中日新聞 松井秀喜
2013/08/29
エキストライニングズ(12) 個人成績触れぬ米国
大リーグではタイガースのカブレラが二年連続三冠王を達成するかが注目されている。日本のファンには意外だろうが、彼を含めて米国で選手が個人タイトルや具体的数字を目標に挙げるのを聞いた事がない。心の中では目指しているのかもしれない。しかし米野球にはそれを口にしない暗黙の了解がある気がする。
通算成績の区切りや、歴史的な記録更新はチームの枠を超えて祝福される。しかし個人成績を競い合うことは戒められる。本塁打数や打率などの成績は出来高払いの対象にすることも規則で禁じられている。勝つためにプレーするという本質を意識させられるのはいい伝統だと思う。
チームプレーを徹底する日本だが、個人タイトルをめぐってはなぜか勝負を度外視した四球攻めなどが繰り返されてきた。僕も初めて本塁打王を争った一九九六年に中日との最終戦で4打席4四球ということがあった。
もっとも日本でもそういう戦術をとらないチームはあった。九七年はヤクルトのホージーが38本塁打、僕が37本塁打で最終戦はヤクルト-巨人。石井一久さんに3安打完封され、僕は無安打。二年続けて1本差で本塁打王を手にできなかったが、シーズンを終えた気持ちは全然違い、重苦しいものは一切なかった。
巨人時代の僕は本塁打王への思いを公言した。ホームラン打者にならなければいけないと使命のように感じていたからだ。ただ試合中に本塁打を狙うという意識とは違った。日々全力を尽くし、終わったときに一番上にいる選手にならなければという思いだった。
実はホームランを打ちたいと打席で思ったことは、子どものころからほとんどない。勝ちたい、何かを起こしたいという思いだけ。だから優勝が決まった後の試合で本塁打だけを期待されるのはやりにくかった。いつも通りやっているつもりでもそうでなく、あれはつまらないものだった。
(元野球選手)
産経新聞 別府育郎のスポーツ茶論
2013/08/20
震災、義援金、本塁打…松井秀喜の「肖像画」番外編
現代最高のホームラン打者、松井秀喜の「話の肖像画」を、2週にわたり連載した。彼の野球人生を中心に振り返ったので、触れきれなかった話もある。
例えば、東日本大震災。
2011年3月11日、宮城県沖を震源とする大地震が発生し、大津波が広く太平洋岸を襲った。
松井はアスレチックスの選手として開幕を控えていた。「最初にテレビで見たときは、これは本当に日本なのか、と思いました。とにかく信じられなかった。こちらの映像は日本より遠慮なく映すところもあるので、余計にそう感じたのかもしれません。日本は、どうなってしまうんだろう。そう思いました」
震災直後の13日、松井はロッキーズとのオープン戦で特大の本塁打を放つ。
「被災された方の中には僕を応援してくださっている方もいたかもしれない。その方々に少しでもいいプレーをお届けしたいという気持ちはありました。でも、現実はそんなレベルの話じゃない。はっきりいって無力ですよ。ほとんどの人が無力だったかもしれませんが、自分が何かできるという、そういう考えはありませんでした」
実際には、多額の義援金を送り、日本に思いをはせながらのプレーを続けた。だが簡単に、「元気を送りたい」「勇気を与えたい」といった言葉は、松井の口からは出ない。
震災直後、共同通信配信の写真に目がとまった。被災地で、大きなペットボトルを両手に、水を運ぶ少年の写真だった。ホームランを打っても伏し目がちに、黙々とダイヤモンドを回る松井の姿にだぶって感じられたのは、記者の勝手な思い込みである。
12年の松井は開幕を迎えても所属球団が決まらず、レイズとのマイナー契約からメジャーに昇格した5月29日の初戦で先制弾、2日後に2号本塁打を放った。そのころ、写真の少年と話す機会があった。
少年はうれしそうに「豪快に飛ばしましたねえ」と話したが、地元のチームではショートを守り、好きな選手は巨人の坂本勇人なのだという。
松井にこの話を伝えると、「それで当然だし、健全です。そうじゃないといけない」と話した。こちらもうれしそうに。
少年が若い選手にあこがれてこそ、野球の人気が続く。松井自身、少年のころは阪神の掛布雅之のサインボールを大事にしまい、将来の師匠、長嶋茂雄の存在は「テレビの中の伝説の人」でしかなかった。
ただ少年の脳裏には、松井の本塁打が深く刻みつけられるだろう。苦悩の末の昇格初戦の一発であり、2本目は野球人生最後の本塁打である。そうしたドラマを知るほどに。
ここぞの場面で打つ男たちがいる。松井の昇格初戦の本塁打やニューヨーク満塁弾デビュー、06年、左手首骨折からの復帰戦4安打もそうだった。
盟友デレク・ジーターは7月、松井の引退式当日に故障から復帰してプレゼンターを務め、第1打席の初球を右翼席に運んだ。
長嶋は1959年、天覧試合で村山実からサヨナラ本塁打。68年には王貞治が頭部に死球を受け担架で運ばれると、乱闘に参加しなかった次打者長嶋は、救急車のサイレンが鳴る中、怒りの本塁打を放った。
集中力の一言では片付けられない、スーパースターの系譜をここにみる。=敬称略
中日新聞 松井秀喜
2013/08/15
エキストライニングズ(11) 球児連投 リスク高い
甲子園大会を観戦した。春、夏計四度出場したが、観戦は中学一年の夏以来だ。甲子園に出たい、甲子園がすべて、という気持ちだった高校時代を思い出した。
二十六年前は地元石川県代表の金沢高の試合を見た。当然のように「自分もここで」という気持ちになった。強い憧れであって、なおかつ身近な目標は大事だ。日本の野球が高いレベルにあるのは、甲子園の存在が大きいと思う。恵まれた練習環境も注目の大会があるからだろう。学校にとってあれほどの宣伝はそうないから、力を注ぐのは分かる。
米メディアも日本の高校野球に目を向けている。テレビやスポーツ誌が選抜大会で計七百七十二球を投げた済美高(愛媛)の安楽投手を紹介したと聞いた。投球数や登板間隔の管理を徹底する米国では衝撃的な数字だろう。
甲子園も米国も経験した今の僕は、高校野球の投手起用には、やはり無理があると考える。とことん投げたいのは分かる。僕が投手でも甲子園のためなら壊れてもいいと思ったはずだ。だからこそ指導者の判断、管理が必要だと思う。
相当投げても大丈夫な選手はいる。ただ高校生があえてリスクを冒す必要はないと個人的には思う。あの日程だと投手三人は必要。二、三番手も使いながらどう勝つかという指導者の力も試されていい。投げ抜く美しさは確かにある。ただ美談ばかりにするメディアも良くない。反対意見はあって当然だ。
最後に、高三の夏に経験した「五連続敬遠」について触れておきたい。あのことに対して是か非かという答えはないと思っている。多くの人が多様な意見を持っている。人々があの試合を通じて高校野球について考えた。それでいいと思う。
個人的には野球を超えた注目を浴び、それが頑張るエネルギーになったのは確かだ。そういう意味ではありがたいことだった。 (元野球選手)
Number Web Sports Graphic Number
2013/08/15
<松井秀喜に浴びた一撃の記憶> ゴジラと勝負した3人の男たち。~'91竜ヶ崎一/'92宮古/'92堀越~
他を圧する風格の強打者を打席に迎えても、逃げることなど考えなかった。
渾身の力で投げ込んだ白球は確かにスタンドの彼方まで運ばれたが、
真っ向勝負に悔いはない。敬遠伝説が生まれる前、正面からゴジラに挑み、
痛恨の一発を浴びた3人の投手が、20年の時を経てなお鮮明な記憶を語る。
ついにバットを振らぬまま対戦相手の校歌を聞いた。1992年8月16日、甲子園での明徳義塾高校戦、松井秀喜は、敬して遠ざけられた。怪物の評価を確定させた5打席連続四球。はなからストライクは放棄された。
あの「敬遠の夏」には、春、そして前の年の夏の伏線があった。ゴジラの進路に両手を広げて立ちはだかる少年がいた。堂々と勝負を仕掛ける。すると白い物体は外野の向こうへと運ばれた。松井、ホームラン! そうやって、苦く、切なく、歳月を経ると誇らしくもある青春の句点は打たれた。
以下、悔いが悔いでなかったストーリーである。あれから20年強、本塁打を許した者はそれぞれの世界に生きている。胸の底、そのまた底から「マ」と「ツ」と「イ」の響きが消えることはない。
JR常磐線、夕刻の石岡駅は蒸していた。近くの古いホテルにようやく喫茶スペースが見つかり、ややあって、ポロシャツ姿の背の高い人物は現れた。
鷺沼智尉。旧姓の藁科と紹介すれば、あるいは思い出される高校野球ファンもおられるだろう。かつて茨城県立竜ヶ崎第一高校のエースを張った。'91年8月17日、一学年下の2年生、松井秀喜の2ランを浴びた。
「この季節は、いつも私が打たれてる映像が流れる」
「夏の甲子園の松井のホームランはそれしかないはずです。だから、この季節は、いつも私が打たれてる映像が流れて」
3回戦。8回表。2ストライクを奪い、サイン通りにフォークを落とすと、のちにニューヨーク・ヤンキースの一員となる四番打者の手は出ない。しかし球審の手も上がらなかった。「あそこで三振とれてればよかったんでしょうけど」。それならとシンカーを放る。「でも落ちなくてシュート気味に甘く入った」。右中間スタンドへ。一塁側応援席の中学時代の友と目が合った。「自分は笑ったんです。打たれちゃったよ、みたいな感じで」。3対4の惜敗。「惨めではなかったんですよ、大差をつけられたわけじゃないのでね」。飄々と言い切った。
竜ヶ崎一は、地域の伝統校だ。公立の普通のチームが、超の字の怪物を擁する私学によく挑んだ――。つい、そんな図式にあてはめたくなる。あの夏の関係は本当は違った。
そもそも松井秀喜についてさしたる認識がなかった。「顔は知ってました。ゴツゴツしていてね」。印象はそこにとどまる。もとより敬遠策などありえなかった。
藁科は5連続敬遠を「いい作戦ですよね」と語った。
マウンドの藁科その人も、おとなしい高校生とは一線を画していた。地元の中学野球部では名を知られ、幾つかの高校からも誘われた。学業成績もそんなに悪くない。なのに背を向けて「板金屋でアルバイトばかり」。そのまま就職のつもりだった。野球の素質を惜しむ周囲の勧めもあって、志願書提出期限の直前、竜ヶ崎一の定時制に滑り込んだ。
「進学しないと決めて髪を染めて、あわてて丸刈りにしても色は残ってました」
異色の甲子園投手の誕生である。そういえば星稜戦では本塁打を記録している。記念すべき「大会700号」。仲間に予言、賭けをしての一発だった。
当時の大洋などプロ球団が興味を寄せるも中央学院大学の野球部へ進む。定時制は4年通学だったので「卒業の年のブランクのつけで肩を痛めて」燃焼には至らない。卒業後は建設現場で働きながら、こつこつ公務員試験に臨み、やがて近郊の市役所勤務を果たす。
あの連続敬遠は、おそらく家の居間で見た。
「いい作戦ですよね。有名な松井がそこにいて、打席のたびにヒット、ホームランを打っていたら私も使ってました」
「かたや国民栄誉賞ですもんね。私にもそのカケラくらいを」
北関東の抑揚が超然として憎めない。でも自身は勝負できて幸せだったのでは?
「どうなんでしょう。私の時は、一学年下でよく知らなかったので」
小学4年の作文に、将来の夢を、公務員と綴った。その通りになって、沈まぬシンカーの感触はしだいに遠い。「かたや国民栄誉賞ですもんね。私にもそのカケラくらいを」。笑い声とともに一瞬の交錯は永遠と化した。
その春から甲子園のラッキーゾーンは取り除かれた。松井秀喜は、すでに怪物性を定着させている。岩手県立宮古高校の横手投げ、元田尚伸は、広くなった外野を背に、ゴジラのアウトローを丹念につきながら、わずかな失投は振り向く空へ吸い込まれた。
'92年、3月27日、センバツ第1日、星稜の四番打者は、宮古との初戦で、2打席連続3ランを大会史に刻んだ。それは同年夏に発生する「事件」の明白な序章でもあった。
真っ向勝負した元田は当初「バカだ」と言われたが……。
東横線の武蔵小杉駅。細身の元投手は、あまり変わらぬ体型と童顔で迎えにきてくれ、さっとタクシーをつかまえるや、取材の場所へと走らせた。「ま、エレクトロニクス関係の仕事とでも書いておいてください」。ビジネス人らしく言動のすべてが素早い。
30年ぶりに甲子園出場の宮古高は3対9で敗れている。単純計算では、松井を敬遠していれば勝負はもつれた。最速でも128km。「雑誌の記事によれば参加32校中でいちばん遅かった」体重65kgの主戦は、その後、巨人へ進む巨人と対峙、頭脳と術を駆使しながら4打数4安打7打点を許した。
「ずいぶん周囲から、バカだと言われましたよ。でも、あの事件があってからは、みんながコロっと変わって、お前は素晴らしい、って。人間は嫌だなあ、世の中はこわいなあ、そう思いましたよね」
事件とは、同じ年の夏の5打席連続敬遠を指す。このくだりを語って、口調はいっそう早くなった。
夏の甲子園は県大会で敗退、一般の入試で東北学院大学へ進んで、2年間は野球を続けて自主退部。学窓を去ると、電子部品関連の業務に一貫して携わり、白球の思い出からは距離を保ってきた。家庭を得て、いま小学3年の息子の少年野球チーム「篠原イーグルス」の練習指導に付き合い、ようやく、みずからの経験を言語化できるようになった。
自分の制球力を信じてアウトローに投げ込んだ元田。だが相手は怪物だった。
豪快にスタンドに叩き込まれた2本塁打で投手としての限界を知ったという。
勢いに乗る松井と次に対戦したのは、プロ注目の右腕・堀越の山本幸正。
故障を抱えたエースは本来の球威ではない中、配球の妙で翻弄したが……。
Number Web SCORE CARD
2013/08/11
松井秀喜の心を震わせた、異例の引退セレモニー。~ヤンキースが称えた7年間の功績~
背番号「55」は、ニューヨークでも愛されていた。昨季限りで現役を引退した松井秀喜氏が7月28日、ヤンキースと1日だけのマイナー契約を結び、引退セレモニーを行なった。カートに乗って球場内に姿を現すと、ファンは総立ちで拍手を送った。主将デレク・ジーターから記念のユニホームを受け取り、始球式を行なうと、歓声は一段と高まった。
「球場に入った瞬間、泣きそうになりました。改めて幸せな野球人生だったと思います。ファンの方の歓声に心打たれました」
2009年ワールドシリーズでMVPを獲得するなど、松井氏の活躍を知らないファンはいない。だが、ヤンキースがこれほどの引退セレモニーを企画すること自体が異例だった。試合前には、キャッシュマンGMらが会見を行ない、改めて松井氏の功績を称えた。
「打席の中だけでなく、メディアへの対応など、彼は真のプロフェッショナルだった。ヤンキースの一員としてリタイアすることを嬉しく思う」
「ニューヨークに住み、ヤンキースでプレーすることは特別だった」
日米両国で20年間プレーした松井氏にとって、ヤンキースでプレーした2003年からの7年間は特別な時間だった。巨人在籍時の1999年オフ、極秘で渡米し、プレーオフの熱狂ぶりを肌で感じたのが、旧ヤンキースタジアムだった。スタンドの松井氏は、かつてベーブ・ルースも立った左打席をしっかりと目に焼き付けて帰国の途に就いた。その後、フリーエージェントの権利を得る2002年オフまで、松井氏にとってのメジャー=ヤンキースだった。
「ヤンキースはずっと憧れでした。ニューヨークに住み、ヤンキースでプレーすることは、野球選手にとって特別なことだったと思います」
現時点で来季以降については未定だが、日米両国で愛された松井氏だけに、今後は指導者として期待する声も大きい。昨季の引退以降は自宅のあるニューヨークで静かに過ごしていたが、7月初旬からはヤンキース1Aの練習に参加したり、オールスターでテレビ解説するなど、野球人としての活動も増え始めた。
「これまでの経験を少しずつ次の世代に伝えていければいいですね」
日米両国で区切りを付けた松井氏。その動向は、今後も注目を集めそうだ。
産経新聞 話の肖像画
2013/08/09
現代最高のホームラン打者・松井秀喜(10)国民栄誉賞で野球に責任負った
〈東京ドームで5月5日、国民栄誉賞の授賞式が行われた。場内が一番沸いたのは始球式だった。松井秀喜の投球は高く外れ、左手一本で打ちにいった長嶋茂雄元巨人監督は空振りを本気で悔しがった。一番慌てたのは、捕手役の原辰徳巨人監督。主審役の安倍晋三首相だけが落ち着いていた。おそらく、硬球の痛みを知らないおかげだったのだろう〉
周りの人が「監督は打ちにくる」と話していたので、やっぱり打ってもらいたいなと思いました。外の球では届かないので体の近くに投げようとしたのですが、いきすぎてしまいました。まあよかったと思います。万が一、ファウルチップが首相に当たったら大変でしたから。
〈長嶋さんと松井の師弟ダブル受賞には、さまざまな声があった。誰より戸惑っていたのが、松井自身でもあった〉
難しかったですね。正直なところ、自分はいただけないよな、と思いました。そのつもりで監督に連絡もしました。監督はもちろん、まさしくこの賞の名にふさわしい方です。いくら自分の恩師、師匠とはいえ、一緒にいただくなんてもってのほか。そもそも自分はそんなことしていないよな、この賞をもらうほどのことを俺ってしたのかと、そう思いました。
まあ、監督に電話して、「いいじゃない。一緒に行こうよ」と言われて、それで終わっちゃったんですけどね。監督と一緒でなかったら? 絶対にもらっていないですよ。だって、監督が「一緒に行こうよ」って、それで終わりなんですから。はあ、そうですかって。
〈盗塁記録の福本豊さんは「立ち小便もできなくなる」といって国民栄誉賞を辞退した〉
さすがです。コメントのセンスが違います。僕に福本さんと同じことはいえません。式典で僕がよかったと思うのは、監督と、監督のファンの方々がすごく喜んでくれたことです。野球というスポーツにとってもよかった。
僕は現時点では賞に値しないかもしれない。でもこれから、日本の野球という大きな意味で何か力になれたらいいなと。その責任を負ってしまったな、という感じはしています。
〈式典で印象に残るシーンがある。スポットライトを浴び、オープンカーで場内を一周したとき、長嶋さんは満面の笑みで左手を振り続けた。松井もまた左手だけを振り、一度も右手は出さなかった。意識的だったのか、無意識だったのか。一度聞いてみたいと思っていた〉
そうですね、意識しました。監督が体調を崩され、リハビリのすごい努力を重ね、これだけ元気になられたんだと日本中の方が思ってくれればいいなと、それが際立つような形になってほしいと、常々思っていましたから。
〈豪快な本塁打で日米のファンを魅了した松井秀喜は、一方で、そういう男だったのだ〉(聞き手 別府育郎)
産経新聞 話の肖像画
2013/08/08
現代最高のホームラン打者・松井秀喜(9)「涙が出そうになりました」
〈ワールドシリーズでMVPを獲得したオフに、松井秀喜はエンゼルスに移籍した〉
日本では理解しがたいでしょうが、こちらではそれもありかな、と思います。迷いました。非常に迷いました。もともと大リーグで、というよりヤンキースでやりたい気持ちの方が強かった。長い間プレーをして愛着もあり、好きでしたから。ヤンキースのオファーを待つべきなのか、期待せずに動くべきなのか。難しい決断でしたが、ワールドシリーズが最高だったから新しいスタートが切れたのかもしれない。今思っても、いい決断だったと思います。
〈アスレチックス、レイズとユニホームを替え、2012年12月、「結果が出なくなったということで、命がけのプレーもここで一つの終わりを迎えた」と現役引退を表明した。最後の年は本塁打2本。これまで節目ごとに「夢」を語ってきた松井が、引退会見では一度もその言葉を発しなかった〉
なぜでしょうね。偶然だと思いますけど。夢っていい言葉で、夢を描きながら野球人生を送ってきたことは事実です。こういうふうになりたい、こういうプレーをしたいとか、一言でいえば「夢」になる。
子供のころからそういう気持ちを持っていたことは間違いない。何かを目指してそこにたどりつきたいという、自分が大切にしてきたのは、そういうことなんじゃないのか、という気持ちはあります。
〈甲子園に出る夢。巨人の4番に座る夢。ヤンキースで世界一になる夢。すべてかなえた今、語るべき夢自体がないのかもしれない〉
現時点で、具体的なプランは持っていません。もちろん野球からそんなに距離を置くつもりはないし、野球のフィールドを出ようとは思いません。ただ今は、せっかく家族も増えたことだし、リラックスしてその時間を楽しみながら、次に向かいたい。これからどういう気持ちが自分の中でわいてくるか、純粋な気持ちに従いたいと思っています。
〈長嶋茂雄元巨人監督は松井の引退に際し、こうコメントした。「これまで飛躍を妨げないよう、あえて称賛することを控えてきたつもりだが、ユニホームを脱いだ今は、現代で最高のホームランバッターだった、という言葉を贈りたい」。この話題に触れると、松井はいすに座り直し、居住まいを正した〉
びっくりしました。驚くとともに、感動しちゃいました。本当に監督、こんなこと言ったのかな、と。監督と接し、すごい多くの時間を共有してきたなかで、ああいう言葉が出てくることが、自分のなかで想像できなかった。うれしいというより、涙が出そうになりました。
〈冷静な松井秀喜が、そこまで心を揺さぶられたのだ。だから長嶋さんの言葉を、連載のタイトルに拝借した〉(聞き手 別府育郎)
産経新聞 話の肖像画
2013/08/07
現代最高のホームラン打者・松井秀喜(8)ニューヨークの紙吹雪
〈2009年、フィリーズとのワールドシリーズ(WS)。松井秀喜は6試合で打率・615、3本塁打、8打点。なかでも優勝を決めた第6戦は6打点の活躍で、MVPに選ばれた。ヤンキースタジアムの観衆は試合中から松井に「MVP」コールを送り続けた〉
09年も膝は万全というわけではありませんでしたが、後半はいい状態が続いていました。WSで印象に残るシーンはいっぱいありますが、まず第2戦のホームランでしょうね。WSの流れの中でも意味のある本塁打でしたから。
〈第2戦の決勝ソロは、ペドロ・マルチネスから打った。宿敵レッドソックスのエースは、フィリーズに移籍していた。第6戦の先制2ランもペドロからだった〉
どういうわけか、あのWSは彼とタイミングが合いました。初めてですよ。彼をあれだけ打ち込めたのは。最初は驚きました。ストレートは速い、コントロールはいい、カーブもチェンジアップも素晴らしい。ああなるほど、これがメジャーで一番のピッチャーなんだと思いました。ライバルチームのエースでもあったから、このピッチャーを打てるようになりたい、という気持ちに強くさせてくれました。WSの時には僕がメジャーに来た当時の速さはなくなっていたけど、彼がそういう存在だったことは間違いない。その意味でも、あのWSは、僕の集大成だったといえるかもしれません。今振り返ってみればそう思います。
スタンドのMVPコールは耳に入っていました。あの展開なら、誰のことを指しているのか誰だって分かります。でも心は全然動かされなかった。試合中ですから。野球というスポーツは本当に何があるか分からないですから。表彰式は試合が決まった後なので、もう最高でした。一番大きな舞台の一番素晴らしい瞬間ですから。WSのチャンピオンという、それだけを目標にプレーしてきたわけですからね。
〈マンハッタンで行われた優勝パレードでは約100万人のファンが沿道を埋め、ビルから紙吹雪が舞った〉
そりゃ最高ですよ。あれだけのニューヨークの人たちが熱狂してくれる中を車に乗っていくわけですから。まさに映画の中の世界でした。自分が主役だなんて思いません。ヤンキースはジーターですから。彼の存在なしにヤンキースは考えられませんから。
〈盟友のデレク・ジーターは松井と同じ1974年6月生まれ。誕生日が14日遅いジーターはしばしば松井を「トシヨリ」と呼んだ。故障で戦線を離れていたジーターは7月、松井の引退式当日に復帰し、記念ユニホームのプレゼンターを務めた。試合では第1打席の初球をスタンドに運び、「きょうはマツイ・デーだから」とさらりと言った。こういう男を、スーパースターという〉(聞き手 別府育郎)
J-CASTニュース
2013/08/06
松井秀喜氏とJALの「10年愛」継続中 苦境の「パートナー」に送ったメッセージ忘れない
日米球界で活躍し、2012年シーズン限りで現役生活にピリオドを打った松井秀喜氏。先日、ニューヨーク・ヤンキースと1日契約を結んで引退セレモニーに臨んだことが話題を集めたが、2013年8月に入って日本に一時帰国した。
松井氏は日米の往復の際、日本航空(JAL)を利用している。かつてJALとイメージキャラクター契約を結んでいたのが縁だが、単なるビジネスの関係を超えて両者は今も深いつながりで結ばれているようだ。
キャラクター契約終了後も乗り続ける
松井氏がヤンキースに移籍してプレーを始めたのは2003年シーズンだが、それに先立つ2002年12月24日、JALが松井氏をイメージキャラクターに起用すると発表した。「松井秀喜ベースボールミュージアム」のウェブサイトを見ると、2003、2004年に放送された、松井氏が登場するJALのテレビコマーシャル6本が紹介されている。2004年、すでに経営統合していた旧日本エアシステム(JAS)の航空便をJALブランドに統一したが、企業としての節目ともいえるこの出来事のCMにも松井氏が使われていた。
さらには、ヤンキースのユニホーム姿でバットを構えた松井氏の大きな顔を機体に描いた「松井ジェット」も飛ばしていた。
実は大リーグ移籍前、松井氏は必ずしもJALの「ヘビーユーザー」ではなかったようだ。ヤンキースの入団会見のため渡米した2003年1月の報道を見ると、利用したのは当時の米コンチネンタル航空(現ユナイテッド航空)。これはヤンキースが契約していた航空会社だったのが理由のようだ。また読売ジャイアンツ在籍時の1998年に大リーグ観戦のため渡米した際や、2000年に米ロサンゼルスにCM撮影で向かったときはいずれも全日空に搭乗したと報じられている。
だが、ヤンキース1年目を終えて日本に帰国した2003年11月以降、日米往復の際は「JAL一色」。JAL広報に電話取材すると、松井氏とのキャラクター契約は2004年12月で終了している。それでも現役時代、毎年2月の渡米、12月の帰国の際には、調べた限りでは毎回JALを使っていたようなのだ。
現役を引退した2012年だけは12月も自宅のあるニューヨークにとどまり、代わりに2013年5月3日に帰国した。翌々日の5日に東京ドームで自身の引退セレモニーと、国民栄誉賞授与式に臨むためだった。成田空港ではJALの大西賢会長が出迎えるという超VIP待遇。個人の搭乗客を直々に空港で迎えるのは初めてだ。
会長自らそこまで礼をつくした裏には、以前経営危機に陥ったJALを松井氏が激励していた事実があった。
「松井さんは特別な、代えがたい存在」
2010年1月、JALは会社更生法を申請して経営破たんした。世間から厳しい批判が浴びせられ、再建に大ナタが振るわれていたとき、松井氏はJAL社員を励まそうとメッセージを送った。
すでに大リーグで誰もが認める実績を積んでいた松井氏。この年はロサンゼルス・エンゼルスに移籍して大リーグ通算150本塁打を達成した。ヤンキース時代の2009年にはワールドシリーズ制覇、MVP獲得と栄光に包まれた。だがメッセージの中では「平坦な道ではなかった」と振り返る。大リーグでは新人からのスタート、言葉の壁に膝のけがやスランプにも見舞われた。だが「そんな時も、僕は一人ではなかった。何十万人、何百万人もの日本のファンがいつもいてくれた」と、心強い応援に感謝する。そのうえでJALに向けてこんな言葉を贈った。
「JALもけっして忘れないでほしいと思う。JALを応援する人が、ここにいることを」
「命をかける」とまでの覚悟を示して渡米した2003年、不安もある中でスポンサーとしてバックアップを約束してくれたJALの苦境を見過ごすわけにはいかなかったのだろう。メッセージは社内で回覧され、後に機内誌にも掲載されたという。
2012年、松井氏はタンパベイ・レイズに移籍する。現役最後となるチームでの成績は芳しくなかった。すると今度はJALの社員1400人が松井氏を励まそうと手紙を書き、同社のニューヨーク支店長が試合のためニューヨークに来ていた松井氏を訪ね、渡したという。
2年間のキャラクター契約はとうの昔に切れている。それでも松井氏は、今もJALに乗り続けている。JALの広報担当者はこう口にした。
「松井さんはJALにとって特別な、代えがたい存在です」。
産経新聞 話の肖像画
2013/08/06
現代最高のホームラン打者・松井秀喜(7)長嶋監督との不思議な巡り合わせ
〈メジャー1年目16本の本塁打は、翌年31発にほぼ倍増した。3年目は23発で打率も3割に乗せ、ヤンキースと再契約を結んだ。順風満帆にみえた松井秀喜に時ならぬバッシングが起きた。ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)不参加への批判だった〉
バッシングは実際に目にしていないので、よく分かりません。ただ、非常に難しい決断でした。(当時の日本代表監督だった)王(貞治)さんには直接誘われていましたし、出ることが可能といえば、そうだったかもしれません。でも、ヤンキースに対しての責任もあります。これは自分が出るべき大会なのかと非常に、迷いました。
〈当時、松井は「ヤンキースでワールドチャンピオンになるという大きな夢がおろそかになることを恐れる自分がいる」と語った〉
結局その通りなんです。キャンプというのはすごい大事な時期ですし、迷いましたが、王さんには、本当に心苦しいのですが出場を辞退させていただきますと伝えました。2回目のWBCは膝の手術をしてチャンスはなかった。縁のない大会といわれればそうかもしれませんが、後悔はしていません。個人的には、日本が勝ち進んでくれて本当によかったと思います。
〈2006年シーズンは、開幕アーチを含む4安打4打点で始まった。事故は5月11日、レフトの守備で打球に滑り込んだ松井の左手首が不自然に曲がった。誰が見ても、折れているのが分かった。巨人時代から続いていた連続試合出場は、「1768」で途切れた〉
その瞬間、これはもう、どうしようもないなと思いました。長嶋(茂雄)監督も、トーリ(監督)も、僕に連続出場を続けさせたいという気持ちをもってくださっていたので、その気持ちに応えたいという思いはありましたが、本当に、どうしようもありませんでした。
〈試練は続く。07年オフには右膝を手術、08年は欠場が増えて本塁打は9本に終わり、左膝も手術した。苦悩の34歳に、翌年の復活を予言した男がいる。長嶋さんが「俺も35歳の時が一番よかった」と話したのだという〉
びっくりしましたよ。実際にみたら、監督は35歳の1971年に6度目の首位打者をとり、MVPにもなっていましたから。ちょっと勇気をもらったという感じですね。自分だって、体さえちゃんとよくなれば、それなりのプレーはできるんだと信じていました。
〈35歳の翌年、松井はシーズン28本塁打を放ち、ワールドシリーズではMVPを獲得した。現役引退も、長嶋さんと同じ38歳だった〉
偶然ですけどね。ただ巡り合わせというか、監督が引退した年に僕は生まれ、監督がジャイアンツに戻ってきたときに僕がドラフトで入りました。自分でいうのもなんですけど、いろいろな意味で、ご縁を感じることはあります。(聞き手 別府育郎)
産経新聞 話の肖像画
2013/08/05
現代最高のホームラン打者・松井秀喜(6)歓喜乱舞の大ジャンプ
〈本拠地開幕戦の満塁弾で喝采を浴び、最高のデビューを飾った松井秀喜だが、大リーグは甘くない。次第に打球は上がらないようになり、辛辣(しんらつ)な地元紙は松井を「ゴロキング」と、ありがたくない異名で呼び始めた〉
ピッチャーの質というか特徴の違いですね。特に各チームのエース級の質はかなり高いと感じました。彼らの速球は、直球ではない。そこを勘違いすると、おかしなことになる。速くて動く球。軌道が読みづらく、動きをある程度予想して打たないと、いい対応ができない。
〈150キロを超える速球が曲がったり沈んだりするのだ。どこまでボールを見切ることができるのか、プロの一瞬の感覚をうかがい知ることはできない。当時は国内で大リーグの特派員原稿を受ける担当をしており、毎朝、松井の打撃を追った写真を山ほど見た。静止画像なら分かることもある。開幕当初はミートポイントから離れていた松井の目線は、シーズンが進むにつれ次第に手前に近づいていった〉
打席では、逆(左翼)方向に強く打つイメージを持つようにしました。ボールを長く見ることを意識しすぎると遅れてしまってよくない。ほんの一瞬のことですから。逆方向に打つイメージで結果的に長く見られるように、そういう意識で自然に少しずつ変えていきました。
〈これが超一流の対応力なのだろう。6月には6本塁打、打率・394で月間最優秀新人賞を獲得し、8月も4本塁打を放った。1年目のクライマックスは、宿敵レッドソックスとのリーグ優勝シリーズ、3勝3敗で迎えた第7戦。劣勢の八回に同点のホームに滑り込んだ松井は高々とジャンプしながら雄たけびを上げ、珍妙なダンスを踊るように、なおも叫びながらハイタッチを繰り返した。いつも冷静さを誇る松井が、壊れてしまったのかと思った〉
普段は感情の波はあっても表に出さないようにしてきました。僕は、それができる自信もあります。ただあの時だけは何かを越えてしまった。試合の意味の大きさ、展開、(相手投手もエースの)ペドロ・マルチネスだったし、いろいろなものが重なって、感情が爆発してしまったのでしょう。自分がただの二塁ランナーだったということもあります。自分が打っての同点なら、ああはなっていないと思います。
〈確かにもう一度、見ている。翌年7月、ジーターがファウルを追ってスタンドに飛び込み負傷退場した、やはりレッドソックス戦だった。フラハティのサヨナラ打の瞬間、松井はベンチ前で前年同様のジャンプを繰り返した。ただの野球少年に返ったようにみえた〉
意外とベンチでは感情を出していたんですよ。他の選手のプレーには自然とそういうことができる。そんな時は、自分は単なるヤンキースファンなのかと思うこともありました。
〈引退会見で松井は、「ヤンキースの一員としてヤンキースタジアムで初めてプレーした日と最後にプレーした日のことは、一生忘れることなく心の中にあり続ける」と語った。満塁弾デビューと、ワールドシリーズを制した日のことだ。7月、ヤンキースの引退式では一番の記憶を問われ、「2003年のリーグ優勝シリーズ第7戦」と答えた。大ジャンプの、この写真のゲームである〉(聞き手 別府育郎)
産経新聞 話の肖像画
2013/08/02
現代最高のホームラン打者・松井秀喜(5) 「裏切り者」なのか
〈巨人最終の2002年。松井秀喜はシーズン50本塁打を放ち、打点との2冠を制した。打率も自己最高の3割3分4厘を記録した。シリーズでは西武を下して日本一となり、終了後に大リーグ挑戦を表明した。会見では「これまで自分のわがままにふたをして考えないようにしてきましたが、最後まで夢というか、向こうに行きたいという気持ちが消えませんでした」と語った。少し異様とも思えたのは、自ら「何を言っても裏切り者といわれるかもしれない」と話したことだった〉
僕はジャイアンツの4番バッターでしたから、責任あるポジションを任されていた人間として、フリーエージェントでチームを離れるということは、かなり大きな決断でした。
ジャイアンツが僕に残ってほしいという気持ちは必ずあったと思いますから、それを振り切って(大リーグへ)行くということで、それなりの自分なりの覚悟は自然に芽生えました。
「裏切り者」というあの表現が正しかったのかどうなのか、今でも分かりません。ただ、そう思われても仕方がないと思っていました。僕の気持ちとして、そう思ってしまった。そう映っても仕方がないと思ったんですね。
〈悲痛ですらある。5月5日、東京ドームで行われた巨人の引退式でも松井はあいさつの中で、こう話した。「2002年、ジャイアンツ、そしてファンの皆さまに自らお別れを伝えなければいけなかったとき、もう二度とここに戻ることは許されないと思っていました」〉
当時、たくさんの方々のジャイアンツでプレーしてほしいという声は、僕にも届いていました。それとは違う方向、違う場所に向かっていったわけですから。「裏切り者」という表現が正しかったかは分からないけど、僕なりに、そういう気持ちになっていたことは確かです。
だから(引退式では)、あれだけのジャイアンツファンの方々が温かく受け入れてくださって、本当にうれしかったですね。
〈それほどの思いをして、海を渡ったのだ。ヤンキース入りを果たして03年、ブルージェイズとの開幕戦ではエースのロイ・ハラデーから初打席初タイムリー。ツインズとの本拠地開幕戦では満塁弾のニューヨーク・デビューを飾った。万雷の拍手に、いったんベンチに入った松井が出てきて少し恥ずかしそうにヘルメットを振った、あのシーンが忘れられない〉
トーリ(監督)にやれといわれてやっただけです。僕は自分から進んでああいうことをやりたいタイプじゃない。ハラデーからのタイムリーもラッキーです。なめていたんだと思いますよ。いいスタートを切れてよかった、とは思いましたが、先が長いことも分かっていました。日本よりもっと長いですから。これから先、いろいろなことがあるだろうと、ちゃんと自分なりに思っていました。 (聞き手 別府育郎)
産経新聞 外信コラム
2013/08/02
アイ・ラブ・ニューヨーク ゴジラ“最後の雄姿”
本紙「話の肖像画」で取り上げている松井秀喜氏のインタビューの際のことだ。ニューヨークのホテルの個室に来ていただいた松井氏に対し、名刺を渡した上でこちらの名前を告げると、すかさず「松井です」と言葉が返ってきた。ヤンキースにいた松井といえば、ニューヨークで子供だって知らない者はいない。だからこそ取材しているのに律義に自己紹介されるとは想像もしていなかった。
松井氏は数日後、ヤンキースタジアムで引退式に臨んだ。野球人生最後の“花道”を用意するという古豪球団ならではの粋な取り計らい。センター後方からゴルフカートに乗って現れた松井氏に対し、野球にうるさいファンが総立ちとなって万雷の拍手を浴びせた光景には本人だけでなく、こちらも目頭が熱くなった。
彼は次に、キャプテンで友人でもある遊撃手ジーターから引退記念のユニホームを受け取り破顔一笑。「(ジーターの)新人時代、どうしたらこんな人間ができるのかと思った。教育というより、どういう人間か知りたくて対話した」とトーリ前監督に言わしめた人格者、ジーターからも好かれ続けた松井氏。引退式で“最後の一球”を投げ終え、グラウンドから晴れやかな表情で立ち去るとき、引退を惜しむ拍手はしばらく、鳴りやまなかった。(黒沢潤)
中日新聞 松井秀喜
2013/08/01
エキストライニングズ(10) 不思議な力に導かれ
ヤンキースの一員としてもう一度ヤンキースタジアムに立つことができるとは思わなかった。一日契約での引退セレモニーに臨み、確かにここでは不思議なことが起こるとあらためて思った。
初めてヤンキースタジアムでプレーしたのは二〇〇三年四月八日のツインズ戦だった。五回に満塁で打席に立ち、初本塁打を打つことができた。ピンストライプを着て最後にプレーしたのは〇九年十一月四日のワールドシリーズ第六戦。その試合で6打点を挙げることができ、念願のチャンピオンとなった。この球場では、自分に分からない不思議な力に導かれるようなことが何度もあった。
ヤンキースは客観的に見れば居心地の悪いチームかもしれない。常に多くの目にさらされ、打たなければすぐブーイングを浴びる。チーム内の雰囲気もその後所属した三チームとは違った。端的に言うなら、笑って済まされる事が何もない。不満を唱えた主力がすぐに放出されるのも見た。
ただ僕はむしろそういう環境でやりたくてこのチームを選んだ。自分の性格からしてヤンキースのような緊張感のある場所の方が力を出せると思った。そして考えていた通り、最初から何の違和感もなく入っていけた。他人から見た居心地の悪さが、僕にとっての居心地のよさだった。
根性野球そのものとは言わないが、米国では珍しく根性野球っぽいところもあった。ジーター、ポサダ、それに普段は静かなバーニー(ウィリアムズ)やリベラまでがものすごく熱くなり、その気持ちで何とか試合を動かそうとする。それも僕が好きだったところだ。
あのチームで七年間中軸を打てただけで十分。その上最後にチャンピオンになれた。幸せだ。けががなかったらとか、あと一、二回優勝できたのではとか思ってもおかしくないのかもしれないが、まったく思わない。本当に最高の七年間だった。 (元野球選手)
産経新聞 話の肖像画
2013/08/01
現代最高のホームラン打者・松井秀喜(4) 長嶋監督との4番1000日計画
〈松井秀喜はずっと巨人で活躍を続け、長く4番に君臨した印象があるが、プロデビューの1993年の開幕は2軍スタートだった。4番打者の座も用意された指定席ではなかった。立ちはだかったのは、原辰徳、落合博満、清原和博。松井が4番に定着したのは、ようやく入団8年目のことだった〉
僕が入団当時の4番は、原さんでした。96年と98年の開幕時には4番を打ったのですが、あまり数字が上がらないので、96年は途中から落合さんが4番を打ち、98年は清原さんに代わりました。8年目の2000年はずっと4番を任されるようになり、最後の3年間は、一日も休まずに4番を打ちました。
先輩打者3人との比較は、もちろん耳には入りました。でも、自分が先輩方になれるわけでもないし、自分から比べたことはないんです。もちろんすごい先輩方でしたが、4番という意味で意識したことはありませんでした。
長嶋監督は「4番1000日計画」なんて言ってくれましたが、実際に4番に定着するには、2000日以上かかってしまいましたね。
〈「4番1000日計画」。それこそが師弟の、「素振りの日々」だった。東京ドームで、長嶋監督の自宅の地下室で、遠征先の監督の宿舎で、マンツーマンの素振りは続けられた〉
監督が持つバットのヘッドをボールに見立て本当に打つ感じで振るんです。監督はその瞬間にバットを引く。誰でもバットを振れば音はするんですが、短くて高い音がいいんです。音が割れてもいけない。高くてピュッという音でなければいけない。鋭く空気を一瞬で切る感じでピュッと振りぬけると、監督から「よし」と声がかかる。長嶋さんにしか分からないですよ。僕は監督が「いい」「悪い」と言ってくれるから分かるようになりましたけど、それでも分かるまでに1年、2年とかかりました。
自分でもある程度は判断できるようにはなりましたが、監督がいるのといないのとでは、気持ちの入りようが違う。自分一人でその集中力と緊迫感を出すのって難しいんです。
〈「ピュッ」というときの松井の声が高い。おそらく、長嶋監督の声も高かったのだろう。右利きの松井が「不器用」という左打ちのスイングは、長嶋監督との素振りで一つずつ積み上げたものだ。だからこそ揺るぎないスイングを固めることができたのだろう。素振りは松井が4番に定着しても、監督が勇退しても、巨人最終の02年に50本塁打を放っても続けられた〉
ニューヨークでも、監督の滞在中には毎回やりましたよ。ホテルにバットを持ち込んで。携帯を床に置いて、国際電話を聞いてもらいながらバットを振ったこともあります。やったという行為は事実ですが、これはどこまで本当に聞こえていたのか、少し疑問ですよね。時差もありますし。(聞き手 別府育郎)
NHKスポーツオンライン 高橋洋一郎
2013/08/01
予感
ファンの視線はすべて松井氏に
静かに、そしておごそかに、ニューヨーク?ヤンキースの松井秀喜のキャリアにあらためての終止符が打たれた。
現地7月28日。
ヤンキースタジアムで行われた松井秀喜引退セレモニー。
松井氏はこの日ヤンキースと一日だけのマイナー契約を結び、ヤンキースの選手としてメジャーリーグでの現役生活に別れを告げた。
センター後方からカートに乗ってグラウンドに姿を見せた瞬間、スタンドを埋め尽くした4万7714人のファンはみな総立ち、暖かい視線はすべて、フィールドに立つ最後の松井氏に注がれた。
フィールドに降り立つ松井氏の表情には至福の笑顔が浮かび、それを万雷の拍手で迎えるファンの表情もまた幸せに満ちている。
思い起こせば何度も同じような場面を見続けてきた気がする。
旧ヤンキースタジアムでのデビュー戦で打った満塁ホームラン。その年のリーグチャンピオンシップ第7戦、二塁から全速力で三塁をまわりホームイン、その瞬間見せた歓喜のジャンプ。2006年手首の骨折から復帰した試合ではいきなり4打数4安打。そして2009年のワールドシリーズ優勝、日本人選手初となるMVP受賞…
「チームの勝利がすべて」
その思いだけでプレーし続けた松井氏は、何度も何度もここヤンキースタジアムで、同じ光景を実現してきた。
たった一つ当時と違うのは、この日の松井氏がもうユニフォームを着ていない、ということだ。
スタジアムを包み込む、惜別まじりの多幸感のなか、ホームプレートに用意された机で引退の書面にサインし、集まったファンに手を振り、感謝を伝える時の松井氏には、明らかに幸せとはまた違う表情が浮かんでいたように見えた。
その目に涙があったかどうか。
ただ選手時代に貫き通した「不動心」は、そのとき大きく揺さぶられていたに違いない。
元チームメートを代表、というよりは、この日集まったすべてのファンを代表し、奇しくも同日にけがから復帰したキャプテンのデレク?ジーター選手が額縁におさめられた2009年ワールドシリーズ制覇の年のユニフォームを手渡し、長い抱擁を交わす。
同じ年に生まれ、同じユニフォームを着て、同じ目的に向かって全力で戦い続けた二人。お互いを特別な存在と認め合う二人が微笑む姿に、2009年ワールドチャンピオンに輝いた瞬間のマウンドでのシーンが重なる。
「よかったな。ありがとう」
あの時二人はこう言葉を交わした。
今回はどのような言葉が交わされたのか。
きっと同じ言葉にちがいない。
他にもリベラ投手、カノー選手、ペティット投手、サバシア投手……かつてのチームメートが松井氏を囲み一緒に記念写真におさまる。
彼らは皆チームメートとして松井氏が大好きだった。
松井氏が「高校の時からずっとその姿を追い続けてきたような気がする」と言うイチロー選手、そしてメジャーでの対戦はなかったものの、日本で数々の名勝負をくりひろげた黒田投手とも、この日だけはチームメートとなった。
この数日前にトレードで再びヤンキースのユニフォームを着る事になったソリアーノ選手の顔もある。
2003年松井氏がヤンキースに入団した際に「マツーイさん、ケンキョ(謙虚)、ケンキョ、ね」と広島カープに在籍した時に覚えた日本語で迎えていたことを、今も変わらぬ屈託のない笑顔が思い出させてくれる。
また一緒にプレーした事がない選手たちも、自らがヤンキースというチームでプレーすることの意味を理解し、そのうえでこのチームからこうしたセレモニーで迎えられる松井氏に最大のリスペクトの念を抱いたのではないだろうか。
ほんの10分間ほどのセレモニー
最後に行った始球式で真ん中低めにストレートを投げ込んだ後、ヤンキースのダグアウトの出口に向かいながら、松井氏は満員となったスタンドに向かって帽子を振り、最後のあいさつを交わした。
その直後、振り向き様に松井氏の視線が逆方向三塁側のダグアウトに向いた。
視線の先にいたのはこの日の対戦相手タンパベイ?レイズのマッドン監督だ。
松井氏が現役最後に所属したチーム、去年7月にチームを離れる前、最後の最後まで試合を決めるような大事な場面で打席に送り出し続けてくれた監督だ。
ひっそりとした反対側のダッグアウトで一人拍手を送っていたマッドン監督に向かい、松井氏はお辞儀をし、短い言葉を投げかけ、一塁側のダグアウト奥へと消えていった。
すばらしいチームメート、すばらしい指導者に見送られながら。
松井氏は短いものであれば自ら英語でのスピーチを考えていたそうだが、結局その機会はなかった。その場にいたすべての人たちの心に感謝と感動だけを残し、「別れ」を告げることなく去っていった。
一つの大きな幕が下りた。
次なる章がすぐに準備されているかの予感を残して。