NHKスポーツオンライン 広岡勲
2013/09/30
我が道を行く
やっぱり、ヤンキースにはいつも勝っていてもらいたい……。
これは当然の思いである。
7年間、お世話になったチームなのだ。
松井秀喜も同じ気持ちだろう。
だが、先日何とも言えない複雑な気持ちになった。
ヤンキースタジアムで行われた9月7日のヤンキース対レッドソックス戦。
レッドソックスが4点ビハインドの8対4で迎えた7回2死満塁、マイク・ナポリ捕手の放った打球が右翼スタンド前列に飛び込んだ。
同点満塁本塁打。
ため息がもれる一塁側ヤンキースベンチとは対照的に、三塁側ベンチは大騒ぎだ。
「フェンス際でイチローがジャンプしたので少し不安になったけれど、届いてくれた」
打ったナポリも顔をくしゃくしゃにして喜んでいる。
ヤンキースが土壇場に追いつかれたというのに、しかし、その時ばかりは悔しさすら感じなかった。
「頑張ってるな、マイク……」
僕の正直な気持ちだった。
彼とは2010年、ロサンゼルス・エンジェルスで同じ目標に向かってシーズンを過ごした仲である。
在籍球団が東海岸から西海岸へ移り、チームカラーが紺から赤に変わり、何かと不慣れな松井と私を温かく迎えてくれたのが、当時、エンジェルスで急成長中のマイクだった。
「分からないことがあったら何でも聞いてくれ」
決して口数は多い方ではなかったが、髭をたくわえポパイのような上腕二頭筋をいつも自慢げに披露していた。
もちろんそんな身体だから、打撃は豪快で当たれば特大の本塁打をかっ飛ばすのだが、三振も多く、ソーシア監督から「もっとコンパクトにスイングしろ」と怒られることもしばしばあった。
だが、あまり人の話に耳を傾ける性格ではなく、あくまでも我が道を行く……。
自分のスタイルを崩すことはなかった。
結局、その年に26本塁打をマークしたものの137個の三振を喫し、翌年、ブルージェイズへトレードされ、そして、その4日後にはレンジャーズへ移籍。
今季からレッドソックスでプレーすることになった。
レンジャーズではダルビッシュ投手の女房役として日本でも一時脚光を浴びたこともある。
その際、ダルビッシュ投手に関して度重なる質問を投げかけられ、「ヒデキやイサオから色々聞いておいて良かった。オレも日本のカルチャーを少しは学べたよ」と苦笑いしていた。
5年連続の20本塁打を放つまでに成長したマイク・ナポリ。
余談だが、自慢の髭も15センチぐらいまで伸びており、虫が住んでいても分からないほどのボリュームになってきた。
「今はボールを遠くへ飛ばそう、飛ばそうと思って打席に入っている。それがいい結果となっている」
三振が多くても構いやしない……。
マイクの打撃に対する考え方は昔も今も変わっていない。
中日新聞 松井秀喜
2013/09/26
エキストライニングズ(14) 4番 日本は響き特別
日本では4番打者という言葉に特別な響きがある。高校野球ではよく「エースで4番」と言うし、僕も「巨人の4番」と紹介されることがある。
実は巨人で最も多く打ったのは3番で、4番はその次になる。4番に座り続けるようになったのは八年目の二〇〇〇年だった。僕自身は周りが思うほど打順を意識しなかったし、3番が嫌だったわけではない。ただ人が4番に特別なイメージを持ち、チームの柱になることを求めるなら、そうならなくてはと思った。
だから3番を打ってチームで一番成績が良くてもあえて「まだ4番と見なされていない」と考えた。打順というより、4番という責任の重い役があるなら務めなければという思いだった。
ヤンキースでは5番でデビューした。理由はトーリ監督に聞いてみないと分からないが、そこにすっぽりはまった。結局5番が米国で最も多く務めた打順になった。次が4番だったが、特別な責任を負う日本とは違った。一年目にワールドシリーズで4番を打ったときも、変に打順を意識しないように努めた。
日々打順は変わる。打者の並びが試合の中でどれだけ大事かを、得点という結果論でなく考えるなら、対戦相手の目線からの印象が意外と大事なのではないかと思う。相手から見て嫌な打線というのはある。救援投手対策で左右ジグザグに打線を組んだりするのも、そういうことだろう。トーリ監督はその辺を考えていた気がする。
重量打線のヤンキースでは、日本で経験のなかった2番にも座った。〇四年の開幕戦を含め、先発で三十七試合。打順別の成績は2番が最も悪かった。調子の良くないときに2番が多かったこともあるが、正直なところ打席が早く回ってくる感覚に慣れなかった。1番のジーターが打席に立っているときにベンチにいて「あっ俺だ」ということは何度かあった。 (元野球選手)
東京スポーツ
2013/09/25
【独占手記】高橋由伸「頑張りたいと思ったきっかけは松井さんの言葉」
圧倒的な強さでセ・リーグV2を飾った。22日に2年連続35度目となる巨人のリーグ優勝が決定。最大の目標である日本一連覇へ向け、チームは第一関門をクリアした。喜びに沸くナインのなかで感慨深げな表情を見せていたのが、チーム最年長の高橋由伸外野手(38)だ。腰痛を抱えながらも持ち前の勝負強さを随所で発揮し、リーグ連覇に大きく貢献。頼れる生え抜きのベテランが本紙に寄せた独占手記で自らの引退、そして先輩の松井秀喜氏(39=元巨人、ヤンキースなど)との知られざるエピソードについて赤裸々に明かした。
【高橋由伸外野手独占手記】正直、ホッとして力が抜けた。うれしいというよりも「まずはここまでやっとこれた」というね。そしてあらためて思うのは、さまざまな方々に支えられて今、ここにいるということ…。本当に感謝しています。
今年で38歳。入団したころは、そんなに長くやるとは思ってなかった。当時は自分のなかで、14年、36歳くらいまで頑張れればいいかなと思っていたから。それにこんなにケガするとは思ってなかったしね。
ただ今年は自主トレ、キャンプと久々に体調が良かった。腰の手術をしてから4年。自分でもこんなに体調の良かった年はなかったのに、4月に左ふくらはぎを肉離れしたときは、さすがに「なんで?」と思った。ふくらはぎという箇所も、肉離れというのも初めて。しかも僕のなかでは、常に「引退」というものが頭の片隅にある。だからなおさら「とうとう本当に“お迎え”が来たのか」というのは正直思った。もしかしたらこれが決定打になってしまうのかなと。
そんな風に淡々と思っていたら、すぐ“経験者”でもある谷繁さん、宮本さんから電話をいただいた。「絶対ちゃんとケアすれば大丈夫だから、そんな風に思うなよ」と。これは支えになった。2人とも同じようなケガを何回もして、しかもあそこまでやっている。そこで僕も「じゃあリハビリ頑張ってみます」と決意したね。
「引退」に対して開き直りの気持ちっていうのは、腰を手術したときからある。でも、松井(秀喜)さんの引退があって、宮本さん、その前だと小久保さんがあったりとか、立て続けに身近な人がほとんど辞めてしまったことで、少し心境の変化はあるかもしれない。今はどっちかといったら「やれる間は頑張りたい」というのが強くなったかな。
そのキッカケになったのは、やはり松井さんだった。昨年から、実際に次のチームが決まらないとか、厳しい状況だというのは話は聞いていて、速報で現役引退を年末知った。引退ということが一番想像できなかった人だったから「ああ…この人にもこういう時が来るんだ」っていう気持ちだった。やっぱり心に穴が開いたようなものはあった。ずっと追い続けていたというか、ずっと背中を見てた人がいなくなるわけだから。あの人がやっているんだから俺も、という気持ちもなくはなかったからね。
その後、松井さんと話したのは、セレモニーのあった5月5日だった。まず「ケガどうなんだよ?」から始まって「選手が一番だぞ。できるんだったら頑張れ」って。それを聞いたとき、やっぱり現役への未練があるのかなと思った。「あの松井秀喜でも、まだまだ本当はやりたかったのかな」っていう。そこであらためて「そうだよな」って思った。
来年「松井さんが臨時コーチで宮崎に来るかも」という報道があったが、もし本当ならば楽しみではある。実は今まで松井さんと打撃理論とか、野球について話をしたことがない。僕が松井さんの姿だったり、立ち居振る舞いを見て勝手に解釈していただけだった。だから「この人はどういうことを考えてやっていたのか」という話が聞ける。
松井さんは「素振り」で形を作り上げてきた印象がある。でも僕にはできないなと思っていた。単にバットを振るだけのことは苦手で、ボールを打った感覚、感触がないとできない。でも松井さんはひたすらバットを振ることで何かが感じられるからできたのだと思う。今まで“聞かなかった”のか、それとも“聞けなかった”のかと言われると、どっちなんだろう…。なんか「自分とは違うんだな」と思っていたのだろう。将来、本当にコーチとして巨人のユニホームを着るのだろうか。松井さんがコーチで僕が選手というのが、正直まだ想像できない。
とにかく、松井さんから「選手でいられるうちは頑張れ」と言われたときから、自分の気持ちに素直にやりたいと思う気持ちが強くなった。もちろん自分を取り巻く環境の問題もあると思うけど、許されるなら自分の気持ちがやりたいと思う間は続けたい。
よく2000本安打とか、記録に対することを聞かれる。腰を手術した段階で数字へのこだわりはなくなったけど、自分の気持ちに正直に向き合うと…。それを逃げ道にしているつもりはないが「そういうことがあったからしょうがない」と自分で思ってしまっているのかもわからない。でも、またケガと向き合い続けるという違った戦いが、そこから始まったという思いはある。
これからCS、そして日本シリーズと続いていくと思うけど、やっぱり最後までグラウンドにいたい。忘れられないのは2009年。ケガで自分がいないなか、テレビの向こうでチームが優勝するという現実があった。ああいう、悔しさを通り越したもどかしい気持ちを味わった人はいないと思う。あれは一生忘れられない。だからこそ、これからも僕なりに最後まで戦い抜きたいと思っている。
(巨人外野手)
ZAKZAK 高須基仁 人たらしの極意
2013/09/19
背中を押してくれた松井秀喜氏の偉大な力 清原も努力を称賛
私は松井選手がアメリカでホームランを打った翌日、必ず松井Tシャツを着て出社してきた。
だから、東京タワーで開催されている「55番の軌跡 松井秀喜展」(29日まで)の会場を訪れて、思わず「ありがとう」とつぶやいた。
2003年春、ニューヨーク・ヤンキースのデビュー戦で満塁弾を打ってから、12年夏にタンパベイ・レイズで大リーグ最後の1本を打つまでの175本。Tシャツは、石川県能美市にある松井秀喜ベースボールミュージアムで毎年買い新調した。袖を通すたびに勇気をもらい、奮い立つ気迫を生んでくれた。
ミュージアムにある少年時代の松井のブロンズ像には台座に「僕には夢がある」と刻まれている。「I have a dream」は、1960年代アメリカで人種差別撤廃を訴えながら凶弾に倒れたキング牧師の有名な演説の一節でもある。奇妙な共通点を見つけ、エリート野球人生を思い切って捨て去り単身海を渡った松井に大きなシンパシーを覚え続けた。
元巨人軍の清原和博は、「高須さん、私も松井のようにコツコツと努力することができたら、もっとすごいホームラン記録を作れたと思う」と語って、松井の精いっぱい努力する積小為大の人生を礼賛した。
展覧会場で松井の伝説の素振り音を耳にしたとき、私はあまりのすさまじさに総毛立った。恐ろしい気迫だ。
今週、本塁打の日本記録を達成して大騒ぎとなったヤクルトのバレンティンや現役大リーガーのイチローと比べて、松井は見劣りするだろうか。いや、決してそんなことはない。私の背中を175回も押してくれた力は偉大だ!
私は松井が故障するたびに胸を痛め、しょんぼりとした。今夏、たった1日の契約を結んだヤンキース選手としてヤンキースタジアムで引退セレモニーが行われた日、私は仕事を休み、テレビでその雄姿を目に焼き付けた。
団塊世代の私になぜここまで力と勇気と夢をくれたのだろうか? それは、きっと彼の寡黙さと、その裏の地道な努力が好感されたからだろう。国民栄誉賞の授与式で「大変光栄ではありますが、同じくらいの気持ちで恐縮しています」と語ったのも松井らしかった。今さらながら引退は悲しい…。
私にも夢がある。松井秀喜に会うことだ。 (出版プロデューサー)
中日新聞 松井秀喜
2013/09/12
エキストライニングズ(13) 己をバットに合わせる
選手生活を終えることを「バットを置く」と言うが、僕は意外とバットを手にしている。体を動かしたいとき、手っ取り早いのはバットを振ること。これまでと違う目的で、左右で振っている。運動不足解消にはいい。
バットを体の一部という選手もいる。とにかく思い通りに操りたいと思い続けてきた。プロで二十年間使い続けることになるバットの原型に出合ったのは一年目のオープン戦だった。コーチが西武の秋山さん(現ソフトバンク監督)のバットをもらってくれた。長距離打者に向いたグリップの細いもので、それを元に長さの違う三、四種類を作り、一年間使った。
一年目を終えて工場に行き、そのオフ中日から巨人への移籍が決まった落合さん(前中日監督)のバットを見た。先に重心があり、打つと詰まりがちなタイプ。ただ詰まった方が打球は上がりやすい。長距離打者の理想のバットだった。使いこなすのは難しいと言われたが、以後このバットのイメージを頭に毎年少しずつ手を加えていった。
バット選びは難しい。振りやすいのが一番なのだが、僕もそうだったように小さいころは振りやすいという感覚がなかなか分からない。安いものではないし、自分で改良するわけにもいかない。
だから野球少年はどんな打者になりたいかで、バットを決めたらいいと思う。ホームラン打者か、中距離打者か、誰を目指すのか。目標を定めてバットを買ったら、それを振れるように、自分をバットに合わせていく。
子どものころ何本か買ったバットは、もう少し大きい子向きだと言われたものだった。重い練習用バットを小学生の時に買い、高校まで使い続けてようやく振れるようになったこともある。プロでは秋山さん、落合さんのバットと出合い、限られた人だけが扱える理想の型を求める気持ちがあった。自分がバットに追い付こうとしてやっていた。 (元野球選手)
NHKスポーツオンライン 広岡勲
2013/09/04
広岡勲の大リーグコラム(14) 「ヤンキースが見習った日本のもの・・」
感動的だった松井引退セレモニー
久しぶりにヤンキースタジアムを訪れた。
松井秀喜の引退セレモニーを見届けるためだ。
新聞やテレビなどでご覧になった方も多いと思うが、セレモニーはとても感動的で素晴らしいものだった。
松井も口にしていたが、あらためてヤンキースという伝統球団の懐の深さを感じた一日だった。
観客席の背番号55のユニホームやTシャツは出場選手に引けを取らないほど目立っており、球場の警備員が「まるで日本かと思ったよ」と口にしたほどだ。
この日のために全米中から、いや遠く日本からも、本当にたくさんの日本人が集まってくれた。
松井とともにメジャーの世界に飛び込み、彼はプレーヤーとして、僕は広報担当として駆け抜けたヤンキースでの7年間、喜びはもちろん、一言では言い表せないほどの苦労もたくさんあった。
だが、あのような盛大で心温まるセレモニーで幕を引いてもらい、すべてが報われた気がした。
今一度、感謝したい。
メジャーでも始まったヒーローインタビュー
その日の対戦相手は、奇しくも松井が昨季在籍していたレイズである。
試合は、故障から復帰したばかりのジーターが初打席で本塁打を放つなど白熱した展開となった。
シーソーゲームの最後は、10年ぶりにヤンキースに返り咲いたソリアーノのサヨナラ打で、見事ヤンキースが勝利を収めた。
実は非常に驚かされたことがある。それは試合終了直後だった。
ソリアーノの姿が大型ビジョンに映り、なんとヒーローインタビューが始まったのだ。
「放送席、放送席…」のフレーズで始まるヒーローインタビューは日本のプロ野球ファンにはお馴染みの光景だが、大リーグでは珍しい。
試合後にグラウンド上でヒーローがインタビューを受けることはあっても、あくまでも地元テレビ局のためであって、画像や音声は場内には流れない。
大観衆に向けて、「やりましたー!」と声を張り上げる日本式を僕自身は今まで見たことがなかったため、一瞬、何事が起きたのかと思ったほどだった。
多くの日本人選手がメジャーに行くようになってから、大リーグ式もすっかり定着し、セブンスイニングストレッチや大型ビジョンを使ったクイズなど、実際に取り入れられているものもある。
だが日本式、例えば鳴り物を使った応援やラッキーセブンの風船飛ばしなどは、まだアメリカに“輸出”されていない。
今回目撃したヒーローインタビューがいかなる経緯で実現したのかはわからないが、客席は大盛り上がりだった。
興奮冷めやらぬヒーローは当然‘絶口調’で、ニューヨーカーにも大いに受け入れられていた。「伝統は革新の連続」であると言われる。
大リーグでも日本式の鳴り物を使った応援が、ひょっとしたら見られる日が来るのかもしれない・・・。
MLB.jp 朝田武蔵
2013/09/01
人生を変えた「あの4敗」 松井秀喜が語る「野球も、人生も結局我慢です」
松井秀喜が、なぜ人々の心を打ったのか。彼の人間としての魅力を語ろうとすると、どうしても「分(ぶ)の厚さ」という日本的美質にたどり着いてしまう。常に悠然としたたたずまいを示しながら、肝心の場面で打つ。どっしりとした背番号55の存在感。彼の分厚い人格的迫力は、自然と、ニューヨークでも愛された。
松井の精神の柱とは何か。彼の引退にあたり、二〇〇三年のヤンキース入団時から続けてきた個人的インタビュー(単行本五冊分)を読み返してみたところ、ある一節が心にとどまって離れない。
「野球で学んだことを、ひと言でいうなら、耐えることでしょう。我慢する、忍耐する。その容量が大きければ大きいほど、必ず野球にはプラスになる。野球は思い通りにいかないことの方が断然多い。いい結果が出なくても、我慢しなくちゃいけない。結局、野球は我慢比べです」
野球は我慢のひと言に尽きると言う。打者松井にとって、マウンドに立つ投手が、我慢比べの相手であるのは当然だが、彼のユニークさは、グラウンドにいるもう一人の相手に主眼を置いている点だ。敵は自分の中にいる。百戦を経る中で、松井は、相手を倒すよりも、自分に打ち勝つことの方がはるかに困難であることを知るようになった。
まずは自分の心を制する。松井は「自分の感情をコントロールする」という表現を使う。眼前の相手と向き合うのは、その後の話だ。グラウンドには無数の喜怒哀楽が転がっている。「喜び」「怒り」「緊張」「悔しさ」。様々な感情の一片、ひとかけらにつまずいていては、いくら実力があっても、本番でそれを発揮することはできない。ホームランの喜びを抑え、判定への怒りを鎮め、2死満塁の緊張を溶かし、敗戦の悔しさに耐える。それが松井の我慢である。
勝って学んだことより、負けて学んだことの方が多い。松井の三十九年の半生の中で、大きな転換点となった「ある4敗」について、点描していきたい。
【1敗目】
中学時代、松井が投手だった事実は意外と知られていない。故郷の石川県能美郡根上(ねあがり)中学。
「僕が三年の時はピッチャーで、キャプテンやって、4番打ってた。一応、得意球はストレート。それとフォーク。球が速かったから、三振は結構取ったけれど、僕もピッチャーとしては大したことなかったから、打たれちゃうわけですよ、やっぱり」
十五歳の夏。「一番最初の郡の大会で負けた。弱かったんだもん、ほんと」。
それから二十四年後の今年、追憶の彼方にあった「松井投手」を、目撃する機会が訪れようとは……。しかも二度……。
七月二十八日、ヤンキースタジアムで行われた「ヒデキマツイ引退式典」。始球式で、彼は四年ぶりに「世界一のユニホーム」をまとい、初めて聖地のマウンドに登った。最後のピンストライプ。背番号55を記憶にとどめようとする満員のスタンド。松井は先発投手に断りを入れた上で、プレートを踏んだ。
その瞬間、さして引退の感慨を込める風もなく、あっけないほどの早いモーションでボールを投げた。「得意」のストレート。
「ちょっと低かったけどね。でもストライク!」
東京ドームの二の舞を踏むわけにはいかなかった。五月五日の国民栄誉賞授賞式典。あの始球式にはヒヤリとさせられた向きも多いであろう。
右打席には長嶋茂雄氏が立っていた。「監督が打つと思ったから、体の近くに投げたの。ちょっと、顔に近かったから危なかった」
背番号3のバットが空を切った。
「ごめんなさーい、ちょっと高く行っちゃったって感じでしたね。失投? というか暴投ね。失投っていうのは、甘いボールのことだから」
失投と暴投は違う。松井は妙にこだわった。
「中学最後の試合で、ボコボコに打たれた。毎回得点ぐらいされて、7、8点とられて、ボロボロ」。暴投も、失投もさぞかし多かったのであろうが、いがぐり頭の松井少年には、まだ「我慢の容量」が足りなかったはずだ。
「僕らの時代は、4番でピッチャーという選手が結構いた。それでもいいかなと思っていたけれど、やっぱりピッチャー松井は駄目だった。めった打ちされて、ピッチャーへの未練を完全に断ち切ることができた」
投手松井、最後の1敗。それは、打者松井、飛躍の1敗ともなった。
【2敗目】
「だから星稜(高校)ではバッターに集中できた。今思うとそれが良かったかもね」
初めて出場した夏の甲子園。「一年生4番」の初打席。そこで、いきなり魔物に囚われた。「足がブルブルブルッと震えちゃった。駄目だこりゃって感じ。自分が自分でいられなくなったのは、あの時が初めてだった」
危機から救い出してくれたのは、何と相手投手だった。ストレートの四球。「1塁に行った時、ああ良かったと思ったのを覚えています」。が、試合はまさかの初戦敗退。
「甲子園、四回出ましたけど、唯一の初戦敗退でした。あそこから、どういう舞台でも、いかにいつも通りの自分でいられるかということを意識し始めたかもしれない」
この1敗によって、松井の日課に「感情をコントロールする」という作業が加わった。心を操縦する術とは。ホームランに一喜せず、三振しても一憂しない。変わらない自分。常に感情にたがをはめ、きつく締め付ける。我慢する自分。
「あの経験は非常に大きかった」。長い野球人生において、足が震えたのは甲子園初打席の一度きり、つまりその後三回出場した甲子園でも、巨人でも、メジャーでも一度もなかったというのだから、凡人には、到底理解が及ばないが……。
「次の1球、次の課題に集中すれば、緊張している暇などない」
たどり着いた松井の緊張克服法である。
【3敗目】
「緊張」の次は「悔しさ」である。
松井の体の奥深い部分には「一生抜けない悔しさ」というものが、高校時代から、しんしんと沈殿しているという。
「甲子園のあの打席で、もうちょっと、こうやって打てたら、勝てたなとか今でも思ったりします。そういうのは抜けない。5敬遠の時の僕の後ろのバッター、彼がこう打ってたら勝てたなとか、人の事まで考えちゃう」
一九九二年、夏の甲子園。社会を騒然とさせた5打席連続敬遠。優勝候補だった星稜高校は2回戦で敗れた。
「敬遠も作戦のひとつですから、仕方ありません」。相手高校への非難めいた言葉を引き出そうとするメディアの前で、十八歳の怪童は、そう言ったきり、石のように沈黙した。これが四回目の甲子園。最後の大会だった。彼は宿舎に戻り、一人の部屋で忍び泣いた。
松井伝説の始まりは敗北だった。彼は一度もバットを振らせてもらえなかった。列島をふるわせた毅然たる態度。「野球は我慢」と言って、彼ほど説得力を持つ人間は、そうはいないであろう。
「あの出来事があって、野球を続けていく上で、伝説を本当の意味で伝説化するのは(その後の)僕の力次第じゃないですか」
伝説にかかわってしまった人間は、伝説を自らの力で仕上げなければならない。彼が伝説と口にする時、責任とか使命といった色彩がにじみ出る。松井は5敬遠に値するバッターだったのか。その証明が、人生の一大事となった。
【4敗目】
メジャー三年目の二〇〇五年。十月十日の不名誉な出来事は、5敬遠と同質なものだ、と松井はかつて語った。
ヤンキースはプレーオフで、エンゼルスに敗れた。2勝2敗で迎えた最終第5戦。2点を追う9回2死1、2塁。長打で同点、本塁打で逆転という最高の舞台で、松井に打席が回ってきた。が、結果はファーストゴロ。松井でシーズンが終わった。
自分が最後の打者となって、相手の胴上げを見たのは、一九九五年のヤクルト戦以来、生涯二度目という悲痛な個人的体験となった。試合後、ニューヨークへ戻る専用機。広大なアメリカ大陸の上空で、松井の脳裏では、最後の打席がずっと旋回し続けている。
「もうちょっと、打球が上がってくれたらだとか、こういう風な打ち方ができたらだとか、そういう風に思うわけじゃないですか」
松井が機中でトイレに立った。「みんな明るくは、振る舞ってましたけど、なんとなく(空気が)重いですよね」専用機では一番後ろの座席がキャプテンの指定席と決まっている。松井が「最も尊敬できるチームメート」と評するデレク・ジーター。「マツ」と、突然松井を呼び止めた。
「お前が、一番好きなチームメートだよ。マツ」
ジーターは真顔だった。最後の打者は、唐突なひと言の真意を量りかねた。「ジー」と、ジーターに反問した。
「本気で言ってんのかよ? ジー、お前こそ一番だよ」
背番号55と、背番号2の同質性とは。今でこそ、二人の特別な絆は広く知られるところとなったが、松井は入団当初から、ジーターに「自分と通じるもの」を感じていた。走攻守のプレースタイルそのものではなく、その礎となる心に着目した点が、いかにも松井らしい。甲子園初戦敗退の時から追い求めてきた理想の選手像を見た。
「ピンチの時も、チャンスの時も、いつも変わらぬプレーができる。周りは、ジーターは、チャンスになったら、燃えるとか言うけど、僕の中での彼の評価は変わらない凄さです」
そのジーターが「一番好き(my favorite)」と言う場合、性格的にウマが合うというよりも、「真のプロフェッショナル」という意味合いを濃厚に感じる。ヤンキースにおけるプロの定義は、ひとつしかない。チームの勝利を第一に考える選手。
松井の五体には、巨人の4番時代から、すでに結晶化した思想として染み付いていた。彼の自己表現とは本塁打を打つことではない。「個人成績よりチームの勝利優先」。野球がチームスポーツである以上、星稜時代からそれを疑ったことはない。それでも、4敗目の憂色は、なかなか薄まらなかった。
「悔しさは、それに耐えられる人間にしか与えられない」
松井が悔しさに耐える力を最初に語ったのは、そのオフのことだ。
「悔しさをパワーとして、次にいかせるかってことが大切なことじゃないかと思います。この悔しさをね、大きく二倍、三倍、四倍にして、返せる可能性があるんじゃないかと。逆にそういうことができる人じゃないと、悔しい思いも神様はさせないんじゃないかなと。神様が与えてくれた一つのチャンスでも、あるんじゃないかなと、僕はとらえられる」
使命感がなければ悔しさもない。そのころから、ワールドシリーズ制覇について、松井の言い様が変わった。
「世界一というのは、夢じゃなくて、毎年の目標です」
両肩に食い込むような重圧は、手触りまで伝わってくるようだった。彼に「究極のホームラン」とは何かを聞いたことがある。
「自分のバットで世界一を決める。それ以上のホームランはないでしょうね」
そしてヤンキース最後の年となった二〇〇九年。松井は七年がかりで、ついに「年間目標」を達成した。だけではない。自ら定義した究極のホームランまで打った。
ワールドシリーズ第6戦。あの先制2点ホームラン。最後の打者となった悔しさ、情けなさを、松井は「神が与えた試練」として直視し、すっと前を向いた。精神が屈折してしまうほどの苦境に置かれても、それを「二倍、三倍、四倍にして返す」と言い、心胆を練った。
6打点はシリーズタイ記録。甲子園で、もし5敬遠がなかったら、これと同じ光景が繰り広げられたのではなかろうか。相手が恐怖した松井の姿とはこれではなかったのか。日本人初のMVPには、甲子園伝説の集大成的な性格も強くある。
「長かったですね」
松井のひと言が、短く、重く、腹に響いた。
ところで、第3打席のツーベースヒット。「世界一」が一気に近づいた瞬間。球場に「MVPコール」が渦巻く中、2塁ベース上の松井は、全くの無表情で通した。その時、片頬を緩ませるくらいは、しても良かったのではないか。
「(走者を一掃して)一人でベースに立ってて、ニコッってするのは変じゃないですか。自分が3本(続けて)打ったけど、試合中だから、よっぽどのことがない限り、自然と感情は出ない」
松井が神経を費やしてきた「我慢の容量」。これこそ、彼が長年こねあげてきた器の大きさなのであろう。「悔しさ」に勝った日は、同時に「喜び」を制圧した日でもあった。
「普段は、感情は心の中では上下してるんだろうけど、それを表には出さずに、プレーできる。常に感情をコントロールしながら、一定の状態で、表には出さずにプレーできるんですよ。それが自分のパフォーマンスを高める最善の策」。それが松井の流儀だ。
派手な言動が目に付く米プロスポーツ界にあって、ニコリともしない松井の姿が、分厚い人格的印象となって、世間に刻まれた事。その不思議さ、奇妙さを思わずにはいられない。
ところで、感情表現と言えば、まずガッツポーズが思い浮かぶ。ヤンキースタジアムの満塁第1号から、最後の第175号まで、松井は何度ガッツポーズを見せたか。
本人に尋ねると「一度もない」。そう断言した。
ならば、あの歓喜のホームインはどう説明するのか。引退式典の会見で「思い出の名場面」を問われた松井はこう答えた。「二〇〇三年のリーグチャンピオンシップ第7戦の試合が今でも一番印象に残っています」
8回裏、3点差という崖っぷちで、ヤンキースは同点に追いついた。そのホームベースにタッチした後、松井は派手なガッツポーズを作り、高く、高く跳躍した。
「あの瞬間だけは、たぶん感情がコントロール不能になったんでしょうね。ああいうゲームの大きさでしょ。3点ビハインドで、8回に追いついて、その意味の大きさでしょ」
メジャー十年間で、たった一度だけ感情が制御不能となった瞬間があった。彼の感情がぐつぐつと沸点に達し、我慢の器からあふれ出した。彼が「一番の名場面」に挙げた印象の深さというものが推し量れる。
しかし、世間に感動を与えたあの同点劇は、心の操縦を眼目とする松井的思考からすると、実は反省材料だったのかもしれない。歓喜のジャンプは一年目の秋。松井は、その後、二度と跳ばなかった。自分で自分のプレーに酔っていても仕方がない。きっとキャプテンも同じ意見のはずだ。
「松井が一番好きなチームメートだと、これまで何度も言ってきたけど、これからもそれは変わらないよ」。引退式典の会見で、ジーターは繰り返した。
最後の打者となった夜、薄暗い専用機の中で、最初に聞いたそのひと言は、声音とともに、今も松井の耳奥に残っている。二人は、暗闇も光も、どん底も頂点も共に体験し、いつしか盟友と呼ばれるようになった。
松井の人生を変えた「あの4敗」。思い通りにいかない日々。それは松井も同じだ。肝心なのは敗北から何を学び、いかにして立ち上がるか。
「野球はほんとに我慢が必要なスポーツです。何がチャンスになるか分からない。逆境、マイナスの時ほど、プラスに転ずるチャンスだということです」
感情をググッとかみ殺す。我慢する。誰にとっても、それは難題であろう。いや、それほど苦しいことはあるまい。
「僕の場合、ある意味、野球以外、好きなものがないんですよ。それ以外、選択肢がない。好きなことに対しては頑張れるし、苦じゃないわけじゃないですか。自分が一番好きなものをずっとやってきたわけだから、それはそれで最高に幸せなわけですよ。苦しいと思ったことはなかった」
好きだから、耐えることも苦でなかった。松井はすらりと言う。第一、自分を追い込まなければ、新しい何かを生み出すことはできない。苦い自問を繰り返し、自分の弱点を克服する。松井はそうやって飛躍してきた。
「僕は、野球は人生そのものだと思ってますから」
壁に挑み続ける姿勢を貫けば、人生、随分違った景色に出会えるものだ。
松井秀喜が、なぜ人々の心を打ったのか。一昔前、彼がふと漏らしたことがある。
「短気なのが、案外ばれちゃうかもね」
しかし、どれほど会う機会があっても、松井が声を荒げたり、苛立ちを見せたりしたことは、一度もない。彼は、「気合い」とか、「根性」とか、肩ひじ張った言葉を極端に嫌う。見え透いた自己演出をしない平素の姿。それでも、実直なプレーを見続けるうちに、いつの間にか、松井の努力、舞台裏の汗が何であったか、みんなが知るようになった。
そして何より、松井のホームランには感動があった。分厚い感動だった。ドーンと構えて、カキーンと打つ。ベースを一周する背番号55は、悠然として喜びに耐えてきた。我慢の器量。その筋金の入り方が違う。
人生、自分に勝つほど難しいことはない。