたかった。僕はドジャースで骨をうずめたいからね」
 とモンデシーは満足そうだった。ちなみに1998年も33本塁打、99打点、36盗塁で2度目の「30-30」を達成している。

 もっとも、この頃から首脳陣との衝突が目立つようになって、飲酒運転で逮捕されるなど、何かとトラブルが続いた。

 99年にはブルージェイズと4対2でトレードが成立。ドジャースはモンデシーを放出して、同じ外野手のショーン・グリーンと6年8400万ドルで契約したのである。 いかにメジャーリーグではトレードが日常茶飯事とはいえ、モンデシーがプライドを傷つけられないわけはなかった。入団会見ではショックを隠せず、言葉も途切れがちで、
「トロントは故郷のドミニカからは遠いけれど、暮らしやすいところだ。ベストな環境で1から出なおしたい。カナダからワールドシリーズに出場して、ドジャースと戦いたい。」
 と月並みな豊富を語るのが精一杯という雰囲気であった。

松井獲得資金のためのトレード要員に

 心機一転してブルージェイズで巻き返しをはかったものの、8月には右ひじのじん帯損傷と遊離軟骨で手術を余儀なくされてしまい、残りのシーズンは棒に振ってしまった。

 リハビリを順調に終えて、翌年には無事にカムバック。守備は相変わらず絶品だったが、打撃のほうは大振りが目立つようになった。トレード候補として頻繁に名前が挙がるのだけれど、高額な年俸がネックになってしまい、なかなか成立しない。

 ようやく、ヤンキースがポール・オニールの引退でやや薄くなった外野陣の穴埋めをするため、2Aクラスのピッチャー、スコット・ウィギンズのと交換トレードを申し出たのが昨年の夏。ヤンキースの一員になって早々に、モンデシーはインディアンス戦でフェンスに激突して胸を強打してしまい、呼吸困難で入院するなど、ツキからも見放されてしまったかのように見えた。

 まだ30歳なのに、
「あと1年ぐらいで引退して、家族とドミニカで暮らしたい」
 と弱気になってしまい、例によって名物オーナー、スタインブレナーの怒りを買ってて、このオフは松井獲得資金を作るために「モンデシーをトレード要員にする」と公言されてしまったほどだ。もっとも106キロの身体はだれの目にもオーバー・ウェイトで、積極的に動く球団はなかった。

戻ってきた本来の打撃と人なつっこさと陽気さ

 この3月、オープン戦の期間に首脳陣の許可を得て、ドミニカに帰国したものの、予定されていた22日の試合には間に合わず、罰金を命じられた。
「もうモンデシーは終わったな……」
 という声がチームの内外で聞かれたのに、開幕するな否や、この変貌ぶり。

 ジョー・トーリ監督いわく、
「モンデシーについてはレジー・ジャクソン(臨時コーチ)に任せきりだった。打撃のチェックはもちろん、体重管理や精神面でのコントロール方法も全部レジーが指導してくれたそうだ。それがいい効果を彼にもたらしたのだろう」

 ヤンキースの強さは決して、豊富な財政だけではないのだ。
「本当にこの1年かぎりで引退するつもりなのか?」
 と直撃インタビューしたレポーターがいたが、
「そんなわけないだろ!」
 とモンデシーから空手チョップのマネをされていた。どうやら減らした体重の見返りに、本来の打撃と人なつっこさと陽気さをも取り戻したようだ。
スポーツナビ 梅田香子 2003/05/09
『松井秀喜 メジャー交友録』 VOL.10
コントレラスが味わうヤンキースの光と陰
新人としては異例の高級ホテルの入団記者会見

 フロリダ州のタンパ空港から、ヤンキースのトレーニング施設までは車で20分もかからない。3月はメジャーリーガーたちの春季キャンプの拠点としてにぎわうし、4月以降はマイナーリーグの公式戦が行われるし、それが終わると故障した選手のリハビリや冬の自主トレの場として、年中無休の忙しさだ。

 まだ開幕して間もないこの時期、ここでホゼ・コントレラスと会うとは……。

「上体と下半身のバランスが崩れているから、投球フォームをコーチに直してもらっているところだ。体重調整の方はあまり気にせず、あくまで走り込みとウエートトレーニング中心の練習をしている」

 絶対にないとは言わないけれど、マンハッタンの高級ホテルを借りて、新人の入団記者会見を華々しく行うなんて、北米では非常に珍しい光景だ。それなりに注目してドラフト1位で指名されたアレックス・ロドリゲス(マリナーズ-レンジャーズ)やチッパー・ジョーンズ(ブレーブス)ですら、球場内の球団事務所で会見を行っただけだった。

 ところが、ヤンキースはこのオフ、松井に続いてもう1回、2月6日にキューバ代表チームの元エース、コントレラスの入団で、200人近い報道陣を集めた。年俸は松井より100万ドル高い総額3200万ドル(約37億円)で、4年契約だった。

松井とコントラレスはお互いの実力を認め合う

 ヤンキースタジアム内で自主トレを行っていた松井とは、その日のうちに対面し、
「チームメートとして頑張ろう」
 とお互いエールを交わし合った。

 コントレラスは日本に遠征した時、対戦こそなかったが、松井を見ており、
「イチロー、高橋由とともに、松井は一番印象に残ったプレーヤーだった」
 と思い出を語っていた。

 松井の方も一昨年の野球ワールドカップ(W杯)をテレビ観戦していて、
「球の速さとスライダーの切れが印象的。素晴らしい投手だ」
 との印象を述べている。

「亡命」という特殊な事情ですったもんだ

 比較的すんなりとヤンキース入りを決意した松井とは違って、そもそもコントレラスはキューバからの「亡命」という、特殊な事情下にあった。FAの資格を得るまで、書類の不備で一度は却下されるなど、すったもんだした。

 キューバについて簡単に触れておくと、1492年からおよそ400年にわたってスペインによる支配が続いた後、米国の支援を得て1902年に独立国となる。もっとも制定された憲法には、アメリカ政府が干渉する権利が組み込まれていた。主要な産業である砂糖キビ栽培にはじまって、金融も鉱山も貿易も商業もすべて、公益事業は米国政府の国策に基づいて運営されていたのだ。

 現首相のカストロが率いる革命軍がほう起して、「キューバ革命」が起こったのが59年。62年には旧ソ連製のミサイル基地がキューバに建設されるという、いわゆる「キューバ危機」が起こって、就任間もないジョン・F・ケネディ大統領らアメリカ政府を震撼(しんかん)させている。

 そういうカストロ自身も元野球選手で、パイレーツ入りの話もあったという伝説があるほどだ。スポーツ選手の育成には国家事業として力を注ぎ、コントレラスも当然その恩恵を授かってきた。記者会見では、
「今の自分があるのはフィデル・カストロ(首相)のおかげだ」
 と発言してニューヨーカーたちから失笑を買ったのだが、コントレラスにしてみたら本心からくるものだったのだろう。

 91年にソビエト連邦が崩壊してしまうと、経済的な後ろ盾を失ったキューバの経済状況は急速に悪化した。野球選手たちがメジャーリーグに次々と亡命し始めたのは、それと無関係ではない。

「キューバからの輸入品はダメだ」

 ライバル球団のボストン・レッドソックスも獲得に乗り出したため、コントレラスの争奪戦は壮絶を極めた。そして、またしてもジョージ・スタインブレナーに屈服を強いられたレッドソックスの球団幹部は、
「ヤンキースこそが“悪の帝国”だ」
 とのろいの言葉を口にしたほどである。

 慣れない環境でストレスもあったのだろう。春季キャンプに現れたコントレラスは、だれの目にも太り過ぎだった。初日から1週間で3キロやせたというが、調整は決して順調とは言えなかった。オープン戦でレッドソックス戦で打ちこまれた時は、
「期待が大きすぎるだけさ。平均的なピッチャーじゃないか」(ジョン・バケット投手)
「オレにもだれか3200万ドルくれないかな」(シェイ・ヒレンブランド三塁手)
 と辛らつな評価が飛び交い、順調なスタートをみせた松井とは見事なまでの対比を見せた。そして、不安を抱えたままメジャーで開幕を迎え、打ちこまれてマイナー落ちとなった。

 もう31歳。マイナーリーガーとしては高齢すぎるから、長くタンパにいるわけにはいかないはずだ。あせっても仕方がないことではあるけれど、のんびり としているわけにはいかない。
「日本からの輸入品は成功だったが、キューバからのはダメだ」
  と早くも烙印をおされつつあるのが、現状である。ヤンキー スの「人気」と「栄光」と「伝統」は、ある種の「過酷さ」と常に背中あわせなのだ。
スポーツナビ 渡辺史敏 2003/05/08
『GODZILLA MEDIA WATCHING』 VOL.11
日本人対決どころではないNYメディア
松井vsイチローはトピックスの一つ

 6日から2度目のイチロー対松井3連戦が始まった。ゴールデンウィーク明けの日本では、再びこの“対決”に注目が集まっているのだろうか。今回は、ここNYの地元メディアがこの“日本人スター対決”をどのように伝えてきたかをまとめてみたいと思う。

 先週の記事でも触れたが、最初の3連戦が始まった29日、地元紙はいずれもこの件をだいたい大々的に伝えた。イチローと松井両名の経歴比較はもちろん、マスコミに対して距離をとるイチローと積極的に交流する松井のコントラストを伝える記事などもあり、なかなか興味深かった。

 と、同時に注目したのは、どの新聞も両選手の打撃が不振に陥っている、ということに触れている点だった。ただ対決をあおるだけでなかったのはいいことだと思えたが、同時に松井がこのまま不振だったら、この対決がバッシングを開始する格好のネタになるのでは、と心配になったのも事実だ。

 そして3連戦、3試合とも安打は出たものの松井の打撃はやはり好調とは言えない状態が続き、イチローもやはりさえなかった。

 気になるNYメディアの報道はというと、初戦を伝えた30日には約150人にものぼった日本人報道陣の多さと日本でのフィーバーぶりを伝える記事が各紙で躍り、両選手のプレーが記事になったものの、その後は“日本人対決”という切り口では、ほとんど触れられることはなかったのである。

 これはある意味、仕方がないこと。ニューヨーカーにとって、松井対イチローはあくまでも一つのトピックにすぎず、それぞれが勝負に大きく関係することがなかったのだから、記事にならなくても無理はない。

好守備がバッシングから救った!

 むしろ筆者が意外だったのは、心配した松井バッシングが始まらなかったことだ。逆にこの3連戦から次のアスレチックス戦にかけての松井について、守備も含め“総合的に優れた選手”という評価が目に付くようになり、逆に擁護されるような表現さえいくつも見かけたのである。

 実は、“守備はそこそこ”、“肩はあまり強くない”という事前評価がアメリカのメディアには共通してあったのだ。それが好守備がいくつも出たことによって好印象となったようである。打撃不振によるピンチを、松井にとっては当然の守備が意外にも救いになったということだろうか。松井が地元メディアに好意的に受け止められている効果も出たのかもしれないが……。

 そして6日、今度はシアトルでの2度目の対決開始となったわけだが、今度は『New York Post』が「さあ、松井-イチロー、パート2」(Mark Hale文)という記事を載せたぐらいで、大きな扱いをした新聞は皆無だった。その『New York Post』にしても、当の選手たちはあまり特別な意識を持っていなく、シアトルにも日本人記者は多数詰めかけるだろうが、ヤンキー・スタジアムの時ほどではなさそう、といういささか冷めた内容。対決だけでは、ネタとしてはもう新鮮味がないのである。

 さらに凡退して渋面の松井の写真を使う新聞も出てきた。チームが6日の試合で3連敗したこともあり、早くも“戦犯”探しが始まりそうなムードでもある。松井にとって、NYメディアとの最初の正念場になるかもしれない。確かに日本人対決に意識をとられている時ではなさそうだ。
スポーツナビ 渡辺史敏 2003/05/02
『GODZILLA MEDIA WATCHING』 VOL.10
松井vsイチロー、夢の日本人対決 NYの舞台裏
「日本人で大盛況」報道に違和感

 約150人もの日本人報道陣が集まり、長嶋・巨人前監督(現野球全日本代表監督)までもが激励に訪れた松井とイチローの大リーグ初対決。日本のみならず、ニューヨークの地元メディアも『New York Times』が「ブロンクスで日本の一大事が」という見出しで、さらに『Daily News』や『Newsday』などタブロイド紙3紙がいずれも裏1面などを使って、この初対決と日本での注目の大きさを紹介することとなった。

 ただ、日本で“日本人ファンで大盛況”というような報道がされるのを見ると、現地に在住する日本人の1人としてそれは違うのでは、という感じなのである。というのは、この3連戦のチケットについて、ちょっとしたてんやわんやが耳に入っていたからだ。

 今シーズンの試合スケジュールが発表された時点で、まず日本人関係者の間で注目されたのがこの3連戦だった。初対決に加え、日本のゴールデンウィーク(GW)だから、日本からファンがどっと来る、と思うのは当然のこと。地元の日系旅行代理店がツアーのために数百枚単位で購入したという話もあったし、“好カードで日本からいっぱい来るから売り切れて、プレミア・チケットになる”といううわさで転売を目的に複数のチケットを購入した個人ファンなどもいたようだ。

 が、イラク戦争にSARS(新型肺炎)騒ぎでGW時期の海外旅行が低迷しそう、という予測が出てきたころから、この3連戦にも影響が出ている、という話がいろいろなところから聞こえてくるようになった。それは、確かにツアーへの申し込みはあるものの、事前予測にははるかに及ばず規模を縮小するはめになり、代理店がだぶついたチケットを持て余して困っている、というような内容だったのである。

 さらには、公式販売のチケットがいっこうに売り切れないこともあってか、直前になると“ディスカウント価格でチケット売ります”というチラシを日本食料品店などに張る個人ファンまで現れた。高額転売という狙いが外れたらしい。

 ただこの売り切れ予測に関して言えば、かなり甘かったと言うしかない。実は人気のヤンキースとはいえ、5月半ばまでは肌寒い日が多いこともあってナイターの入場者数はもともと多くなく、売り切れる可能性はほとんどなかったのだ。

 いずれにしてもそれだけ松井とイチローへの現地日本人社会の事前期待は高かった、ということなのではあるが……。

うれしさあり、悲しさありだった29日の初戦

 こんなこともあって、筆者は29日の初戦、あえて普通にチケットを買ってスタンドの様子を観察に行ってみたのだが、まず目についたのは8割がた埋まった1階席には日本人の姿が少なく、4割ほどしか埋まっていない3階席の1割以上が日本人だったこと。人気のある1階席はシーズン・チケットでの販売が多く、大量確保も難しいことからこんな状況が生まれたようだ。

 アメリカ式にバナー(応援プラカード)を持ってきたファンも多く、こちらの応援スタイルが浸透してきたことが分かり、なんともうれしい気分になった。が、最終回、抑えで長谷川がマウンドに登ったとき、場内アナウンスがあるまで彼だと気づかなかった日本人が多かったのは、ちょっと哀しくもあった。

 実際のところ、日本人観客は全体で1割に届くかどうか、といったところで、日本のTVカメラの前で、はしゃいで見せるグループはいたものの、全体的には日本フィーバーというような感じではなかったのである。とりあえず昨年のサッカーのワールドカップ(W杯)のような奇妙な大量空席は見当たらず、ちょっとほっとした。もっとも元から空いていたので目立たなかったせいかもしれないのだが……。

 6日(日本時間7日)からマリナーズvsヤンキースの3連戦が、今度はイチローの地元であるセーフコフィールドで行われるが、最後にこれからMLBを現地観戦しようという方たちに一つアドバイスを。同時多発テロ以降警備が厳しくなっており、ちょとした大きさのバッグやデイパックなどの持ち込みは禁止されている。今回入場時の警備チェックを見ているとこれで引っ掛かる日本人が非常に多かった。ボールパークにはぜひ身軽で。
スポーツナビ 梅田香子 2003/05/01
『松井秀喜 メジャー交友録』 VOL.9
松井との初対決で再燃したイチローのヤンキース入りのうわさ
「新庄」という単語がタブーだった頃

 昔話を繰り返すつもりはないのだけれど、イチローが野茂英雄投手と初対決した際、
「日本人同士の対決というだけで、騒がれる日が来なくなることを願っています」
 とコメントしたのは、ほんの2年前のことだ。同じ時期に大リーグ入りを決めた新庄剛志について感想を求められた時も、
「僕にほかの選手のことを聞かないでください」
 と露骨に嫌がっていて、担当記者の間では一時期「新庄」という単語はタブーとされていたほどだ。

 もちろんこれはイチローに限ったことではなかった。筆者が日本を拠点にしてプロ野球を取材していた頃、それはもう、ごく日常的な光景と言ってよく、完封負けを食らった試合の後、 「相手ピッチャーの出来が良すぎましたね」
 と敗戦監督に聞こうものなら、
「オレにアイツを褒めさせようとするのか!?」
 としかり飛ばされたものである。だからといって、ご機嫌うかがいの美辞麗句を並べていてはスポーツライター業は務まらない。しかられるのも仕事のうちと割り切って、できるだけ質問の最後の方に聞きにくい質問をもってくるのが、会見のセオリーと教えられていたし、実行してきた。

 それだけに、大リーグを取材するようになった当初、米記者たちがあまりに無造作に、
「What's your thought of Roger Clements today?(今日のロジャー・クレメンスに出来についてどう思う?)」
 と質問するのを目にした時、カルチャーショックを覚えずにいられなかったのだ。たいていの監督や選手が気分を害した様子もなく、淡々と思ったままを口にしていた。もちろん大リーガーたちが皆、精神的に成熟した大人であるというわけではない。短気なことで知られるトニー・ラルーサ監督(現カージナルス)やルー・ピネラ監督(現デビルレイズ)が新聞記者とつかみあいの大ゲンカをしている場面にも居合わせたけれど、それはもっと別な理由があった。

「松井に打たせるわけにはいかない」

 大リーグ3年目を迎えたイチローは、いろいろな面で明らかに変わった。肩に力が入ったところがない。松井がオープン戦で騒がれ始めた時も、ホーム開幕戦でいきなりホームランを打った時も、積極的というわけではないが、求められると率直な感想を口にする。

「野手でレギュラー出場している日本人は2人しかいないのだから、頑張ってほしいという気持ちはあります。しかしその反面、ヤンキースは僕たちにとって最大のライバルですから、松井に打たせるわけにはいかないという思いもあります」

 昨年の日米野球でも、松井の方からイチローのところにあいさつに行き、2人はしばらく談笑していた。今回のニューヨーク対決でも、同じ雰囲気だった。野球人としても一個人としても、イチローが松井に対して好感を持っているのはだれの目にも明らかである。

余裕が生まれたイチローは東海岸でも通用する?

 戸惑いや不安が錯綜(さくそう)した1、2年目と違って、イチローはリアル・メジャーリーガーとしての地位をすでに確立してしまった。そこから気持ちの余裕が生まれるのは当然のことだろうし、松井フィーバーに報道陣が流れてしまって、野球に集中できるようになったのを喜んでいる節がある。もともとマリナーズは、佐々木やイチローが加わるまで、それほどマスコミの注目を浴びるような環境ではなかった。それほど人気があったら、任天堂がオーナーとして乗り出すこともあり得なかったはずだ。

 マリナーズのファンにとっては皮肉なことかもしれないが、盗塁王や首位打者だけではなく、アリーグMVPまで獲得してしまったイチローは、すでに全国区のスターとして自他共に認めるモンスターに成長してしまった。今のイチローだったら激烈な論調で知られる東海岸のマスコミも、口笛を吹くようにして軽くあしらってしまうのではないだろうか。グラウンドでの仕事ぶりはもちろんのこと、英語力といい、マスコミとの適度な距離といい、四方八方まったくすきを見せない。

 マリナーズとイチローの契約は3年目。来年のオプションは球団側にあるとはいえ、辣腕(らつわん)エージェントのトニー・アタナシオがバックアップしているのだから、イチロー自身の希望がまずかなえられるはずだ。このままマリナーズで骨を埋めようとするのか、あるいはワールドシリーズ優勝リングをゲットする最先端にいるチームに移籍しようとするのか?

早くも熱くなる移籍市場 イチローがピンストライプを着る可能性は

 過去のさまざまな例から判断しても、これほど客を呼べる実力派を名物オーナーのジョージ・スタインブレナーが欲しがらないわけはない。逆にマリナーズは、ランディー・ジョンソン、ケン・グリフィー・ジュニア、アレックス・ロドリゲス……。球団としての歴史が浅いだけに、あまり多いとは言えないシアトル産のスター選手たちは、結局すったもんだの揚げ句、去っていった。

 まだ4月だから気の早い話ではあるが、もう既に記者席では盛んにうわさ話が飛び交っているのは事実だ。遅かれ早かれ、オフを待たずにイチローの来季の契約は新聞のスポーツ・セクションをにぎわせることになるだろう。