NHKスポーツオンライン 広岡勲
2013/01/29
広岡勲の大リーグコラム(4)「本当の夢は野球場にある」
いかにもアメリカ、いや大リーグらしい発想だ。
記念グッズやコレクターアイテムなど、ありとあらゆるものを商品とするのがお手の物の米球界だが、またもやユニークなものが話題となっている。
「血染めのソックス」。
そう、ダイヤモンドバックスやレッドソックスなどでエースとして活躍し、通算216勝を挙げたカート・シリング氏のソックスだ。
レッドソックス時代の2004年、ワールドシリーズ第2戦で着用していた試合用のソックスで、ケガを押して力投した際に右足首から血がにじみ出し、テレビ画面でも大きくアップで映し出されたため、「血染めのソックス」として一躍有名になった。
また、そのシリーズではレッドソックスが見事1918年以来の世界一に輝き、彼の“赤ソックス”は悲願達成の象徴となったのだった。
米野球殿堂博物館にしばらく展示されていたその品がこのたび、競売にかけられるというから、驚くばかりだ。
一説によると落札額は10万ドル(およそ910万円)いや、100万ドル(およそ9100万円)を超えるという。
実は大リーグ職員として勤務したこの10年間、僕もさまざまなメモリアルグッズを目にしてきた。
2008年のシーズン終了後、旧ヤンキースタジアムが取り壊しとなった際には、スタンドの観客席からはてはグラウンドの芝生や土まで、さまざまなアイテムが高価な額で取引されていた。
思わず開いた口が塞がらなかったのは、デレック・ジーターの飲みかけのジュース缶と松井秀喜の引き裂かれたユニホーム。
前者はジーターの熱狂的な女性ファンが購入したという話を後から聞いたが、問題は後者。
誰が購入したかはともかく、なぜそんな商品が世に出回ったのか思わず首を傾けたくなった。
なぜなら、引き裂かれたピンストライプのユニホームは2006年、松井秀喜が左手首を骨折した際、運ばれた病院先の緊急治療室で医師にハサミで切り裂かれたもので、目の前で僕もその光景を見ていたからだ。
ごみ箱から何者かが拾ったのだろうか。
また、球場に返却された際に誰かの手に渡ったのか。
いずれにせよ、ふと気づくと「えっ!」というアイテムが商品となり、世に売り出されている。
ほとんどの場合、最後に驚かされるのがなぜか持ち主、というのも何とも皮肉な結末だ。
そんな商品が世に送り出され、高価な額で取引されるシーンを見るたびに、何か違うのではないかと違和感を憶えざるをえなかった。
いや、まだメモリアルグッズならいい。
僕がどうしても引っ掛かるのはプロ野球選手の直筆サインが高価な金額で取り引きされている現状だ。
現在、アメリカでは多様なスポーツビジネスが確立されており、
なかでもグッズ収集の業者(ブローカー)は大リーグ選手の直筆サインに高価な値をつける。
亡くなった名選手はそれこそ破格な額となり、存命中に高齢になると業者はこぞって仕入れに力を入れるという。
確かにこの10年間、松井秀喜の行く先々にはサインを求める人たちが集まってきた。
遠征先の宿舎や球場の関係者出入り口。
公の場所ならまだいい。
時にはレストランでの食事中でも。タクシーに乗る際にも、追いかけてくる人たちがいた。
そういった方々のほとんどは純粋なファンではなく、業者だった。
10年間も現場で仕事をしていると、誰がファンで誰が業者なのかよく分かる。
当の選手は顔まで憶えているというから、驚いてしまう。
一度、バスの中で、ヤンキースのマリアノ・リベラから「彼はブローカー、あいつもブローカー、そしてあの子も」とレクチャーを受けたことがある。
しかし、「あの子も」と言われ、動揺した。
なぜなら、リベラが指差した「あの子」とは小学2年生ぐらいの男の子だったからだ。
「だって、あの子は少年じゃない?」と僕が言うと、すかさず、リベラは「あの子に付き添っているお父さんを見てごらんよ」。
確かに、彼の父親と思われる男性のカバンには、いろいろなアイテムにサインをもらった“商品”が。
手には黒マジック、青ボールペンやシルバーのペン。
肩から下がっているカバンには20個ぐらいのボールが詰め込まれていたのだった。
「そうか、そういうことなのか・・」。
ポカンと口を開けている僕にリベラは畳み掛けてきた。
「親があれでは・・。大人があれでは・・」。
とはいえ、「だからと言って、そんな子供にサインを断ったことはない」とリベラは力を込めて言うのだった。
そう、ブローカーの差し金の子供たちだと分かっても、サインを求められれば喜んで応じているのだという。
「子供に罪はないよ。野球少年はわれわれの宝なのだから」。
彼の問題点を鋭く見通す目と、それを知りつつ許す、愛情あふれる目。
一見、ギャップのある両方の目を併せ持つことがいかに大切なのかは僕にも痛いほど分かった。
まだ、野球記者をしていた頃、長嶋茂雄氏に言われたことがある。
「本来なら、球場で色紙やボールにサインを欲しがるファンにはすべて応じてあげたい気持ちですよ。どんなにかかっても一人残らず。だって野球場ですよ。野球場は夢のパークなのだから」。
野球場に行けば、お目当ての選手のサインが直接もらえる。
野球場に行けば、感動が得られる。
もちろん、サインは入場料を払いさえすればもらえる。
そう、無料だ。
ファンを大切にする選手、球団、球界。
そして、選手を球団を球界を愛するファンがいてこそ野球がある。
ソックスを売るシリング氏、高額で競り落とそうとするコレクターの間に罪はないが、果たしてそこに夢はあるのか。
本当の夢が野球場にあることだけは絶対に忘れてほしくない。
SPORTS COMMUNICATIONS 佐野慈紀「ピカイチ球論!」
2013/01/25
松井秀喜だからこそできること
昨年12月28日、残念なニュースが舞い込んできました。松井秀喜が現役引退を発表したのです。この一報を耳にした時、「残念」のひと言に尽きました。確かに、現状は厳しいものでしたが、年が明ければどこかのメジャー球団からキャンプ招待の話はあるのではと思っていたからです。そこからまた、復活を目指して欲しいと望んでいました。「彼ならまだまだやれる」。そう思っていました。しかし、選手の感じる限界はさまざま。求めているもののレベルが高い松井だからこそ、決断を下したのでしょう。
日本球界での復帰については、多くの人が望んでいたと思います。しかし、松井は「ファンは10年前のイメージのままでいる。その姿に戻れると強くは思えなかった」と、復帰しなかった理由を語りました。要因のひとつには、近年、彼を悩まし続けてきた両ヒザの故障もあったことでしょう。天然芝がほとんどのメジャーリーグとは異なり、日本プロ野球の球場はほとんどが人工芝です。両ヒザの不安を抱えている松井にとって、それは決していい環境とは言えません。故障をすれば、また球団やチームメイトに迷惑をかけてしまう。そして、ファンに100%のプレーを見せることができない。それは松井にとって避けなければならないことだったのではないでしょうか。
では、DHであれば、守備への不安が解消されるのではないかという意見もあります。メジャーリーグでも、しばしば言われていたことでした。しかし、松井は「守備をしてこそ、一人前の野球選手」という考えを最後まで貫き通しました。僕は、同じ野球人として、この松井の気持ちがよくわかります。
実は、僕は子どもの頃、往年の名ショートストッパー、オジー・スミスに憧れていました。ショートを守る彼の華麗なグラブさばきは目に焼き付いています。もし、もう一度生まれ変わって野球をやるのであれば、ピッチャーやキャッチャーもいいなとは思うのですが、やっぱりオジー・スミスのような内野手になりたいなと思いますね。松井はもともと内野手ですから、彼にとって野球とは、「グラウンドを縦横無尽に走り回って白球を追いかけ、そして打席に立って大きなホームランを打つこと」。純粋にそういう野球を追い求めてきたのだと思います。
世界発信してほしい「野球」の良さ
さて、引退の発表会見を見ながら、「松井秀喜」という人柄を感じていました。言葉の端々にファンや支えてくれた人のことを考えながら野球をやっていたことが表れていたからです。おそらく松井本人も志半ばでの決断だったことでしょう。満足し納得して引退を決意する選手など、ほどんどいません。彼も可能であれば、まだまだやりたいという気持ちはあったはずです。しかし、冷静に現実を見れば、自分はもう100%のパフォーマンスを見せることができない。だから、彼は引退を決意したのです。
私が嬉しかったのは、「草野球の予定が入っているし、まだまだプレーしたいと思っている」と語ってくれたことです。野球から離れないでいてくれることに、ホッとしたのです。なぜなら現役こそ引退したものの、彼にしかできないことが、野球界にはたくさんあるはずだからです。今後はどんどん表に出て、活動してほしいなと思っています。
一部報道では古巣のコーチや監督への話も浮上しているようですが、僕はそれこそ、いつかは野球界における真のグローバル化を実現してほしいなと思っています。つまり、メジャーリーグのコーチや監督として活躍してほしいなと。その理由のひとつは、世界に日本の「野球」を発信してほしいと思っているからです。
確かにメジャーリーグは選手がパフォーマンスを出すには、最高の場所です。しかし、日本の「野球」が「ベースボール」に勝っている点はたくさんあります。それは技術のみならずです。日本では練習の前後にグラウンドに一礼をし、そして高校までは試合の前後には相手や応援団に向かって礼をしますね。また、道具を大事にすることも教わります。こうした人間教育が自然に行なわれているのです。だからこそ、松井をはじめとした日本人プレーヤーの人柄や言動に対して、メジャー界からも称賛の声が聞かれるのです。
望む表舞台での活躍
そして、私にはもう一つ、彼に望んでいることがあります。それは、地域貢献のひとつとして地元の独立リーグ球団である石川ミリオンスターズでプレーしてほしいということです。僕は、縁あって2011年からミリオンスターズに関わらせてもらっています。11年は応援隊長として、そして昨年からは取締役を務めています。実は、ミリオンスターズの端保聡球団代表とは松井獲得構想を練っていたのです。
今回の引退でその可能性もなくなってしまいましたが、僕たちはまだ諦めていません。例えば1日だけミリオンスターズと契約をし、地元の子どもたちの前でプレーしてもらうだけでも、子どもたちは喜んでくれるのではないかと思っています。また、もし日本の古巣が引退試合やセレモニーを行なわないようであれば、ミリオンスターズでやろうということも端保社長との間では話をしています。
もちろん、石川にだけでなく、日本の子どもたちや野球界のために、これまで以上に表に出てきてほしいなと思います。彼が尊敬してやまない長嶋茂雄氏や王貞治氏を、引退して何十年も経った今もなお日本人が尊敬しているのは、常に表に立って野球界のために働きかけてくれているからこそです。それは誰にでもできるわけではありません。しかし、松井になら十分にできます。日本の野球で育ち、世界で活躍した松井が、その野球で社会貢献をしてくれれば、同じ時代を生きる野球人としてこれ以上嬉しいことはありません。松井には今後、さらなる活躍を期待しています。
ZAKZAK
2013/01/24
「松井は要求以上の手数料払ってくれた」 代理人テレム氏、手記で“舞台裏”告白
昨年限りで現役を引退した松井秀喜氏(38)の代理人アーン・テレム氏(58)が23日、英字紙ジャパンタイムズに特別寄稿し、松井氏との約10年の交際を振り返った。テレム氏は契約交渉や代理人報酬などの舞台裏も告白しながら、「松井は、今まで私が担当したほかの500人とは違ったアスリートだった」と振り返っている。
手記の中でテレム氏はまず、松井氏との出会いについて触れている。ヤンキース入団を希望する松井氏の意思の明確さが印象に残っているという。
「『日本の松井というスター選手に興味はないか』、とサンフランシスコの弁護士を通して電話をもらったのが最初だった。そして、私は初めて一度も会ったことのない選手の代理人を務めることになったのだ」
「松井に会うため初めて関西国際空港に降り立つと、途端に記者に囲まれた。松井との食事会はとても穏やかで楽しく、彼は非常に多くの質問をした。しかし、その中で1つ確実だったのは、彼が入団したいのはヤンキースであるということ。そしてヤンキースも彼を獲得したいと思っていたのだ」
テレム氏は同年に松井氏とヤンキースの契約をまとめ、03年から松井氏の大リーグ生活がスタート。数々のドラマが生まれた。
「ヤンキースタジアム開幕戦で満塁本塁打を打ち、ワールドシリーズMVPの実績を挙げた。左手首を骨折した際に、彼がチームメートと監督に謝罪したのも印象深い。彼の選手としての安定感は殿堂級だし、プロ選手としての職業道徳、立ち振る舞いは称賛されるべきものだった。日本人としての威厳を持った米スポーツ界最高の象徴的な人物だった」
さらに、これまで語ったことのない代理人報酬のやりとりの裏話も公開している。
「松井は公表されていないが、かなりの金額の慈善的な寄付をしている。彼は社会的に自分の置かれた立場を理解しているまれなスーパースターだ」
「彼は私が担当したほかの選手とは違った。最初の契約交渉の際、私に『少し上前をはねてくれ。もし今回の契約が思い通りにいったら次の契約の際にはまた調整する』と言った。数年後ヤンキースと再契約した際には、私が最初に要求した以上に手数料を支払ってくれた」
テレム氏は「こんなことは今までなかった。たぶん2度とないだろう」と手記を締めくくっている。
時事ドットコム スポーツ千夜一夜
2013/01/22
ゴジラの引力
スポーツ中継で長く活躍した元ニッポン放送アナウンサーの深澤弘さん(77)と昨年、お話しする機会があった。深澤さんは1960年代からプロ野球で計1600試合以上も実況を担当。半世紀近くグラウンドの内と外を見てきた放送界の第一人者だが、最近少し気がかりなことがあるとおっしゃっていた。
アナウンサーが放送中に紹介する選手のこぼれ話を聴いていて「昔なら、この程度の話はボツにしていたな」と思うことがあるのだという。
「テレビも一生懸命に放送を盛り上げようとするけれど、非常に苦労していますね。素材がないから物語ができない。選手の話す言葉も、記事にすれば3行くらいで終わりそうな内容のものが多い。昔は長嶋さんも王さんも、記者がどの言葉を記事にしようかと悩むくらいにたくさん話してくれたものです。同時に、若い記者が近寄れないほどのオーラもあった。人間として、私たちをとろけさせるものがありましたね。だから尊敬されたし、記者も野球を勉強しなければいけないというムードになった」
今は逆に、人気球団の中心選手ほど口が重い。世の中全体が「あら探し」に忙しく、へたな発言をするとインターネットで集中砲火を浴びるからだろうか。特にヒーローインタビューなどは無難な発言とお決まりのフレーズばかりだ。これでお客さんは満足できるのかな、と私も不思議に思うことがある。
そんなことを考えていたときに、松井秀喜選手の引退のニュースが飛び込んできた。日米で507本塁打を放った強打者は、昨年12月27日にニューヨークで引退を表明。感傷的な発言など一つもなかったが、飾らない言葉で話し、胸の内がよく伝わってきた。一番の思い出は何かと問われたときの答えは印象的だった。
「長嶋監督と2人で素振りをした時間ですね。それが僕にとって一番印象に残っているかもしれない」
自分に今どんな言葉を掛けたいかという質問にはこう答えた。
「『頑張ったね』って言う気持ちはないですね。自分なりにはもちろん日々頑張ってきたつもりですけど。『もう少しいい選手になれたかもね…』ですかね。今出てくるとすれば」
ファンならMVPに輝いた2009年のワールドシリーズなどを思い出すところだが、彼が真っ先に思い浮かべたのは、畳をすり減らしてバットを振り続けた日々だった。そして「もう少しいい選手になれたかも」という思い。常に大きな期待とともにプレーをし続け、ここ数年はけがにも苦しんできた野球人の切なさが、体温のようにじわりと伝わってくる。
松井という選手は、人を引きつける魅力という部分でも語られてきた。彼がヤンキースに移籍したころから巨人戦の視聴率は急に下がっている。今でも「松井がいなくなったことが大きかった」と言う関係者は多い。
私は石川・星稜高時代の松井選手を甲子園で取材しているが、巨人にいたころはプロ野球取材から離れていたため、次に会って話をしたのはヤンキースに移籍した後だった。あいさつをしようと思い、ヤンキースタジアムのロッカールームに向かう通路で声を掛けると、彼は立ち止まって私の名刺を受け取った。にこにこしながら「こっち(米国)にはいつまでいるんですか」などと逆に質問され、驚いた記憶がある。彼ほどのスター選手がこうした対応を取ることは非常に珍しいからだ。
きっと米メディアの関係者も似た経験を持つ人は多いのだろう。ある米国人記者は松井の引退を惜しむ記事の中で、「今後、松井のような選手を取材する機会に恵まれることは想像できない」と書いていた。大勢の日本の報道陣の質問に毎日丁寧に答える誠実さをたたえ、オフになると松井が米国人の記者を招いて食事会を開いたことなども紹介していた。優れたユーモア感覚の持ち主だったと楽しげに回想する記事もあった。
松井は米国に二つの大きな足跡を残した。一つは「非力」と思われていた日本の野手にもパワーヒッターはいて、打線の要にもなれると証明したこと。二つ目は、日本の選手が野球にどう向き合っているかを示したことである。
2006年の「松井の謝罪」はその象徴だ。レッドソックス戦で左手首を骨折した後、彼は「チームメートを落胆させて申し訳ない」という趣旨の談話を発表した。日本の選手はけがをしたときに「チームに迷惑をかけた」と口にすることがよくあるが、米国は主張することが最優先で、謝ることは嫌いなお国柄。けがをして一番つらい当人が謝ったことに人々は衝撃を受けた。チームを思う松井の姿勢に、米国のメディアは称賛の言葉を送っている。
ヤンキースのキャッシュマン・ゼネラルマネジャーは松井の引退を受けて異例のコメントを発表した。「彼は選手としても人としても若者にまねてほしい手本だった」「人々は彼の人柄に自然と引きつけられた」。デレク・ジーター内野手は「ヤンキースのたくさんの仲間の中でも、ヒデキは大好きな一人だ」と言った。
スポーツは時に、技術や勝敗以上のものを見せることがある。松井という選手はプレー以外の部分でも米国の野球ファンの記憶に残り、語り継がれていくはずだ。それは自らの言葉でしっかり話そうという姿勢を彼が持ち続けたからである。真のスターとはまた、そういうものだと思う。
NHKスポーツオンライン 広岡勲
2013/01/22
広岡勲の大リーグコラム(3)「負けるな、A-ROD!」
マンハッタンの中心部、セントラルパークを歩いているとヤンキースのロゴの入ったTシャツやユニフォームを着た子供たちをよく目にする。
背中には大きな背番号。
米国の子供たちはそれぞれ、ごひいきの選手の番号を身にまとい、声援を送る。
だから、彼らの数はそのまま現チームの選手の人気指数を表しているとも見てとれる。
この数年、いやこの10年間、圧倒的人気を誇っているのは「2」。
そう、デレック・ジーターの背番号だ。
だが、その次に人気だった「13」はこのところめっきり見られなくなってしまった。
ヤンキースの主砲、アレックス・ロドリゲスが日本時間の1月17日、左股関節の手術を受けた。
チーム関係者に電話を入れて確認すると、「リハビリ、実践練習を経て、恐らく復帰はシーズン後半ぐらいになるだろう。本人も落ち込んでいる」とのこと。
診断は全治6か月。
少しでも調整が遅れれば、シーズン絶望にもなりかねない状態にあるようだ。
それを聞いて、僕の脳裏にはかつて好機に応えられなかった時に、がっくりと首をうなだれ、みずからを諭すように頭を何度も何度も横に振っていったアレックスの姿が浮かんだ。
個人的にも思い入れが強かった選手だけに、彼のこのニュースは非常にショックだった。
恐らく米国で野球に興味のある人なら、彼の名前を知らない人はほとんどいないはずだ。
これまでの通算成績は2901安打、647本塁打、1950打点。
数字もさることながら、グラウンド外での話題にも常に事欠かないのも理由の一つだろう。
2000年にはレンジャーズとプロ史上空前の10年総額2億5200万ドル(約230億円)という超高額契約で大注目を浴び、2009年には薬物スキャンダルで連日メディアに名前が登場。
試合中にスタンドのお客さんとしばしば口論もし、またマスコミにも問題発言を繰り返し、そのたびごとに「あれはオレの失言だった」とあっさり認めてしまう。
その結果、「嘘つき」のレッテルを張られ、バッシングの対象にされる。
離婚後は、歌手マドンナや女優キャメロン・ディアスと浮名を流し、記憶に新しいところでは、試合中に代打を送られてベンチに退いたあと、ボールに「電話番号を書いて戻して」とメッセージを書き、バットボーイを通じて一塁ベンチ近くにいた女性ファン2人に渡し、1人が電話番号を書き込んで返したという。
そんな嘘かホントか耳を疑いたくなるような話まで報道されていた。
正直言って、彼の話題についてはまだまだいくらスペースがあっても書ききれない。
僕が広報部に在籍した時でさえ、彼のためにマスコミ対策用の全体ミーティングを幾度開いたことか。
でも、なんとも憎めない選手なのだ。
しかし、そんな彼も今年38歳になる。
このところの話題は「代打を送られた」、「放出するべきだ」などの寂しいトピックばかりだった。
そして、飛び込んできた選手生命を脅かす「手術」のニュース。彼の胸中を察すると、気の毒でしかたがない。
どこでもそうだが、プロの世界では、特に高額所得者になればなるほど、「あの選手はあれだけもらっているのだから、もっと働くべきだ」とか「あの選手は給料の割には、よく働いている」など費用対効果ばかりが指摘され、常にマスコミはそんな物差しでプレーヤーを図るようになる。
アレックスはまさにそんな標的者の一人であり、彼自身、そのプレッシャーに苦しめられてきた。
彼の口癖である「ドントウォーリー、ビーハッピー(心配ないよ、うまくいくよ)」は今思うと、自身へのしった激励でもあったのだろう。
でも、だからこそ、彼をよく知る者の一1人として、あえてここで記しておきたいことがある。
僕は知っている。
タンパでの春季キャンプでは、まだスタッフも来ていない午前5時過ぎにグラウンドに出て、1人ノックを受けていたことを。
そして、本番練習が始まる前には、すでに汗だくになり、2つ目のユニフォームに着替えていたことを。練習が終わってほとんどの選手が球場をあとにするなか、再びトレーニングウェアに着替え、室内練習場のマシンで1人黙々と打ち込みを行っていたことを。
王貞治氏の現役時代の打撃解析写真を手に入れ、自分の打撃に生かそうと試みていたことを。
自分が知らないトレーニング法や練習法を目にすると、どこへでも飛んで行き、何でも吸収しようとしていたことを。
スタッフの1人が発熱したと知るやいなや、段ボール箱にスポーツドリンクを詰め込み、誰よりも先に見舞いに行ったことを。
レストランで知り合いと遭遇すると、そっと勘定を済ませ、その場を立ち去っていくことを・・。
これこそ、いくらスペースがあっても書ききれないことばかりだ。
そう思うと、マスコミが報じているアレックスの姿はほんの一部分であると言いたい。
かつてチャーター機のなかで、松井秀喜が僕に言ったことがある。
「アレックスは損している部分がたくさんあるよね」。
いつの日か、またセントラルパークで背番号「13」をつけた少年たちに出くわす日が来ることを願ってやまない。
NHKスポーツオンライン 広岡勲
2013/01/15
広岡勲の大リーグコラム(2)「ジェイソンとの友情」
またもジェイソンとはめを外してしまった。
「お互い、あすも早いな」と言いながらも、赤ワインのボトルはすでに数本空っぽだ。
入店してから間もなく3時間。
摩天楼にもすっかり夜のとばりが下りていた。
彼とは本当にウマが合う。
2003年に僕がニューヨーク・ヤンキースへ入団してからの付き合いだから、かれこれ10年になろうとしている。
当時、ボクは広報部に在籍しており、彼はそこの若手メンバーの一人だった。
当時のジェイソンの上司はとても感情の起伏が激しい男性だったのだが、彼はそれを耐え抜き、数年前、ついにヤンキースの広報部長に昇進した。
「そういえば、イサオには随分助けられたよな」と彼が言えば、「いやいや、助けられたのはこちらだろ」とお互い慰め合いながら、ワインを飲み干す。
その光景は誰がどう見ても、単なるおやじの飲み会にしか見えない。
だが、いつもはそんなノリだけで終わるはずの飲み会がこの夜は彼の一言から空気が一変した。
以下にその会話を再現する。
ジェイソン「なあ、イサオ~。ヒデキの引退の時はさあ~、百万回、ケータイに電話したんだよ。でもさ~、まったくつながらなくて困ったよ(ちょっとほろ酔い加減の口調で)」
イサオ「悪かったな~、ジェイソン。あの時はね、オレも気が動転していてね~。ところで、何か急用だったの?(かなりほろ酔い加減の口調で)」
ジェイソン「いやあ、ホントに引退を決めたのなら、会見場にヤンキースタジアムを使えばいいと思ったんだ(ちょっとほろ酔い加減の口調で)」
イサオ「えっ?・・・・・・・・・・・・・・・(驚きのあまり一気に酔いがさめる)」
彼によれば、引退のうわさを聞きつけるやいなや、キャッシュマンGM、スタインブレナーオーナーに掛け合って、スタジアム内の会見場の使用許可まで取り付けてくれたのだという。
ところが、肝心要の僕の携帯電話はつながらない。
だからしかたなく、引退の事実を確認したと同時に、すぐさま上記の両者とジーター選手のコメントを作成し、プレスリリースを各メディアに配信したというのだ。
これには驚かされた。
いや、正直言って、唇をかんだ。
もちろん、会見場を設定する際、真っ先に頭に浮かんだのはヤンキースタジアムであったことは言うまでもない。
広報的見地からすれば、花道は最高の舞台で設定するのが常とう手段なのだ。
しかし、冷静に考えれば考えるほど、その選択肢は消えていった。
「何より場違いではないのか」「今はヤンキースの選手ではないのだから」と。
松井秀喜と僕が出した結論は同じだった。
僕はそのことをジェイソンに告げた。
すると、彼は何を水臭いと言わんばかりの口調でこうつぶやいた。
「二人はファミリーだよ。ヤンキースのファミリーなんだから」。
どこで会見を行ったかという事実はさておき、ジェイソンの言葉は本当にうれしかった。
やっぱり、こいつはいい奴だなと心の底からそう思った夜だった。
今、日本のメディアでも取り上げられている「ヤンキースタジアムでの引退試合」「ヤンキースタジアム開幕戦始球式」など一連の松井秀喜に関する報道は実は、すべてジェイソンの企画である。
僕は全身全霊で彼に感謝せずにはいられない。
ZAKZAK
2013/01/15
NYに愛された松井秀喜氏が米国社会に学んだもの
野球好きなのだが、松井秀喜選手の雄姿をグラウンドで見ることは最後までできなかった。ナマの松井を見たのはニューヨークで行われた引退会見だった。体が大きい彼が背中を丸め、必死に涙をこらえる姿を見て、こちらも感極まった。
会見場で彼に「米国社会から学んだことは何か」と尋ねた。熟慮の後、「すべて実力次第だということ」と答えが返ってきた。引退も「実力」ゆえのことだろうが、名門ヤンキースの4番を務めたのも「実力」だったと痛感した。
ニューヨークの人々は、素晴らしい実力と人柄を兼ね備えたこの野球人を愛してやまない。ヤンキース時代の同僚で主将のジーター遊撃手は「報道陣や(野球にうるさい)ファンに囲まれても、また、ニューヨークのまばゆいばかりのライトに順応することを余儀なくされても、ヒデキは自分の仕事に徹し切った」と指摘。「何度も繰り返す。ヒデキは私が好きな仲間の一人だ」と強調した。
同球団のスタインブレナー共同オーナーも次のような言葉を贈った。「ヒデキはヤンキースが必要とするときに実力を発揮し、ファンへの責任感も全うした。彼の徳性である謙虚心をもって野球に取り組んだがゆえに成功したし、だからこそ彼はずっと“ヤンキースファミリー”の一員であり続ける」(黒沢潤)
NEWSポストセブン
2013/01/14
「誠実で裏がなく、分け隔てないのはONと松井だけ」と記者
「誠実で裏がなく、誰とでも分け隔てなく接する。そんな野球人はON(王貞治氏・長嶋茂雄氏)を除いて松井しか思い浮かばない」
ベテラン記者たちはこういって口を揃える。
引退会見に先駆けて、東京や巨人時代のキャンプ地だった宮崎、故郷の石川で世話になった知人に、松井秀喜氏(38)が報告と御礼の電話を入れていたことは、あまり知られていない。寡黙だが義理堅いその性格は、日米問わず多くの人に愛されていた。
本誌はこれまで、何度も松井氏の取材を行なってきた。左手首のケガを負った直後には、ギプスをはめた普段着の松井氏にセントラルパークで話を聞いた。取材の途中、そんな松井氏を見かけたニューヨーカーから、「ヒデキ、元気か?」「早く戻ってきて。頼むよ」と温かい声をかけられていたのが印象的だった。
30年続いた本誌の新春名物企画のピンチに、松井氏が一肌脱いでくれたこともある。前季の総括と来季の展望を語り合う「ONK座談会」。長嶋氏が病に倒れて出演できなくなった際、松井氏が“代打”での出場を名乗り出てくれたのだ。
松井氏は2004年から4年間、立派に恩師の代役を務めた。会場は東京のふぐ料理店。金田正一氏、王貞治氏という両大御所の前でも、てっさを豪快に平らげていた。その様子を見た金田氏は、
「長嶋の食べ方とそっくりだ(笑い)。師弟はこんなところも似るんだな」
と目を細めていたものだ。
サンケイスポーツ ベテラン記者コラム・乾坤一筆
2013/01/13
ONから継承 松井秀、超一流のファンサービス
小学生の頃、巨人・王貞治選手(現ソフトバンク球団会長)がユニホーム姿で出演するCMがあった。現在は「ファイト~、いっぱ~つ!!」でおなじみのやつだ。
子供にサインをする場面で「少年の頃、初めて後楽園球場で与那嶺さんからサインをもらった。そのときのうれしさは今でも忘れない」とのナレーションが流れた。ちなみに、与那嶺さんとは1951年に巨人入りし、米国仕込みの激しいスライディングを持ち込んだ日系2世の故与那嶺要氏のことである。
王会長がダイエー(現ソフトバンク)の監督時代、春季キャンプをのぞいて驚いた。指揮官が練習の合間に球場の外へ出ると、サインを求める長い列。毎日のことだからファンはよく知っているのだ。しばらくサインをして「はい、ここまで。また2時に出てくるからね」。そして約束した時刻に再び出てきた。
昨年末に現役引退を発表した松井秀喜氏も、サインするのをいとわない選手だった。
巨人時代、川崎市のジャイアンツ球場で練習を終えて引き揚げてきた背番号55に、ファンが駆け寄った。バットとグラブを置き、即席サイン会がスタート。愛想こそないが、黙々とペンを走らせる横を、ベテラン4番打者が集まってくるファンをバットで人払いしながら通り過ぎていった。
松井は立ったまま最後の1人までこなし、終了は1時間後。取材したくてもできずに、じりじりしていた報道陣に「サインをするのもプロの仕事だから」。まだ20歳そこそこの頃だ。
こんな話も聞いた。発車間際の新幹線に乗り込もうとするときに、子供がノートとペンを持ってきた。松井は荷物を持っていない方の手で、ささっと済ませて車内へ。球団関係者が子供に見せてもらうと、ミミズのような線しかなかった。
「時間がないときは断ってもいいんだぞ。やるならちゃんとやってあげろよ」とアドバイスした関係者に、松井はこう言ったという。「あの子にとっては、あれが自分で松井秀喜にもらったサインなの。他の人がどう思おうと関係ないんだよ」
サインをすれば一流ということではないが、王会長も、長嶋茂雄・巨人終身名誉監督も、本当にファンのことを大事にしてきた。誰に言われるでもなく、それを受け継いだのが松井秀喜だった。
産経新聞 土・日曜日に書く
2013/01/12
論説委員・別府育郎 命がけで見た夢の終焉
「僕には夢がある」
彼は常に「夢」を語ってきた。
石川県能美市にある「松井秀喜ベースボールミュージアム」の正面には、彼がまだ右でバットを構えていた少年時代のブロンズ像がある。台座に彫り込まれた文言は、「僕には夢がある」。
当時の夢は、甲子園だった。夢はそれから、プロ野球に、巨人の4番に、メジャーリーグに、ヤンキースでの世界一にと膨らみ、すべてかなえてきた。その到達点が、2009年ワールドシリーズのMVPだったのだろう。
引退会見で「おそらく一生変わることなく、僕の心にあり続ける」と語ったあの試合が、ヤンキースでの最後の試合になった。試合後の第一声は、「夢みたいですね」だった。次の夢を設定する前に、あのときついに、彼は夢に追いついてしまったのではないか。
例えば「夢」という言葉を、彼はこう使ってきた。
第1回のワールドベースボールクラシック(WBC)で王貞治監督からの招請を固辞した際は「ヤンキースで世界一になるという米国行きを決断したときの大きな夢が、おろそかになるのを恐れる自分がいました」。
「夢への遠回り」
いじめによる自殺が社会問題化した際には、こうメッセージを発したこともある。
「人は夢を持っている。僕の夢は野球そのものだった。いじめることが夢だという人は一人もいないはずだ。かなう夢、かなわない夢があると思うけど、いじめは夢への遠回りになっている」
大型選手の宿命、膝に爆弾を抱える彼にとって、シーズン前に行われるWBCへの参加は、「夢への遠回り」と判断せざるをえなかったのだろう。
夢を大事に生きてきたから、他者の夢にも思いをはせる。05年のオフ、帰国した日本では子供に対する理不尽な殺害事件が続いた。
彼ら彼女らには、遊園地を作る夢や、ケーキ屋さんになる夢があった。松井は唇をかみ、怒っていた。「社会的弱者を、自分のちょっとした感情で殺してしまう人がいる。何の罪もない子供の夢を奪うような事件は、本当、許せないですね」
そんな松井が、昨年末、ニューヨークで行った引退会見では、一度も「夢」という言葉を使わなかった。これまで「夢」と語ってきた場面では「目標」「あこがれ」という単語に言い換えていた。
代わって、会見では「命がけ」という言葉が強く耳に残った。
「命がけでプレーし、メジャーという場で力を発揮するという気持ちでこの10年間やってきましたが、結果が出なくなったということで、命がけのプレーもここで一つの終わりを迎えたのではないかと思います」
夢は、命がけで追い続けるもの。命がけのプレーに区切りをつけたいま、「夢」を簡単に口にすべきではない。そんな意識が彼にあったのだとしたら、あまりにも誠実で、少しせつない。
「人生をかけてきた」
「命がけ」という言葉を普段、耳にすることはほとんどない。だが松井の会見前日、似た響きの言葉を聴いていた。
昨年12月27日、日本記者クラブで、昨季を最後に21年間のプロ野球生活を終えた元阪神、金本知憲の共同会見が開かれた。
彼は「プロ野球という勝負する場をいただけて、人生をかけてやってきた」と話し、今後について「野球に人生をかけてきたので、これ以上の勝負をする勇気が自分にあるかどうか」とも語った。
2人の思いが、交差して聞こえた。共同会見後の控室で、金本はしきりに松井の去就を気にしていた。縁の薄そうな2人だが、それぞれを引退に追い込んだ松井の膝、金本の右肩の故障を診る主治医が同じだったのだという。一人の医師を媒介に、両雄は互いの症状をおもんぱかり、無言のエールを送り合ってきたのだろう。
引退に際し、松井は思い浮かぶシーンを「長嶋監督と素振りをした時間」と振り返り、金本は「最初の3年間は自分よりバットを振っている選手はいないと思っていた」と自負を語った。
日米通算507本塁打の松井は「記録よりも、僕が常に意識したのはチームが勝つために何をするのか、ということ」と語り、1492試合連続フルイニング出場の世界記録を持つ金本は、一番誇るべき記録を問われて、「連続打席無併殺」と即答した。
01年に達成した1002打席無併殺は日本記録。「併殺崩れでセーフになっても打率は下がる。それでも僕は全力で走ったと、一番胸を張れる記録なんです」
右投げ左打ち、好漢の両雄には、しばしの休息の後、新たな夢と勝負の場を得てほしい。
NHKスポーツオンライン 広岡勲
2013/01/08
広岡勲の大リーグコラム(1)「松井秀喜の引退に思うこと」
神妙な面持ちで、一語、一語、言葉を選んでいた。
丁寧に、しかもゆっくりと。
目にはうっすらと涙さえ浮かべている。
これまで公の場で一度しか目を潤ませたことがなかった男が一生懸命に声を絞り出しながら。
「やっぱり、本当なのか」と僕は自問自答しながらも、その光景を必死に目に焼きつけていた。
記憶が正しければ、彼が人前で涙を見せたのは師匠と仰ぐ長嶋茂雄氏が最後に指揮した試合と本人の結婚式だけだったと思う。
普段、あまり感情をあらわにしない彼の目がにじむのを認めたとき、松井との最後の仕事として会見の司会を務めた僕の目頭も熱くさせられてしまった。
「命懸けのプレーも終わりを迎えた」
「悔いはない」
「幸せな充実した時間を過ごさせていただきました」
正直に言えば、あまり聞きたくなかった言葉だった。
いや、聞かないように避けていたといった方が適切かもしれない。
引退へのカウントダウンを感じ始めたころですら、僕のほうが敢えてその話題には触れないようにしていたと思う。
あの会見のあと、車に乗り込み彼が僕に向かってぽつりとつぶやいた一言、「いろいろ、本当にありがとう」。
この言葉が逃げていた自分を現実の世界に引き戻してくれた。
松井秀喜の引退については様々な感想があるだろう。
「もう一度、大リーグへ挑戦して欲しかった」
「日本球界に復帰して欲しかった」
「体がボロボロになるまでとことん現役にこだわって欲しかった」など。
‘避けていた’‘逃げていた’なんて言葉を並べながら、こんなことを言うのは矛盾しているのだが、一方では「でも、これでよかったのではないか」と思う自分もいる。
気持ちが固まり次第、いの一番にファンに伝える。
いかにも松井らしい身の処し方であったと思う。
そして、何より引退を決断した理由が自分の中でしっかりと構築されていた。
本人が語った「出させていただいたにもかかわらず、結果が振るわなかった」という言葉。
それは「自分が思い描くようなバッティングが出来なくなった」とも置き換えることができる。
彼は常々「ファンに対し期待通りの活躍が見せられなくなったときは、ユニフォームを脱ぐときになる」と話していた。
両膝に爆弾を抱えてからは、会見でみずから指摘したように「だましだましやってきた」という状態がすべてであったのだろう。
だからこそ「悔いはない」と口にし、「自分にどんな言葉をかけたいですか?」という質問には「もっといい選手になれたかもね」と苦笑いしながらも、冷静に自身を分析できたのではないだろうか。
側にいてこれまで僕は何度思ったことだろう。
「もし膝さえ痛まなかったら・・(もっといい選手になれたかもね)」と。
そのことはスター選手ならではの孤独と重圧、満身創いになりながらも戦って頑張りぬいた松井自身が何より一番分かっていたのか。
そう思うと心が痛くて眠れない。
日本経済新聞 メジャーリポート 丹羽政善
2013/01/07
「選手は年俸もらい過ぎ」 語ることを恐れなかった松井
ヤンキースが遠征していたトロントを訪れて、松井秀喜に会ったのは彼がヤンキースに入団して3年目の春だった。
試合前、鰻の寝床のようなビジタークラブハウスに顔を出すと、たまたま松井が1人でロッカーの椅子に座っていた。忙しそうで声を掛けられない、という雰囲気でもなかったので、近づいて、当時寄稿していた雑誌の名前を挙げながら「少し、話を聞かせてもらえますか?」と問うと、返ってきたのは予期していない言葉だった。
驚くほどあっさり「取材OK」
「いいですよ」
「えっ、いいんですか?」
思わず聞き返した。「今はちょっと……」と断られるのは覚悟の上。松井とはその瞬間がほぼ初対面だったのである。
答えを濁されたら、「明日はどうか? 明後日は?」と別の選択肢を示しながら、都合のつくタイミングを聞くつもりだったが、想定問答はまったく用をなさず、戸惑っているうちに、「今からケージ(室内打撃練習場)に行かなければならないので、その後はどうですか?」と松井。
果たして練習後、戻ってきた彼の方から声をかけてきた。
「やりましょうか」
椅子を勧められ、15分弱向き合った。ただ、初顔の記者をさらりと受け入れるとは――と、最後まで狐につままれたような気分は消えなかった。
その後も松井とは、多くの時間を過ごしたわけではない。むしろ、わずかと言っていい。それでも顔を合わせれば、眉を上げて「オッ、久しぶり」という表情をこちらに向け、「ちょっといいですか?」と切り出せば、答えは決まって、「いいですよ」だった。
振り返れば、その度に彼には、いい意味で裏切られ続けた。
トロントでのインタビューでは、ベーブ・ルースとルー・ゲーリックの比較になった。そのとき松井は、「伝え聞いた話でしか知らないですけど、人間性としては、ゲーリックの方が好きかな。やっぱり、ヤンキースっていう意味では、ゲーリックなんじゃないかと思いますけどね」と話した後、こう続けている。
「ホームランとかにこだわりはない。強いて僕のこだわりといえば、連続試合出場ですね。これだけは、ずっと続けたい」
連続出場記録にみた“二人の松井”
メジャーに来ても、日本時代から続く連続出場を途切れさせたくない。チームにとって常に必要な選手でありたい――。そんな思いが透けたが、左手首を骨折した2006年、その記録が途切れ、復活した後に「残念でしたね」と声を掛けると、こんな言葉が返ってきた。
「連続出場? そんなのもう、終わっちゃったらいいんですよ」
あっけにとられながら、「そういわれてしまうと、これまでの前提がひっくり返るんですけど……」と返せば、松井は苦笑いしながら言った。
「そこまでは頑張ろうとするけど、終わった時点で忘れなくちゃいけない。止まった時点で、意識してもしょうがないから」
気持ちを切り替えて、前に進むことのできる人の言葉だと思った。彼はさらに続けている。
「(肩の荷が下りたとか)そういう感じでもない。最初から気楽でしたから。続けようと思って、ずっと続けてきたわけじゃないんですよね。勝手に来ちゃった。そういうものが出来上がってから、多少意識したというか、せざるを得ないというか。でも別に、それに縛られることはなかったんですよ」
いやはや、なんともざっくばらんな男だった。
テレビや試合後の囲み取材では、まず脱線しない松井だが、こうした意外な一面もある――いや、そもそもそれが松井の素顔だったのだと、今は思う。
発言することを恐れない選手でもあった。
一度、クリーブランドのベトナムレストランで、昼食をとりながら話を聞いたことがある。
話がそれて大リーグのビジネスの話となったとき、選手の年俸について彼は、臆することなく言った。
「選手は、はっきり言ってもらいすぎですよ」
選手はもらい過ぎ、と口にしたただ一人の選手
自身はその少し前に、4年5200万ドルでヤンキースと再契約を交わしていたが、それを否定するような発言。
裏には、浮世離れした年俸が一般の人の反発を買い、野球離れにつながるかもしれない、との危惧があった。確かに当時、選手の年俸が高すぎるとの声があがり始めていた。ただ、大リーグの選手からそれを認めるような発言を聞いたのは、後にも先にも、あの時だけだ。
彼レベルになると、その発言は重みを持ち、影響力もある。そういう選手が、はっきりと意見を言う。それは、実に新鮮なことだった。
野球の話で今も強く印象に残っているのは、やはりホームランの話だ。
あるとき、「1試合のうちに、ホームランにできる球は、どのくらいあるのか?」と聞いたことがある。
それに対して松井は、「何回もあるはずですよ」と即答した。
何回もあるなら、なぜ、そのうちの一つを捉えられないのか?
ぶしつけな質問をすると、「できないんですよ、そう簡単に。バッティングピッチャーのボールだって打ち損じるぐらいだからね(笑)。それがたとえ失投でも、ピッチャーが本気で抑えようとしている球なんだから、やっぱりなかなか……」とは言ったものの、こうつないだ。
「本気でホームラン王を取る、数を増やしたいというんであれば、やはりそこですよね、いかにそういうボールをしっかり打てるか。だって、難しいボールなんて、めったにホームランにできないから」
キャリアの終盤、そういう球をどう捉えていたのだろう。捉えたと感じたものが飛ばないのか。それとも、見逃してしまっているのか。昔は、こうだったはずなのに……。イメージと結果はどうズレていたのだろう。
いつかまた、会う機会があればそのことを聞いてみたいと思う。
その時も、彼ならきっとこう応じてくれるだろう。
「ちょっと、いいですか?」と聞けば、「いいですよ」と。
NHKスポーツオンライン 高橋洋一郎
2013/01/04
拝啓 松井秀喜殿
旧年暮れの突然の会見から1週間あまりが経ち、暦の年も変わりました。
一つの大きな『区切り』をつけた今、静かに流れる時間のなかいかがお過ごしでしょうか。
これまで年末年始と言えば日本に帰省されていましたが、今年はアメリカで過ごす初めてのお正月。
ご存知のようにアメリカではクリスマスが最大の祝日、日本でいう「お正月」というものはありません。
元日(New Years Day)こそ休日ではありますが、2日からは当たり前のように世の中は動き出します。
やや物足りなさは感じるかもしれませんが、日常のけん騒をよそに心地よい静けさに包まれてのお正月、お雑煮ならぬOZONIに舌鼓を打つのも悪くはないかもしれません。
ここで野球選手松井秀喜のこれまでの足跡を振り返るつもりはありません。
あの会見でかいま見えた(気がする)みずからの決断に対する潔さゆえのすがすがしさ、未来を見据えたまなざし、しかし隠しようがなかったかに見えた寂しさ…
あの時、一つ一つの質問に丁寧に答える際に見せた表情の変化にこれまでの松井秀喜の野球人生への思いが詰まっていたのだと思います。
会見が行われたのは7月25日にチームを離れておよそ5ヶ月後にあたります。
ご自身その間ほとんど公の場に姿を見せることはありませんでした。
野球というものから離れ、そこから距離をおいたうえで、この決して短くはない5ヶ月間という時間をかけてみずからの進退について熟考を重ねてきたこととお察しします。
時折の取材には「まだ決めていない。決める必要がない」といった答えを繰り返すばかり。
結論を先延ばしにしているような印象を受けることもありましたが、みずからの進退に関しては考えに考えた末にしっかりと決めるといった態度だったのでしょう。
そのうえで下された決断が「命がけのプレーも一つの終わりを迎えた」ということでした。
20年に及ぶ日本、そしてメジャーでのプロ野球生活、当然その前からも日常の一部であった“ユニフォーム“を脱ぐという決断の重さはやはり自分には計りかねます。
だからこそ、そのような決断をしたご本人を前にしては、その事実を惜しむでもなく否定するでもなく、ただただ事実として受け取るということしかできません。
寂しい、悲しい、潔い、立派だ、どのような形容がなされようと、この先松井秀喜が松井秀喜選手に戻るということはないという事実に向き合うだけです。
すべては『長島監督と二人で素振りをした時間』から始まり、その長島監督からかけられた「ジョー・ディマジオのような選手を目指せ」の言葉に導かれるように1999年のオフに訪れたヤンキースタジアム。
会見ではその時見たヤンキースの試合が「僕にとって大きな運命だったような気がします」と振り返っていました。
『運命』という言葉にご自身とはやや不釣り合いな響きを感じはしたものの、度重なるケガや逆境を乗り越え、みずからの運命を切り開いて行くその姿に、その存在に、これまでどれだけ多くの野球ファンが力を得ることができたか、どれだけの人たちが心打たれたかを思うとあまりにもたくさんの人たちが貴殿の『運命』を一緒に生きたといってもいいのではという気さえしてきます。
一人の野球人として、どれだけたくさんの人たちの運命に交わり、彼ら自身が運命を切り開く力を与えてきたのか。
ファンだけでなく松井選手を取材してきた記者にしても、思いは同じところに至るのではないでしょうか。
野球選手松井秀喜の運命を少しだけ共有させていただいた自分もその一人であるという思いが、心に空いた小さくはない風穴のなかに拭い難い寂しさとともに吹き込んできます。
自分が初めて松井秀喜選手にお会いしたのは2003年ニューヨーク・ヤンキース入団の後です。
ですから日本でジャイアンツにいた頃の活躍をリアルタイムで見たことはありませんでした。
まったく松井秀喜という野球選手に先入観がなかったゆえ、『松井はすごい。彼ならやるよ!』といった声に、『そんなにすごいの?それならお手並み拝見!』とばかりにとても冷めた目で見ていました。
『日本で50本打ったのなら、メジャーでも50本打って見せて!』
やゆまじりに本気でそう思っていました。
そんな自分がその態度を変えざるを得なくなったのは2003年ヤンキースタジアムでのデビュー戦で松井選手が放った満塁ホームラン。
その年のプレーオフ、対レッドソックス戦で見せた歓喜のジャンプ。
2006年の左手骨折からの復帰。
その後、両ヒザの手術という試練を乗り越えつかんだ2009年のワールドチャンピオン、そしてワールドシリーズMVP…
それらのどれでもありません。
『態度を変えざるをえなくなった』という表現は正しくないようです。
正確にいうなら、『それはいつの間にか変わっていた』ということになるでしょう。
いつの間にか変わっていた。
少なくても自分が見せていただいたこの10年間、野球選手松井秀喜はいつもグラウンドにいて、いつも全力でプレーしてきた、結果が出ようが出まいが、いつでもチームの勝利のために持てる力すべてを出し切ってプレーしてきたという事実。
「90%ではすべてを出し切っていることにならないし、ましてや 120%の力なんて出すことはできない。いい時も悪い時も持てる力すべて、つまり 100%。」の力でプレーする松井秀喜の姿に、幸運にもその日々を取材させていただいてきたなかでいつの間にか『変わっていた。』のです。
野球選手が野球選手としてやるべきことをすべてする、全力でする。いつもする。
それだけです。
結果が出ればうれしい。
結果が出なければ悔しい。
誰しもこの感情からは逃げられないと思います。
ただ松井秀喜という選手はみずからが日々持てる力すべてをグラウンドで発揮したゆえの結果であれば、それを潔く受け入れました。
だからこそ、それら日々の結果を取材、報道する人たちとの対話も怠ることはありませんでした。
「まだプレーしたい」という松井秀喜の心理は「まだ見たい」というファンの心理としっかり呼応していました。
それが「もうできない(しない)」、「もう見れない」となったのです。
しかし。
ユニフォームを脱いだその瞬間から、次はいつ着るのかということが声高に語られ始める野球選手もそう多くはないと思います。
「自分が監督になったら選手に対して『何でそんなこともできないんだ!』ってなっちゃうかもしれないよ」
柄ではないように感じますが、そんな監督松井秀喜を見てみたいものです。
この先どのような決断を下され、どのような道に進まれるにしてもいつの日かまた熱い野球人として現場に戻ってこられることを誠に勝手ながら、そして当たり前のこととして期待させていただくことにします。
長い間の野球選手生活、お疲れさまでした。
ニューヨークはこれから本格的な寒さを迎えます。
くれぐれもご自愛専念ください。
敬具