Matsui's Space 松井秀喜ファンサイト

Columnコラム

産経新聞 話の肖像画 2013/07/31
現代最高のホームラン打者・松井秀喜(3) 運命決めた長嶋監督の「ジョー・ディマジオになれ」
 〈すでに触れたように、少年時代の松井秀喜は阪神ファンだった。だが、1992年11月21日、ドラフト会議では阪神など4球団が松井を1位指名し、くじを引き当てたのは、巨人の長嶋茂雄監督。師弟の運命の出会いだった〉

 子供のころは、縦じまの31番のTシャツをよく着ていました。掛布(雅之)さんのファンでしたから。父と甲子園球場に行って、サインボールも買ってもらいました。印刷のものでしたけど、それでもうれしかった。

 でも、阪神に入っていたら、と考えるようなことはありませんでした。気持ちの切り替えは早かったように思います。逆に、ジャイアンツだからいいこともあるな、と。石川の田舎でもジャイアンツ戦は毎日中継されるし、1軍に上がって試合に出るようになれば、家族や皆に見てもらえるようになりますから。

 長嶋さんは当時の僕にとって、完全にテレビの中の人、伝説の存在でした。僕は長嶋さんが現役を引退した年に生まれましたから、最初の監督時代も覚えていない。王(貞治)さんの現役時代もほとんど記憶にないんです。もちろん長嶋さんが現役時代にすごい選手で、たくさんの方に愛される存在であることは知っていましたが、それも、漠然とした印象でした。

 初めて監督に直接お会いしたのは、入団会見の前日です。50代で、こんな格好いい人がいるんだ、と思いました。父親よりも年上ですからね。すべてを包み込むオーラのようなものも感じました。学生服姿の僕のほうが体は大きいんですが、僕よりずっと大きく感じましたね。

 〈2人はその後、長く濃密な関係を続ける。引退会見でプロ20年の最も印象深いシーンを問われ、「長嶋監督と2人で素振りをした時間」と答えた中身は次回に書くとして、結果的に松井を大リーグに誘った一言を〉

 あれは確か、入団3年目の秋でした。それまでライトを守っていた僕がセンターにコンバートされたときです。高校では三塁を守っていたので、実はサードをやらせてほしいと監督に言ったんです。すると監督が「ジョー・ディマジオ(ヤンキースの名中堅手、マリリン・モンローの元夫でもあった)になってほしいんだ」って。やってみると、センターは面白かった。守備範囲は広いし、自由に走れる感じがしましたから。当時は僕もまだ動けましたしね。

 監督の「ディマジオになれ」という言葉はずっと頭の中に残っていて、それで99年のオフにヤンキースってどういうチームなのか一度見てみたい、と思ったんですね。決して前からヤンキースに憧れていたわけではないんです。

 〈99年に見たヤンキースタジアムの空気感に魅了され、渡米を決意することになる。松井の大リーグ行きは、長嶋さんのせいだったのだ〉

 「せい」だなんて、そんな。僕にとっては監督のおかげ。そう「おかげ」ですから。(聞き手 別府育郎)
日本経済新聞 メジャーリポート 2013/07/31
「ヤンキース松井」引退 同世代選手が様々に祝福
7月28日、松井秀喜氏(39)はヤンキースと1日限定のマイナー契約を結び、「僕が一番憧れた場所」というヤンキースタジアムでの引退セレモニーに出席した。式に続くレイズ戦で輝いたのは、松井氏と同世代のアラフォー選手たち。同い年のジーターが先制ソロを放てば、イチローは4安打の固め打ち。広島にもいたことがある37歳のソリアーノのサヨナラ打で勝利し、「ヤンキース松井」の引退に花を添えた。

満席の観客、立ち上がって拍手

 試合開始3時間前のヤンキースタジアム。「ここは東京ドーム?」と見まがうほど、日本人ファンが長蛇の列を作った。目当ての一つは、先着1万8000人に配られる松井氏のバブルヘッド(首振り)人形だ。今季は空席が目立つ同球場だが、この日は開幕戦などに続く数少ない完売御礼、4万7714人が入った。

 松井氏が外野からゴルフカートに乗って登場すると、スタンディングオベーションが起きる。最高潮に達したのは、記念のペナントを手渡すためにジーターがグラウンドに現れたときだ。

 「ジーターは松井が好き。試合に出られなくてもセレモニーだけは出るはず」。米国人記者はほぼ全員、そう話していた。昨年秋、左足首を骨折、今春に再び骨折が判明したジーター。7月11日にようやく今季初先発したと思ったら、すぐに故障者リストに逆戻りと苦難が続く。ただ、幸いにも28日は約半月ぶりに戦列復帰、遊撃手としては今季初スタメンとなった。

先制弾ジーター「今日は松井の日」

 「松井の日と復帰が重なったのは偶然だけど、うれしいよ」とジーター。祝砲のように、第1打席の初球を右翼席にたたき込む。しかし、ヒーローは試合後も「今日は松井の日」と繰り返し、主役の座を仲良しの元同僚に譲っていた。

 1990年代後半の黄金期ほどではないにしろ、松井氏が加入した2003年当時のヤンキースは輝きに満ちていた。ジーター、リベラ、ペティット、ポサダ(引退)、ウィリアムズ(同)と脂が乗った生え抜き選手に、ジアンビ、クレメンスら大物移籍組。その戦力は投打で他を圧倒し、憎たらしいほど強いチームだった。

「すべては勝つために」を体現

 松井氏は日本ではスーパースターでも、ここではレギュラーの一人にすぎなかった。にもかかわらず在籍した7年間で、チームメートや日本人以外のファンにも忘れられぬ選手となった。09年ワールドシリーズでの最優秀選手(MVP)という大きな勲章もあるが、「すべてはチームが勝つために」というヤンキースのモットーを体現する選手だったからだ。

 「彼は状況に応じた打撃をする選手だった。打点がほしいときに打点を挙げ、進塁打がほしいときに進塁打を打つ。そして長打もあった。彼とプレーするのは楽しかった」とジーター。

 さらに、ジラルディ監督は「彼はタフだった」と言う。日程が詰まり、移動が過酷なメジャーでは主力選手も時々試合を休ませるのが普通だが、松井はケガで記録が途切れるまで“皆勤賞”。「せっかくチケットを買ったのに見たい選手はオフだった」。大リーグにありがちな“がっかり”と無縁の選手だった。

GM「彼はプロフェッショナル」

 松井氏は英語が決して堪能とはいえなかった。それでもファンにもチームメートにも愛されたのは「ユーモアのセンスがあったから。選手というのは、言葉が通じなくてもコミュニケーションする方法を見つけるものだ。感じあったり、笑顔を見せたり、彼は気さくな人だった」とジラルディ監督は話した。

 「彼は本当にプロフェッショナルだった」と振り返るのはゼネラルマネジャーのキャッシュマン氏。黙々と結果を出し、言い訳せず、常にベストを尽くす――。日本人が「職人気質」と呼ぶようなタイプを「プロフェッショナル」と称し、米国人も敬意を示すようだ。

 ジーター、リベラ、ペティット、黒田らが集まった松井氏のセレモニーに、一つ足りない顔があった。イチローである。本人によると、試合に向けていつもの準備をする時間と重なったから、「クラブハウスでテレビで見ていた」そう。

 1学年上で10月に不惑を迎えるイチローは、松井氏と常に比較されてきた。巨人、ヤンキースと日の当たる場所でスター街道を走ってきた松井氏に対し、イチローはオリックス、マリナーズとそれほど目立たぬ球団にありながら、数々の大記録を打ち立てることでスターとなり、輝きを放ってきた。

イチロー4安打、バットで祝福

 やすきに流れないよう、緊張感を保って自らを律してきたイチロー。ヤンキースに移籍して1年、ここでは自然に気持ちが入ると折に触れて話しているし、名門チームに満ちる緊張感を心地よく感じているのが分かる。そんな環境で、選手時代の最盛期を過ごした松井氏にどんな思いを抱いたのか。

 試合のためにダッグアウトに出てきたところで、セレモニーを終えた松井氏と対面した。

 松井氏「今日はチームメートですね。僕はマイナーだけど」

 イチロー「久しぶり。いろいろおめでとう」

 この日4打数4安打だったイチローは、日米通算4000安打まであと16とし、試合後は米メディアの人だかりができていた。

 必要なことはバットで語ってきたイチローらしい祝福。これもプロの在り方だった。

(原真子)
サンケイスポーツ 2013/07/30
【松井氏特別インタビュー(下)】次の何かのために今はリセットの時間
 松井秀喜氏が、自宅のあるニューヨークでサンケイスポーツのインタビューに応じた。3月に第1子が誕生した新米パパぶりを明かしたほか、期待される指導者としてのセカンドキャリア、巨人復帰の可能性についても語った。(取材構成・阿見俊輔)

 --3月に長男が誕生した

 「基本的には育児はほとんど任せっきりだけど、できることはやっています。SOSが出たときしか動きません。ギャーッって聞こえたときくらいですね」

 --親としての自覚も芽生えた

 「将来、世の中に役に立つ人間になってくれればいいな、と。そのための手助けをしてあげなくてはいけないな、とは強く思います」

 --ニューヨークで悠々自適の生活をしているように思えるが

 「なんだかんだと忙しいですよ。マイナーリーグの練習の手伝いにも行っているし、やることはあるんです。基本的にはリラックスしていますが」

 --ヤンキース戦は見るか

 「たまに見ますね。球場では見ていないですが。結果は必ずチェックしますよ。ジャイアンツもヤンキースも」

 --この先の計画は

 「具体的にはまだ何もありません」

 --5月の帰国時に、巨人の渡辺会長からは何かオファーが

 「言えません、そんなことは。そういう話は、あってもなくても話せません」

 --もう一度、指導者としてユニホームを着てもらいたいというファンは多い

 「そういう方がいてくださるのはうれしいですが、去年まで20年間、自分なりに一生懸命やってきたわけですから、今はちょっと息抜き期間です。ユニホームっていっても、去年まで着ていましたから…。こればかりはすべてが縁。そういう縁があるかです」

 --来年の復帰は

 「まったく分かりません」

 --巨人からの打診はもうあったのか

 「言えません、そんなことは。あるとも言えないし、ないとも言えない。どのチームだってそうです。僕の立場からしたら、話せる段階に来るまでは何一つ話せませんよ。もちろん、次の仕事も必要かもしれないけれど、自分にそのエネルギーがわいてこないことにはどうしようもない。今はリセットの時間。次の何かのためにリセットしているんです」

 --球界に恩返し、という気持ちは

 「野球というスポーツに出会って、僕自身がすばらしい経験をさせてもらいました。今も、野球をやっている子供がいっぱいいる。次の世代に何かを伝えていかなくてはいけない義務、責任はあります。そこから逃げるつもりはない。自分だけいい経験をさせてもらって“はい、おしまいです”というわけにはいきません。僕も先輩たちから教わってきたわけだから。自分がその番だというのはわかりますが、具体的に次、何をするかはまだ決まっていません」

 --巨人の渡辺会長は将来の監督候補として名前を挙げている

 「もし、そう思ってくださっているのであれば、光栄ですが、それも縁です。ただ、個人的には、今の強いジャイアンツを作ってこられた原監督に、これから先も長い期間、今以上のジャイアンツを作っていってほしいです」
Newsweek プリンストン発 日本/アメリカ 新時代 冷泉彰彦 2013/07/30
松井秀喜氏はどうしてヤンキースタジアムを総立ちにさせたのか?
 考えてみれば不思議です。日本でのキャリアはともかく、アメリカではヤンキース一筋というわけではありませんでした。ヤンキースの後、エンゼルス、アスレチックス、レイズと複数の球団を渡り歩いて引退したのであって、松井氏は引退の時点ではヤンキースのメンバーではなかったのです。

 にもかかわらず、7月28日の日曜日、ニューヨーク・ヤンキースは松井氏と「ワンデイ・コントラクト」つまり一日だけの契約を交わすと共に、ヤンキースタジアムに登場して「引退セレモニー」を行いました。球団は、この日のことを相当に前に決定していたようで、「7月28日に球場に行くと、ヒデキ・マツイの首振り人形がもらえる」というキャンペーンについては、シーズンの相当初期に発表していたのです。

 ヤンキースの独占中継局であるYESネットワークによれば、合同記者会見の席上で、ブライアン・キャッシュマンGM(ゼネラルマネジャー)が挨拶をしたのと同時に、2002年のシーズンオフに松井氏を獲得した際の中心人物であったジーン・アフターマンGM補佐が登場して「この日のワンデイ・コントラクト」の契約書を実際に見せながら、松井氏の貢献と、彼が引退することへの感慨を語っていたのが印象的でした。

 そこで1つの疑問が湧いてきます。

 ヤンキースと、ヤンキースのファンは、そこまで松井氏を愛していながらどうして2009年のシーズンオフ、あのワールド・シリーズMVPの大活躍をした直後に、松井氏を放出し、またファンもそれを認めたのでしょうか? そして、一旦放出しておきながら、今回の「ワンデイ・コントラクト」によって、ヤンキースの一員としての引退式を行って、涙ながらに彼のことを顕彰したのでしょうか?

 1つには、アメリカの場合は終身雇用が崩れているということがあります。契約の関係で複数の企業を渡り歩く、そしてその切れ目では解雇という現実を受け入れたり、それに伴う別れがあったりするというのは、アメリカでは当たり前です。2009年の松井氏の「エンゼルスへの放出」というのも、チームの若返り構想や、総人件費の抑制という中で、企業として合理的な判断であれば、本人も周囲も、そして人気商売であるプロ野球としてのファンも、納得するのが当然だということがあります。

 その一方で、終身雇用に近い存在も残っています。ヤンキースであれば、ジーター選手やリベラ投手というのは「生涯ピンストライプ」という特別なステータスを、本人も周囲も認めた存在です。ですが、こうした「生涯ピンストライプ」の選手と、「最後は3球団を渡り歩いた」松井氏について、ファンの思い、愛情というのは質的に変わらないのです。

 つまり、他チームに行ったから「汚れた」とか「純粋なヤンキーではない」という感覚はそもそもないのです。例えば、松井氏と親交のある往年の主軸打者であるレジー・ジャクソン氏の「背番号44」はヤンキース、エンゼルス、アスレチックス(奇しくも松井氏のプレーした球団と重なります)の3球団で「永久欠番」になっているのです。

 この感覚からすると、日本球界の不世出の大投手である金田正一氏の「34番」がジャイアンツでは永久欠番になっている一方で、長く貢献したスワローズでは欠番になっていないというのには私は違和感がありますが、要するに「生え抜きで生涯一球団でないと裏切り者」というカルチャーはアメリカには皆無なのです。

 これに加えて、ビジネスの判断としての解雇ということと、人間の自然な感情としての賞賛とか愛情というものが「明確に区別されている」というカルチャーがあります。戦力構想ということで、アッサリと解雇しておきながら、そしてファンもそれを追認しておきながら、引退式ではエモーショナルな感動で盛り上がることができる、これは一見すると矛盾であり、何となく「タテマエの世界のキレイごと」のように見えます。

 ですが、違うのです。個人へのリスペクトはあっても、戦力構想のために解雇することがあるし、それでも個人へのリスペクトは残る、それが「契約社会」だということです。この感覚が分からないと、このセレモニーの感動は素直に味わえないでしょうし、このセレモニーの感動を素直に感じることができれば、この価値観が分かったということだと思います。

 ちなみに、現在日本で進行している「追い出し部屋」というのは、雇用を脅しながら個人への自他によるリスペクトも壊してゆくという全く非人道的なものです。また、その延長に議論されている「雇用の流動化」とか「解雇の自由化」というものも、もしも個人へのリスペクトを伴わないのであれば、単なる「古代の野蛮なカルチャーへの退行」に過ぎないわけです。

 それはともかく、松井氏は噂によればアメリカで大学や大学院での勉強、あるいは研究ということを今後の人生のテーマにしていく可能性があるそうです。一部には、氏の人気を当て込んで球団指導者にという声もあるようですが、ここまで日米の球界に気を使って丁寧に生きてきた松井氏ですから、以降は本当にご自身のテーマをゆっくりと追求していったら良いと思います。

 仮に野球指導者になるのであれば、カネの飛び交う人気球団ではなく、アメリカのAAあたりの草の根マイナー球団で、人生の岐路に悩む若者の相手をしながら、日米の長所を取り入れた松井氏の野球理論と、きめ細かい指導技術を磨いていくのがいいのではないでしょうか? 松井氏にはそうした日々の方がおそらくは幸福なのだと思います。そのような生き方こそ松井氏らしいし、その「松井らしさ」をゆっくりと磨く中で、例えば将来にもう一度檜舞台で大きな仕事をという可能性も見えてくるのではないかと思います。
日刊スポーツ 2013/07/30
ヤンキース番記者も松井氏の人柄絶賛
 松井秀喜氏(39)の引退式に当たり、全米一辛口といわれるニューヨークのヤンキース番記者らが、その功績と人柄をたたえた。17年間ヤ軍担当をしているニューヨーク・ポスト紙のジョージ・キング記者は「マツイは私が取材したヤ軍選手の中でベストの選手。ジーターやバーニーも含めてね」と話す。同記者は03年オフ、松井氏に会うため来日。「都内のホテルで昼食をして外に出たら、日本の報道陣が大勢待っていた。マツイは、悪いけど今日取材を受けるのはポストだけだからと言ってくれた。とてもプロフェッショナルだと感心した」と思い出を明かした。

 WFANラジオのヤ軍番として13年目になるリポーターのスウィーニー・マーティ氏も「一番印象に残っているのは、彼が手首を骨折したとき、同僚たちの前で試合に出られなくなり申し訳ないとあやまったことだ。そんな選手は他にいないので驚いた。彼の人柄だね」と話した。ヤ軍戦中継アナウンサーのマイケル・ケイ氏も「素晴らしいオールラウンドプレーヤーだった」と称賛した。
MLB.jp 2013/07/30
NYのファンが語る「ヒデキ・マツイの名シーン」
 昨年限りで現役を引退した松井秀喜氏が、ニューヨーク・ヤンキースと1日限定のマイナー契約を結び、引退セレモニーを行った。

 午後1時からのデーゲームだったこの日。先着18,000人に松井のボブルヘッド人形が配られることもあって、9時過ぎには早くも球場のゲート前に行列ができていた。多くの日本人ファンが詰めかけた他、現地ファンの姿も多く見られ、ここNYで“ヒデキ・マツイ”がいかに愛されていたかを物語っていた。

 ヤンキースでプレーした7年間で、140本塁打。メジャー屈指の名門球団において、並み居る歴代の名選手たちと比べたら、松井の成績はさほど突出したものではない。それでも、松井がヤンキースの一員として過ごした日々はNYのファンの心にしっかりと刻まれており、球団は特別なセレモニーを用意した。

 NYのファンにとって、松井という選手はどんな存在だったのか。また、松井がプレーした7年間で最も印象に残っているシーンは?この日、セレモニーを目撃したファンたちに訊ねてみた。

ワールドシリーズMVPよりも印象的だった、本拠地デビュー戦でのグランドスラム

 開場前のゲート前で一際目立っていたのが、頭にゴジラを乗せた男性ファン。周囲のファンに何度も写真撮影をせがまれ、快く応じていた。

 松井に関する一番の思い出を訊ねると「2003年のオープニング・デー(松井の本拠地デビュー戦)」と即答した。

「あの日、NYは恐ろしく寒い日だったことを覚えている。そんな中で飛び出した、マツイのグランドスラム。スタンドの温度が少し上がったよ」。

 2009年のワールドシリーズは?

「もちろん、忘れられない思い出のひとつだ。でも、あのとき松井は既にメジャートップクラスの打者としての地位を確立していた。我々ファンにとっては、あの大活躍もさほど驚くことではなかったよ。それよりも、デビュー戦のグランドスラムだね」。

 なるほど、あの本拠地デビュー戦でのグランドスラムこそが、NYのファンの心をつかんだシーンとして記憶されているようだ。前例なき“日本人のスラッガー”として渡米し、当時はまだ活躍を疑問視する声もあっただけに、センセーショナルな一打だったのだろう。

 他のファンたちにも「松井の名シーン」を訊ねてみたが、やはり「本拠地デビュー戦でのグランドスラム」が一番多かった。次いで、2009年のワールドシリーズ第6戦、1試合6打点を叩き出しチームをワールドチャンピオンに導いた試合だ。

 他には「2004年のALCS(ア・リーグ・チャンピオンシップ・シリーズ)第3戦」という意見も。「あの試合でマツイは、ボストン・レッドソックス相手に2本のホームランを含む5安打5打点と打ちまくったんだ。当時はアレックス・ロドリゲス、バーニー・ウィリアムス、ゲイリー・シェフィールドら強打者が揃うラインナップにおいて、マツイは堂々の4番に座っていた。シリーズには残念ながら負けてしまったけどね」。

 もっとも、「ひとつのシーンは選べない」というファンも少なくなかった。「一瞬だけ活躍する選手はたくさんいる。マツイはシーズンを通してチームに貢献し続ける選手だった。チームが本当に必要としているのはそういう選手さ」。

 ちなみに、松井本人が昨日の会見で「特に印象に残っている試合」として挙げたのが、2003年ALCSの7戦目。メジャーデビューイヤーで、ワールドシリーズ進出を決めた試合だ。常々「チームの勝利が全て」と語る松井らしいチョイスだ。

松井の人間性を表す「クラス・アクト」という言葉

 NYのファンが松井について語るとき、よく耳にするのが“Class Act(クラス・アクト)”という表現。「品格ある行動や態度」を表す言葉だ。

 選手に「紳士であること」を求めるヤンキースにおいて、松井はチームを象徴するような存在だった。フィールド上での姿勢、パフォーマンスはもちろん、ファンへの接し方、メディア対応など、全てが一流だった。ヤンキースの選手に相応しい、プロフェッショナルな人間性も、NYのファンに認められた。

 背番号「55」のTシャツを着たあるファンは「2000年代のヤンキースは、デレク・ジーターと松井こそがチームの顔だったと個人的には思う」と語った。「共にヤンキースというチームを体現するような、プロフェッショナルかつスタイリッシュな選手だ。今日、この2人がセレモニーで並んで立つシーンを見て、少し懐かしい気持ちになったよ」。

「ヤンキースの選手として引退する」という夢が叶ったこの日、セレモニー後に松井は「球場に入った瞬間から、泣きそうでした」と話した。今も相思相愛な、松井とNYのファン。1日限りの再会は、少しノスタルジックだった。

(Text by Muneharu Uchino)
産経新聞 話の肖像画 2013/07/30
現代最高のホームラン打者・松井秀喜(39)(2)エネルギーになった5敬遠
 〈星稜高校に進んだ松井秀喜は、甲子園大会に4度出場した。1年夏は2回戦、2年夏は準決勝、3年春は準々決勝まで進んだ。3年夏は2回戦で明徳義塾高校に2-3で敗れた。4番松井は5打席すべて、2死無走者でも敬遠された。日本高野連の牧野直隆会長(当時)が「無走者の時は正面から勝負してほしかった」と会見した。それは、一つの事件だった〉

 敬遠されたことは全然悔しくありませんでした。バッターにとって、敬遠されるということは別に気分の悪いことではないですから。ただ、負けたことが悔しかったんです。不完全燃焼という意味ではそうかもしれないけど、結局、負けたことなんです。悔しいのは。

 〈どう話を振っても、松井は5敬遠を「悔しかった」とはいわない。プロ入り後も、5敬遠の話題は常につきまとった。国民栄誉賞受賞の際、安倍晋三首相が「三振で記憶に残るのは長嶋(茂雄)さんだけだ」と話すと、菅義偉官房長官は「敬遠で記憶に残るのは松井さんだ」と返したのだという〉

 僕の気持ちの中では、整理のついている話です。逆に敬遠されたという事実を、自分の実力で証明しなければならないという気持ちは、心のどこかにあったような気はします。ジャイアンツに入って鳴かず飛ばずだったら、敬遠しなくてもいいバッターだったんじゃないかといわれた可能性もある。そんなこと、どうでもいいのかもしれないけど、自分のエネルギーになったことは間違いないです。

 〈敬遠騒動にはプロローグも、エピローグもあった。序章は中学時代。敬遠された松井が投手をにらみつけながら歩くと、コーチがベンチを飛び出し、松井を平手打ち。「いつからそんな偉くなったんだ」と叱ったのだという〉

 そういう態度には厳しい方でした。僕はそれを愛のむちととらえていましたね。今とは時代も違います。それが当たり前で、誰も疑問に思わなかった。今の時代に、松井は殴られて野球がうまくなったと思われては困ります。ただ当時の僕には、必要な厳しさだったのだと思います。そういういろいろな経験があって、(5敬遠のころには)感情を押し殺すことができるようになっていたのだと思います。

 〈終章は秋の国体。尽誠学園との決勝戦最終打席で高校通算60号を放った。三塁ベース付近で松井は尽誠ベンチに黙礼した。勝負をしてくれたことに対する礼だった〉

 すべての打席で真っ向勝負をしてくれましたから。敬遠していい場面もあったんです。お辞儀は、国体だからできたことかもしれない。甲子園でやったらいやらしくなってしまう。そう、甲子園ではやらなかったですね。

 〈前後の話を聞けば、やはり悔しかったのだろう。高校野球を終えた松井は、運命のドラフトを待つ〉(聞き手 別府育郎)
サンケイスポーツ 2013/07/29
【松井氏特別インタビュー(上)】ヤンキースのシビアさ好きだった
 昨季を最後に日米通算20年間の現役生活に終止符を打った松井秀喜氏(39)が、自宅のあるニューヨークでサンケイスポーツのインタビューに応じた。日本を旅立ち、2003年から7年間在籍したヤンキースへの強烈なチーム愛や、ヤ軍時代に経験した野球人生で最も思い出に残る試合など、肌で感じた名門チームへの思いをあますところなく語った。(取材構成・阿見俊輔)

 --ヤンキースで過ごした7年間を振り返って

 「最高に幸せな時間でした。世界一の野球チームで7年間もプレーできた。しかもずっと中軸を任せてもらった。それ以上、幸せなことはないです」

 --初めて名門に接したのは

 「1999年のア・リーグチャンピオンシップをニューヨークで観戦して、このチームでやってみたいと憧れて。メジャーに行きたいという気持ちより、ヤンキースに行きたい気持ちが強かったです。ヤンキースに入りたくてメジャーに行ったのですから」

 --ヤ軍はいかなるチームか

 「目指すものが一つしかない、シンプルなチーム。いろいろな選手がいて、全員がワールドチャンピオンを意識していたかは分からない。しかし、少なくともチームはその方向を向いていたし、自分もそうだったし、多くの選手もそうでした。自分にとって最高の環境でしたね。ファンもメディアも、みんながワールドチャンピオンになるとヤンキースに期待している。それだけに、それていくとファンもメディアも容赦がないですけれどね」

 --重圧も大きい

 「客観的に見れば大きいのかもしれません。ただ自分はそういう場所が嫌いではなかった。勝ちを目指しているのはどのチームも一緒。何が違うんだろう…。伝統の重さですかね。ジャイアンツ(巨人)にもあるけれど、そういうものを感じますね。ヤンキースの全てに。ユニホームも球場も、雰囲気も。僕が入団した2003年は100周年でした。重厚な空気、オーラがあの球場(旧ヤンキースタジアム)にはあった。今の球場からはまだ感じませんが、何十年もたったら重さが出てくるでしょう」

 --ヤ軍での最も印象的な出来事は

 「レッドソックスと戦った2003年のア・リーグチャンピオンシップですね。そのゲームセブン(第7戦)。あの試合に起きたことは、僕の20年間の現役生活の中でも一番じゃないかと思います。あの時ほど、ヤンキースの見えない力を感じたことはありません。試合の重さ、相手がライバルだったし、試合展開だったし…。なかなかあそこまでの試合はないですよ」

 --MVPに輝いた09年のワールドシリーズをも超えると

 「あれも印象に残っているけれど、気持ちが違います。(03年は)追い込まれた状況で同点に追いついて、最後にサヨナラホームラン。自分の中の印象に残っているのはゲームセブンですね。(09年は)確かにワールドチャンピオンを決める試合で打ったけれども、松井秀喜はただあそこで爆発しただけ。個人的に目立ったといえば確かにワールドシリーズでしょうけれど、(03年の)あの緊張感に比べれば、まだ余裕があった」

 --生まれ変わっても、またヤ軍でプレーしたいか

 「そうですね。勝利への貪欲さが好きです。ヤンキースは選手に対してとてもシビア。それが好きだった。僕も最後はあっさり“もういらない”という感じだったけれど、それまでに見てきましたから。あのバーニー(ウィリアムズ)でさえ、あっさりと…。すごいなと。僕の場合も(09年オフに)再契約するつもりなどおそらくなかった。ただ勝利のため、世界一のために着々と、自分たちが決めたことをやっていく。ただそれだけ。それがヤンキースなのです」

データBOX

 〔1〕99年ア・リーグ優勝決定シリーズヤンキースvsレッドソックス。ヤ軍は第1戦をウィリアムズのサヨナラ弾で制し2連勝。第3戦で1-13と大敗したが、第4戦では九回のレディの満塁弾で勝利。第5戦もジーター、ポサダの2本の2ランで6-1と快勝してリーグ優勝。松井氏はこの年、巨人で当時自己最多の42本塁打(02年に50本をマーク)もタイトルを逃した。

 〔2〕03年ア・リーグ優勝決定シリーズ現地10月16日の第7戦(ヤンキースタジアム)。第3戦での乱闘など特別な雰囲気となった宿敵レ軍との一戦で5番に入り、3-5の八回に右翼線二塁打。続くポサダの中前打で同点の生還。ホームへのスライディング後に飛び上がって雄たけびをあげた。延長十一回、ブーンのサヨナラ弾後はベンチを飛び出し、「うれしいというのが素直に出た」と何度もガッツポーズ。松井氏にしては珍しく大興奮だった。

 〔3〕09年ワールドシリーズ現地11月4日の第6戦(ヤンキースタジアム)。6年ぶりにワールドシリーズに進出しフィリーズを相手に3勝2敗と王手をかけた一戦に松井氏は「5番・DH」で先発。第1打席の先制2ランなど3安打で、シリーズの1試合最多記録に並ぶ6打点を挙げた。最終打席(空振り三振)では「MVPコール」が起こった。チームは7-3で勝ち、9年ぶり27度目の世界一。シリーズ6試合で13打数8安打(打率.615)、3本塁打、8打点。日本選手初のMVPに輝いた。
スポーツナビ 杉浦大介 2013/07/29
松井秀喜NYから贈られた特別な1日 イチローが“一瞬の交錯”に込めた想い
満足感ばかりがにじんだ“幸せ”1日

 ヤンキースと1日契約を結んで行なった現地7月28日(日本時間29日)の引退セレモニー前、さらに終了後の会見を通じ、松井秀喜は“幸せ”という言葉を口にし続けた。

「ヤンキースというチームは僕にとってずっと憧れでした。憧れのチームに7年間も在籍させてもらって、本当に幸せな日々でした」

「(今日は)球場に入った瞬間から泣きそうでした。ちょっと言葉にならないくらい。改めて幸せな野球人生だったなと」

 フィールドで、記者会見場で、数え切れないほど浮かべた笑顔を見る限り、立派なイベントを開いてくれた古巣への社交辞令などでは決してなかっただろう。カートでのフィールド登場、契約書へのサイン、母親からの花束贈呈、そして始球式……ヤンキースらしい心のこもったセレモニーの間中、松井の表情からは満足感ばかりがにじんだ。

衰えぬ松井人気、ジーター「お気に入りのチームメート」

 ヤンキースのケガ人続出と成績停滞ゆえに空席が目立つようになったスタジアムも、この日は今季3度目となるソールドアウトの大観衆。ファンが収集を好むボブルヘッド配布という要素があったとしても、いまだ衰えぬ松井の人気を改めて印象づけたと言ってもオーバーではなかったはずだ。

「ヤンキースファンの前でプレーすることが最高の幸せでした。(ファンからリスペクトされた)理由は分からないが、僕なりに精いっぱい、チャンピオンになるために戦った。それがそういう風に映ったのであれば嬉しいですね」
 そう語った松井の記念日に、昨日まで故障離脱していたデレク・ジーターもタイミング良く復帰し、セレモニーに大きな華を添えてくれた。
 キャプテンの勝負強さは今だ変わらず。額に収められた背番号55のユニホームを松井に手渡したジーターは、直後のレイズ戦の第1打席ではいきなり右翼席にホームランを打ち込んでファンを歓喜させてくれた。
「(松井は)ホームラン打者の“ゴジラ”と喧伝されて入団して来たけど、実際は状況に応じた打撃をしてくれる選手だった。走者を進めてくれるし、ビッグヒットも打ってくれた。ケガなど言い訳にせず、いつでもプレーする気持ちでいてくれた。松井がお気に入りのチームメートの1人だとこれまでも何度も言って来たし、これから先もそれは変わらないよ」

 メジャーレベルでは必ずしも生粋のパワーヒッターと呼べずとも、貢献の術を探し続けた現役時代の松井を的確に描写したジーターの言葉も心に響いて来る。
 自ら望んで飛び込んだ職場で実績を残し、真摯(しんし)な姿勢で信頼も勝ち得る。第2の人生へと旅立つ時期が来ても、先輩や周囲からの拍手で送り出される。野球選手に限らず、社会人としてこれ以上の喜びはないのだろう。
 2003年から7年を過ごしたニューヨークでの引退式は、選手としての最後の大舞台。望まれる幸福をかみしめた“献身的なゴジラ”は、セレモニーの主役を穏やかな表情で務め上げた。

常に対照的な存在であり続けたイチ&松井物語の終焉

 こうしてイベントは終始和やかに進んだが、そんな中で、1日限定でついに同じユニホームに袖を通したイチローとの絡みは多くはなかった。
「(イチローさんには)今日はチームメートですねって言っただけです。まあ正確には僕はマイナーなんですけど」

 松井がそう述べた通り、始球式前にはピンストライプをまとった2人がベンチで言葉を交わし、握手する姿も見られた。ただ、2大スターの劇的な交歓を楽しみにしていた人々には、ややアンチクライマックスに映ったかもしれない。

 しかし……これまで余りにも異なる道を歩んで来た2人ならば、ここでも“一瞬の交錯”に止まるのが相応しいと言えたのだろう。
 自身のキャリアを全うし、満面の笑顔でファンに手を振った元ワールドシリーズMVPのスラッガー。この日も自らのルーティーンを保ち、セレモニー後のレイズ戦で4打数4安打と爆発した希代の安打製造機。それぞれのスタイルを貫き通した上で結果を出して来た2人は、同時に常に対照的な存在であり続けた。

「(引退式に)これだけの人が集まったのはすごいことだと思います。(これだけ多くの人が)彼を観に来るのはすごいこと」

 そう語ったイチローは、引退式を迎えた松井に「久しぶり。いろいろ、おめでとう」とも声をかけたという。
 例えはっきりと言葉にせずとも、ここ1年の間にヤンキースでプレーする意味を体感し続けたイチローなら、生き馬の目を抜くような街に7年も在籍した松井のキャリアの重みも誰よりも理解しているはず。そして、優れた実績を残した上で引退する選手を、“おめでとう”という言葉とともに送り出すアメリカの通例も、彼なら十分に熟知しているに違いない。
 松井の引退は、日本人メジャーリーガーを代表する存在であり続けた両雄の時代の終焉でもある。最後の松井への祝福の一言に、イチローは万感の想いを込めたのかもしれない。
NHK WEB特集 2013/07/29
松井秀喜さんNYに愛され引退
大リーグのレイズを最後に、去年現役を引退した松井秀喜さんが、28日、7年間在籍したヤンキースと1日限定の契約を結び、ヤンキースの一員として引退セレモニーに臨みました。ヤンキースにとっては、異例ともいえる待遇です。松井さんがヤンキース、そしてニューヨークのファンに愛される理由はどこにあるのか?
取材に当たったアメリカ総局、原口秀一郎記者が解説します。

「生涯忘れられない」セレモニー

背番号「55」。引退セレモニーでは、伝統のピンストライプのユニフォームを身にまとった松井秀喜さんが、ヤンキースタジアムのマウンドに立ちました。このユニフォームに袖を通すのは、実に3年9か月ぶりで、試合開始前の始球式でキャッチャーをめがけて思い切りボールを投げ込みました。

この日のヤンキースタジアムは、シーズン中盤の試合には似つかわしくないほど、特別な雰囲気に包まれました。試合開始の2時間前、午前11時の開門時間には、スタジアムの周りに数千人のファンが列を作りました。その中には、「55」番の背番号をつけたユニフォームやTシャツを着たファンが数多くいました。私が出会った中で一番乗りは、午前7時過ぎに並んだという日本から来た男性。でも日本からのファンだけでなく、地元ニューヨークのファンも「松井Tシャツ」を着て列に加わりその時を待っていたのです。

車で球場入りした松井さんはこの光景に出くわして「ワールドシリーズの時でも、こんなにファンが並んでいたかな。チームを離れて3年以上たったいまでも、自分の背番号が入ったTシャツを着てくれるのはとても嬉しい。よくみんな捨てずにもっていたな」と振り返っていました。

試合開始の20分前、いよいよ松井さんの引退セレモニーが始まりました。
「Hideki Matsui」
ヤンキースタジアムに聞き覚えのあるアナウンスが流れ、松井さんが姿を見せた瞬間、スタンドを埋めた4万7000人をこえるファンは総立ちになって拍手を送り、ヒーローを出迎えました。
スタジアムのファンの歓声がひときわ大きくなったのはヤンキースのキャプテン、デレック・ジーター選手が、松井さんに、記念のユニフォームを手渡しした瞬間でした。そのユニフォームとは、2009年、松井さんがワールドシリーズMVPに輝いたあの時のデザインのもの。松井さんの親友でもあり、そのワールドシリーズをともに戦ったジーター選手と、松井さんのやりとりは、スタンドの人々に、松井さんとヤンキースの特別な関係をはっきりと思い出させました。
松井さん自身も一連の引退セレモニーを終えて、「こういう歓声は初めてかもしれない。涙が出そうになりました。生涯忘れられない日になったと思うし、感動した」と笑顔で振り返りました。

記憶に残る勝負強さ

松井さんが、ヤンキースでプレーしたのは2003年から2009年の7年間。決して長い時間ではありません。にも関わらず、なぜ一日契約、そして引退セレモニーが行われるまでになったのか。
まず第一に挙げられるのが、記憶に残るホームランやヒットが多かったことです。特に、地元ヤンキースタジアムでの活躍は顕著でした。
2003年、ヤンキースタジアムでの最初の試合で打った「名刺代わり」の満塁ホームラン。その年のプレーオフのリーグ優勝決定戦第7戦では、宿敵レッドソックスを相手に、終盤同点に追いつくホームイン。ベース上で飛び上がって喜ぶ姿が印象的でした。
その後も、チャンスの場面で数多くのヒットを打ち、2009年のワールドシリーズでは、13打数8安打、3本のホームラン、8打点と、驚異的な活躍でした。
記録以上に、ファンの心をつかんだ記憶に残る活躍が多い選手でした。

まじめな性格・気さくな人柄

そして、もうひとつ大きな要因が松井さんの人間性です。チームメートからも、ファンからも愛されてきた松井さん。ともにヤンキース1年目から取材を続けてきた地元の2人の記者が、当時を振り返って話してくれました。

地元ラジオ局のスウィーニー記者は、2006年に松井選手がプレー中に左手首を骨折し、はじめて故障者リスト入りした当時を振り返りました。
「あのけがの後、彼は声明を発表してチームメイトに謝罪した。全力でプレーをしたからけがをしたのに、なぜチームに対して謝罪をしなければならないのかと思ったのを覚えている。でも、ヒデキは、戦列を離れることを謝罪しなければならないと感じたのでしょう。自らのことよりもチームのことを考える姿勢は、チームメイトから尊敬を得ることになったのです」

ニューヨークの地元新聞、デイリーニューズのハーパー記者は、クラブハウスでの様子を話してくれました。
「言葉の壁があるのにもかかわらず、松井選手はとても接しやすいフレンドリーな選手だった。試合のあと、話を聞きに行ったときに、彼は隠れることなくいつもロッカールームにいました。成績が悪いときも良いときもです。彼は言い訳をしない男でフィールドでもロッカールームでも同じ姿勢でした。それはチームメイトに対しても非常に良い印象を与えたと思います」

こうした、ひとつひとつの行動の積み重ねが、松井選手をニューヨークのヒーロー「Hideki Matsui」へと成長させていったのです。

気になる今後は?

松井さんは、今年5月の国民栄誉賞に続いて、ヤンキースでの引退セレモニーで、野球人生でのひとつの区切りを迎えました。
ここで気になるのは、松井さんの今後です。
松井さんは、引退セレモニーを終えたあと、NHKのインタビューに答えてくれました。
その中で松井さんは、将来について「具体的には、まだ自分でも見えていないんですけど、野球やスポーツで、すばらしい経験をできたので、その経験を少しでも次の世代の人たちに伝えていけたらいいなと思っています。どういう立場かは分からないけど、そういう気持ちだけは持っています」と話しました。

具体的な答えはありませんでしたが、「自らの野球を伝えたい」という強い意志を、改めて明確に感じることができました。松井さんの野球人生の次の章がどうなるのか、とても楽しみに思うのは自分だけではないはずです。
NHK 2013/07/29
番記者「松井はチャンスに強かった」
松井さんのヤンキースでの7年間を取材した記者たちは、松井さんの現役時代を「チャンスに強いバッターだった」と振り返りました。

地元のラジオ局のヤンキース担当記者で、松井選手を入団当初から取材していたスウィーニー記者は「すばらしいセレモニーでした。ヤンキースがこうしたセレモニーをしたことは過去になかったと思います。これは、ヤンキースがどれだけ松井秀喜という選手に思い入れがあったかということを表しています。彼はチームメートにもファンにも本当に愛されています」とセレモニーを振り返りました。
現役時代の松井選手については「彼は毎日全力でプレーしていました。それがファンを魅了してきたのです。ファンは、入団当初、年間50本のホームランを期待していましたが、彼のプレーを実際に見た時、そのことは重要ではないと分かったのです。2009年のワールドシリーズがそうだったように、重要な場面で多くのヒットを打ちました。松井選手はチームメートからもファンからも本当に愛されていました」と話しました。
また、ニューヨークの新聞デイリーニューズのハーパー記者は「松井選手は重要な場面で重要なヒットを打ってきました。私は多くの重要な場面を見てきましたが、彼はいつも活躍していました。ファンは彼のそんなところを覚えているんです。成績が悪いときも良いときも態度が変わらなかった。そうしたことはチームメイトに対しても非常に良い印象を与えたと思います」と松井さんの現役時代の印象を話しました。
東京スポーツ 2013/07/29
松井のライバル・マルティネス氏「彼との勝負は楽しかった」
「NHK BS1」が中継したメジャーのオールスター戦でゲスト解説を務めた松井秀喜氏が「最高の投手」として何度も名前を挙げたのは、レッドソックスの特別GM補佐ペドロ・マルティネス氏(41)だった。公式戦では28打数4安打、打率1割4分3厘、1本塁打、1打点の“天敵”だ。

 マルティネス氏は「彼がそう言ってくれたことをとても誇りに思う。私も彼にはとても大きなリスペクトを持っている。静かなるプロフェッショナルで、とても勝負強い打者だった。ヒデキと初めて対戦したのは1996年の日米野球だった。『ゴジラ』『ゴジラ』って、周囲が騒いでいたのが印象に残っている」と振り返る。

 松井氏がヤンキースに移籍した2003年、シーズンは10打数無安打と抑えたが、ア・リーグ優勝決定シリーズでは痛打された。第3戦で2―2の4回無死一、三塁で勝ち越し適時打を許し、第7戦ではレッドソックスが2点リードした8回一死一塁で右翼線へ二塁打を打たれ、続くポサダに同点打を浴びて降板した。試合は延長11回、ブーンのサヨナラ弾でヤ軍が勝った。

 マルティネス氏は松井氏の成長を感じたという。

「彼はいつも勝負強かった。とても気を付けなければならない打者。試合の流れが変わりそうな場面で、必ずといっていいほど打席には彼が立っている。それこそ、彼が持つ運なのだと思う。打席の中で、次の一球に集中する姿はとても印象的だ。彼のアプローチは、他の打者とは違っていた。また、公式戦とポストシーズンでは、彼のレベルはさらに上がっていた」

 そして、松井氏がMVPに輝いた09年のワールドシリーズ。第2戦で決勝アーチを含む2打数2安打1打点、第6戦では2回に先制2ランを許し、3回は中前に2点適時打された。マルティネス氏にとっては消し去りたい屈辱の記憶だろう。

 しかし、マルティネス氏は笑みを浮かべてこう話した。

「彼は私をまさに打ちのめし、全てを台無しにしてくれた。でもいいんだ。私は脱帽しなければならなかったが、それもゲームの一部分だったのだ。彼との真剣勝負は、今思えばとても楽しいものだった。私はいいピッチングをしたし、ここなら打てないだろうと思って投げたボールでも、彼は打った。とても誇りに思う」

 マルティネス氏という高い壁が存在したからこそ、松井氏はメジャーで成長できた。
産経新聞 話の肖像画 2013/07/29
現代最高のホームラン打者・松井秀喜(39)(1)
スタジアムの空気感

 〈ニューヨークのヤンキースタジアムと、東京ドームで引退式を開いてもらえる選手など、空前絶後だろう。それほどに松井秀喜は、日米双方の野球ファンに愛された。まずは、NYの引退式に臨む気持ちと、米国行きの最大の理由となった、ヤンキースタジアムへの思い入れについて聞いた〉

 ヤンキースが引退式を開いてくれると聞いたときは素直にうれしく、本当に光栄でした。どういう判断でやっていただけることになったのか。可能性があるとすれば、まず長くヤンキースでプレーしたことと、最後のワールドシリーズ(2009年、MVPを獲得)の印象が強かったのかもしれませんね。

 ジャイアンツとヤンキースの両方で引退式をやっていただけることは、客観的にみれば素晴らしいことだし、本当にすごいことなのでしょうが、自分のことだと思うと、あまりそういうふうには思えないですね。

 初めてヤンキースタジアムに足を踏み入れたのは、1999年でした。日本シリーズへの進出を逃したので、渡米してプレーオフを観戦しました。今の新しいスタジアムではなく、建て替え前の球場です。何かオーラのようなものを強烈に感じました。野球場でこれまでに味わったことのない空気感がありました。それが何から来ているものかは分からない。スタジアムか。ヤンキースのユニホームか。選手たちの自信、球団の歴史。そうしたいろいろなものが重なって作り出されたものなのでしょう。ここで野球をしたい。そうですね。思いましたね。

 実際にプレーすると、外から見ていたほどのものは、あまり感じなかった。中に入ると逆に分からないのかもしれない。ただ伝統の誇りというか、ヤンキースの一員であるという責任感は常に持っていたし、周りの選手からもずっと感じていました。やってきたことは、同じ野球です。野球は野球です。日本で自分のつちかったものを出すしかない。その気持ちだけでした。自分なりに日々の準備をし、精いっぱいやったつもりです。今振り返って後悔はあるかといわれれば、ないような気はします。

 〈松井秀喜は74年6月12日、石川県根上町(現能美市)に生まれた。優秀で人に喜ばれる人物になるように、という両親の願いは見事にかなえられた。野球は4歳年上の兄を追って三角ベースで始めた。どこにでもいる少年と一緒だ。最初は右打席で打っていた〉

 兄が左利きで、僕は阪神の掛布(雅之)さんが好きだったので、左打ちに憧れがありました。ずっと右で打っていたら、もっと打てたんじゃないかと、今でも考えますね。可能性はなきにしもあらずですから。右で打った方が自然だったと思います。左に変えたから不器用ながらも一つ一つ積み上げることができた気もします。結果は分からない。今は草野球で右打席に入っても、全然打てる気はしませんけどね。

 〈たられば、を想像することは楽しい。少年時代の松井は柔道でも相撲でも優秀な成績を収めていた。進んだ根上中学に柔道部があれば、「少し悩んだかもしれない」。幸い(?)同中に柔道部はなく、軟式野球部に入った。夢は、甲子園だった〉(聞き手 別府育郎)
MLB.jp 2013/07/29
松井氏に酔ったヤンキースファン
マツイ・フィーバー

 この日、午前9時15分頃、ヤンキー・スタジアムに着いたが、その頃、各ゲートにはすでに列が出来始めていた。そのほとんどは日本人だったが、背番号「55」のTシャツを来たアメリカ人も多く列をなしていた。

 この日は、先着1万8000人に松井秀喜のボブルヘッド人形が配られることになっていた。彼の引退セレモニーに加え、その人形を手に入れたい、というファンもいたようである。

 セレモニーの開始は12時45分から。それに先立ってまず、午前11時から松井の“入団"会見が行われている。

 ここで本来であれば「松井さん」と書くべきだが、今日はヤンキースと形だけとはいえ契約した事実もあるので、ここでは敬愛も込めて「松井」としたい。

 その松井はこの日、マイナー契約を交わした後、引退契約書にサインする段取りになっており、最初の会見の席上で、1日契約の契約書にサインをする予定だった。

 午前10時45分には、すでにいっぱいになった記者会見場。

 テレビカメラは13台。用意された席もほぼ一杯となり、日米のメディアをあわせれば、150名近くの人が集まった。

 その中を予定より少し送れて会見場に現れた松井。一斉に焚かれたフラッシュに驚くこともなく、冷静に着席。このあたりはさすが、常にスポットライトを浴びる野球人生を送ってきた選手と言えた。

松井がやりきったこと

 会見では冒頭、ブライアン・キャッシュマンGMが個人的なエピソードを披露している。彼が松井に幼い娘を紹介した時、松井がわざわざ膝をつき、目線を娘に合わせて接してくれたそうで、「それがヒデキの人間性を表わしている」と話した。

 一日契約の契約書を持参したのはジーン・アフターマンアシスタントGMだ。彼女は、松井がヤンキースに移籍するとき、獲得及び巨人との業務提携交渉を担当。彼女が今回の契約に携わることになったのも何かの縁だろう。

 その後始まった質疑応答の一問一答で印象深かったのは、ヤンキースファンはまだあなたのことを忘れていないようだが、どう思う? と聞かれた時。

 松井は、「そう言って下さっているのであればそれはうれしい」と話した後、こう続けた。

「そう思ってくださった原因は何かって言われればちょっと分からないんですけど、僕なりに精一杯頑張ってチャンピオンになるっていうだけのために戦いました。それがそういう風に映ったのであれば、それはうれしい」

 チャンピオンになるためだけに戦ったと言い切れる松井。そこだけはやり抜いたと言える。その言葉に、"松井"という選手が凝縮されていた。

いよいよセレモニーがスタート

 会見からおよそ1時間後、セレモニーが幕を開けている。

 音楽とともにセンターのスクリーンに松井のハイライトが流れ始めた。

 どんよりとした空からはポツポツと雨が落ち始めていたが、ファンらは構わず、スタンドから声援を送る。

 松井が現れたのは、ベーブ・ルースらのレリーフがあるセンターのモニュメントパークの横の扉から。ゴルフカートに乗って登場すると、ゆっくりとレフト、そして三塁側を回ってホームへ向かった。

 そこでは両親らと合流し、その後、先立って行われた会見でマイナー契約の契約書を持って現れたアフターマンアシスタントGMが、今度は正式な引退契約書を手に歩み寄っている。

 ホームベース付近に用意されたテーブルの上で松井はその契約書にサイン。その瞬間、「HIDEKI MATSUI」は、正式にヤンキースの選手として引退することが決まった。

 続いてダグアウトから出てきたのは7年間に渡ってチームメートだったデレク・ジーターだ。彼は、額に収められたヤンキース時代の松井のユニホームを手に駆け寄り、並んで写真に収まった後、2人はしっかりと抱き合って言葉を交わしている。

 松井によればこのとき、ジーターがジョークを飛ばしたそう。

「今日、プレイするんだろう?」

 始球式が終わってからそう明かした松井だが、午前11時から行われた会見では、こんなやり取りもあった。

 ジーターが、お気に入りのチームメートだったと言っているが、という質問に対し松井は頬を緩めている。

「これまでもたくさんのチームメートがいましたけど、彼がもっとも尊敬できる選手だったし、その選手からそうやって言ってもらうのは、プレイヤーとしては最高の幸せです。また僕からもね、彼に同じ言葉を戻したいなと思います」

 2人の繋がりは、やはり特別なものがあるようだ。

松井、イチローとチームメートに?

 その後、一旦は下がった松井。今度は55番のピンストライプのユニホームに袖を通して現れている。この時松井は、冷静そうに見えて、実は感極まっていたそうだ。

「やっぱり自分にとっては、あこがれのユニホームでしたから、最後にもう一度、あのユニホームを着て、ヤンキー・スタジアムのグランドに立てたこと、それは本当にうれしいことだし、おそらく今日も、生涯忘れない日になるんじゃないかな」

 その松井はしばらく、ヤンキースのダグアウト内で始球式の出番を待っていたが、そんなときにクラブハウスから出てきたのがイチロー。ばったり出くわすと、2人はしばらく、笑みを交えながら言葉を交わしている。

 始球式の後、「今日はチームメートですねって話しました」という松井。「正確には僕はマイナーの選手なんですけど」。

 セレモニーのトリとなった始球式は、本当に試合が始まる直前に行われている。松井が紹介されてマウンドに向かったとき、すでにその日先発のフィル・ヒューズがすでにそこにいた。

 このときのやり取りがちょっとおかしい。

 足跡一つないマウンド。松井は、そこに足を踏み入れるのを躊躇った。そのことをヒューズに聞けば、笑いながら言っている。

「そうなんだ。彼は、『プレートに足を乗せていいのか?』って聞くから、『もちろん』って答えたんだけど、マウンドに足跡をつけることを心配しているようだった」

 その始球式は、低めのボール球。

「思ったより距離が長かった」とは松井は笑ったが、「まあでも、届いてよかった」。

マツイデー

 そうして幕を閉じたセレモニー。すぐに試合がスタートしたが、1回裏、この日から復帰したジーターが先制本塁打を放つと、チームは勢いづいた。

 この時、この試合の流れは決まったといい。イチローでさえ、「ちょっと痺れた」と評した一発。試合後の会見では当然、真っ先にその質問が飛んだが、ジーターはそれを遮っていった。

「そんなことより今日はマツイデーだ。だから彼にフォーカスしてほしい。今日はマツイに会えて良かったし、ヤンキースが彼に敬意を払う機会を設けてくれたことは嬉しかった。彼はいつまでもNYファンのお気に入りの選手だろうから、僕は今日彼の日に立ち合えて嬉しい」

 こんな話を聞いたらマツイはなんと言うだろうか?

 松井とニューヨーク・ヤンキース。互いの歴史が2013年7月28日、一つの幕を閉じた。
MLB.jp 2013/07/29
松井氏、引退セレモニーに感動「泣きそうだった」
 現地28日、ヤンキースと1日契約を結んだ松井秀喜氏が、ヤンキー・スタジアムでの引退セレモニーのあとに記者会見に臨んだ。

─セレモニーはどうだったか?

「球場に入った瞬間から、泣きそうでした。ちょっと言葉にならないぐらいの感動と改めて幸せな野球人生だったなと思います」

─ダグアウトでは、イチロー選手と話をしていた

「今日はチームメートですねって。正確には僕はマイナーの選手なんですけど」

─始球式の感触は?

「そうですね。思ったより距離が長かったですね。まあでも、届いてよかったです」

─ジーターからユニホームを贈呈された

「もちろん、いろいろ話をしましたけど、まあ、一番は『おめでとう』と。まあ、冗談ですけど、『今日、プレーするんだろう』って言われました」

─フィールドに立って、昔のシーンを思い出した?

「それはなかったですね。ユニホームを着てないので、昔を思い出すって言うのはなかったですね。ただ、ファンの方の歓声に心を打たれていた」

─久しぶりにピンストライプの55番を着た感触は?

「やっぱり自分にとっては、あこがれのユニホームでしたから、最後にもう一度、あのユニホームを着て、ヤンキー・スタジアムのグランドに立てたこと、それは本当にうれしいことだし、おそらく今日も、生涯忘れない日になるんじゃないかなと思います」

─またプレーをしたくなった? オールドタイマーズデーはどうする?

「さすがにプレーはもうしたいっていう気持ちはないですけど、オールドタイマーズデーはそうですね、もうちょっと年を取ってから出たいと思います」

─去就は?

「ほんとに現時点では、自分のプランというのは、はっきりとしたものは具体的には持ってないですし、これからの時間の中で、そういうのが少しずつ何か、探っていけたらいいなと思います」
MLB.jp 2013/07/29
松井秀喜氏、ヤンキースの選手として引退会見/一問一答
 現地28日、紺のスーツにピンストライプにも見えるネクタイで登場した松井秀喜氏。隣りにはヤンキース時代から通訳を務めたロヘ・カーロンが座り、会見場の最前列には松井氏のご両親らが並んだ。

 会見はまずブライアン・キャッシュマンGM(ゼネラルマネージャー)、ジーン・アフターマンアシスタントGMのユーモア溢れるスピーチで始まり、マイナーリーグ契約を交わした後に松井氏が挨拶。その後、質疑応答に入った。以下、冒頭の挨拶とその一問一答。

松井秀喜氏

「本日、ヤンキースと契約することが出来て、ヤンキースの選手として正式に引退することが出来て本当に光栄だと思います。ヤンキースの皆さんには感謝の気持ちで一杯です。

 ヤンキースというチームは僕にとっては、ずっとあこがれでした。あこがれのチームで7年間も在籍させてもらって、その日々というのは、本当に幸せな日々でした。

 ワールドチャンピオンになるということだけを夢見て毎日プレーして、2009年に最後に、ワールドチャンピオンになれたこと、本当に僕にとっては一生の思い出です。

 去年一杯で引退したんですが、引退したときはこのようなことをしていただけるとは夢にも思ってなかったので、こうしてもう一日だけヤンキースの一員になれたこと、そしてヤンキースで引退できること、そのことをもう一度、ヤンキースとヤンキースファンの皆さんに感謝したいと思います。ありがとうございました」

一問一答

─ヤンキースでプレーをして学んだことは?

「そうですね。たくさんあると思うんですけど、やはり、ただ、チャンピオンを目指して戦う、そのためにプレーすると言う、その気持ちですかね」

─ヤンキースの選手として一番思い出深いことは?

「僕が7年間在籍した中では、もちろん最後の、ワールドチャンピオンというのは個人的には大きいかもしれないですけど、印象に残っているのは、2003年のリーグチャンピオンシップの第7戦の試合が一番今でも印象に残っています」

─最初に契約したときの心境は?
「おそらくその時まで、自分が過ごしてきた日々の中でも、もっとも幸せな瞬間だったなと思います」

─デビューから10年。この10年で学んだことは? 人間として野球人として

「もちろんたくさん素晴らしい影響は受けたと思いますけど、ニューヨークに住んでヤンキースでプレーするということは、おそらく野球選手にとっては特別なことだと思うし、これが一番何か影響を受けたというのはなかなかないかもしれない。それほど、僕にとってはすべてだったような気がします、その日々が」

─(デレク・)ジーターが、お気に入りのチームメートだったと

「そうですね。これまでもたくさんのチームメートがいましたけど、彼がもっとも尊敬できる選手だったし、その選手からそうやって言ってもらうのは、プレーヤーとしては最高の幸せです。また僕からもね、彼に同じ言葉を戻したいなと思います」

─ヤンキースファンは今でも松井のことを覚えている

「もしそれが本当のことだとしたら、僕にとってはそれ以上に幸せなことはないし、僕にとってもこのヤンキースファンの前でプレーすることは、本当に一番の幸せなことでした。今、そう言って下さっているのであればそれはうれしいし、そう思ってくださった原因は何かって言われればちょっと分からないんですけど、僕なりに精一杯頑張ってチャンピオンになるっていうだけのために戦いました。それがそういう風に映ったのであれば、それはうれしい」

─ピンストライプのネクタイをされているようですが、今日のお召し物はどのように選ばれたのですか?

「ピンストライプですかね? あまりそこまで意識していなかったんですよね。意識していたらもうちょっと意識してたかな、って。ということはあまり意識していなかったんですね」

─将来のプラン、野球に関わっていくのかどうかなど、どのように活動していく予定ですか?

「まだ具体的に決まってないですけど、やはり日本で10年間、アメリカで10年間、ヤンキースという凄く素晴らしい球団で7年間プレイを続けてきましたので、その経験をまあ、少しずつ次の世代に繋いでいけたらいいと思っていますけど、基本的にはまだ何も具体的なことは決まっていません」

─選手としてフィールドに立つ事は今日が最後の最後ですが、ヤンキー・スタジアムのフィールドに立つという事で、何か特別な思いはありますか?

「恐らく今日の1日は生涯忘れる事のない1日になるだろうと思います。僕が選手として一番憧れた場所で選手として終われるのは、これ以上に幸せな事はないです」

─初めて観客としてヤンキースを見ていると思いますが、今年のヤンキースをどのようにご覧になっていますか?

「そうですね、いつも追いかけているわけではないんですが、やはりちょっと、ね、主力選手の怪我が多いので、そこがちょっと大変だな、とそれにつきると思います」

─数えきれないくらいのファンが今日球場に来ていますが、どのように思われますか? もし見られていなければ、本日そのような中に出て行くということをどう思われますか?

「もちろん、来る途中にその光景は見ましたが、懐かしさと共に本当に嬉しいな、という気持ちで…一つ感心したのは、よくも捨てずに55番のシャツを持っていてくれたな、と」

─日本からも沢山のファンが押し寄せ、アメリカやカナダからも沢山の方が来ています。そういったファンにどのような自分を見て欲しいですか?

「どんな姿…ありのままの姿を見て頂けたらいいと思いますし、少しでもね、僕がプレーしていた頃の記憶を蘇らせてくれたらそれだけで嬉しいです」
スポニチ 2013/07/29
松井氏 息子への思い「彼次第、やったら教えるけどね」
 昨季限りで現役を引退した松井秀喜氏(39)が、28日(日本時間29日未明)の古巣ヤンキースとの「1日契約」を前に、ニューヨーク市内でスポニチ本紙の単独インタビューに応じた。在籍した7年間(03~09年)の思い出、恩師や仲間との出会いなどを振り返るとともに、引退後の近況や、3月上旬に誕生した愛息の子育てについても激白した。

 ――今回のセレモニーの話が来た経緯は。

 「キャンプ中、そういうことを考えていると言われて、こちらは“お任せします”と。4月に球団の方から“7月に首振り人形を出すことが決まったから、その日に1日契約を考えている”と言われ、“分かりました”という感じです」

 ――日本人選手で1日契約は初めてとなる。

 「最初はそんなことをしてもらえるなんて、全然思っていなかったですから、ビックリしましたけど、こんなに光栄なことはないんじゃないかな、と思っています」

 ――ヤンキースでの7年間を振り返り一番の思い出は。

 「いっぱいありすぎて難しいですね」

 ――ベストゲームを挙げるなら。

 「試合でいうなら、どうだろうな。2003年の(レッドソックスとの)リーグチャンピオンシップの第7戦かな」

 ――ホームインして跳び上がった試合。

 「そうだね。あの試合が一番、印象に残っているかな。もちろん、ワールドチャンピオンになった試合も印象に残っているし、最初の満塁ホームランも凄く印象に残っているし。いっぱいあるけど、(一番は)あの試合じゃないかな」

 ――自身が苦しめられていたペドロ・マルティネスを攻略した。

 「そういうことよりも、あの試合でね、あのワールドシリーズ出場を懸けた試合で、あの試合展開で、劇的な終わり方をしたという、そういうことじゃないかなと思いますけどね」

 ――逆に、試合以外で思い出に残る場面は。今だから言える話などがあれば。

 「それは、ロッカーでの出来事とかね。遠征中とか、スーパースターたちのいろんな面を見たから、それだけでも面白かったよね、やっぱり」

 ――意外な一面とか。

 「みんな、いっぱいあるよ。当然。言えないけど(笑い)」

 ――言える話では。

 「一番面白かったのは、一度、夜中の移動でボルティモアに入って、午前1時か2時ごろにバスが故障した時。高速道路のど真ん中に全員、バスから降りてきて、真っ暗闇の中に。あの時が一番面白かったかな」

 ――高速道路を歩いた?

 「次のバスが来るまで待っていた。ずっと。真夏でバスの中も暑かったから、みんなバスから出てきて。この人間たちが真夜中、こんなところに出ていていいのかな、と冷静に思ったよ」

 ――何年目のこと?

 「1年目じゃなかったかな。クレメンスもいたから」

 ――ヤンキースでプレーしたことで、野球人・松井秀喜が影響を受けたことは。

 「影響は、いっぱい受けたんじゃないかな。これという特別なことはないんだろうけど、最も勝利の歴史のあるチームだから。その誇りをみんなが持ちながらプレーしているし、それを常に感じながら毎日プレーして何年間もやったということで、とてつもなくいい影響を受けたと思います」

 ――自分が理想としていた環境?

 「まあ、そうでしょうね。常に勝利を目指しているし、みんながその意識を持っている。なおかつ勝利の伝統があって、それを受け継がなくちゃいけないという、みんながそのプレッシャーを感じている。ファンの方からもメディアの方からも(プレッシャーを)感じながらやるという、その環境が自分にとっては一番、好きでしたね。でも自分の場合はジャイアンツにいましたから。ある意味、ジャイアンツは日本ではそういう球団。その自分が何かを変えなくちゃいけなかったかというと、自分がヤンキースに移って、そういう気持ちの変化が必要だと感じたことはなかったですね」

 ――ヤンキース7年間で残した成績(916試合で打率・292、140本塁打、597打点)については。引退会見では「もうちょっといい選手になれたかも」と話していた。

 「“たら、れば”の話をしたらきりがないです。でも、特に後半はケガをしながらも、自分が精いっぱいやった証じゃないですかね。だから、それが良い成績だったか、悪い成績だったかというのは、自分では判断できない。それは、日本時代と比べたら物足りないと思いますよ。良いとか悪いとかいうのは、ファンの皆さんやメディアの皆さんが判断してくれればいいことだと思います。自分としては、精いっぱい戦って、そういう結果が出たという、ただそれだけです」

 ――今、ヤンキース戦の中継を見ることは。

 「ないですよ。野球はあまり見ていない」

 ――野球全般、見ていない。

 「まあ、ESPN(スポーツニュース)で結果をたまに見るくらいで。中継を見ることはないね」

 ――現在ヤンキースは故障者が続出して苦戦している。もう1年やっていれば、チャンスがあったかなと思うことは。

 「あるわけないでしょ、絶対ないよ、そんなもの(笑い)」

 ――ヤンキース時代の出会いについて。長嶋氏とともに恩師として語られるジョー・トーリ氏は、やはり特別な存在だったのか。

 「それは間違いないですよね。彼との出会いがなければ、ヤンキースでの7年間もなかったかもしれないし、メジャーでの10年間もなかったかもしれない。そのくらい、自分にとっては大きな存在でした」

 ――他の監督との違いは。

 「自分が入った時に、監督だったということもあるし、そこで最大限のサポートをしてくれたということだよね。トーリに1年目で会って、しかも5年間、一緒にプレーできたことは、最高の財産。もちろん長嶋監督にもそうなんですけど、彼には感謝の気持ちしかないですよね。でも、みんな(出会った指揮官は)いい監督でしたよ」

 ――ジーターという選手について。親友であり最高のチームメートという印象だが、20年間のプロ生活でも、唯一無二の存在なのか。

 「うーん。何ていうのかな。野球選手として、チームメートの中では最も尊敬できる選手かなとは思いますね。もちろん、そういう(尊敬に値する)選手はいっぱいいるけど、彼の立場で、毎日全力でプレーして、なおかつファンにもメディアにもチームメートに対してもあの(紳士的な)振る舞いができるという、彼の人間的な大きさというか、懐の深さというか。それを自然とこなす彼の凄さというのは、やっぱりあると思う。彼は野球選手という枠に収まらないよね。数字では語れない選手ですよね」

 ――今の言葉を聞くと、現役時代の長嶋氏が持っていた要素と重なる感じもする。

 「どうなんでしょうね。監督の現役時代を僕は知らないですから。伝え聞いたものや、メディアを通じたものしか分からないけど、同じような期待を背負いながら、常に応え続けたという意味では似ているのかもしれないね。もしかしたらね」

 ――ヤンキース以外の他球団を経験したからこそ分かる、ヤンキースの素晴らしさは。

 「やっぱり勝利に対して貪欲だし、またシビアにそれを求めているし、みんなが同じ考えを共有しているという、そこが違うところじゃないのかな。それはチームの哲学だから。勝ちたいというのはどこのチームも一緒でしょうけど、脈々と受け継がれてきたそういうものが常に存在しているし、そこに携わる人間も常にそれを意識しているという意味では、違うところはやっぱりあるんじゃないですかね」

 ――近況について。いろいろ勉強もしていると聞く。英語なども。

 「英語は、そんなやってないよ。それは多少、勉強もするけど」

 ――会話の練習とか?

 「いやいや、本を読んでいるだけだよ」

 ――英語以外にも。

 「基本的には本を読んでいるだけです。勉強というか、読書。いろんな本を読んで」

 ――今後のステップのために今、やっておきたいと思っていることは。

 「今は、次に向けて何かというものはないよ。今はね。今はリラックスして、何かまたエネルギーが出てきたらその時にね。ちょっとまだ、明確なものはないですよね」

 ――引退会見で話していた草野球は?

 「草野球ねえ…。鍛えていないから、今やったら、体ぶっ壊れそうだよ。やれたら、やりたいけどね」

 ――今年の春、キャンプ臨時コーチの打診があったと聞く。米国の野球に指導者として携わることへの興味は。

 「現時点では、何も考えてないですけどね。まあ、ちょっと今は…」

 ――今年の春に関しては、長男誕生を控えていて断ったと。

 「もちろん。その時は出産間近でしたから」

 ――指導者の道に進むにあたり、日米のどちらがいいかという思いは。

 「指導者に対して自体、まだ何も考えていないから。どっちがいいかという、そこのバランスまでも、まだそこまで(考えが)行っていないから。まあ、今はリラックスタイムですよ。リラックスタイムというほど、暇じゃないんだけど(笑い)。まあ、のんびり」

 ――何で忙しい?家庭内のことで?

 「何だかんだ言って、やることがあるんだよね(笑い)。家庭内だけじゃなくて、会わなくちゃいけない人たちもいっぱいいるし。もちろん、家のこともやれる範囲内のことはやるし」

 ――子供には野球をしてほしい?

 「まだ考えてないね。彼の意思次第かな。やったら教えるけどね」

 ――自身は右打ちから左打ちに変えたが、どちらをやらせたいか。

 「そんなの分からないよ。どっちで打つかも分からないんだから。それは、興味を持ってもらった時に初めて、どうするかじゃない?その時は本人が決めるでしょう」

 ――今後も基本はニューヨークの生活?

 「今は生活の基盤がこっちになっているから。東京にも家はあるけど、今はどうしてもこっちになっちゃうよね。日本に帰ったら帰ったで、それなりに生活仕様を整えなくちゃいけないから。今はどうしても、流れのままこっちにいるけど。まあ、先のことは分からない。自分がね、もし何か(新たな活動を)やったら、その場で暮らすことになるだろうし。それがどこか分からないけど」

 ――その際は家族も連れて行きたい?

 「分からないです。それも状況によると思います」
MLB.jp 朝田武蔵 2013/07/28
ヤンキースと五本の矢 松井秀喜引退「やってみなけりゃ分からない」
 新聞社特派員として、ニューヨークに勤務した七年間、ヤンキースの試合は、欠かさずライトスタンドで観戦した。二〇〇三年、「日本一のホームランバッター」が、MLB随一の名門球団にやってきた。当時、アメリカは戦時下にあった。

 シーズン開幕直前、イラク戦争が始まった。同時テロから、まだ一年半しか経ておらず、摩天楼の街は、テロ警戒の重装備兵と、反戦デモの怒れる群衆で埋め尽くされていた。

 松井秀喜の地元デビュー戦は、「開戦」から三週間後、四月八日の出来事である。厳戒態勢の球場では、荷物検査の列に二時間並ぶのが当たり前だった。あの松井の第1号満塁弾が、スタンドに飛び込んだ時、戦争という特異な精神状態にあったニューヨーク市民は、まるで何かから解き放たれたかのように興奮を爆発させた。

 球場全体に「ゴジラコール」と「マツイコール」が渦巻き、愛国の歌「ゴッド・ブレス・アメリカ」が、猛々しく響き渡った。

 あれから十年。松井が再びヤンキースタジアムに戻ってくる。なぜ、ヤンキースは、一日限定の契約を結び、引退式典という特別な花道を、彼のために用意したのか。常勝球団とはいうものの、ヤンキースが世界一に輝いたのは二十一世紀(二〇〇一年、同時テロ以降)に入ってから一度しかない。その二〇〇九年のワールドシリーズで、松井が手にしたMVPという勲章が、背番号「55」に対する畏敬の念となっていることは無論のことだ。しかし、あの満塁弾が、開戦直後という時代背景の中で飛び出した重要事実を抜きにしては、引退式典の理由は到底理解できないであろう。

 唯一の超大国が危機に瀕していたあのころ、市民は「強いアメリカ」を体現するニューヒーローの登場を求めていた。「ゴジラ上陸」の衝撃は、まさに社会的事件だった。満塁弾の残像は、イラク開戦という米国史と重なり合って、今も市民の記憶の中で踊り続けている。

 六日後には第2号。ライトスタンド三階席に飛び込んだ。「あんなすごい打球を見たのは、レジー・ジャクソン以来だね」。隣席ファンの度肝を抜かれたような表情をよく覚えている。

「僕はやる前から、物事を決め付けるのが好きじゃない。野茂(英雄)さんが、メジャーで騒がれた時(一九九五年)も、『バッターはメジャーで通用しないだろう』と言われたことがあった。やってみなければ、そんなことは分からないじゃないですか。それが言いたい」

 やってみなけりゃ分からないーー。

 それが松井の性分であり、人生の主題だ。

 ヤンキース在籍七年間で140本のホームランを打った。その後、ケガと闘いながら三チームでプレーし、通算175本。「アーチ」とは本来、弓型の放物線を意味するが、スタンドで、その弾道を見ていると、ギリギリと引き絞った弓から、突如、一本の矢が射られ、糸を引くような勢いで迫ってくる緊迫感がある。瞬間、息が止まる。

 175本の矢のうち、「五本の矢」に濃い記憶がある。二本は、第1号満塁弾と、世界一を決めたワールドシリーズ第6戦の先制弾。金色の光芒を放つ矢と言っていい。ほかの三本は世間的な印象より、打撃職人、松井の個人的実感として忘れ難いものかもしれない。いぶし銀的な色彩を持っている。第43号、第67号、第101号――。三本の矢を通して、松井の飛躍を点描したい。

 常々、松井が語る打撃の三原則がある。

 ?楽に、なおかつ正確にスイングする
 ?ゆっくり、ボールを見極める間合いをつかむ
 ?左の軸足から、踏み出す右足にスムーズに体重移動する

「一番難しいのは体重移動ですね。体重移動がうまくいかないから、緩いボールに泳がされたりだとか、詰まったりする。体重移動が常に一定だったら、いいバッティングができるんですよ」

 スイング、間合い、体重移動。そのうち体重移動に、一番の困難さがあるという。ある夏の晩、食事の後、一緒にエレベーターに乗っていた松井が、左足一本で立っていることに気付いた。

「どうしたの? 案山子のまねなんかして」

「案山子じゃないですよ。バランス取ってるんです」

 右足を少し浮かせた松井が左足に全体重を乗せるようにして、ひざを曲げ伸ばししていた。「いかに軸足に重心を残すか。これが本当に難しい」。舞台裏の一風景。案山子の踏ん張りこそが、体重移動の滑りを良くする工夫なのだという。

 レジー・ジャクソン直伝の教えでもある。ヤンキースの永久欠番「44」。通算本塁打563本。一九七七年のワールドシリーズ第6戦で、3打席連続ホームランを放った伝説の男。松井の「MVP仲間」だ。「ミスター・オクトーバー」という名誉ある称号は、今も彼のものだ。松井は二年目のオフ、マンハッタンのバーで、レジーと鉢合わせになった。レジーは薄暗い酒場で、初対面の松井に熱心に体重移動の重要性を説いた。

「その場で、いきなりバッティング教室を始めた。軸足に体重をためろと言ってた。誰でも知ってることだけど、もっと、もっと、ためろということだよね。もっと意識しろということ」

第43号

 先日のオールスターゲームで、松井は解説者として初仕事をした。「対戦した中でビックリするような変化球を投げた投手は?」と問われ、即座に二人の名をあげた。

 ペドロ・マルティネス(サイ・ヤング賞三回)

 ロイ・ハラデー(同二回)

 メジャー移籍後、ペドロは「最初の天敵」であり、ハラデーは「最後の壁」となった。

「最初、ペドロへの意識が一番高かった。メジャーで一番いいピッチャーかもしれないですね。全然打てなかった。凄いなと思いました」

 初対決から17打席ノーヒット。転機は二年目の九月二十四日のことである。試合前の打撃練習。松井は普段通り、バッターボックスに入り、ホームベース寄りの白線と両足が並行になるよう構えようとした。ふと、一瞬の閃きがあった。

 今日は右足を後ろに下げてみようかな。

 左の軸足より、投手側の右足を一〇センチほど引いて構えることを思いついた。

「遊びですよ。全くの偶然です。それまで、体をちょっと開くことに気づかなかった」

 スパイク三分の一ほどの移動幅。足元をわずかに後方に置くことで、ボールの見え方が変わった。初のオープンスタンス。その差が、劇的効果を生んだ。打撃三原則の?、間合いの習得である。

「その練習から、打ちにいく感覚がすごい良かったんです。右足を、ちょっと下げてから、ビューって足を踏み出す。あ、いいな、と思って、試合でも意識的にやってみた」

 マウンドには、ペドロが立っていた。

 投球術の要諦のひとつは、打者の間合いを外すことにある。ペドロほど打者の「読み」を見分ける能力にたけた投手も類がない。速いボールにタイミングを合わせていると見れば、緩いチェンジアップで、変幻自在に打ち取る。間合いの閃きを試す相手として、これ以上の相手はいない。

「そしたらね、ヒット1本打って、ライトのブルペンにホームランも打った。あの時の自信は強いものでした。自分の技術に対して、初めて、か・な・り、自信が持てた。大きかった」

 ペドロからの初ホームラン。それが、第43号だ。

 それからの6試合で、松井は何と5本ホームランを打った。九月三十日には初の3試合連続ホームラン。二〇〇四年のホームラン31本は、メジャー十年間で最高の数字となった。

第67号

 翌二〇〇五年、「4番松井」は苦悶した。打率は2割3分1厘まで落ち込み、202打席ホームランが打てなかった。シーズンの三分の一に当たる長期間である。満塁機では六回続けて凡退。ある日の練習では、冗談好きのキャプテンの目が、さすがに笑っていなかった。松井が打撃ケージに入る時、デレク・ジーターはショートの守備位置についていることが多い。

「僕が打つと、よくショートに打球がいく。ライナーでボーンと……」

 普段ならば、ジーターがすかさずリアクションを返す。
「アブねえじゃねえか、この野郎!」

 が、その日は、打球がショートに飛ばない。

「こっちに打て」

 ジーターが全身を使って盛んに指示を送ってきた。異例のことである。

「マツ」と、彼は松井に呼びかけた。

「お前、いい時は、俺の所に打ってるだろ」

 最後まで体の軸を残せば、打球は左方向に飛ぶ。キャプテンのアドバイス。レジーと同じだ。

「普段はバカなことばっかり言って、どうしようもねえな、コイツ、と思いますけどねえ。あの時は、右肩の開きが早いって言ってくれたんです。信頼って、そんなことの積み重ねですよね」

 六月以降、「松井はクラッチ(勝負強い打者)だ」という評判が、波紋のように、ニューヨークに広がり、揺るぎないものになった。六月十七日から四度の満塁機でことごとくヒットを打った。

「僕、満塁好きなんですよ。ピッチャーが、フォアボール出したくないでしょ。絶対ストライク取りに来るんですよ。だからボールを絞りやすい」。当時、松井はカラリとそう言ってのけた。

 クラッチ認定の極め付けは八月二十三日。1点ビハインドの九回裏。先頭打者の松井が起死回生の同点ソロを放った。チームはサヨナラ勝ち。

 中継のテレビのアナウンサーが興奮気味に叫んだ。「ワールドシリーズ第7戦。9回裏、満塁。1点を追う場面。あなたは誰を打席に立たせたいですか? 私なら、もちろん松井を選びます」

「最も頼りになる男」。野球選手としてこれ以上の賛辞はないであろう。「どんなプレッシャーを受けても、常に落ち着いて見える」「決してパニックにならない」。松井への称賛が、チーム内外にあふれた。その年、満塁の場面で19打数9安打、1死球、1犠飛。打率4割7分4厘。ヤンキースの主軸で、松井は堂々の一位だった。

第101号

 二〇〇七年七月、五年目で初めてア・リーグ月間MVPを受賞した。一カ月で13ホームラン。巨人時代の二〇〇二年、「50」の大台を達成した年の八月、同じく13本を打っている。自己最多タイ記録。メジャーリーガー松井が、初めてニッポンの期待に追い付いた夏。

 最後の壁を乗り越えたのはその直後のことだ。

 実はハラデーは松井が最初に打った投手でもある。二〇〇三年三月三十一日。メジャー初打席の相手がハラデーだった。初球をレフト前ヒット。「最初に打っちゃったけど、その後、何回も対戦して、やっぱりすごかったということ。基本的には全部打てない。最初はラッキーだったんだって、そう思うようになった」。初ヒットの相手が、最後の壁になったという図式が何とも面白い。

 最初の四年間で25打数5安打。打率2割。「ハラデーがいいときは誰も打てない。すごいファーストボール(速球)を持ってる。シンカーとカッターね。シンカーが一番すごいんだろうね」

 松井の体から遠ざかるように滑り落ちていくのがシンカー、懐をえぐるように近づいてくるのがカッターだ。一五〇キロ以上の球が同じ軌道を描き、ホームベース直前で、手元か、向こうにククッと曲がるのだから、話はやっかいだ。

 八月八日のブルージェイズ戦。ついにその時が来た。「最後だけ甘かった」というハラデーのシンカー。松井はバットを豪快に振り下ろすと、熱いものに触れたかのように、今度はポーンと放り投げた。打球はバックスクリーンに消えた。第101号は、松井の両手に忘れ難い感触を残したに違いない。ここまで五年の歳月がかかった。「石の上にも五年? ハハハハ、かかりましたねえ」

 実は、月間MVPの快進撃が始まった七月二日、松井は第43号から三年近く間合いの軸となってきたオープンスタンスを突然やめた。構えた時の右足をバッターボックスの白線と並行にした。全く元の形に戻したわけだ。「ひざを曲げてみたり、オープンスタンスで構えたり、いろいろやったけど、その日は自然に、普通に立ったような感じでやってみた。戻す抵抗? 全然ないですね。いいものを出すためだったら、何でもしますよ。打てるなら右でだって打つ」

 打撃の深淵に触れた「無」の構え。やってみなけりゃ分からない。松井の真骨頂であろう。

「ちょっとしたことで劇的に変わったりするんですよ、バッターは。変えてるのは、木で言ったら枝葉の部分です。僕の根本的な部分は変わらない。大事な所をうまく出すために枝葉をどうしたらいいかを考える」。打者松井の「幹」は不変だ。それが打撃三原則。打席での構えなど「枝葉」に過ぎない。が、枝葉の色艶や成長具合、あるいは風向き次第で、木は突如として印象を「劇的」に変えるのだという。

「スーーッって構えて、そこからギューーッって沈んでいくような感じかな。その方が、何かほら、時間的に取れるような感じがするじゃない」

「スーーッ」「ギューーッ」。擬声語で表現される新感覚が、これまでにない鮮やかな色彩を帯びて体に宿り始めた。「要するに体重移動でしょうね。体重移動がうまくいったから、ボールの見え方もいいし、いいスイングができる。三つ(打撃三原則)は全部リンクしてるわけだから。(七月二日から)体の使い方がいい感じになり始めた」

 打者の仕事とは、ひと言で言ってしまえば、打撃の「円」を独創することである。変幻極まりないメジャーの球に翻弄された松井は二年目の秋、第43号で、独特の間合いをつかむ新段階に踏み出した。そして五年目の夏。第101号。最後に体重移動という最終課題に光明が差し、三原則が矛盾なく重なり合った。「最初の天敵」を打ち崩したのは317試合目。「最後の壁」を破るまで、さらに288試合を要した。

 さて、最初に触れたワールドシリーズ第6戦に戻る。先制弾の相手はペドロだった。第2戦の決勝弾もペドロから打った。メジャー最強右腕と言われたペドロは、第6戦を最後に、二度と再びマウンドに戻ってくることはなかった。松井の野球人生には、こうした劇的要素が極めて多量に含まれている。

 華やぎと、重量感を併せ持った金と銀の矢。「ヒデキマツイ」が放った五本の矢は、一世紀を越える名門ヤンキースの歴史に、今も、ズシリと、深く突き刺さっている。

 やってみなけりゃ分からない。主題は貫いたつもりだ。

(ジャーナリスト 朝田武蔵)
web Sportiva 福島良一 MLBコアサイド 2013/07/28
7・28松井秀喜引退セレモニー。「1日契約」というメジャーの伝統
 7月28日(日本時間29日)、昨年オフにユニフォームを脱いだ松井秀喜氏の引退セレモニーが、ニューヨーク・ヤンキースの本拠地ヤンキースタジアムで行なわれます。ヤンキースは松井氏と「1日契約」を結び、チームの一員としての花道を用意しました。メジャーリーグには、チームに貢献した元選手と1日だけ契約して、過去の栄光を讃えるという素晴らしい文化があります。そこで今回は、過去のさまざまな「1日契約」について紹介したいと思います。

「1日契約」の歴史を振り返ると、1965年までさかのぼります。当時カンザスシティ(現オークランド)・アスレチックスがサチェル・ペイジというニグロリーグ出身の偉大な投手と1日契約を結び、1試合だけ先発させたのが始まりでした。そして、メジャー史上最年長の59歳で登板したペイジは、3イニングを投げて無失点で抑えたという記録が残っています。

 さらに1980年、シカゴ・ホワイトソックスが当時54歳のミニー・ミノーソというニグロリーグ出身のフィールドプレイヤーと1日契約を交わしたという記録もあります。ミノーソは1950年代にホワイトソックスの主力として活躍し、1951年から1953年まで3年連続して盗塁王に輝いた名選手。1949年にメジャーデビューしたミノーソは、1980年の1日契約で打席に立ったことで、5つの年代(1940年代、1950年代、1960年代、1970年代、1980年代)でプレイした史上初の「ファイブデケイド・プレイヤー」となりました。

 近年では2008年、ヤンキースがコメディアンのビリー・クリスタルと1日契約を交わし、オープン戦で1試合出場させた話も有名でしょう。この1日契約は、大のヤンキースファンであるクリスタルの60回目の誕生日を祝うため、球団が発案した粋な計らいでした。クリスタルに渡されたピンストライプのユニフォームの背番号は、年齢と同じ『60』。ピッツバーグ・パイレーツ戦に1番DHで出場したクリスタルは、試合後、「人生で最高の出来事だった」と語っていました。

 また、粋な計らいと言えば、こんな例もあります。2005年、シカゴ・カブスでデビューしたアダム・グリーンバーグという選手は、メジャーデビュー戦の第1打席で頭部にデッドボールを受け、そのまま退場するという悲劇に見舞われました。その結果、グリーンバーグは視覚障害の後遺症に悩まされ、メジャーの舞台から遠ざかることに。マイナーや独立リーグでプレイを続けるも、メジャーに復帰することはできず、2011年にユニフォームを脱ぐこととなりました。しかし2012年9月、グリーンバーグに死球を与えたフロリダ(現マイアミ)・マーリンズが1日契約を申し出て、再びメジャーの舞台に立つ機会を作ったのです。そして10月2日のニューヨーク・メッツ戦、グリーンバーグは7年ぶりにメジャーの打席に立ち、長年の夢を実現させました。そんな素敵な演出にも、1日契約は使われているのです。

 個人的に印象に残っているのは、ジェフ・コナインとノマー・ガルシアパーラの1日契約です。1993年、MLBの球団拡張政策によってフロリダ・マーリンズがナ・リーグに加盟した際、オリジナルメンバーのひとりとしてチームを牽引したのがコナインでした。記念すべきマーリンズの開幕戦で、コナインはいきなり4打数4安打の大活躍。その後も主力選手として打棒を振るい、1997年に当時メジャー最速となる球団創設5年目で世界一になったときや、2003年に2度目のワールドシリーズ制覇を成し遂げたときも貢献し、地元ファンから「ミスター・マーリンズ」と呼ばれるほど根強い人気を誇っていました。その後、コナインは他球団を転々として、2007年に41歳で現役を引退。すると翌2008年3月、古巣のマーリンズが1日契約を申し出て、コナインはシーズン開幕戦の始球式を務め、ファンからスタンディングオベーションで迎えられました。

 一方、ノマー・ガルシアパーラは1990年代後半から2000年代前半にかけて、ボストン・レッドソックスの看板選手として活躍したスタープレイヤーです。1996年にメジャーデビューし、1997年には満票で新人王を受賞。さらに1999年、2000年と2年連続して首位打者に輝きました。しかし2004年7月31日、トレード期限ぎりぎりにシカゴ・カブスへ電撃トレードされることになったのです。これには、地元ファンもショックを隠し切れませんでした。

 しかもその年、レッドソックスは86年ぶりにワールドチャンピオンとなり、ついに「バンビーノの呪い」を解くことになったのです。さらに2007年には、松坂大輔投手や岡島秀樹投手の活躍もあって再び世界一へ。愛するレッドソックスで優勝の美酒に酔いしれたかったガルシアパーラは、一度もその瞬間に立ち会うことなく、2009年を最後に引退する決意を固めました。しかし2010年3月、古巣レッドソックスはガルシアパーラに1日契約をオファー。その結果、最後は愛着のあるレッドソックスのユニフォームを着て引退することができたのです。

 昔の時代は、デビューしたチームで現役を終える選手も少なくありませんでした。しかし1976年のフリーエージェント制度の導入により、スター選手が大型契約を求めて他球団に移籍し、ひとつのチームでキャリアを終えることは少なくなってきました。そのような時代背景がありつつも、最後は古巣に帰って来て引退するのがメジャーリーガーの夢です。1972年から1974年のオークランド・アスレチックス3連覇の主力だったレジー・ジャクソンは、ヤンキースに移籍して大活躍した後、最後は古巣に帰って引退しました。最近の例では、ケン・グリフィー・ジュニアでしょう。シアトル・マリナーズの顔としてブレイク後、シンシナティ・レッズやシカゴ・ホワイトソックスを経由し、最後は再びマリナーズに帰ってきてイチローとも一緒にプレイし、2010年に古巣で引退しています。シカゴ・カブスで名を残したサミー・ソーサも、最後はデビューしたテキサス・レンジャーズに戻ってユニフォームを脱ぎました。ただ、すべてのプレイヤーが古巣に帰って来られるわけではありません。そういうこともあって、1日契約というものが活用されるようになったのです。

 松井氏がニューヨークで過ごした期間は、7年――。決して長いとは言えません。しかし、7年間におけるヤンキースへの多大な貢献が認められたからこそ、1日契約という名誉を手に入れたのです。常勝軍団のヤンキースにとって、最大の目標はワールドチャンピオンのみ。2009年、ワールドシリーズでMVPを獲得した活躍ぶりは、今もヤンキースファンの心にしっかりと刻まれているのでしょう。松井選手はチームを去ってから4年経っても、ニューヨークで絶大な人気を誇っています。

 現地の報道によると、7月28日の日程に決めたのは、今シーズン、ヤンキースのホームゲーム55試合目だからだそうです。実際は雨天中止による延期で今季55試合目ではないのですが、これも粋な計らいだと思います。アメリカでもっとも厳しいメディアとファンを抱える名門ヤンキースにおいて、こんなにも愛された選手はそういません。改めて、松井氏のすごさを感じます。7月28日、ヤンキースタジアム――。メジャーリーガー松井秀喜の最後の勇姿を、しっかり目に焼き付けたいと思います。
ZAKZAK 福島良一メジャーの旅 2013/07/28
英雄はホームへ還る 松井氏ヤ軍と1日契約で引退式
 いよいよ、28日(日本時間29日)にニューヨークのヤンキースタジアムで松井秀喜氏の引退式典が行われる。当日、ヤンキースは松井氏と1日契約を結び、古巣のチームで現役引退させようという粋な計らいだ。

 昔から大リーグはトレードが盛んに行われ、現在はFA制度もある。そのため、一つのチームで生涯を終えるスター選手は少ない。だが、最後は自分がデビューした場所に戻り、最後の花道を飾る選手は多い。

 古くは伝説のホームラン王、ベーブ・ルースが有名だ。1914年レッドソックスに入団し、エースとして君臨。その後、20年ヤンキースに電撃移籍すると同時にバッターへ転向し、ホームランを量産。強打者として不動の地位を築いた。

 34年ヤンキースで監督への道を望んだところ聞き入れてもらえず、契約を解除された。そこで最後は当時ボストンに本拠地があったブレーブスへ移籍。大リーグ通算714本塁打という金字塔を打ち立て、栄光の野球人生に別れを告げた。

 そのルースが持つ不滅の本塁打記録を破ったハンク・アーロンも、最後は自分がデビューした地方都市ミルウォーキーに本拠を置くブルワーズでプレー。自己記録を755本まで伸ばして引退。静かなる英雄にふさわしい引き際だった。

 さらに、史上最高の万能選手と謳われたウイリー・メイズ、歴代1位の通算4256安打を誇るピート・ローズ、「ミスター・オクトーバー」の異名を持つレジー・ジャクソンらも最後は古巣でプレーした。

 とは言っても、やっぱりメジャーは厳しい世界。古巣に戻りたくても戻れない選手だって数多くいる。そこで近年はチームが選手に敬意を表し、多大な功績を称えるために1日契約が始まった。

 米国では昔から「野球の醍醐味はホームに生還する喜びにある」と言われる。これはゲームだけでなく、野球人生にも当てはまる。つまり、最後は自分がデビューした場所(ホーム)へ還るというのがアメリカ流の美学なのだ。 (大リーグ評論家・福島良一)
スポーツナビ 杉浦大介 2013/07/26
NYに生き続ける松井秀喜リスペクト 引退式は“終演”ではなく“続演”へ
メジャーきっての知将から贈られた賛辞の声

「記憶が正しければ、マツイにニューヨークでの好スタートを切らせてしまったのは私たちじゃなかったかな。(本拠地初戦での)グランドスラムで彼はチームを勝利に導き、すぐにヤンキースファンを虜にしてしまったんだ。素晴らしい選手で、とても真摯な男だった。ファンに愛されたのは、彼がこのゲームをリスペクトし、常にそういった態度でプレーしたからだろうね……」
 7月上旬、ツインズのロン・ガーデンハイヤー監督に松井秀喜の現役時代の思い出を聴くと、そんな心のこもった言葉を返してくれた。

 2003年4月8日に松井にアメリカ1号となる満塁弾を許したツインズの指揮官は、ゴジラのメジャーデヴューから引退までをフィールドで見届けた人物の1人。そのガーデンハイヤーが語った“このゲームを尊敬している(respect the game)”“真摯な男(classy guy)”といった言葉は、いわば松井を表現する際の常套文句でもあった。そして、今週末、他にも多くのメジャー関係者から彼に同様の言葉が贈られることだろう。

 松井がヤンキースと1日マイナー契約を結んで行なう引退セレモニーが間近に迫っている。現地7月28日のレイズ戦で、松井は再び背番号55番のピンストライプを背負い、もう一度だけヤンキースタジアムのフィールドに立つ。

ヤンキース指導者としての通過儀礼?

 このセレモニーが近づくにつれ、最近は松井本人が表舞台に出て来る機会も増えて来ている。7月16日に行なわれたオールスターではNHKのゲスト解説を務め、開始前にはシティフィールドのグラウンドに登場。また、今月上旬には、ブライアン・キャッシュマンGMからの願いを受け入れ、スタテン島にあるヤンキース傘下1Aチームの選手たちのために打撃投手も務めた。

「皆さん大げさにとらえていますけど、今回は本当にお手伝い。恩返しというより、後輩たちと汗を流して太らなければいいかなと」
 松井はそう語って“コーチ修行か”と色めき立つ報道陣をかわしたが、本当に単にダイエットだけが目的でわざわざスタテン島を訪れるとも思えない。恐らくこのエピソードは、指導者としての道に興味があること、同時にヤンキースとの関係が依然として深いことを指し示しているのだろう。
 もちろんシビアなメジャーの世界ではコーチ、監督業も能力次第で、松井の指導者としての適正は現時点では知る由もない。言葉の面でハンデもあるだけに、生易しい道ではない。ただ、本人が望んだ場合、少なくともマイナーでコーチ修行のチャンスが与えられたとしても驚くべきではないのかもしれない。

 昨年暮れに行なわれた引退会見の際、正直、筆者は「松井を取材する機会はこれが最後になのかな」と漠然とながら思った。しかし、進路に対する注目度が高まり始めた最近になって、“ゴジラのニューヨーク物語”続演の可能性も少なからず感じ始めている。1日契約を交わした上での引退セレモニーは、ヤンキースキャリアの“終章”ではなく、指導者として次のステージに進む前の通過儀礼に成り得るのか……?

イチローとはどんな形で絡むのか……?

 少々気の早いそんな疑問の答えはどうあれ、詳細は依然として発表されていないセレモニーは、和やかな雰囲気の中で行なわれることになるのだろう。

 イベントに先立ち、ヤンキースの公式機関誌である「ヤンキースマガジン」も10ページに及ぶ松井の大特集を掲載。スポーツ・イラストレイテッド誌に“史上最大級”と称された入団会見から、全盛期は尋常ではないボリュームだった取材メディアへの対応、本拠地デヴュー戦での満塁弾、最強投手の名を欲しいままにしたペドロ・マルチネスとの数度に及ぶ対決、そして伝説的な2009年ワールドシリーズでの活躍……数々のハイライトシーンが網羅されたロングストーリーを読み、改めてそのキャリアに想いを馳せ、同時に引退式を心待ちにし始めたヤンキースファンも少なくないのではないか。

 始球式が行なわれるとして、キャッチャー役は誰が務めるのか? 松井のスピーチの際には、例え一言、二言でも、2009年のワールドシリーズMVP受賞の際にもなかった英語での挨拶はあるのか? たった1日とは言え、ついに同じチームに属することになるイチローとはどんな形で絡むのか……?

上質な数字と鮮やかな記憶は時を超え……

 宝石箱を引っくり返したように華やかなニューヨークにおいて、松井の引退セレモニーを“街中のスポーツファンが楽しみにしている”などと言いたいわけではもちろんない。しかし、当日は先着1万8000人のファンに首振り人形が配られること、松井の知名度が今だに衰えてはいないこともあって、それなりに話題を集めるイベントにはなるはず。何より、同世代を過ごしたメジャー関係者、ファン、選手の中にも、改めてその功績を讃えたいと考えているものは多いはずである。

「ヒデキに私からも宜しく伝えて欲しい」
 ガーデンハイヤー監督の取材の最後に、1991年からツインズのコーチに就任し、2002年から監督として指揮を執り続ける知将からもそんなメッセージを授かった。ベースボール、周囲の人間に敬意を払い続けた選手だから、同じようにリスペクトもされる。上質な数字と鮮やかな記憶は、時を超え、ニューヨークに生き続ける。
 松井にとって、“最後の勇姿”になるのか、単に“1つの区切り”なのかはわからない。いずれにしても、人々から贈られる暖かい拍手の総量は、変わらずに莫大なものになるに違いないのである。
中日新聞 松井秀喜 2013/07/18
エキストライニングズ(9) 選手になりきり考える
 ヤンキース傘下のマイナーチームで練習を手伝うことになった。久しぶりに野球場で動き、やはりいいなと思う。選手時代のような緊張感はないが、グラウンドに立つのは気持ちいい。

 マイナーには大きく分けて四段階あり、僕が通うスタテンアイランドは下から二番目の1A。打撃の力強さも対応力も当然メジャーとは違う。それでも僕は大リーガーを見るときと同じ目線で彼らを見ている。

 以前から他人の打撃を見るときは、いつも自分をその選手に置き換えている。他人になりきり「自分ならこうする」と考える。去年まではそれを自分の打撃に生かしたが、今は最後まで各選手になりきって考える。違いはそこだけで、目線の置き方はプレーをやめても変わらないものだ。

 日本のプロ野球から移籍した僕はマイナーからはい上がったわけではない。ほとんどの選手、コーチや、多くの職員がマイナーを経てメジャーに上がるのが米国の野球文化なら、その姿はつかみきれていない。

 ただ昨年レイズとマイナー契約を結んでいた約一カ月間に感じたことはあった。チームの指導者は監督、コーチで計三人。人がいないのだから一から教えるのは無理。とにかく試合をやって自分で考えろということ。自分で感じ、自分で進化できないと昇格できる選手にはなれない。

 日本でも自分で考えるという基本は同じだが「やれ」と言ってくれるコーチがいる。米国では気が付くと誰かがいなくなっているという感じ。下部組織が大きいからこそできることだろう。ヤンキースは傘下に3Aからルーキーまで計七チームを抱える。選手の淘汰(とうた)が強化に効果的だということは容易に想像できる。

 そんな厳しい世界で戦う後輩の助けに少しでもなれるように練習を手伝い、僕自身も米国の野球を支える大きな裾野から何かを得られたらと思う。 (元野球選手)
スポーツナビ ベースボール・タイムズ 2013/07/11
高橋由伸、38歳の再出発に誓う想い 理想の4番・松井秀喜から教わったもの
再出発の通算301号ホームラン

 打った瞬間、軽やかにバットを放り投げた。

「完璧でした。初めて対戦するピッチャーでどんな球が来るか分からないので、甘いところはどんどん振っていこうと思っていた」

 7月5日の巨人対横浜DeNA戦(東京ドーム)の3回、勝ち越しに成功した直後の1死一塁の場面で打席に入った4番・高橋由伸は、1ボールからの2球目、来日初登板となった右腕・コーコランのツーシームを真芯で捉えた。快音を残した打球はオレンジ色に染まった右翼席中段へ一直線。落下点を見届けた背番号24は、表情を変えることなく、さっそうとダイヤモンドを一周した。

 今季27打席目。昨年8月17日の広島戦(東京ドーム)でバリントンからプロ通算300号のメモリアル弾を放って以来の今季1号ホームラン。
「何とか早く1本打ちたかったですし、これでちょっとホッとしました。毎年、1本出るまでは不安だし、特に今年は時間が空いたからね。早く出てほしいという思いはあったし、このまま出ないのかなという不安もあった」。38歳となった男は、少しシワの増えた目じりを下げながら、心地良さそうに汗を拭った。

38歳、自身初の肉離れ

 宮崎・青島神社に奉納する絵馬に『確固不抜』と記して臨んだプロ16年目。WBC期間中には阿部慎之助に代わって主将を務め、オープン戦でも37打数11安打の打率2割9分7厘で2本塁打と好調をキープ。万全の状態で開幕を迎えた。
 しかし、開幕5戦目、4月4日のDeNA戦(横浜)の第3打席で今季初ヒットを放って積極果敢に三塁を狙った際に、左ふくらはぎ肉離れを発症。顔をゆがめながら三塁ベース上に倒れ込むと、そのまま担架に乗って退場。翌5日に1軍登録から抹消された。

「昔、わき腹を軽く痛めたことはありましたけど、ここまでハッキリと『肉離れです』と言われたのは初めてですね。これまでは骨折とか腰痛とか、そういうものばっかりだったから……」

 多くのけがを乗り越えてきた高橋だが、筋肉系のけがは初めてに近かった。そして最も注意すべきは“再発”だった。

「初めての経験なので、僕自身がどういう風になれば大丈夫、どういう状態になったら復帰できるかということがいまいちよく分からない。再発の危険もあるし、長く休むと他の部分にも影響が出るんじゃないかなという心配もある」

 もどかしさを抱えながらのリハビリを経て、けがから2カ月余りが過ぎた6月15日のイースタンリーグ・千葉ロッテ戦(いわき)で実戦復帰を果たした。同18日からは1軍練習にも参加した。だが、自ら「もう少し試合に出てからの方が良いと思います」と原辰徳監督に“2軍残留”を直訴。球場のロッカーは常に整理整頓され、2人の娘の父親として過ごす自宅でも「気が付いたら片付けをしている。もう少しずぼらでもいいのかな」と頭をかく真面目な男。やるからには常に100パーセント。中途半端な状態で1軍のグラウンドには立ちたくなかった。

かつての「背番号55」と重なる姿

 2軍でのリハビリ中、高橋は戦線離脱中とは思えないほど多くの取材を受けた。
「今までも取材は受けましたけど、特に今年は国民栄誉賞の受賞に関連していろいろと聞かれることが多かった。その中で僕自身、あらためて松井さんのことを振り返って、どういう所がすごかったのかということを考えることが多かったですね」

 昨季限りで日米通算20年のプロ生活から引退した松井秀喜氏が、5月5日に長嶋茂雄氏とともに国民栄誉賞受賞式に出席。チームメートとして5年間プレーし、2000年と02年の2度の日本一の歓喜をともに味わった先輩の“フィーバー”の陰で、高橋は偉大な背番号55の背中を思いつつ、自らをもう一度見つめ直した。

「松井さんは良い時も悪い時も常に変わらないという強さがあった。一緒にプレーする中で、常に平常心でいることの大事さというのを教わりましたね。心の中では一喜一憂しても、それを表には出さない。常に自然体でいるということは心掛けています」

 待望の今季1号ホームランは、自身2年ぶり、先輩・松井が通算470試合にわたって務めた巨人軍の4番打者として放った。「4番としての理想はありますけど、理想と現実は違う」と高橋は言う。かつて圧倒的な存在感を放った“ゴジラ”に自分が変身することはできない。だが、待望の今季1号弾を放ちながらも表情ひとつ変えずに東京ドームのダイヤモンドを一周した姿には、かつての背番号55と重なるものがあった。

「とにかく今日、良い1日を過ごせたらいい」

 プロ16年間の中で最も辛かったのは、腰の手術を受けてわずか1打席のみに終わった09年シーズンに違いない。自身も「腰を手術してからの1年間というのは先が見えないという苦しさがあったのでしんどかった。あの頃はこうして野球をしていることが想像できなかった」と振り返る。
 その上で、「けがをしたことで自分自身にプラスになったこともあったのでは?」と聞いた。それは、けがを経験したことで、逆に大きく成長する選手が多くいるから。一歩引くことで自分自身を客観的に見つめる時間を得ることができるからだ。高橋自身も多くのけがを負う中でさまざまなことを考え、人間として強くなったはず。しかし本人は、笑みを浮かべながらも強い口調で、その説を真っ向から否定する。
「今の時点で何がプラスになったのかは分からない。けがはなかった方が良かった。引退してからそういう時期を経験して良かったなと思える時が来ればいいなとは思いますけど、今のところはまったくない」

 強めた語気には、けがをした悔しさとともに現役選手としてのプライドがにじんだ。確かに年は取った。だが、まだまだやれる。今季初アーチから2日後の7月7日のDeNA戦(東京ドーム)では、5回の第3打席でショートへの内野安打を放つと、6回表の守備では高城俊人の左中間への当たりを鋭い出足で落下点に入り、最後は華麗にジャンピングキャッチ。阿部が4番でスタメン復帰した9日の東京ヤクルト戦(山形)では、打順を6番に下げるも第2打席でライトへ2点タイムリー。攻守に存在感を見せている。

 高橋は言う。
「これといって目標にしている数字はない。とにかく今日、良い1日を過ごせたらいい」

 背番号24。東京ドームで浴びる声援は、誰よりも大きい。その事実に対しても「ただジャイアンツで長くやっているというだけのことですよ」と、男は謙虚に笑う。だが、ファンは分かっている。そして願う。多くの歓喜とともに数々の苦悩を乗り越えて来た高橋由伸の“良い1日”が、少しでも長く続くことを、強く願っている。
NHKスポーツオンライン 高橋洋一郎 2013/07/11
復帰
ヤンキースカラーの濃紺の短パンとTシャツからニョキニョキと出た手足。

ほとんどが90年代生まれ、まだ身体の出来上がっていない選手たちの多い中、一人、がっしりと大きいので一目で分かる人がいた。

ただ目立つのは大きいからではない。
毎日毎日太陽の下で野球をし、きれいに日焼けしている若い選手たちに混じり、たった一人、やけに白いのだ。

気温32度とはいえ湿度は50パーセントを超え、体に感じる暑さと不快感は実際の温度を遥かにしのぐ。
じっとしていても汗が出る。
黙っていても汗が出る。

水辺に位置する球場の遠方にはマンハッタンの高層ビル群が、まるで影絵のようにボーっと浮かんでいる。

マンハッタンから連絡フェリーでおよそ20分の所にあるスタッテン・アイランド。
炎天のもと、ヤンキース傘下シングルAチームであるスタッテン・アイランド・ヤンキースのグラウンドに、松井氏の姿があった。

「松井氏がチームの打撃練習時に投手を務める。」

ヤンキースから突然の発表があったのが、現地7月5日。
5月5日東京での国民栄誉賞授与式以来、初めて公の場に姿を見せた場所、理由に、メディアは色めき立ったものの、本人は暑い中で「太りたくないので」と涼しい顔だった。

コーチ就任どうのこうのではなく、ただの練習のお手伝い、と周りの詮索をさらりとかわす。
チームの練習を手伝うようになって3日目、外野で球拾いをする間も、なまった身体を揉みほぐすようにずっと身体を動かしていた。

吹き出る汗に、照る太陽に、時折顔をしかめながらも、やはりグラウンドに立つ松井氏の表情は真剣であると同時に、喜々としていた。

この日はこれまでで最多となるおよそ160球を休む事なく15分ほどの間、打者に向かって投げ続けた。

ひたすら打者に向かって投げる松井氏と、それをものも言わずにひたすら打ち返す選手。

逆の光景なら何度も見た事はあるが、立ち位置こそ違え、その目つきは同じ。
ただ目の前の松井氏の手にバットはない。
その光景にあらためて松井氏がバットを置いたことを再認識した。

「太りたくないので。」
ダイエットの理由はもう一つあると勝手に邪推している。

実は現地7月16日、ニューヨークのシティーフィールドで行われる第84回MLBオールスターゲームのNHK中継に、松井氏が特別ゲストとして出演する事が決まったのだ。
久しぶりにお茶の間にその姿を見せる事になる松井氏、いつでも人前での身なりを気にする本人としては、少しばかりダイエットの必要を感じたのかもしれない。

ただ、一つの疑問が浮かび上がってくる。
「ずっと投げていて打ちたくなる事はない?」
「ない、ない、今は投げるのが専門。」

松井氏がグラウンドに帰ってきた。

バットを置いたとはいえ、どのような形でか、わからないが、再びバットを手にするのもそれほど遠い先ではないのかもしれない、などど根拠のない思いにとらわれたのは、暑さのせいなのだろうか。
NHKスポーツオンライン 広岡勲 2013/09/09
ベースボールと流血
近頃、同じような夢を何度も見てしまう。
黒い布をまとった大男に襲われ、その場に倒れ込む。
必死に逃げようと試みるが、まったく身動きがとれない。
するともう一人の大男が茂みから現れ、私の足に大きなハンマーくいを打ち付ける。
激痛とともに足から吹き出す血を見て我に返る。
そして悲鳴を発して飛び起きるのだ。
「ギャア~」。
自分で驚いて目覚めるぐらいだから、恐らくものすごい声なのだと思う。

なぜこんな夢を見るのかさっぱりわからなかったのだが、ある友人が良いヒントをくれた。「最近、衝撃的な血を見ただろう。生でもいいし、映像でもいいし。思い出してごらんよ」。なるほど、そう指摘されてみるとあったようななかったような・・。いや、あった!
確かにあった!
言われてみればタイミングも合っている。
その映像を目にして以来、悪夢にうなされるようになったともいえる。
しかも、その映像は大好きな野球でのことだ。
それだけに脳裏に深く勝手に焼き付けられたのかもしれない。

ハービー投手の鼻血

“事件”は、ニューヨークで行われた5月7日のメッツ対ホワイトソックス戦で起きていた。
キーパーソンは昨年から注目されているメッツの若手投手、マット・ハービーという男だ。試合前から鼻をかきむしっていたらしく、直前で鼻くうから血が吹き出し止まらなくなったという。
といってもプレーボールはすぐそこまで迫っている。
ちり紙を鼻につめてマウンドに上がるわけにはいかないし、登板拒否をするわけにもいかない。
一度は止まりかけたかに見えた鼻血だったが、やっぱり力投しているうちに、たらたらと滴り落ちてきた。
いきなりそのシーンだけを見たら思わず卒倒しかねないほどの流血。
とはいえ、当の本人は気にも留めずに淡々と投球を繰り返していたのだから、余計に冷酷さだけが際立つ場面だった。

打球がライアン投手の口に

なにもここで流血の原因について論議をするつもりはない。
グラウンドで命を懸けてプレーする以上、何が起きても不思議ではない。
実は、ハービー投手の力投を見ながら、私の脳裏にフラッシュバックされたもう一つの出来事があったのだ。
今から23年前のこと。1990年9月8日のレンジャーズ対ロイヤルズ戦。
目を覆いたくなるようなアクシデントが起きた。
史上最高の投手と称されるノーラン・ライアンの口に、NFL選手としても活躍したボー・ジャクソンの打球が直撃。
吹き出す血。
どよめくスタンド。
それでも血だらけのユニフォームのライアンは続投を志願し、なんと8回まで投げ抜いた。
試合後、報道陣に囲まれると「これから鏡を見るたびにボーを思い出すだろう」と語ったという。
6針を縫う大怪我だったというのに、である。
なんて格好いい男なのだろう。
実はその血染めのユニフォームで力投するライアンの写真が今でも私の自室に飾ってある。ホラー映画の流血には何とも思わないのに、野球の流血には異常な反応を示してしまう私。
やはり私は“野球病”なのかもしれない。
中日新聞 松井秀喜 2013/07/04
エキストライニングズ(8) 「二刀流」常識に挑め
 プロ野球日本ハムの大谷翔平選手が投手と野手の両方に挑戦している。試合数は少なめだが、打率3割8厘で六月を終えたのはすごいと思う。一流打者でも3割は難しい。それを高卒一年目で、しかも投手も務めながらだから、飛び抜けた能力があるのだろう。一年目の僕に打率3割というのは考えられなかった。

 プロで両方やるという選手は少なくとも近年は聞いたことがない。両方やっていては一流になれないという意見もあるようだが、これまでほとんどいなかったわけだから、無理だということ自体がおかしいと僕は感じる。難しいのは分かるが、前例のないことをいきなり否定できない。可能なら両方続けたらいいし、いずれどちらかに決めるならそれもいいと思う。

 大谷選手のように一軍でいきなり両方通用する選手はそう出てこないだろう。ただ投打同時に取り組ませて見極めるという方法があることを示してくれたのは確かだ。投打とも優れた選手の起用方針を決めるのに今後二軍でそういう育成法は出てくるかもしれない。

 両方いいから両方やってみるというのは極めて単純な考え方だが、球界の常識にはなかった。常識と思われていることを突き詰めれば、中には覆ることもあるのだろう。

 例えば左投げの捕手はいてもいいと思う。左の捕手の三塁送球は考えられているほど大きな障害にならないのではないか。守備位置や投手の起用法などにも、まだ覆る可能性のある「常識」が潜んでいるかもしれない。プレーのことではないが、日本選手が大リーグ入りすることだって以前は常識的にないと思われていたではないか。

 投打両方といえば、巨人でチームメートだった桑田真澄さんや斎藤雅樹さんの打撃の才能はすごかった。二刀流を見てみたかった。「2番・ピッチャー、桑田」とか。あの人なら泥だらけのユニホームでマウンドに上がってくれそうだ。 (元野球選手)