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Columnコラム

ビビる大木の業界おじゃまみ~す☆<裏話たっぷり!?なWeb版>
エンタ界【ハローワーク】シリーズ
2013/06/29
スポーツジャーナリスト編 【後編】
松井秀喜とジーターが別格だと思う理由

ビビる大木(以下、ビ):毎試合ごとに取材に応じているんですよね、松井選手は。

古内義明(以下、古):はい。もうほんとにその部分は野球選手の鏡ですね。これまで50人くらい日本人がメジャーに行きましたけど、毎試合取材に応じたのは松井君だけですね。

ビ:あぁ、そうなんですか。すごいですね。ほかの選手は、試合が終わったあと「俺、今日は取材受けないよ」って帰っちゃうこともあるんですか?

古:別に毎日取材を受けなきゃいけないって、決まっているわけではないんです。僕ら、試合終了後10分経ってからロッカールームに入れるんですけど、その10分の間にさっさと帰ってしまう人もいますよ。

ビ:あ、今日は話を聞かれたくないってときはさっさと帰るんですね。やっぱり自分がミスして負けた日なんかは取材されるの嫌ですもんね。

古:あぁ、それで言うと、やっぱりジーターがすごいんですよ。

ビ:ジーター! ヤンキースのキャプテンですね。

古:ジーターは負けた試合のあとは、必ず取材を受けるんです。20人くらいに取り囲まれて、最後のひとりの質問が終わるまで絶対に動きませんから。

ビ:へぇ!

古:キャプテンとしての責任感でしょうね。

ビ:さすがですねぇ。

古:でも逆に自分が打って勝った日なんかは、さーっと帰っちゃうんです。で、あるとき聞いたんですよ。「なんで負けた日は丁寧に取材に応じるのに、自分が活躍した日は帰っちゃうの?」って。そしたら「今日は僕以外にも活躍した人がいるから、そっちに脚光を当ててくれ」って言うんですよ。

ビ:カーッ。なかなか言えないですね、それは。ダメな日は自分で責任を果たして、よかった日は人に譲るんですね。

古:25人で頑張っているんで、みんなのことを書いてほしいって、そういうことをサラッと言うんですよね。こういうキャプテンがいるチームはやっぱり強いだろうなって思いますよね。

ビ:うんうん。そうなんですね、やっぱり。

古:だから松井君とジーターが仲良しだったというのは、よく分かりますよね。

ビ:人格者どうしですね。あのふたりも同じ年なんですよね。僕の生まれた74年。

古:そうですねー。

ビ:74年生まれ、すごいなぁ。あと華原朋美ちゃんも同じ年で(笑)、応援しています。

記者も選手も堂々と向き合うのがアメリカ流

ビ:たとえばイチロー選手なんかは、ときには取材を受けないこともあるわけですか。

古:イチロー選手の場合は、代表質問でやっていた時期もありました。おそらくイチロー選手は、「自分に質問するなら、最低限の勉強をしてきてほしい。そしてレベルの高い話がしたい」という考えなんだと思います。それはそれでプロフェッショナルですよね。

ビ:なるほど。

古:でも松井選手は、それこそ東京スポーツ、日刊スポーツから日経新聞まで、野球に詳しかろうがなんだろうが、話を聞きたいメディアは全部来てくれ、というスタンス。

ビ:ははぁ。だからスポーツ新聞に下ネタも書かれるわけですね(笑)。

古:そうそう(笑)。「新聞記者だって家族がいて、記事を書くことで、ご飯を食べている」と、松井選手はそういう風に考えるタイプなんです。

ビ:そこまで考える野球選手は滅多にいないでしょうねー。

古:そうですね。いろんな選手に会ってきましたけど、ああいう人はなかなかいないですね。

ビ:そうやって、選手ごとの取材に対する考え方を見てきているのも古内さんの武器ですね。なんてコメントしたかっていうことだけじゃなく、人間性みたいなものにも触れているわけですからね。

古:あぁ、そうかもしれないですね。とにかく50人の日本人メジャーリーガーがいたら、50通りです。その多様性は面白いですね。松井選手の登場以降、「ちゃんと取材は受けなきゃいけないんだな」と考えるようになった日本人選手も多いでしょうね。そういう意味でも、松井選手のメジャー移籍は大きかったと思います。

ビ:なるほど。アメリカの場合は、記者のほうも書いていいことと、いけないことの線引きがちゃんとわかっているってことですか。

古:それはありますね。ロッカールームに入れるってことは、どこのブランドの服を着ているのか、携帯電話の機種は何か、パンツの色まで、ぜんぶわかっちゃいますからね。それを記事に書いちゃったら、やっぱりダメですよね。職業に対する倫理観はもちろん、選手との信頼関係が崩れます。

ビ:うーん。いろいろ知るからこそ、どこまで書いたらいいか判断しなくちゃいけないわけですね。

古:はい。アメリカは全部オープンにしている分、こそこそとプライベートを追いかける記者は少ない。もちろんパパラッチみたいな存在やタブロイド紙はありますけど。

ビ:堂々と取材に応じていれば、プライベートを暴かれるようなことはない、と。

古:そうですね。だから丁寧に取材に応じるジーターは、変にマスコミが嗅ぎ回るってことはほとんどなかったと思いますよ。

選手の素晴らしさを自分の言葉で伝える醍醐味!

古:ニューヨークって狭い街なんですよ。マンハッタンなんて世田谷区くらいの面積しかない。そのなかで選手が行くレストランや日本人がよく行く場所は限られているんで、プライベートでもけっこういろんな人に会っちゃうんですよ。

ビ:あぁ、そうなんですか。

古:MBAのスター選手とかヤンキースの選手とか、よく見かけます。でも一般のお客さんたちも、スターのプライベートをリスペクトしているから、お行儀よく接していますね。

ビ:隠れて写メ撮る、なんてことはしないんですか?

古:あぁ、ないですね。ひとりの人間として尊重しています。様子を見ながら「サインをいただけますか」って声をかけてくる場合はありますけど。松井選手なんかは、そういう人たちにもほんとに丁寧に対応しますよ。「紙ナプキンにサインしてくれ」なんて言われてもきちんと書いてあげる。日本食レストランで「割り箸の袋にお願いします」ってのもあったなぁ。あれ、絶対あとで捨てちゃうだろうと思ったけど(笑)。

ビ:まぁ、レストランに行く時に色紙なんて持ってないですもんねー。古内さんは松井選手と何度も食事をしているわけですよね。

古:はい。

ビ:そうすると、当然、野球以外の話も出るわけですよね。それを記事にしたくなっちゃうってことはないんですか?

古:それは書きませんね。選手のオンとオフを察してあげないといけませんね。でも松井選手は一度たりとも人の悪口を言ったことはないですね。審判に対する批判なんかも一切しないです。

ビ:あぁ、やっぱりそうなんですか。

古:あくまで自分を殺して、相手を立てる。あそこまで謙遜して生きている人は日本にもいないでしょうね。ましてニューヨークは他人を蹴落として生きていく街だから、ああいう人間はこれまでいなかったと思います。これまでは「俺はすごいんだぞ。何億円稼いでいるんだぞ」って態度が普通でしたから。

ビ:じゃあ、みんな松井選手の謙虚さに驚いたでしょうね。

古:そうですね。骨折して「チームの力になれずに、申し訳ない。」なんて言う選手はいませんからね。

ビ:いやぁ、すごいですねぇ。そして、そのすごさを伝えるという古内さんの仕事も素晴らしいですね。

古:はい。それこそが、この職業の一番いいところだと思います。歴史の証人として、素晴らしい選手をそばで見て、それを自分なりの言葉で人に伝えることができるっていうのは最高ですね。

松井選手は草野球でも全力投球だった

ビ:選手から「あの記事読んだよ」なんて声をかけられることもあるんですか。

古:ま、選手は忙しいですから、書かれた記事を逐一気にしてはいませんけどね。逆に言ったら、気にしているような選手はダメですね。

ビ:はぁ、そうか。

古:やっぱりスター選手は、小さいことにはこだわらない大らかな人が多いですね。松井君とは草野球もやってましたけど、ワールドシリーズだろうが、草野球だろうが、一生懸命さは同じなんですよ。

ビ:え? 松井選手はニューヨークで草野球やってたんですか?

古:やってました。僕らマスコミの人間とチームを作って。松井選手本人がメーカーに発注してユニフォームも作ってましたよ(笑)。

ビ:ハハハ、マメなんですねぇ、松井選手は。

古:ほんとに野球が大好きなんですよね。

ビ:引退会見のときも「引退と言っても、まだ草野球の予定はあるし」って言ってましたもんね。

古:そうそう。彼は草野球チームでは4番ピッチャーなんですけど、シーズン中から通訳を座らせて投球練習してましたもん(笑)。「膝は痛いけど、肩は絶好調だ」なんて言って。

ビ:ハハハハ。

古:でもメジャー6年目からはほんとに膝が悪くなってしまったんで、やめてましたけど。

ビ:ニューヨークで草野球って、どこでやるんですか?

古:イーストリバーの河川敷とか…。通りすがりの人が「あれ? 松井選手じゃない?」って寄ってきますよ。

ビ:そうなんですか。

古:だいたい15時集合とかね、松井選手に合わせて遅めスタートなんですけど。

ビ:いいですねぇ。松井番の記者っていうのは、ほとんどが野球経験者なんですか?

古:いや、そんなことないですよ。下手な人もいるけど、一緒にやっちゃうんです。松井君のボールを打てるだけで幸せですからね、みんな大騒ぎですよ。

ビ:いやぁ、いい話だなぁ。

「野球が好き」という気持ちは選手にも負けない!

ビ:松井選手は辞めましたけど、これからも書き続けていきますか。

古:そうですね。書く以外にも、テレビやラジオなどいろんな形でメジャーリーグの魅力を伝えていきたいですね。もともと日本人選手が行く前から好きだったので。

ビ:やっぱり「もともと好きだった」というのが最大の原動力ですね。

古:はい。僕は小さい頃からプロ野球選手になりたいと思ってましたけど、その夢は叶わなかった。でも野球が好きだから、どうにかしてその世界に関わっていきたいという思いは強かったですね。だから、「野球が好き」という気持ちはメジャーの選手にだって負けない、と自負しています。

ビ:うーん、そこですよね、すごいのは。

古:そのくらいじゃないとメジャーの選手と会話しても楽しくないですもんね。こちらも聞きたいけど、向こうも僕にいろいろな情報を求めてくる。そのへんは「ギブアンドテイク」じゃないと成立しないと思っています。

ビ:選手のほうから古内さんに聞いてくるって、どんなことですか。

古:たとえば「あの球場は風が強い」とかね。

ビ:あぁ、日本から来たばっかりの選手はメジャーの球場について知らないですもんね。

古:だから、最初はありとあらゆることを教えてあげますよ。「あそこのレストランは、店長さんに電話しておけば遅くなっても開けて待っててくれるよ」とかね(笑)。

ビ:なるほど。そういう関係を築いておいて、いざっていうときに情報がもらえるわけですね。この人なら話してもいいなって思ってもらえる存在でいるってことですね。

古:そうそう。だからロッカールームに入ったときも、ちゃんと挨拶しておかないとね。いつ何時、その選手のコメントが必要になるか分からないですからね。

ビ:なるほどねぇ。ペンを握っているときだけが仕事じゃないんですね、ジャーナリストは。

古:試合前の何気ない会話が大事だったりしますからね。「あれ? あそこで何を話しているんだろ?」って気になったらバーッと近づいていって話を聞かないといけませんから。

ビ:ははぁ。気が抜けないですね。

古:試合前に何球投げたとか柵越え何本とか、そういう細かい情報も日本人は好きですからね(笑)。

ビ:好きですねぇ。知りたいですもん。

古:アメリカ人からしたら「練習で何本柵越えしようが関係ないじゃん」って感じなんですけどね。日本の読者は「何時に球場入り」なんてところから知りたがりますからね。日本の新聞記者たちは大変ですよ。デスクからも「なんでもいいから情報をとってこい」ってハッパをかけられてますから。

ビ:そうなんですね。

古:一度、若い日本人記者のノートを覗き込んだら「松井選手、モミアゲ長い」って書いてありましたもん(笑)。

ビ:アッハッハッハ! そこまで観察してましたか。

最初は小さい仕事から、でも決して手を抜かないこと

ビ:そうすると、スポーツジャーナリストになりたい人にとっては、「スポーツが好き」というのがまず基本ですね。

古:はい。それが大前提でしょうね。

ビ:そのうえで、どうやってプロの階段をのぼっていくか。たとえば「自分でこういう記事を書いてみました」って持って行くのもアリですか?

古:いいと思いますよ。アメリカだとそうやってキャリアをスタートさせる人も多いですから。そういうときに、「この選手のことだったら、誰よりも知っています」という武器があればいいかもしれないですね。

ビ:なるほど。何も実績がない人は「何が書けるの?」って必ず聞かれますもんね。そのときに「この人のことだったら書けます!」って言えるものがあれば使ってもらえるかもしれないと。

古:そうなんです。スクープのネタを持っているとか、ヤンキースのことだったら日本人のなかで誰よりも詳しいです、とかね。そういうのがあると「おっ」って思ってもらえるかもしれないですね。

ビ:それを持って、自分で出版社に売り込みにいけばいいわけですか。

古:はい。営業力も大事ですね。僕も何社もまわって、本の企画を売り込んで、やっと本にしてもらったり…って感じですよ。

ビ:フリーでやっていく場合は、ぜんぶ自分でやらないといけないわけですね。

古:まぁ、日本の場合は、メディアに入って、そこで修行を積んで、いいタイミングでフリーになるっていうやり方が王道でしょうけどね。

ビ:メディアっていうのはスポーツ新聞社とかですか。

古:スポーツ雑誌を出している出版社でもいいし、テレビ局やラジオ局でもいいですよね。最近はネット系のメディアもあります。そこでいろんなスポーツの取材の経験を積むのもひとつの手だと思います。

ビ:あぁ、たとえ野球が好きでも野球にこだわらずに経験を積むってことですね。

古:女子サッカーだって、女性レスリングだって、追いかけたら面白いですからね。逆に追ってる人が少ないマイナーなスポーツに徹底的に取材するのもいいと思います。人と差がつけられますから。

ビ:自分はこれだったら負けない! っていうものを持つことが大事なんですね。

古:そうです。それで原稿を書いて、見てもらって、直されて…という積み重ねですね。最初は小さな仕事だと思うんですけど、それでも絶対に手を抜かずにやることです。

ビ:ははぁ。それは大事ですね。

古:最初から大きな仕事を任されるはずがないんですから。誰だって小さな仕事からスタートしたわけだからね。

最後はぜったいに選手の味方でいるべし

ビ:学生時代のうちから見たり書いたりすることは経験できますね。

古:そうそう。学生さんだって書いちゃえばいいんですから。僕だって、高校生の頃、毎週金曜日に新日本プロレスの中継を見て、そのあと原稿を書いてましたもん。

ビ:え? 感想文?

古:はい。誰に見せる当てもないまま、自分なりに工夫して書いてました(笑)。

ビ:すごいですね。書くのが好きだったんですね。

古:小学校時代に作文を先生に褒められたのが嬉しくて、文を書くことはなんとなく好きでしたね、いま思えば。

ビ:文章を書き慣れてない人は、まずどこから取りかかればいいんでしょうか。

古:うーん…。例えばうちの娘、いま小学校4年生なんですけど、「書きたいことがありすぎて、作文が上手に書けない」って言うんですよ。そういうことかもしれないです。だからまず、「材料はたくさんあるけど、書きたいテーマはこれ」と決めちゃうことが大事ですね。持っている情報をぜんぶ書きたくなっちゃうけど、それだとうまくいかない。だから肉を削ぎ落として、いちばん伝えたいことだけに焦点を当てる。そうすると文章がグッと引き締まりますよ。

ビ:あぁ、そうか。おいしい情報だと思っても、削ぎ落とさなきゃいけないこともあるわけですね。

古:そうなんですよ。それができるかどうか、なんですよね。だから少ない文字数のほうが難しいです。

ビ:ははぁ。素人からすると、文字数が多いほうが大変な気がしますけど…。

古:それからやっぱり、取材していくなかで「これは書いてはいけない」という線引きの問題も出てきます。僕なんかとくに所属先があるわけじゃないフリーの立場ですから、誰も守ってくれませんしね。自分の倫理観で行動しないといけない。

ビ:とはいえ、編集長なんかは「君、知ってることぜんぶ書いてよー」って言うでしょうしね。

古:はい。ま、それにしても核心的なこと、これは言ったらダメだろうって情報は絶対出しませんよ。だって「現時点でこの情報を知っているのは3人しかいない」なんてことになったら、誰が言ったかバレちゃいますからね。

ビ:あぁ。最後はやっぱり選手の味方なんですね。

古:そうですね。結果的に選手をサポートする情報だったら出しますけどね。

ビ:そのへんのさじ加減ですね、難しいのは。

古:選手の成績が悪ければ、当然その理由を探したり、奮い立たせるようなことを書く。僕はヨイショ記事を書くのが仕事ではないんで。ただし、どんなときもリスペクトを忘れてはいけないと思っています。

ビ:そこですよね、古内さんが信頼されているのは。あぁ、今日はほんとにいろいろ勉強になりました。これからも僕たち野球ファンを楽しませてください。

古:はい。ありがとうございました。
@DIME 2013/06/27
試練をプラスに転化して、組織に力を与える松井秀喜の“献身力”
 プロ野球巨人軍や大リーグ・ヤンキースなどで活躍し、恩師の長嶋茂雄氏とともに国民栄誉賞を受賞した松井秀喜氏。ひたむきな努力や真摯なプレー、日米両国の国民から慕われたことが受賞理由で、松井氏には今後、日米野球界の〝架け橋〟としての大きな役割も期待されている。スポーツジャーナリストの古内義明氏が解説する。

「日米通算507本塁打を放ち、ワールドシリーズでMVPを獲得したという偉大な実績があるというのに、彼が自分の記録や殊勲を自慢気に語っているところを耳にしたことがありません。常に己を殺し、チームのために行動してきたからでしょう。彼にとっての喜びは、周囲の人たちや組織に大きなパワーを与えること。まさに〝献身力〟の光る選手でした」

 ヤンキース時代には「僕がヒットを打って勝てないより、三振しても勝ったほうがいい」と明言し、チームメートや米メディアからもその献身が一目置かれていた。

「努力できることが才能」という父の教えを忠実に

「また、彼は試練をプラスに転化できる男です。高校時代、甲子園で5連続敬遠された時を振り返って、『あの日があったからこそ、強くなれた』と語っていたのが特に印象的。左手首の骨折やヤンキースからの放出、マイナー契約といった数々の逆境でも、決してクサることなく日々の努力を続けてきたのは、マイナスを糧にして前進する彼らしさが出ています」

 松井氏は小学3年生の時、父・昌雄さんから、「努力できることが才能」と諭され、それをプロになってからも忠実に守り通した。2度の両膝の手術で〝限界説〟が取り沙汰されたものの、現役続行にこだわったことは松井氏の真骨頂といえよう。

 記録や記憶だけでなく、人徳者としても名を残すことになった松井氏。野球人としての第2の人生でも、恩師を超える活躍を期待したい。
Number Web Sports Graphic Number PLUS 2013/06/20
<独占ロングインタビュー> 松井秀喜 「僕が最後まで大切にしたこと」
 2012年12月28日(米国時間27日)、松井秀喜は20年間の現役生活に終止符を打ち、バットを置くことを発表した。

「僕のいいプレーを期待してくれている方々に、本当に(命懸けのプレーを)お見せできるかどうか疑問だった」

 涙もなく、淡々と言い切った引退会見での言葉。しかし、むしろその乾いた言葉の中にこそ、日米で20年間、常にチームの中心選手として活躍してきた松井の矜持と、最後の決断の重さが込められているように思えた。

 今回の2時間半に渡るロングインタビューの目的は、その20年間で野球人・松井秀喜が追い求めた野球の真実に迫ることだった。話はまず、引退を決意した時の、本当の気持ちを聞くことから始まった。

――引退を具体的に考え始めたのは?

「徐々にですね。レイズを解雇されて('12年8月)、ニューヨークに戻ってきた当初は『少しずつ来年の準備をしようかな』ぐらいの気持ちだったんです。それがだんだん『どうなんだろうな』という気持ちになってきて……」

――レイズでの最後の姿が、きっかけになった?

「姿というよりも、結果ですね」

――衰えを実感したことは?

「練習では、最後までありませんでした。でも、試合になると、ちょっとずつ今までと違う部分が出てきていました。一番感じたのは、甘いボールを打ち損じる打席が増えたことです。アスレチックスの年の最後は打率も2割5分ぐらいまで落ちて、初めて自分で自分の成績がちょっと恥ずかしいと思いました。その頃の自分は基本DHの選手でしたので、DHでこの成績はないなと思ったんです」

――2012年は所属が決まらず開幕後も自主トレを続けながら契約先を探しました。その時もまだ辞めるという考えはなかった?

「思わなかったですね。そういう状況でもプラスに考えてやろうとしていましたし、ひざの状態もようやくちょっと良くなってきてたんで、もう一回、勝負したいという気持ちでした。不思議と、どこかから声がかかるような気もしてたから、悲壮感はありませんでした」

最後にオレ、ジーターにとどめ刺された気が……(笑)。

――4月末にタンパベイ・レイズと契約して、メジャー昇格直後には、本塁打を連発しました。周囲は「さすが!」と感心しましたが、自分の中ではどうだったんですか?

「確かに最初の2、3試合でバンバン打ったんですけどね。実は、自分ではその後が続かなかったのは何となく分かる気がしました」

――そうなんですか?

「打っていても、手応えがなかったんですよ。結果は出ているけど、不思議とそれを続けられる自信がなかった。そういう予感って、当たりやすいんです。するとだんだん結果が出なくなっていった。そのうち(ヤンキース時代の盟友デレク・)ジーターのファウルボールを追って足を痛めちゃった(左太もも肉離れ)。今思うと、最後にオレ、あいつにとどめ刺されたような気がしますね(笑) !」

――でも、そういう時にも「もう終わりかな」とか、「自分はもう終わるんじゃないか」とか、そういう気持ちにはならなかった?

「ユニフォームを着ている時は考えなかったですね。もがき苦しみながらも、何とか状態を上げたい、何とか自信をつかんでいきたいって、そういう日々でしたよね」

――引退を表明したのは12月28日でしたが、自分の中で決断したのは?

「何回も何回も考えましたが、最後は、自分が何を大事にしてきたかということを考えました。それはやっぱりチームが勝つために何をするか、どういうプレーをするかということです。勝つための力になることを一番大切にしてきたつもりだし、その自信はありました。でも、ここ1、2年を振り返って、自分がどれだけチームの力になれたかなと考えてみた時、ほとんど力になれていないし、チームも勝てていなかった。もう1回チャレンジすれば可能性はゼロではなかったかもしれません。でも、これはもう結果を受け入れるしかないのかなと思ったんです。

 もちろんジャイアンツやヤンキースでの自分自身を大事にしなくちゃいけないという気持ちもありました。あまりバタバタやって、最後にもがき苦しんでいる姿を見せるのもどうなのか、と。ちょうど(日米で)10年ずつだったし、『両方とも10年か。キリもいいかな』って、妙に気持ちの整理がつき始めました。最終的に決断したのは会見の1週間ほど前でしたが、一度決めてからは心が揺らぐことはありませんでした」

 そうして自ら区切りをつけた20年間のプロ生活。その軌跡を語る上で欠かすことができないのが、星稜高校3年生の時に出場した夏の甲子園大会対明徳義塾戦での“5打席連続敬遠”である。1992年8月16日はまさに“松井怪物伝説”が始まった日でもあった。
中日新聞 松井秀喜 2013/06/20
エキストライニングズ(7) スランプ脱出の一振り
 シーズンが中盤にさしかかり、期待通りの選手がいる一方、悪い循環に陥っている選手もいる。打者にとって波は避けられないもの。不振からどう脱するかも、大切な能力の一つだと思う。

 最も深刻なスランプは巨人時代の一九九八年に経験した。左膝の痛みから打撃を崩し、開幕直後に打てなくなった。四月は打率1割台。痛みが引かないことへのいら立ちも影響したのか、なかなか復調できなかった。

 それが五月十日の中日戦での本塁打で一変した。四勝一敗、防御率0・70と絶好調だった野口投手から中堅左に打ち込んだ。その一振りで「このスイングだ。このボールの見え方だ」と感覚が分かった。本塁打という結果が出て、結果から変わるパターンだった。

 不振から立ち直るきっかけはさまざまだ。ただ経験を重ねるうちに、安打が出ていても「あれ」というずれを感じたらグリップの位置を変えるなど違うことを試すようになった。危ないと思ったときに先回りをして新たな感覚をつかめば、悪い時期が短くなる。だから巨人での最後の三年は長い不振がなかった。

 打撃の根本は変えなくていい。木でいうなら幹には手を加えないが、枝葉はいじる。違いを自分で感じることが大事。あとは精神的なものだろう。重く受け止めすぎないこと。自分が打てなくても勝つことがあるのが、野球のいいところだ。

 復調のきっかけといえば、ヤンキースにいた二〇〇五年はめったにない形だった。四月中旬から約二カ月間で本塁打が1本のみ。しかも三十一歳の誕生日だった六月十二日に右足首を捻挫。だがそれが復調につながった。

 痛みで右足のステップが柔らかくなり、球を呼び込めるように。しかもテープで足首を固めたことで、踏み込んだ力が逃げず右側の壁ができた。次戦の第一打席で本塁打。そこから長打が続いた。まさにけがの功名だった。 (元野球選手)
NHKスポーツオンライン 高橋洋一郎 2013/06/17
足跡
初夏の北カリフォルニア、オークランド。

サンフランシスコとは湾を挟んで隣同士、カリフォルニア・ワインの産地として有名なナパバレーまでは車で1時間足らず、1年をとおして「涼」、暑すぎず寒すぎず、とても過ごしやすい気候の地だ。
しかも初夏ともなれば言う事はない。

空はどこまでも青く空気は澄みわたり、まるで視力が上がったかのような錯覚を覚える。
風はこの上なく心地よく、街行く人に不機嫌な顔は見られない。

この街にあるオークランド・アスレティックスというチームで、松井秀喜氏がプレーしたのは2011年のシーズンだ。

あれから2年。
チームは当時とはすっかり様変わりし、松井氏と一緒にプレーした選手はほとんどいない。

しかし球団職員の中には懐かしさにも似た感情を覚える人たちが残っている。
「懐かしさ」というのは、2011年松井氏がこの球団でプレーしていた当時、彼を取材するなかで毎日のように顔を会わせていたゆえによる。

たったの2年。
とはいえ当時と今との間には超えようのない断絶がある。松井氏はもうユニフォームを着ていないのだ。

そんな職員の一人に球場の“In Game Host”(インゲーム・ホスト)、いわゆるファンサービスの係の女性がいる。

カーラ・ツボイ(Kara Tsuboi)さん。
彼女は試合中スタンドでファンと、主に子供たちとインタビューをしたりゲームをしたりと、ファンを盛り上げる仕事をしている。

松井氏がプレーしていたときのチームは、不人気に悩みスタンドは空席だらけ、盛り上げようにもファンが少ないなか、いつも笑顔を絶やさず立ち振る舞う姿に気の毒な気さえしたことも正直あった。
「松井さんがアスレティックスに来ると知ったときはすごくエキサイトしました。ワールドシリーズのMVPがこのチームに来てくれるなんて信じられなかったんです。」

彼女は日系アメリカ人の父親とアメリカ人の母親を持つ日系4世に当たる。
ただ日本語は全く話せず、日本にも行ったことはないそうだ。

オークランド生まれのオークランド育ち。
ゆえに成績も人気も低迷するアスレティックスには誰にも負けない愛情を持っている。

「キャンプで初めてインタビューさせてもらったとき、最初は緊張したけどすぐに松井選手の人柄がわかりました。とても親切でユーモアにあふれた人だと感じたんです。」
ワールドシリーズのMVPに輝いたスターに対し抱いていた、腫れ物を触るような感情はなくなり、すぐに親近感を覚えたという。

「メジャーの選手として、また一人の個人として、日本人である松井さんを見ているうちに自分の中にもある“日本”というものにプライドを感じるようにさえなりました。」

昨シーズンのアスレティックスは誰の目にも「まさか」の快進撃を見せ、シーズン最終戦ではレンジャーズとの首位攻防の直接対決を制し、2006年以来となる地区優勝を遂げた。
今年もその勢いを持続、現地6月13日終了時点ではアメリカンリーグ西部地区の首位に立っている。

今の仕事を始めた2009年に比べチームは格段と強くなり、球場に足を運んでくれるファンもはるかに増えているという。
アスレティックスへの愛情を新たにしている毎日だそうだ。

自身の知っている松井選手はどんな選手でしたかと聞くと、しばらく考えて「プロフェッショナル」と答えたカーラさん。

「いや、そうではないわね。」とさらにしばらく考えると違う言葉が返ってきた。

「Gracious」(グレーシャス)
辞書を引くと、「優しい」、「礼儀正しい」、「上品な」とある。

アスレティックス時代の松井氏については多くが語られることはない。
期待された成績を残すことができず、プレーしたのはたったの1シーズンのみだ。
しかしこの北カリフォルニアの地にも、彼の足跡はしっかりと残っているのである。
ビビる大木の業界おじゃまみ~す☆<裏話たっぷり!?なWeb版>
エンタ界【ハローワーク】シリーズ
2013/06/13
スポーツジャーナリスト編 【前編】
野球は大好きだったけど、ジャーナリストになるつもりはなかった

古内義明(以下、古):今日は声をかけていただいて光栄です。

ビビる大木(以下、ビ):いやいや、こちらこそです。そもそも古内さんには去年お世話になったんですよね。

古:はい。

ビ:去年の秋、3カ月限定のラジオをやるというときに「松井秀喜情報を毎週やりたい」と言ったら、スタッフは「いま、松井選手の情報ってどこにも出てないです」って。既に所属球団を失っていた松井選手の情報は、どこにも報じられてなかったんです。それならなおのこと、やりたいと思いまして。そこで登場したのが、松井選手のスペシャリスト・古内さんだったんですよね。

古:はい。ありがとうございます。

ビ:メジャー1年目からずっと松井選手を追っている人ですから。

古:はい。ビビるさんと松井君は、同級生なんですよね。

ビ:そうなんです。ボクはもう高校時代から松井選手を応援しています。だから古内さんから聞かせてもらう話がほんとに楽しくて。今日は、古内さんがどうやっていまのお仕事にたどりついたのかをぜひ聞かせてください。そもそもスポーツジャーナリストってどうやってなるもんなんでしょう?

古:いや、最初はジャーナリストになるつもりはなくて(笑)。

ビ:え?

古:もともと大学まで野球をやってまして、大学2年生の夏休みに米国の野球を見てみたいと思って一人旅をしたんです。

ビ:ほほー。単に好きだから見に行くと?

古:そうです、そうです。たまたま大学に入った頃、日本でもメジャーリーグ中継をやるようになったんですね。それで野球部の監督さんが寮の食堂にチューナーを入れてくれて、メジャーの野球をみんなで見ていたんです。それで、ぜったい生で見てみたい、と思いまして。

ビ:まだ野茂選手も行く前ですね?

古:そうです、忘れもしない1989年です。ロス、シカゴ、ボストン、ニューヨーク…10日くらいかけて回りました。

一度就職してから、満を持して米国へ!

ビ:どうでしたか、本場の野球は?

古:自分が部活でやっている野球とは全く別物でしたねー。一番びっくりしたのは…当時ヤンキースは弱くて、全然お客が入ってなかったんですよ。今じゃ考えられないけど。で、試合が終わる頃になって人がぞろぞろやってきたんですよ。なんだろう? って思ったら、チケットに「ビーチボーイズのライブ」って書いてあるんですよ。

ビ:え?

古:試合のあと、スタジアムにステージを出してライブやるんですよ。しかも試合よりライブのほうが、人気があるという…。

ビ:へぇ! 面白いですね。同じチケットで見られるんですか。

古:そうなんです。ま、そんなに長時間のライブではないんですけどね。でも、米国ってこういうエンターテインメントをやるんだ、って驚きました。

ビ:それもひとつのスポーツビジネスなわけですね。

古:そうです。そのあとスポーツビジネスをやっている人にも何人か会わせてもらって、「これはすごい!」と思いました。こういうことを自分もやってみたいな、と。

ビ:確かに、日本の野球で試合後にライブってないですねー。最近でこそ、攻守交代のときにジャビット君が踊ったりしてますけど、せいぜいそのくらいですもんね。それでどうしたんですか?

古:大学を出たら、米国でスポーツビジネスの勉強をしようと決心しまして。いまでこそ情報が溢れていますけど、当時はインターネットもない時代ですから、新橋の留学センターみたいなところに通って、分厚い本で仕組みを調べました。そしたら、大学院に入るには最低でも3年くらいの社会人経験が必要だということが分かって。

ビ:はー、そうなんですか。

古:だからとりあえず働いて、貯金もしながら、留学のための準備をしていこうと決めました。それで広告代理店に入りました。ちょっと社会の仕組みを経験してみようと。

ビ:「ちょっと経験してみよう」の割には広告代理店なんてまた、人気のある会社に入りましたね。日本で何年くらい仕事してたんですか?

古:5年くらいです。CMとか作ってました。

ビ:それを辞めて米国に行ったわけですか。

いきなり「野茂英雄を取材せよ」の指令

古:念願だったスポーツ経営学を勉強しに米国に渡ったのが95年。それが、たまたま野茂英雄選手が渡米した年で…

ビ:スポーツ経営学っていいますと…球団を経営するような学問ですか?

古:そうですね。あとは代理人とか、スポーツ選手のグッズを作るとか、スポーツにまつわるビジネス全般です。

ビ:で、ちょうど野茂フィーバーの年だった。

古:はい。当時、米国で、フリーランスでスポーツ記事を書いている日本人はいなかったんですよ。

ビ:へぇ!

古:で、野球部の先輩や後輩のつながりで、日本の出版社から電話がかかってきて。「米国にいるなら、野茂のことを取材して、雑誌に書いてくれないか」と。

ビ:いきなりオファーされたんですか。

古:はい。そりゃタダで野球が見られて、記事を書かせてもらえるなら最高だと思って、引き受けた。そこからですね。

ビ:ラッキーですねぇ。

古:試合があるときは取材して、原稿を書くという暮らしになりました。そのあと長谷川君がきて、柏田君がきて、伊良部君がきて…どんどん日本人選手が来たので、仕事も続いていきました。

ビ:大学院には何年いたんですか?

古:6年いました。最初サンフランシスコにいて、2年後にニューヨークに移って、そのまま2010年まで米国に住んで取材していました。

ビ:大学院で何か資格をとったんですか?

古:スポーツ経営学修士です。…言ってみれば、スポーツビジネスのMBAみたいなものでしょうか。

ビ:あぁ。やはりそういうお勉強をされた経歴があると、お願いする人も安心するところがあるでしょうね。

古:球団経営、選手の年俸の仕組み、代理人についてなども一通り分かっているので、普通のジャーナリストとは違う切り口が売り物になりますね。

ビ:それで「スポーツジャーナリスト」を名乗って、どんどん売れていくわけですか。

古:01年にイチロー君がきて、03年に松井秀喜君がきて、そこから本格的になりましたね。原稿の依頼も増えましたし、テレビやラジオの仕事も出てきて。いわゆる「日本人メジャーリーガーバブル」ですね(笑)。各社、どんどんお金も人員も割いてきましたからね。いまのヨーロッパサッカーみたいな感じです。

ビ:はぁ…。じゃ、こう言ったらなんですけど、たまたま日本人メジャーリーガーの渡米が相次いだ時期だったことが幸運だったんですね。

古:そうです。まさにそうですね。そういう流れになっていなければ、どこかの球団にインターンシップで入って修行するか、どこかのエージェントに入って代理人になる勉強を始めるとか、そういう未来を描いていましたから。最初はまさかジャーナリストになるなんて思っていなかったです。

選手もジャーナリストも成長していく米国

ビ:日本人最初のフリーのジャーナリストってことは、師匠みたいな人もいないわけですか。

古:いないです。ただ、自分の場合は、米国人ジャーナリストの先輩たちにいろいろ教えてもらったのが大きいですね。仕事の合間に会話をしながら、日本のジャーナリストとは違う視点ややり方があるということを勉強させてもらった。

ビ:米国はスポーツジャーナリストという仕事が日本より進んでいるんですか?

古:社員という身分という他に、年俸での契約社員という人もいます。新聞社と何年契約かを結んで、そこに記事を書く。

ビ:あぁ、そういう形態なんですか。

古:だから、例えば初めは地方の小さな新聞社で書いていた人が、記事を認められて大都市のメジャーな新聞社にヘッドハンティングされていく、なんてこともありますね。

ビ:ほほー。実力で大きな組織に上がって行くというのは、まさにスポーツ選手と同じですね。

古:そうそう。まさにマイナーからメジャーに上がって行く感じです。だから、そういう人が書く記事はやっぱり面白いですよね。所属先が一生保証されている新聞記者なんかが思いつかないような目の付けどころがあったり。

ビ:なるほど。「あの切り口だったら、古内さんに頼もう」と言われるような特徴を持たないといけないわけですね。

古:そうですね。だから僕も最初の頃は切り口とか文体とか、自分らしいものを求めていろいろ考えました。

ビ:やっぱり、運だけじゃなくて、そういう努力があるわけですね。

古:でもラッキーだったのは、例えば、長谷川君も同じ年だったんです。だからほんとに仲良くさせてもらえて、それは恵まれてましたね。長谷川君なんかは大学時代に対戦したこともあって、だから気持ちが通じ合うというか。

ビ:ははー、それもすごいですね。長谷川さんからしても、知っている人が記事を書いてくれたら安心ですもんね。

古:長谷川とはアナハイム時代から、まだオールスターに出る前ですけど、一緒にご飯を食ったり、いろいろ情報交換したりしてましたね。

ビ:古内さんも野球をやっててよかったですね。

古:そうですね。それは大いにあると思います。ま、偶然ですけどね。

ビ:いや、まぁ、偶然と言ってしまえば偶然ですけど、それでも繋がりを大事にして、チャンスをものにしているのがすごいですね。

「自分の切り口を持つ」ことがいちばん大事

ビ:古内さん以前の日本のスポーツジャーナリストと言えば、二宮(清純)さんとかですか?

古:そうですね。亡くなられた山際(淳司)さんとか、あとは玉木(正之)さんとか…。作家の沢木耕太郎さんもスポーツノンフィクションをいくつもお書きになってますね。

ビ:皆さん、それぞれの特徴や得意分野があるんですね。古内さんの場合は…。

古:僕の得意分野はスポーツビジネスですから、「メジャーリーグのなかの日本人」とか、「米国社会のなかの日本人プレイヤー」とか、そういう切り口ですね。これまで出している本も、野球ファンだけではなく、ビジネスマンなど年配の人をターゲットにしています。

ビ:なるほど。

古:松坂君がメジャーに行ったときも、「なんでレッドソックスは松坂に120億円という大金を支払ったのか。その資金源はどこにあるのか」といったビジネスの裏側を書いた。それが僕の切り口でした。でも人によっては松坂の一球一球を丁寧に分析して書くかもしれないし、日米の投球術の差を掘り下げるかもしれないし、いろいろなやり方があると思います。

ビ:ふんふん。自分なりのカラーを出す必要があるんですね。

古:松井秀喜君についての「松井秀喜―献身力」(大和書房)の場合は、「何故ニューヨークの人たちにこれだけ支持されるのか。米国のなかの日本人にどんな影響を与えたのか」という彼の人間性を伝えたいと思ったんで、そういう切り口にしました。

ビ:それは、球場の外でも相当取材しないといけませんね。

古:そうですね。日系企業のビジネスマンとかホテルマンにも取材しました。松井君が来てからどういう変化があったのかを。

ビ:フィールド以外の松井選手の存在感を聞くってことですか。

古:はい。もちろん球団のビジネス部門のスタッフにも聞きました。松井君がプレーする試合は日本人の観客がどのくらい増えるのか、なんて情報はどこにも出てなかったですから。

ビ:球団にはどうやって入り込むんですか。

古:球団の広報を通してですね。あと、プレスパスを持っていればロッカールームなども入れますので、そこで取材したり。

ビ:プレスパスはどうやってもらうんですか?

古:個人ではもらえません。どこかのメディアに所属して、そこから申請して取得する。僕の場合は、当時は「major.jp」というメジャーリーグの公式ホームページの日本語版で仕事をしていましたので、そこからパスを申請していました。

日頃から選手のところへ通って、面白い話を蓄積しておく

ビ:プレスパスがあれば球場の中に入れて…選手にも直接話が聞けるんですか。

古:そうですね。試合開始3時間半前ならロッカールームの扉が開いてるから自由に入れるんです。選手たちは裸で着替えたりしますが、僕らはそこに自由に入れるんです。試合後も10分経ったらロッカールームに入れる。それが日本と違うところですね。

ビ:へぇ! 入れちゃうんですね!

古:日本の場合はロッカールームには入れないですから、選手が出てきて、車に乗り込むまでの間に話を聞かなきゃいけない。それでロッカールームの前の廊下でずっと待っているわけですけど。メジャーの場合はどんどんロッカールームに入っていけるので、話を聞きたい選手のところに行って、聞けばいいんです。

ビ:いきなり聞けちゃうわけですね。

古:はい。イチロー君や松井君がメジャーに来るときは、彼らが来る前からロッカールームに入り込んで、これからチームメートになる選手たちに「こういう選手が来るけど、どう思う?」なんて取材していました。

ビ:ほー。向こうの報道機関から逆に取材を受けることもありました?

古:それもありましたね。行く前から話題になっていましたからね。とにかく日頃からロッカールームに入って、いろいろ聞いておくことが大事ですね。発注が来てから取材しても間に合わないので、日頃から面白い話がないか探しておく。

ビ:あぁ、そうか。書くか書かないかは別として、ネタを溜めておく必要があるんですね。

古:そうそう。もちろん有名選手がメジャーに移籍すると、日本で番記者だった人たちも海を渡ってついてくるんですよ。選手本人の情報は、そういう人たちのほうが詳しいですけど、僕は逆に「GMはこう言ってた」とか「チームメートの反応はこうだよ」なんて、メジャー目線の情報をあらかじめ仕入れていたので、その辺を武器にしてましたね。

ビ:読者としては、そういう情報も知りたいですもんね。古内さんは日本のメディアに対して「僕はヤンキースのGMのコメント、とれてますよ」なんて売り込むわけですか。

古:そうです。やっぱり長年の蓄積が僕の財産であり、武器ですからね。僕はこれまでに2000試合以上見ているので。

ビ:2000! すごいですね。

古:マイナーも入れたら、北米大陸には190くらいのチームがあるんですけど、僕はそのうちの120から130くらい取材しています。

ビ:じゃあ、日本人には知られていないような小さなチームも見ているんですね。

古:地方に行くと、刑務所の横にマイナーリーグのチームの小さな球場があったりして。けっこう怖い場所だったりするんですけど(笑)。

ビ:それだけ見に行く旅費はどうしてるんですか?

古:自腹のときもありましたし、メディアが経費をもってくれる場合もありました。90年代の頃はキャンプも全部行きました。
中日新聞 松井秀喜 2013/06/06
エキストライニングズ(6) 米に多いスイッチ打者
 日米の交流が盛んになり、日本の野球は変わったと思う。日本の優れている部分を残しながら、大リーグからいいものを取り入れて進化している。ただ不思議と日本に広まらないものもある。僕が日本にもっと増えてもいいと思うのは、スイッチヒッターだ。

 渡米した二〇〇三年、ヤンキースにはシーズンを通してウィリアムズ、ポサダら四人のスイッチ打者がいて、途中昇格のセギノールらを含めると六人にもなった。いずれも俊足タイプでなく、打力を生かすタイプの両打ちだった。

 スイッチにした理由をポサダは「試合に出るため」と説明した。投手の左右に関係なく起用されるからだという。大リーグには500本塁打したスイッチ打者のマントルやマレーのような例があり、米国や中米では打力に自信のある選手が可能性を広げるために少年時代から両打ちに挑戦することは珍しくない。

 日本では右打ちの選手が俊足を生かすため両打ちを始める場合が多く、しかも著名なスイッチ打者はプロ入り後の転向がほとんど。選手も指導者もそのイメージに縛られているかもしれない。

 長距離打者の場合はスイッチという発想がなく、僕のように元来右利きでも左打ちを始めたら専念するのが普通だった。巨人で同僚だった高橋選手や阿部選手も右投げ左打ちだ。

 子どものころ両打ちを考えたことはなかったが、今から思えば右でも打ってみたかった。やめるのは難しいことではないのだし、やりたいと思ったら挑戦するのはいいことと思う。例えば左投手が苦手な左打者が右打席で打ってみるのもいい。

 僕がもしスイッチだったら、右の方が自然な打者だったろうと思う。左はつくり上げたもの。不器用で一歩一歩つくり上げなければいけなかった。逆に右だと深く考えずに感覚だけで打ってしまうところはあったかもしれない。(元野球選手)