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Columnコラム

時事通信 2013/05/31
松井氏に最高の花道=変わらなかった古巣への思い-米大リーグ
 【ニューヨーク時事】米大リーグのヤンキースに7年間在籍した松井秀喜氏が、同球団の一員として引退することになった。ヤンキースが30日、本拠地ヤンキースタジアムで7月28日に行われるレイズ戦の前に同氏と1日限定のマイナー契約を結び、引退セレモニーを行うと発表した。
 松井氏は2003年に巨人からヤンキースに移籍。09年にはワールドシリーズで最優秀選手(MVP)に輝く活躍を見せ、優勝に貢献した。
 そのオフにエンゼルスへ移籍し、さらに複数球団を渡り歩いたが、ヤンキースへの思いは変わらなかった。「今でも自分の体の中にヤンキースの血が流れているかといえば、流れていると思う」と、熱い思いを口にしたこともあった。ヤンキースを語るときの口調は自然と熱を帯びた。
 一方、ヤンキースのブライアン・キャッシュマン・ゼネラルマネジャー(GM)も、「ヒデキは永遠にヤンキースの一員だ」と敬意を払う。
 セレモニーは、相手チームの一員としてヤンキースタジアムに登場した松井氏を、いつも温かい拍手で迎えたニューヨークのファンへの恩返しの機会でもある。同氏にとって、最高の花道となりそうだ。
スポーツ報知 2013/05/24
松井氏“暴投”の訳
 長嶋さんと松井氏の国民栄誉賞授与式と、同氏の引退セレモニーは日本中の涙を誘った。病からの回復を見せたミスター、立派なスピーチで大人になったことを示した松井氏、そして2人の師弟愛にも感動させられた。

 場内一周するためのオープンカーに長嶋さんが乗り込むまでの間、松井氏はじっと立って待っていた。あのシーンだけでも師を思う気持ちが十分に伝わり、記者席で胸が熱くなった。あれから2週間以上過ぎた今もその余韻に浸っている。

 ちょっぴり笑えたのは始球式だった。打つ気満々のミスターに対して、松井氏は頭の上あたりに投げるまさかの暴投。連日の素振り、ティー打撃と準備万端だった師に対し、弟子の方は、育児と読書に忙しく、ボールをまともに握っていなかった。

 そこで、セレモニーが始まる前、一塁側のブルペンでピッチング練習はした。予想に反して、次々ストライクゾーンへ投げ込めたという。ミスターの隠れた努力を知る球団関係者が、松井の制球力に安心して「本番では、バットに当てやすい内角高めへ投げて。間違ってもバットが届かない外の低めは避けてね」とアドバイスしていた。

 ブルペンとの大きな違いは2つあった。ひとつめは極度の緊張である。関係者によると「マウンドに上がった途端、スピーチの時以上に緊張しているのが顔に出ていた」という。次は力加減。ブルペンでは打者を想定せず、伸び伸び腕が振れたが、本番ではミスターが打ちやすいコースだけでなく、スピードも意識しすぎた結果、ボールが大きくすっぽ抜けた。

 「これまでの野球人生で一番、“置きに行ってしまった”1球」と本人は、巨人関係者を前に苦笑交じりに振り返っていたという。暴投の原因は練習不足ではなく、長嶋さんにクリーンヒットを打たせてあげたいという気持ちが強すぎたことにあったようだ。最近、聞いた後日談からも、師弟愛の深さを感じた。(山本 理=97~01年巨人担当)
中日新聞 松井秀喜 2013/05/23
エキストライニングズ(5) 運命としか言えない
 長嶋茂雄監督が十二シーズンのブランクを経て復帰した年、僕は巨人の一員としてプロ生活を始めた。一九九二年十一月二十一日、ドラフト会議で監督がくじを引き当て、僕の入団が決まったのは、運命としか言いようがない。

 監督に初めて会ったのは、入団発表を翌日に控えた同年のクリスマスイブだった。監督のサインが入った「交渉権獲得」のくじはスカウトから渡されていたが、会う機会はそれまでなかった。

 監督はテレビの中の人物という感じだった。僕が生まれた年に引退したわけだから、現役はもちろん、第一次監督時代のイメージすらなかった。スポーツ界最大のスターなのだが、リアルタイムで見ていなかった。それがよかったのかもしれない。そうでなかったら普通に接することはできなかったと思う。何の先入観もなく、自然に一選手として監督に付いていくことができた。

 長嶋監督は感覚的といわれる。野球を語る言葉は確かに独特かもしれない。ただ言葉が分かりにくいと思ったことは一度もなかった。何か通じ合うというのか、監督が意図することは最初から全て分かった。

 二〇〇八年のシーズン後に掛けられた言葉は忘れられない。膝の故障でシーズンの大半を棒に振った三十四歳の僕に、監督は「俺は三十五歳のときが一番良かった。三十五は技術も体も一番いいときだ」と言った。監督は三十五歳だった七一年に打率3割2分で六度目の首位打者となった。〇九年、僕はシーズン28本塁打を記録し、ワールドシリーズに優勝。シリーズMVPを手にし、一年前の言葉をかみしめた。

 昨年十二月、選手生活を終えることを報告した。監督も三十八歳で引退だったと言われて気が付いた。そんなところまで師の後を追うことになるとは思わなかった。 (元野球選手)
NHKスポーツオンライン 高橋洋一郎 2013/05/15
二人だけのユニフォーム
あの授与式からほぼ1週間。
吹き抜ける風に、往生際の悪い寒さがわずかに残るニューヨーク。
目まぐるしく過ごした東京での時間とは比べようのない静かな時間が流れている。
2か月になる息子の寝顔にほっと息をついているころか。
夜泣きに起こされ、記憶にない自らの乳飲み子時代に思いを至らせながら、両親への尊敬と感謝の念を新たにしているところか……

僕が誇れることは・・・・

あの日、人生の師匠とあおぐ長嶋茂雄氏とおそろいのスーツを着て東京ドームのフィールドに立った松井氏には、本人が何度も口にした「恐縮」という言葉通りの表情が浮かんでいた。
同時に猫背にも似て少しだけ前屈みになり、師である長嶋氏のやや斜め後ろに立ったその姿には、松井氏らしい控えめな美しさがあった。
どちらか一人ではなく、師弟二人に、そろって国民栄誉賞は授与された。
「僕が誇れることは、日米のすばらしいチームでプレーし、素晴らしい指導者の方々、チームメート、そして素晴らしいファンに恵まれたことです。」
野球に対する真摯な姿勢、どんな時でも全力プレー、それが観る者に与えた夢と感動、松井氏の受賞理由はそう説明された。
しかし、そのような野球人としての姿を20年間貫けたのは、その時その時に出会ったすばらしい監督やコーチ、一緒に戦ったチームメート、そして声援を送ってくれたファンのおかげだと、とりわけ長嶋氏への感謝の気持ちを全面に出し自らは一歩引いて授与式に臨んだ。
万人が手にする事ができるわけではない喜ばしい師弟関係。
真の意味を理解しているのは当の二人だけであろうが、ここまで開けっぴろげな肯定をともなう師弟関係というのもけうな存在であろう。スポーツ選手でなくても羨ましく思う。

「これからも監督の背中を追いかけ続けたいと思う、素晴らしいきっかけを頂いた」

数年後、数十年後か。
今度は師となった松井氏とまだ見ぬその愛弟子の姿が期待される。
おそろいのスーツは松井氏の発案だという。
「監督、二人だけのユニフォームを創りませんか?」
「よし、任せておけ。」
そんな会話があったかどうか。
胸にGIANTSと入ったユニフォームではない。
ましてや縦縞(ピンストライプ)の、左胸にティファニーがデザインしたというロゴの入ったユニフォームでもない。

二人だけのユニフォーム

その師弟関係の美しさゆえ、そこに違った意味を付与されてしまうかもしれない「もろさ」のようなものを含んでいたのも事実ではあるかもしれない。
しかし、おそろいのスーツ(ユニフォーム)、まさにこの二人にしか許されないユニフォームを着た師匠と愛弟子の並び立つ姿には、やはり否定できない美しさがあった。
時事ドットコム スポーツ千夜一夜 2013/05/14
数字を超えるもの
 5月5日、こどもの日。プロ野球の大スターだった元巨人監督の長嶋茂雄さんと、日米で活躍した松井秀喜さんに国民栄誉賞が贈られた。表彰式の後に行われた巨人―広島戦の始球式では、背番号96をつけて登場した安倍晋三首相のはしゃぎようが少々見苦しかったものの、2人の同時受賞は案外いいアイデアだと思えた。

 なぜこの時期に、しかも2人同時に…と批判的な人もいた。長嶋さんについては、元気なうちに表彰しようという判断だ。元横綱大鵬の納谷幸喜さんが1月に亡くなった後、国民栄誉賞を贈ったことに対して「なぜもっと早く表彰しなかったのか」と悔やむ声があった。確かにその通りで、元気なうちに表彰して大鵬さんの笑顔を見たかった人は多かったことだろう。長嶋さんもユニホームを脱いでから年月がたち過ぎ、表彰のタイミングを逃していたのだが、「弟子」である松井さんの引退と抱き合わせにすれば大義名分は成り立つ。

 松井さんに関しては、表彰理由の乏しさを指摘する声も聞かれた。実際、彼自身も表彰式のスピーチで戸惑いを正直に表現している。

 「この賞をいただき大変光栄ですが、同じぐらいの気持ちで恐縮もしております。私は王(貞治)さんのようにホームランで、衣笠(祥雄)さんのように連続試合出場で世界記録をつくれたわけではありません。長嶋監督の現役時代のように日本中のファンの方々を熱狂させるほどのプレーができたわけでもありません…」

 過去、国民栄誉賞が贈られたスポーツ選手は記録の達成者や五輪金メダリストが中心だ。だから松井さんが恐縮する気持ちも理解できる。しかし物事の価値はデジタルな要素だけで決まるはずがない。数字的には最高でなくても美しく光るものはたくさんある。松井さんはヤンキースで中軸を務め、ワールドシリーズではMVPに輝いた。チームに対する献身的な姿勢も米国の野球ファンに大きなインパクトを与えた。長嶋さんとともに、記憶に残るプレーヤーとして胸を張って受賞していいと思う。

 長嶋さんのエネルギッシュなプレーと明るい人柄は、高度経済成長期の日本に夢と希望を与えるシンボルだった。当時の試合映像を見ても、あの躍動感を超える選手は一人もいないことがよく分かる。ナイトゲームから帰宅後も毎晩、納得するまでバットを振ったといわれるが、そうした陰の努力を知られることを嫌がった。スターは苦労を見せてはいけないという美学があったからだ。ところが球場へつれていった息子のことを忘れて、試合が終わると自分だけ帰ってしまったなど笑い話も数限りなく、そんな人間くささがまた人々をひきつけた。

 こうして誰からも愛されたのが長嶋さんなら、記憶にも記録にもその名を刻んだのが大相撲史上最多32度の優勝を誇る大鵬さんだった。マスクも甘く人気は絶大。子供が好きなものを並べ「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語もあった。しかし、大鵬さんは不満だった。裸一貫から稽古、稽古で強くなった自分が、いい選手をかき集めて勝つ巨人となぜ同列に扱われるのか、と。

 そこには「打倒大鵬」を目指す出羽海一門の力士らと懸命に戦ったことの誇りや、結果を生むまでの努力に対する自負が見える。天才と呼ばれることにも強く反発した。ライバルの柏戸があまり稽古をしなくても強かったことを挙げ、「俺は天才じゃない。努力家だ」と言い切った。

 長嶋さんや大鵬さんが活躍した昭和という時代に比べると、息苦しい世の中になったものだと思う。何事も洪水のような情報を取捨選択しながら、ゴールまで最短でたどり着こうという競争だ。子供の受験も、大人の仕事も。効率化、スピード化が進み過ぎたせいで、目に見える結果ばかりが問われる。ちょっとした脱線や遠回りも罪深いものとみるような空気が社会に満ちている。

 大鵬さんは著書「巨人、大鵬、卵焼き」(日本経済新聞社)の中で「ふき掃除、洗濯など、一から修行して、力士として人間として、だんだんと成長していくことが大事だ。その過程を通じて師弟愛、兄弟愛、あるいは先輩、後輩の絆が輪になり太い線ができる。今は、その良き古き伝統がみんな崩れているから残念である」と記した。松井さんは縁あって長嶋さんと人生の一時期を重ね合わせ、二人三脚の地道な作業の果てに大きな花を咲かせた。そこには大鵬さんが言うような、失われかけた懐かしい風景がある。

 大鵬さんは亡くなる2日前、かわいがっていた横綱白鵬から見舞いを受けていた。TBSテレビが2人の最後の会話を映像に収め、そのシーンを放送していた。酸素が十分に回らず、見るからに苦しそうだった。「努力次第だよ。頑張れよ。そのかわり、いい加減なことをしちゃ駄目だよ。ぴしっとしていれば、ちゃんとしていればみんなが認めてくれるから…」。苦しい息の下で、懸命に絞り出した言葉が印象的だった。

 ぴしっとしていれば。ちゃんとしていれば。それは人目につかない地道な鍛錬や、心のたたずまいを指した言葉だろう。ともすれば超人たちの数字の比較ばかりに目が奪われがちだが、ときおり漏れ伝わる舞台裏の息遣いや、汗のにおいにこそ最も胸を打たれるのだと感じる。
NEWSポストセブン 2013/05/11
長嶋と松井 取材者に理解を示し全く差別をしないのも共通点
 5月5日に国民栄誉賞を同時受賞した、長嶋茂雄氏(77)と松井秀喜氏(38)。スポーツライター・永谷脩氏が2人をめぐる秘話を綴る。(文中敬称略)


 まだ国際化が進む前の羽田空港の粗末な国際線ロビーで、長嶋とバッタリ会ったことがある。お互いに目的地はハワイ。長嶋は名球会のイベントのため、私は西武のV旅行に行っていた清原和博(元・オリックス)を取材するためだった。

 当時、羽田には台北―東京―ホノルル―ロサンゼルスを結ぶ中華航空の定期便が、1日1便だけあった。ファーストクラスなどついていない。どうして海外に行くのに羽田なのかと聞くと、長嶋は屈託無くこう答えた。

「いやァ、旅慣れた人はチャイナですよ。成田は不便だから。いずれ必ず羽田も国際化の時代が来ますよ」

 まるで今日のことを“予知”したかのような発言だった。長嶋には時折こうした言動があったが、松井に特に目をかけて指導したのも、いずれ国民栄誉賞を取るほどの男になると予知してのことだったのだろうか。

 その時は色々な話をした。今でこそ、リハビリ中のためあまり公に姿を現わさない長嶋だが、声を掛ければいつも気さくに答えてくれる人だった。

「おお、清原の取材で海外ですか。いいアイデアですよ。日本じゃ、騒がれて時間もないでしょうからね。人がいない場所で訊ねるのが一番の取材方法だよね」

 正直、選手の中には、相手のマスコミによって取材時に差別をしているように感じる者もいる。ただこうして取材者に理解を示し、まったく差別をしないのも長嶋と松井の共通点だった。

 長嶋は、ともかく何を言われても書かれても、まったく怒ることがなかった。

「相手が書いていることを読んで、もう1人の自分がいると思えばいい」

 と平然と言ってのけるのを聞いて、心の広い人だなァと思ったものだ。

 松井も、質問の意図を説明すれば、どんな場面でもキチンと丁寧に答えてくれた。それに記憶力の凄さには驚かされた。質問者が対戦相手の投手名を憶えていないような場面でも、「あの○球目のストレートでしょう」なんて、配球までスラスラ答えていたのは舌を巻いた。その意味では、キチンと資料を用意していけば、取材のやりやすいタイプではあった。松井に対して、担当記者の間からも悪口が聞かれないのはこういう理由もあると思う。
PRESIDENT Online コーチの名言+PLUS—闘う者を磨く「ことば」の力 2013/05/10
「同じくらいの気持ちで恐縮しております」-松井秀喜
松井秀喜(元大リーガー・国民栄誉賞受賞者)

感動的な引退セレモニー&国民栄誉賞表彰式だった。こどもの日。東京ドームが異様な熱気と興奮、涙に包まれた。

師とあおぐ元巨人監督の長嶋茂雄さんとともに白いオープンカーに乗り、グラウンド内をフェンスに沿って一周した。国民栄誉賞の表彰式では、長嶋さんの横に並んだ。おそろいの濃紺のスーツにストライプのシャツ、水玉のネクタイ姿で。

表彰式。病気の後遺症が残る長嶋さんが安倍首相から表彰状を受け取る際、松井さんはさっと寄り添い、サポートした。日本テレビの中継でゲスト解説した徳光さんが涙声で「師弟だなあ」と漏らす。同感である。泣かせるシーンだった。

松井さんは国民栄誉賞表彰式に先立ち、引退式でこう、スピーチした。

「毎日、毎日、ふたりきりで練習に付き合ってくださり、ジャイアンツの4番に必要な心と技術を教えていただきました。また、その日々が、その後の10年間、アメリカでプレーしたわたしを大きく支えてくれました。そのご恩は生涯、忘れることはありません」

この気配り、やさしさ……。そういえば、かつてこんなことがあった。4年前の師走。松井さんを東京でインタビューした際、終了時間が予定より遅くなった。松井さんは掃除係のご年配の女性を気遣い、大きな花束をさりげなく女性に渡した。「遅くまでお疲れ様です。これ、もらったものですが、よろしければ」

「今後、偉大なお三方の背中を追いかけ」

松井さんは「努力の天才」だった。小学校3年生の頃から、机の前にはこんなコトバが張られていた。〈努力できることが才能である〉。実際、努力を惜しまなかった。中学、高校時代、寝る前の素振りはまず、休んだことがないという。

親の育て方か生来の性格か、冷静さを失うことはほとんど、ない。1992年8月、夏の甲子園大会の明徳義塾(高知)戦で「5打席連続敬遠」をされた時も淡々と一塁に走っていった。オトコが惚れるオトコである。

同年11月のドラフト会議、巨人監督に復帰した長嶋さんから「あたりくじ」を引かれた。巨人で10年間、大リーグで10年間、プレーした。2009年ワールドシリーズでは3本塁打8打点を記録し、日本人初のMVPに輝いた。ヤンキースのあと、エンゼルス、アスレチックス、レイズと渡り歩いた。

松井さんのスピーチは堂々として、素直な人間性に満ちていた。国民栄誉賞のスピーチではこう、言った。

「わたしはこの賞をいただき、大変、大変、光栄でありますが、同じくらいの気持ちで恐縮をしております。わたしは王さんのようにホームランで、衣笠さんのように連続試合出場で、何か世界記録をつくれたわけではありません。長嶋監督の現役時代のように、日本中のファンの方々を熱狂させるほどのプレーができたわけではありません」

松井らしい謙虚なコトバだった。努力の天才はこう、続ける。

「今後、偉大なお三方(王貞治さん、衣笠祥雄さん、長嶋さん)の背中を追いかけ、日本の野球の、そして野球を愛する国民のみなさんの力に少しでもなれるよう努力をしていきたいと思います」

38歳。松井さんは指導者の道を歩む。いずれ巨人かどこかの球団の監督を務めることになるだろう。ひょっとして、大リーグ球団の監督となるかもしれない。
中日新聞 松井秀喜 2013/05/09
エキストライニングズ(4) 素振り一番の思い出
 選手生活に区切りを付けてから初めて帰国した。一年以上日本を離れていたのは初めてで、慌ただしい日々の中にもほっとした気持ちがある。

 東京ドームで恩師の長嶋茂雄監督と共に国民栄誉賞の授与式に臨めたことは感激だった。昨年十二月の記者会見で話したように、選手生活の一番の思い出は監督と取り組んだ素振り。球場で監督と並んで思い出したのは、やはり素振りのことだった。

 プロ野球選手が球を使わない練習に明け暮れるのは、奇異に見えるかもしれない。だが実際に球を打たないからこそ、究極のイメージを求めて振り込める。目指したのはどんな球でも打てるスイング。球がミートポイントに来てから振っても捉えられるような、鋭い振りをイメージした。

 内外角、高低と一球ごとに打つべきポイントを監督がバットのヘッドで示す。そこを狙って僕が振り下ろすと、監督は二本がぶつかる直前に自分のバットを引く。集中力が高まり、別の世界にいるような表情でいつも僕のスイングを見ていた。

 いい振りができたときは、球が当たるはずのポイントでピュッと短い音がする。この音を続けて何度も出せるのが大事で、そうなって初めて練習を終えることができた。監督が指摘する音の違いを判断できるようになったのは、プロ四年目だった。始めたのが二年目だったから、二年かかったことになる。この音が選手生活を通じて自分の打撃を測る基準となった。

 ホテルの部屋、監督の自宅。あらゆる所で毎日バットを振った。休日に人と会っていても連絡があるので気が抜けない。監督がニューヨーク滞在中だった二〇〇三年五月初めも「やるぞ」の一言で僕は家を出た。バット二本を手にして五番街にあるプラザホテルのスイートに向かうのは、さすがにちょっと恥ずかしかった。 (元野球選手)
NHKスポーツオンライン 石田大輔 2013/05/08
松井・長嶋両氏に国民栄誉賞
5月5日、東京ドーム。
松井秀喜氏が恩師である巨人軍・長嶋茂雄終身名誉監督とともに国民栄誉賞を授与された。
77歳の長嶋氏、38歳の松井氏の残した功績の偉大さに、日本の野球ファンは世代を越え、一つになった。
野球が持つ素晴らしさ、その力を改めて感じさせた。
その東京ドームからおよそ1万800キロ、アメリカ、ニューヨーク州ブロンクスにあるヤンキースタジアム。クラブハウスには松井氏の受賞を喜ぶヤンキースナインがいた。

“People’s Honor Award”(国民栄誉賞)

松井氏がヤンキースを離れて4年になるが、ともに戦ったメンバーは今も多く在籍している。
野手ではデレック・ジーターを筆頭にアレックス・ロドリゲス、マーク・テシェアラ、ロビンソン・カノー。
投手ではマリアノ・リベラ、アンディー・ペティット、CCサバシア、監督のジョー・ジラルディも打撃コーチのケビン・ロングもチームメイトだった。
驚いたことに、彼らの中にはすでに松井氏の受賞を知っていた選手もいたが、お互いを「年寄り!」と日本語で呼び合っていた同級生、松井と最も仲の良かったキャプテンことデレック・ジーターは故障者リスト入りで話しを聞ける状況でなかったのは残念でならない。
その中で松井氏がヤンキースに入団した2003年から2009年まで共に戦い、メジャーリーグ歴代1位の619セーブ(現地5月6日現在)を記録するマリアノ・リベラは、誰からも尊敬を受ける人柄を表すように、言葉を丁寧に選びながら松井氏へ最大の敬意を払った。

全ての意味でプロフェッショナルな人間だった

とても印象的な言葉だった。
「マツイは全ての意味でプロフェッショナルな人間だった。プレーはいつも全力、準備は怠らない、真のプロであり、紳士でもあった。マツイを知ることが出来て、彼のプレーを間近で見られることができて本当に良かった。一緒にプレーできたことは自分にとっての誇りと言える。マツイは日本代表としての品格、威厳、意思の強さを兼ね備え、いつも素晴らしかった。国民栄誉賞は日本で最高の賞と聞いた。マツイこそ受賞にふさわしい人間だと思う。これまでの全力プレー、友情、野球に対する真摯な取り組み。すべてにありがとうと言いたい。本当におめでとう」

すばらしいプレーヤーであると同時にすばらしい人間だった

また、2009年のワールシリーズ制覇をエースとして共に戦い抜いたCCサバシアも笑顔で喜んだ。
「マツイおめでとう!あなたはメジャーでプレーした偉大な選手の一人だ。一緒にプレーできたことをうれしく光栄に思うよ。あなたを表現するならば、勝負強い打撃だね。一緒に戦ったワールドシリーズでの打撃は忘れられない。ここぞという場面で必ず期待に応えてくれて打ってくれた。MMVPは当然の受賞だったよ。マツイには引退してからの生活を楽しんで欲しいと思う」
その他、メジャー通算248勝左腕のアンディー・ペティットやブレッド・ガードナーなど多くの選手が賞賛の言葉を送ってくれたが、皆が共通して口にした言葉があった。
「あなたはすばらしいプレーヤーであると同時にすばらしい人間だった」

“People’s Honor Award”
ヤンキースの仲間たちは心から祝福していた。
Number Web 野ボール横丁 2013/05/08
松井秀喜に名将の資質アリ!?仰木彬と重なる「多面性」の魅力。
 松井秀喜は、語る人によってまったく人物像が異なる。

「本質は短気でわがままな男」

 星稜高校時代のチームメイトがそう話していたことがある。

 今のイメージにそぐわないが、そう受け取られる気質を持っていたというのもわからないでもない。

 松井は決して群れない男だ。巨人時代もチームメイトと食事に行ったりすることはほとんどなかった。いわゆる「一匹狼」である。

 先輩などに元気よく「おはようございます!」と言えるようなタイプでもない。そして、何度となく報道されたように遅刻癖もあった。それを「わがまま」と解釈する人がいたとしても不思議ではない。

 しかし巨人時代、シーズンオフに練習パートナーを務めていた元打撃投手の北野明仁はこう言う。

「僕と練習をしているときは一度も遅刻してきたことがなかった。5分ぐらい遅れるにしても、必ず電話があった」

 北野の中にいる松井は誰よりも時間に律儀な男だった。

 松井も自分ひとりのために練習に付き合ってくれる人を待たせるわけにはいかないと思ったのだろう。もう一つは、北野の真面目な性向を考え、それがベストな付き合い方だと判断したのではないか。

松井は話す相手を見て、その内容や雰囲気を変えていた。

 私の個人的な体験でもこんなことがあった。

 取材中、松井が冗談半分に言ったことを、ある記者に軽い冗談のつもりで話した。すると、その年配の記者は「松井はそんなことを言ってたのか!」と怒り始めたのだ。別にその人に対する中傷でも何でもないのに。

 私の中での松井はウィットに富んだ人物で、いかにもそういうことを言いそうな印象があった。だが、その記者に対しては冗談が冗談にならないことがあることを見抜いていたのだろう、そういう面は隠していたのだ。

「多面性」において名将・仰木彬を彷彿とさせる松井。

 松井は相手によって自覚的に自分を使い分けていた。2001年1月7日の日刊スポーツ紙上で松井はこんな風に語っている。

「例えば二面性を持っている人間は悪い人間と扱われることが多いかもしれませんが、人間いろんな部分を持っていていいと思うし、そのケースに合わせて出せるくらい、いろんな自分の引き出しを持っている人間のほうが結構、魅力あると思う。(中略)焼き肉のCM(のコミカルな面)も自分の一部。もちろん、本当の自分自身は持っていないといけませんが」

 こうした多面性は、松井の懐の深さでもあるのだ。

 語る人によってまったく人物像が異なるということで、もうひとり思い出す人物がいる。近鉄、オリックスの2球団を優勝に導いた監督、仰木彬だ。

“放任主義の仰木”と“いつも怒っている仰木”と……。

 阿波野秀幸や野茂英雄、イチローら一流プレーヤーにとって仰木は、うるさいことは何も言わない監督だったという。阿波野が話す。

「怒鳴られたことも、叱られたこともない。打ち込まれても『次、頼むな』ってそれだけ。常に自分の考え方、やり方を尊重してくれるので、ものすごくやりやすかった」

 それに対し、彼らより少しクラスの落ちる選手らは一様に「めちゃくちゃ怖かった」と話すのだ。中継ぎ投手だった池上誠一は思い出す。

「僕は怒られた記憶しかない。オープン戦やったと思うんですけど、初球の真っ直ぐをいきなりホームラン打たれたときなんかは、監督室に呼ばれて、おまえなんか野球やめちまえぐらいの勢いで怒られましたね。まあ、データで真っ直ぐに強いってわかっていたバッターだけに僕が悪いんですけど……」

 仰木も選手によって、もっと言えば球団によって、自分を使い分けていたのだと思う。だからこそ性格の違う2チームを勝たせることができたのだ。実は2球団を優勝させた監督というのはそう多くはない。

 仰木の名将たるゆえんは、そんな「多面性」にあった。

 先日行われた松井の引退式の余波で「松井監督待望論」が急加速しそうな気配だが、そういう意味では、松井も「名将」の才能は十分に秘めていると思うのだ。
スポーツナビ 杉浦大介 2013/05/07
今もなおNYから愛され続ける松井秀喜 世界の首都が再び喝采を送るその日まで
米国で大きく取り上げられなかった国民栄誉賞

 長嶋茂雄氏とともに松井秀喜が国民栄誉賞受賞を果たしたニュースは、アメリカ、ニューヨークでは大きく取り上げられたわけではない。
 現地時間5月4日、AP通信から流れて来た授賞式の記事をESPNニューヨークが流したが、それほど話題にはならなかった。筆者の知る限り、テレビのトークショーなどでも語られていない。元・地元のヒーローとはいえ、引退した外国人選手の陰がやや薄くなるのは当然。加えてアメリカには国民栄誉賞に等しい賞がないだけに、どう解釈して良いか困った面もあったのだろう。

 英訳すると、「People’s Honor Award」。ヤンキース自前のテレビ局であるYesネットワークのウェブは「イギリスにおいて騎士の身分を与えられることに近い」と伝えていたが、いずれにしてもその価値判断は難しかったに違いない。
 もっとも、だからと言って、現役時代に7年間を過ごしたニューヨークの街で松井がすでに忘れられてしまったというわけではない。
「そのニュースは知らなかったけど、秀喜におめでとうと言いたい。ヤンキースが松井秀喜をどう捉えているかはみんな理解しているはずだ。素晴らしい男だし、素晴らしい選手で、ニューヨーク・ヤンキースに在籍中は多くの貢献を果たしてくれた。ヤンキースを代表する存在であり続けてくれた彼をたたえたい。彼はその賞を受け取るに値するよ」
 ヤンキース開幕戦の際、松井の国民栄誉賞受賞を知らされたジョー・ジラルディ監督はそう答えていた。チームの他の人間からコメントが出て来ることはなかったが、チャンスがあれば誰もが似たような言葉を残していただろう。

伝えられる「ヤンキース1日契約」の計画

 国民栄誉賞とはもちろんスケールが違って来るが、現役引退の翌年にあたる今季、ヤンキースは彼らなりの形で松井の労をねぎらう機会を設けようとしている。
 チームは今年からファンに首振り人形を配布する3年計画のキャンペーンをスタートさせるが、初年度のロースターに松井も含まれた。現地時間7月8日のロイヤルズ戦でデレク・ジーター、7月28日のレイズ戦で松井、8月30日のオリオールズ戦ではヨギ・ベラ、9月24日のレイズ戦ではマリアノ・リベラの首振り人形が先着18,000人のファンにプレゼントされる。
 ジーターは言わずと知れたニューヨークの顔であり、リベラは今季限りで引退を表明した不世出のクローザー、そしてベラはユーモラスな言動も親しまれた殿堂入り名捕手。MLBファンには説明不要のこのメンバーの中に松井が含まれたというのは、正直驚きですらあった。

 さらに、日本でもすでに報道された通り、ニューヨークポスト紙は“ヤンキースが松井との1日契約を計画している”と伝えている。この話がまとまれば、松井は1日限定で現役復帰し、ピンストライプのユニホームで引退できる。
 昨年中にはフィリーズの一員として9年で251本塁打を放ったパット・バレル、3年前にはレッドソックスに9年在籍して2度の首位打者に輝いたノマー・ガルシアパーラが古巣と1日契約した例がある。キャリア晩年に移籍の道を歩もうとも、在籍中にフランチャイズで大きな貢献を果たしたと認められたものに与えられるこの特権。それをヤンキースが松井に授与するとなれば、大げさではなく大変な名誉だと言っていい。
 私たち日本メディアはとかく日本選手の活躍や功績をオーバーに捉えがちだが、以前も指摘した通り、盛んに伝えられている松井のニューヨークでの人気は誇張ではない。本当に実現するかは定かではないとはいえ、今回の1日契約が話題になったことでその敬意は再び証明されたと言えよう。引退セレモニーや、あるいはオールドタイマーズデー(OB戦)に松井が参加となれば、感動的なほどの大喝采を浴びることになるだろう。

ゴジラ物語は最高のエピローグへ

「私は王さんのようにホームランで、衣笠さんのように連続試合出場で何か世界記録を作れたわけではありません。長嶋監督の現役時代のように日本中のファンの方々を熱狂させるほどのプレーをできたわけではありません。僕が誇れることは日米の素晴らしいチームでプレーし、素晴らしい指導者の方々、チームメート、そして素晴らしいファンに恵まれたことです」

 国民栄誉賞受賞式でのそんなスピーチを聴けば、ニューヨークのファンも「松井は松井のままだ」と微笑むのではないだろうか。
 ヤンキースでの7年で残した打率2割9分2厘、140本塁打、597打点という数字は上質ではあるが、度肝を抜かれる成績ではない。それよりも、その真摯な人柄と、2009年ワールドシリーズでの大爆発によって、“ゴジラ”はマンハッタンに強烈な印象を残していった。
 故障を負った後に、公に謝罪文を残して地元ファンやメディアを驚かせたこともあった。山あり谷ありのメジャーキャリアの中で、ケガをも乗り越え、契約最終年のワールドシリーズでMVPを獲得したストーリーは、まるで出来過ぎのハリウッド映画のようですらあった。
 そんな松井が、恩師とともに日本で究極の形で表彰されたことを知れば、アメリカで彼に関わったものたちもきっと喜ぶはず。そして、その後にヤンキースタジアムでも別の形の幕引きが行なわれるとなれば、物語のエンドロールに最高のエピローグが加わることにもなる。

 暑い夏を迎える頃、再び“世界の首都”で――。かつて松井に声援を送ったニューヨーカーが、彼をもう一度祝福する機会を得る日を今から楽しみに待ちたいところである。
スポーツナビ 2013/05/05
長嶋氏が肉声披露、松井氏は国民栄誉賞に「身に余る光栄」
 長嶋茂雄・巨人終身名誉監督と、巨人やヤンキースで活躍した松井秀喜氏の国民栄誉賞表彰式、および松井氏の現役引退セレモニーがこどもの日の5日、巨人対広島の試合前に東京ドームで執り行われた。

 国民栄誉賞表彰式に先駆けて行われた引退セレモニーでは、松井氏があいさつに立った。昨年12月28日の引退表明以降、日本のファンの前で話すのは初めて。濃紺のスーツ姿で登場した松井氏は「皆さまからの温かい声援が僕に元気を与えてくれました」と感謝の言葉を口にした。あいさつのあとは長嶋氏とともに特注のオープンカーに乗り、場内を1周しファンの声援に手を振って応えた。

 続いて、「3」「55」と描かれた赤じゅうたんの上で行われた国民栄誉賞表彰式では、安倍晋三内閣総理大臣から表彰状、記念の盾、黄金のバットが贈呈。首相が「おめでとうございます。長嶋さんが演じた数々のメークドラマに、アンチ巨人の私も手に汗を握りながらラジオに耳を傾けていました」と思いがけないカミングアウト込みのあいさつをしたのを受け、長嶋氏は「本当にありがとうございます。松井くんもいっしょにこの賞をいただいたこと、厚く御礼申し上げます」と、ファンの前で力強くスピーチ。これが2004年3月4日に脳梗塞で倒れて以来、球場でファンに向かって披露する初めての肉声だった。
 一方の松井氏は、国民栄誉賞受賞者である王貞治氏、衣笠祥雄氏の名前も挙げ、「偉大なお三方の背中を追いかけ、日本の野球の、野球を愛する国民の皆さまの力に少しでもなれるように努力していきます」と誓った。

 フォトセッション後、「長嶋」コール、「松井」コールに応えるような形で長嶋氏が左手を大きく上げると、超満員の東京ドームからはひときわ大きな歓声。続けて、長嶋氏がバッター、松井氏がピッチャー、そして原辰徳・巨人監督がキャッチャー、安倍首相が球審を務める始球式が行われた。

「4番サード、長嶋茂雄、背番号3」のコールに呼びこまれ、上半身ユニホーム姿の長嶋氏が登場。松井は上下ともに2002年以来となるジャイアンツの55番ユニホームを身にまとってマウンドへ。また、安倍首相は2人から贈呈された第96代内閣総理大臣にちなんだ背番号「96」のユニホームでホームベースへ駆け寄った。
 左手でバットを握って構える長嶋氏に対し、松井が投じたのは山なりの内角高めのボール。これを長嶋氏がよけることなく果敢にフルスイングするも空振り。ボールを打つことができず、長嶋氏はちょっと悔しそうな表情の笑顔を浮かべたものの、国民栄誉賞授与式で実現した夢の“師弟対決”に、場内からはこの日一番の祝福の声と拍手が送られた。

松井氏「またいつかお会いできることを夢見て…」

 以下は引退セレモニーでの松井氏のスピーチ全文。

「ジャイアンツファンの皆さま、お久しぶりです。2002年、ジャイアンツが日本一を勝ち取った直後、ジャイアンツに、そしてファンの皆さまにお別れをお伝えしなければならなかった時、もう二度とここに戻ることは許されないと思っていました。しかし、今日、東京ドームのグラウンドに立たせていただいていることに、いま感激で胸がいっぱいです。

 1992年のドラフト会議で私をジャイアンツに導いてくださったのは長嶋監督でした。王さんのように1シーズンで55本打てるようなバッターを目指せと背番号『55』をいただきました。将来は立派にジャイアンツの4番を務めないといけないと思い、日々、努力をしてきたつもりです。ジャイアンツの4番を任せていただけるようになり、誇りと責任をもって毎日プレーしました。ただ、その過程にはいつも長嶋監督の指導がありました。毎日、毎日、二人きりで練習に付き合っていただき、ジャイアンツの4番バッターに必要な心と技術を教えていただきました。また、その日々がその後の10年間、アメリカでプレーした私を大きく支えてくれました。そのご恩は生涯忘れることはありません。

 今日、ファンの皆さまに久しぶりにお会いしたのにも関わらず、再びお別れのあいさつとなってしまい、もう一度プレーする姿をお見せできないのは残念ですが、これからも僕の心の中には常にジャイアンツが存在し続けます。どういう形か分かりませんが、またいつか皆さまにお会いできることを夢見て、また新たに出発したいと思います。

 ジャイアンツでプレーした10年間、そしてアメリカでプレーした10年間、いつもいつも皆さまからの温かい声援が僕に元気を与えてくれました。ファンの皆さま、長い間、本当に本当にありがとうございました」

長嶋氏が生スピーチ「本当にありがとうございます」

 以下は国民栄誉賞表彰式での長嶋氏のスピーチ全文。

「国民栄誉賞をいただきまして、本当にありがとうございます。松井くんもいっしょにこの賞をいただいたこと、厚く御礼申し上げます。ファンの皆さま、本当にありがとうございました。よろしくお願いします」

松井氏「光栄ではありますが、同じくらい恐縮」

 以下は国民栄誉賞表彰式での松井氏のスピーチ全文。

「私はこの賞をいただき、大変大変光栄ではありますが、同じくらいの気持ちで恐縮しています。

 私は王さんのようにホームランで、衣笠さんのように連続試合出場で何か世界記録をつくれたわけではありません。長嶋監督の現役時代のように日本中のファンの方々を熱狂させるほどのプレーをできたわけではありません。僕が誇れることは日米のすばらしいチームでプレーし、すばらしい指導者の方々、チームメート、そしてすばらしいファンに恵まれたことです。

 今後、偉大なお3方の背中を追いかけ、日本の野球の、野球を愛する国民の皆さまの力に少しでもなれるように努力していきます。このたびは身に余る光栄ではありますが、私を支えてくださったファンの皆さま、そして野球で関わったすべての方々に感謝申し上げます」
web Sportiva 2013/05/05
長嶋茂雄、松井秀喜。語録で振り返る「師弟20年」
 昨年末、現役引退を発表した松井だが、彼のプロ生活はまさに長嶋氏とともに歩んだ20年だったと言っても過言ではない。長嶋茂雄と松井秀喜――今回、国民栄誉賞を受賞したふたりの20年をあらためて振り返ってみたい。

 夏の甲子園で5打席連続敬遠されるなど、高校球界屈指のスラッガーとして注目を集めていた石川・星稜高校の松井秀喜。その松井がドラフトを迎えた1992年秋、時を同じくして長嶋茂雄が12年ぶりに巨人の監督に復帰した。当初、巨人は阪神を熱望している松井を避け、伊藤智仁(元ヤクルト)を1位で指名するつもりだったが、長嶋監督の「(松井を)1位で指名しないどうする」のひと言で松井の1位指名が確定した。

 運命のドラフト当日――巨人をはじめ、阪神、中日、ダイエー(現ソフトバンク)の4球団が松井を1位で指名し、抽選の結果、松井を引き当てたのは長嶋監督だった。ドラフト後、長嶋監督は開口一番こう語った。

「振りのシャープさ、遠くへ飛ばす能力。まさに10年にひとりの素材ですよ。大事に育ててみたい」

 一方の松井は、「そりゃあ、阪神ファンですからね。(昔は)巨人は憎いと思っていました。でも、長嶋さんが巨人の監督になられてからその気持ちは変わりました。これまでは阪神でやりたいと思っていましたが、その気持ちも徐々になくなっていくと思います」と、事実上、巨人入りを表明した。また、長嶋監督から直接電話をもらった松井は、「テレビのままの声でした。嬉しかったです」と、憧れの人に会える日を心待ちにしていた。

 初対面を果たしたのは92年12月25日、入団発表の席だった。長嶋監督の「必ず巨人の中心選手になってくれるはず。ファンのためにも早くレギュラーを獲得してほしい」というエールに、松井は「ファンや子どもたちに夢を与えるプレイヤーになれるよう一生懸命頑張ります」と力強く語った。

 プロ1年目のキャンプ、豪快な当たりを連発していた松井だったが、オープン戦は53打数5安打、0本塁打とプロの壁にぶち当たった。長嶋監督は「練習しなきゃ、いい選手にはなれないぞ」と、松井の二軍スタートを決めた。

 その言葉に応えるように、松井は二軍で48打数18安打、4本塁打と打ちまくり、5月1日に一軍昇格を果たすと、翌2日のヤクルト戦、1-4とリードされた9回二死一塁で高津臣吾からプロ初本塁打を記録した。松井は「打っちゃった」と素っ気なかったが、長嶋監督は「最高の当たりでしたね。また、明日以降の楽しみが増えました」と手放しで喜んだ。

 松井を巨人の4番、球界の4番に育てたい――長嶋監督が打ち出したのが、「4番1000日計画」だった。それから長嶋監督と松井によるマンツーマンの素振りチェックが始まる。ホームゲームではミーティングルームや監督室で行ない、遠征の時はホテルの一室に呼んで行なった。また、長嶋監督の自宅に呼ぶこともあったという。

 そして1995年8月24日の横浜戦、長嶋監督が「もう大丈夫ですよ。これからです」と、ついに松井を4番で起用した。松井は、「単に4番目を打つだけ。アルバイトみたいなものですよ」と淡々と語ったが、数字が4番としての責任感を物語っていた。

 翌96年、自身初の3割をマークすると、98年には34本塁打、100打点で二冠王に輝いた。だが、4番として成長していく松井に、長嶋監督はあえて厳しい言葉を浴びせた。

「本塁打王を獲ったといっても、34本は少ない。素質は素晴らしいのだから、ちょっと活躍したからといって満足するような選手になってほしくない。頑張れば、歴史に残る選手になれるのだから」

 その言葉を受けた松井は、「僕は一発を狙うことで、打点も打率も上がっていくと考えています。ホームランがすべての数字を変えていける」と、さらなる飛躍を誓った。

 00年には42本塁打、108打点で再び二冠王を獲得。何度も「まだまだ未熟」と語っていた長嶋監督も、「松井に一発が出ると、チームがグッと乗る。松井のホームランにはそういう意味がある。もう巨人の主力打者ではなく、日本球界の主力打者」と最大級のエールを送った。

 しかし翌年、長嶋監督はこの年限りでの勇退を発表。そして東京ドームでの最終戦。いつものように松井の素振りを見ていた長嶋監督が、「松井、これからの日本プロ野球はお前の時代だ。頑張るんだぞ」と声を掛けると、松井は「今まで本当にありがとうございました」と、涙が溢れて止まらなかった。

 02年シーズン、初の50本塁打を放った松井は、オフにFA権を行使してニューヨーク・ヤンキースと3年契約を結んだ。ヤンキース移籍を決断する前、松井は長嶋氏に「アメリカでプレイしたいという気持ちを消し去ることができません」と連絡を入れ、何度も「もう決めたのか? 決意は変わらないのか?」と聞かれたという。それでも松井の決意は揺るがず、「もう決めました」ときっぱり。長嶋氏も「そうか、わかった。メジャーリーグでも頑張れ」と激励した。その後のメジャー移籍会見で、松井は次のように語った。

「最後の最後まで悩んで苦しかった。何を言っても裏切り者と言われるかもしれないが、いつか『松井、行ってよかったな』と言われるよう頑張りたい。決断した以上、命を懸ける」

 03年3月31日の開幕戦に5番・レフトでメジャーデビューを果たした松井は、初打席でレフト前にタイムリーを放ち、初安打、初打点を記録。そして本拠地(ヤンキー・スタジアム)デビュー戦となった4月8日のツインズ戦では、5回にメジャー第1号となる満塁本塁打を放ち、ファンの度肝を抜いた。「これまでのホームランとは違いますよ」という松井に、長嶋氏も「打ったね、待望のホームランを。ホームグラウンドで打ててよかった。これで自信を持って、自分のバッティングができるだろう」と愛弟子の快挙に目を細めた。

 メジャー移籍後も、長嶋氏と松井の師弟関係は続いていた。ある時などは、国際電話越しに、松井に素振りをさせ、スイングの音を聞いてアドバイスを送ったという。

 そしてハイライトは09年、フィラデルフィア・フィリーズとのワールドシリーズだ。このシリーズで松井は、13打数8安打、3本塁打、8打点の活躍で世界一に貢献。日本人として初めてMVPに輝いた。テレビで観戦していた長嶋氏は「MVPに選ばれた松井選手の笑顔を見て、涙が出るほど嬉しさがこみ上げてきました。(ケガなど)不安を抱えながらのスタートでしたが、最高の形で報われましたね」と自分のことのように喜んだという。一方の松井も、「MVPは予想もしなかった。世界一のおまけみたいなもの」と、驚きを隠さなかった。

 その後、ロサンゼルス・エンゼルス、オークランド・アスレチックス、タンパベイ・レイズでプレイした松井だったが、長嶋氏が常々口にしていた「いつかメジャーで本塁打王か打点王のタイトルを獲ってもらいたい」の願いは最後までかなえられなかった。そして12年12月28日、ついに引退を決意した。会見で「20年間で最も印象に残っている場面は?」と聞かれた松井は、こう答えた。

「いろいろありますが……やっぱり長嶋監督とふたりで素振りをしていた時間ですかね」

 それを聞いた長嶋氏は、「これまではあえて称賛することを控えてきたつもりだったが、ユニフォームを脱いだ今は、最高のホームランバッターだった」の言葉を贈った。

 長嶋監督の期待と愛情を一身に受けていた松井。つきっきりで素振りに付き合ってくれた長嶋監督に、国民栄誉賞受賞という最高の形で恩返しを果たした。ふたりの師弟関係は、まさしく「永久に不滅」である。
スポーツナビ ベースボール・タイムズ 2013/05/03
高橋由・清水が語る松井秀喜“強さ”の秘密
 2013年5月5日、東京ドームで長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督と昨年限りで現役を引退した松井秀喜の国民栄誉賞の授与式、および松井氏の現役引退セレモニーが実施される。
 この歴史的行事を前に、日米通算20年の現役生活に別れを告げ、自らの恩師とともに38歳で国民栄誉賞を受賞する“ゴジラ”の魅力を、松井の巨人時代を知る高橋由伸、清水隆行という旧友2人の視点から改めて探り、その足跡を振り返りたい。

高橋由「とにかく“強い”選手」

「デカかったですね。とても1つ上の年齢には見えなかった」
 プロ入り後に初めて“ゴジラ”と顔を合わせた時のことを、高橋由伸は笑いながら振り返った。
 学年は松井よりも1つ下。高校時代に直接対戦したことはなかったが、「甲子園でのホームランも5打席連続敬遠もテレビで見ていましたよ」と高橋は当然のように話す。さらに「開会式の時は同じ空間にいて、当時から一人だけ有名でしたから、『あぁ、あれが松井かぁ』って思いながら見ていましたね」と懐かしむ。

 その松井が星稜高からドラフト1位で巨人入りしてから遅れること5年、高橋は慶大から巨人に入団した。その時、すでに松井はプロ5年間で通算128本塁打をマーク。96年に38本塁打、翌97年にも37本塁打を放つなど、球界を代表するスラッガーの地位を完全に確立していた。
「ひとことで言うと“強い”ですね。精神的にも肉体的にも、とにかく強い選手だった。バッティングでは、とにかく遠くに飛ばす力がすごかった。それが良い時でも悪い時でも変わらない。メンタル面も技術面もなかなか崩れない。そういう強さを持った選手でしたね」

 その後、『3番・高橋由伸、4番・松井秀喜、5番・清原和博』と最強のクリーンアップを形成。エース・上原浩治の働きもあって、巨人は00年、02年と2度の日本一を達成。高橋は、“ゴジラ”の存在感を背中で感じながら5年の時を過ごした。
「当時は個性派がそろっていましたからね。(松井が)真面目か? と言われれば、そうではないです。どっちかと言えば真面目かな? というぐらいですよ(笑)。普段は野球の話はあんまりしなかったかな。ライバルだとは思っていなかったですし、それよりも後ろに松井さんがいたから僕は伸び伸びと自由に打てていたのかなと思う。相手投手からしたら、どっちかと言ったら僕と勝負した方が良いわけですからね」

「引退することが一番想像つかなかった」

 02年のオフ、松井は大リーグ・ヤンキースへの移籍を決断するが、「正直、『まさか!?』という感じに近かった。『ホントかよ!?』って思った」と高橋は言う。それから数日後、高橋の携帯電話が鳴る。メジャー挑戦への意気込みかと思いきや、松井が2年間務めた選手会長の引き継ぎの連絡だったと高橋は笑って振り返る。無理に感傷的になることはなかった。その後、松井から受け継いだ選手会長を5年間も務めた高橋は、メジャーリーガーとなった“GODZILLA”の姿を他の日本人と同じようにテレビ画面を通して追いかけた。
「何か変な感じだった。『あれ?これって一緒にやっていた人なのかな?』とは思いましたね。向こうに行ってからは、連絡は年に1回するかしないか。『日本に帰ったらご飯でも』って約束はするんですけど、実際は忙しくて『また今度』ってことが多かったですね。メジャーリーガーになったから変わったってところは特になかったと思いますよ」

 そして昨年12月、松井はメジャーでの10年間の現役生活を終え、日米通算20年に渡るプロ野球人生からの引退を発表した。38歳という年齢を考えれば、致し方ない面はあるだろう。だが、まだ実感が沸かない。高橋はまだ、信じられない。
「けがもあったし、年齢を考えれば引退というのが自然な流れなんでしょうけど、それでも想像できなかったですね。引退することが一番想像つかなかった選手。まだまだやれるとかそういうのではなくて、『あぁ、松井秀喜も引退するんだ……』という感じ。野球選手としての松井秀喜しか想像つかないんですよ」

清水「とにかく“マイペース”だった」

「まず体が大きいなと思いました。あとは雰囲気。初めて会った時から他の選手とは違う雰囲気を感じましたね」
 2位に11ゲーム差を付ける独走でペナントレースを制し、日本シリーズでも西武を4連勝で撃破した02年の巨人を“最強”と呼ぶ声は、今なお強い。その最強打線の1番打者を務めたのが、同年最多安打のタイトルを獲得した清水隆行だった。入団は松井の方が早かったが、年齢は1つ上。現在、巨人の2軍打撃コーチを務める男が“ゴジラ”との思い出を、考え込むようにして振り返った。
「打席の中だけじゃなくて、野球から離れてもすごく落ち着いていた。決して堅苦しいというわけじゃなくて、すべてにおいて冷静に考えている感じでしたね。普段は冗談とかも言いますけど、とにかくマイペース。本人の中ではいろいろと悩みがあったかも知れないですけど、そういうものを決して表には出さなかった。決して周囲に悟らせることはなく、常に同じテンションでプレーしていましたね」

 02年、プロ10年目を迎えた松井は、7月に通算300号本塁打を達成すると、後半戦の64試合で32本塁打という驚異的なペースでアーチを量産し、史上8人目、巨人では王貞治以来25年ぶりのシーズン50本塁打を達成。打率3割3分4厘は惜しくもリーグ2位となったが、本塁打王に加えて107打点で打点王も獲得。シーズンMVPにも輝いた。
「特に02年の松井はすごかった。僕から見ても、まともに抑えられる投手がいなくなっちゃったんじゃないかと思うくらい圧倒的だった。周りがどう評価しているかは分からないですけど、一緒にプレーさせてもらった一人としては、02年のチームが最強だったと思いたいですね(笑)。楽しくといったら語弊があるかも知れないですけど、すごく良い雰囲気の中で一緒にプレーさせてもらった。そして4番・松井を中心にして日本一になれた。何よりもその事実が、一番の思い出ですね」

背番号「55」に感じた強さと信頼感

 誰よりもストイックに、松井は自らのバッティングを磨き続けた。そして『55』が記されたその背中で、チームを力強く引っ張った。
「練習でも試合でも、それにどう取り組むべきかをすごく考えていた。ただ打った、打てなかったという所で終わらずに、どういう考えで、どういう練習をして、そしてどういう気持ちで打席に立つべきか。松井の普段の姿勢から、僕もそういうものを学びましたね」
 チームメートからの信頼は絶大だった。高橋と同じく、清水もやはり、松井の持つ“強さ”を訴える。
「本当は彼にばっかり頼ってはいけないんですけど、『松井だったら何とかしてくれる』という期待感があった。そう思っていたのは僕だけじゃないはずです。技術的なものだけじゃなくて試合に出続ける体の強さもあった。あれだけ注目されて重圧がかかる中でも常に結果を残し続けるメンタルの強さも感じましたね」

 日本球界でまさに敵なしの状態となった松井は、ついに海を渡った。そして勝負強い打撃でヤンキースの4番を務めるなど実績を重ね、09年のワールドシリーズでは13打数8安打3本塁打8打点の大爆発で見事にMVPに輝いた。
「ヤンキースで4番まで打って、ワールドシリーズでも活躍するわけですからね。松井という選手は本当にすごかったんだなというのを改めて感じさせられました。引退を聞いた時は寂しさというものはありましたけど、彼らしくて良かったと思います。自分で引き際を決められる特別な選手なわけですし、本人が自分で決断したことですから、それが最良の選択だったと思います」

元チームメートも喜ぶ国民栄誉賞

 高橋は5年、そして清水は7年間を松井とともに同じチームで過ごした。楽しそうに“ゴジラ”との思い出を振り返る2人を前に、日米間の距離、時間的な空白などは無関係ないのだと知らされる。
「松井さんは身近な先輩。一緒に戦った人がそういう賞をもらうというのは、なんか不思議な感じですね。僕からこの言葉が適切かどうかは分からないですけど、おめでとうございます」
 松井の国民栄誉賞受賞に対し、高橋は言葉を選びながら丁寧に祝辞を述べた。清水も続く。
「彼がこれまでに残してきたものが積み重なって、こういう賞になったと思いますし、本当に素晴らしいことだと思います。一緒にプレーした選手が国民栄誉賞をもらうというのは喜ばしいことですね」

 まだ38歳。国民栄誉賞の受賞は時期尚早という声があるのも確かだが、松井はそれすらも「今後、何十年かけて、賞をいただいて失礼ではなかったと証明できるよう努力したい」と真正面から受け取った。その真っすぐな“強さ”こそが、松井の魅力なのだろう。旧友2人とともに、5日の東京ドームを楽しみに待ちたい。
セコム株式会社 おとなの安心倶楽部 月刊 長嶋茂雄 2013/05/01
国民栄誉賞受賞の喜びと感謝、そして松井のこと
 私事になりますが、国民栄誉賞の受賞はうれしかった。国からお誉めいただいたのは「文化功労者」(2005年)がありますが、こちらは背筋を正して「謹んでお受けいたします」。今度は「ありがとうございます。うれしいなあ」です。たちまち部屋は送られてきた花でいっぱいになって花屋の店先のよう、ちょうど玄関先のサクラも満開で、我が周囲はいっきょに華やぎました。
 うれしさがさらにふくらんだのが松井(本当は松井秀喜さんと言うべきですが、ここは普段着で、松井で行きます)とセット、ではなかった、一緒に受賞できたこと。それから、授賞式が首相官邸ではなく、松井の引退式と重ねて東京ドームのファンの前でやってもらえることです。
 ファンを喜ばせるプレーを信条に、また、ファンに支えられてきた野球人としては、球場が舞台になったのは最高です、そこに立つだけでファンへのお礼になりますから。
 二人同時受賞も“職場”での授賞式も過去になかったはず。こんなユニークさも私の好むところです。

松井は私の野球に対する考え方の継承者

 松井受賞でまず思ったのは、「ヤンキースでも良くやったからな」ということです。大リーグで最も質の高いプレーを要求され、最も厳しい眼を光らせるメディアとファンに囲まれたチームで、チームの勝利第一の姿勢と誠実なプレー態度を貫きました。
 ワールドシリーズのMVPが金字塔ですが、今後この賞を獲得する日本人選手は出現しないのではないでしょうか。巨人での働きと合わせて、受賞は文句なしだと感じています。
 ただし、うれしさの中身にはそういった成績とは別の感慨もありました。私は松井を私の野球に対する考え方の継承者と思っていたからです。
 たとえば、大リーグ行きを決めてそれを私に伝えに来た時の顔つきです。話さないうちから「行きます」、「行かせてください」との複雑な思いがなんとも言えない表情に出ていました。このときの顔は、記者会見での「日本ファンからは裏切り者と言われるかもしれませんが・・・」に続きました。
 フリーエージェント(FA)ですから、大リーグ行きはだれにも遠慮はいらないのです。それなのに、本当にすまないと思っているのです。またそれはヤンキースで左手首を骨折した時に「迷惑をかけて申し訳ない」と“謝罪”して地元メディアを驚かせ、ファンを感動させたときの顔にもつながります。
 根っからの謙虚さもあるでしょうが、野球人として、ファンを最上位に置いているのが分かります。「ファンに喜んでもらえるプレー」一筋の私の信条と重なるのです。ですから一緒の受賞がたまりません。
 松井は折にふれて「監督(私のことです)が好きなジョー・ディマジオは“私はこの試合だけしか観に来られないファンを思ってプレーしている”と自分の全力プレーの意味を語ったと言いますが・・・」と“PR”してくれます。松井自身の気持ちも込められているのを感じますね。

ファンの皆さんと一緒に賞をいただく気持ちで

 松井の受賞談話で、最高の思い出は私と1対1の素振り、とも言ってくれました。偶然ですが、このバットの空気を切る音で判断し、正しいスイングを身につける素振りについては3カ月前のこのページでお話ししました。松井はさらに、ある選手が私にバッティングの相談の電話をしたら、「電話の前でバットを振って、音を聞かせろ」といわれた、と書いているそうです。読んだ人が、「本当ですか?」と言う。分かっていませんね。
 松井の素振りに付き合う私は、時に目をつぶってスイングの音だけを聞いていました。自分の選手時代の素振りでも部屋を暗くしてスイング音だけに集中して振り続けたこともあります。受話器のマイクがスイング音を拾えれば、振りの良し悪しの判断は可能なのです。それは松井も承知のはずです。
 と、まあ、この種の話には気合が入ってしまいます。授賞式には何やら趣向があるような気配ですが、それは当日のこと。グラウンド上に起こるすべてに対応するのが野球人ですから、「なんでもこい」と弾みます。
 ファンの皆さんと一緒に賞をいただく気持ちで松井と並んでグラウンドに立とうと心の準備をしています。