中日新聞 松井秀喜
2013/03/28
エキストライニングズ(1) 野球人生 “延長戦”へ
名将から得たこと生かす
昨季限りで選手生活に区切りをつけた。昨年十二月の記者会見から三カ月、常に野球を第一に考えていた生活が終わり、ほっとした気持ちも、物足りなさもある。ただ引退という言葉は使いたくない。これまでと同じ緊張感と、少し広い視野を持って、野球に向き合いたい。僕がこれから臨むエキストライニングズ(延長戦)に、お付き合いいただければと思う。
会見では、長嶋茂雄監督との出会いがなかったら今の僕はなかったという思いを話した。一方でその後お世話になった監督に触れられなかったのは残念だった。名監督ばかりに導かれた選手生活だった。感謝を込め、まずは監督について話したい。
巨人の原辰徳監督の下でのプレーは二〇〇二年だけだったが、日本一となることができた。原監督は注目を受け止めることが自然とできる人。高校一年時からスターで、常に第三者の目を気にしなければいけない立場だったはず。注目を避けようとする人もいるが、そういうところが一切ない。
巨人で特別な地位を築く人はこうでなくてはいけないと思った。監督と選手としてだけでなく三年間同僚としてプレーし、主力選手のあるべき姿を間近に見られたことも、すごく勉強になった。
ヤンキースのトーリ監督からは何かを押しつけられたことがない。ありのままの自分を受け入れてくれた。
忘れられないのは不振だった一年目の〇三年六月初め。「結果は出ていないけど、働きには満足している」と言ってくれた。そのうえで「少しベースに近づいてみたらどうだ」と。その日僕は言われた通りにし、二塁打三本に本塁打。厳しいが、深い愛情があり、言うことを聞きたくなる。
トーリ監督を含め、ヤンキースのジラルディ監督、エンゼルスのソーシア監督、アスレチックスのメルビン監督、レイズのマドン監督は最優秀監督賞を受賞している。所属した全チームで名将に出会えたのだから幸運としか言いようがない。
僕がどのような道に進むかは分からない。ただ一流の指導者から得たことは必ず役立つはずだ。“延長戦”の途中で、監督一人一人の顔を何度も思い浮かべることになると思う。 (元野球選手)
NHKスポーツオンライン 広岡勲
2013/03/26
広岡勲の大リーグコラム(12)「ロビンソン・カノー」
白昼のマンハッタン、久しぶりに松井秀喜と会った。
しばらくぶりに顔を見ると、普段気づかなかった変化が感じられる。
ましてやこの日は特別だった。
なにせ彼が父親になってから初めて顔を合わせたということもある。
「どう、パパになった感想は?」。
思わず新聞記者に戻った気分で聞いてみた。
「まだ実感はないけれど大変だよ。でも、オレより嫁さんの方がもっと大変だけれど」。
穏やかな語り口が野球選手時代とはまた違う成長を感じさせてくれる。
そういえばある哲学者が「人間の成長はステップで考えることが出来る」と話していたが、松井と会って、話をしているうちにある男の顔が浮かんできた。
ヤンキースの主軸、いや、今はWBCで大会記録の15安打を放ち、見事MVPに輝いた男と表現したほうがいいのかもしれない。
ロビンソン・カノーである。
彼との出会いは2005年の5月だった。
当時、彼は22歳。マイナーでの活躍が認められての昇格だった。
まだ、あどけなさが残る青年は人なつっこく、イタズラ好きでジョークばかりを飛ばしていた。
僕が受けた第一印象は「とにかくよく笑う」だった。
それほど英語は得意ではなかったが、松井が引き連れた大勢の報道陣によく話しかけ、いつの間にか多少の日本語を身につけていた。
今にして思えば、屈託のないあの笑顔に日本報道陣もどれだけ癒されたことだろうか。
彼の飛びっきりのスマイルは間違いなくチームを和ませてもいた。
打撃センスについては当時から頭角を現していた。
持って生まれた選球眼。
柔らかい筋肉。広角に打ち分けるシュアな打撃は爆発し、すぐにレギュラーポジションを獲得するまでに至った。
しかし、一方で、コーチ陣を悩ませたのが守備の凡ミスだった。
何気ないゴロを粗雑なプレーでファンブルしたり、悪送球を誘ったり。
デーゲームのあとなどは、よく一人だけグラウンドに引っ張り出され、「もっと丁寧に!」「もっと落ち着け!」とペーニャコーチから叱られて(指導されて)いたのを思い出す。
あまりの落ち込み方に僕が「気にするなよ」と声を掛けると、今度はまたあの笑顔でニヤリ。
何とも憎めない奴だった。
大リーガーの階段を着実に上る一方で、カノーは慈善事業にも力を入れ始めた。
意外に知られていない話なのだが、彼は母国ドミニカ共和国に救急車を送るプロジェクトを立ち上げている。
きっかけは彼の親友の死だった。
親友の乗っていたオートバイがジープに激突、しかし、救急車がなかったために応急処置も受けられず、そのまま息を引き取ったとのことだった。
カノーは大きなショックを受けた。
しばらく食事がのどを通らなかった。
彼の心の中には無念といらだちが交錯し始めた。
「もし、あのとき救急車がかけつけてくれていたら、親友は助かったかもしれない」
「救急車さえあったら・・」。
そして、その思いはいつしか、「オレがふるさとに救急車を運んでやる」に変わっていたのだった。
当時の彼のサラリーでは高価な救急車を購入することは出来ない。
だが、今は違う。
「親友を亡くしたつらい思いを他の人にはさせたくないんだ」。
打撃技術とともに、カノーは着実に真の大リーガーとして成長を遂げていた。
あれから8年。
ロビンソン・カノーは大リーグの看板選手になった。
WBCではドミニカ代表チームのまとめ役として後輩の面倒を見ていたとも聞く。
「しかし、カノーは本当に成長したよな」。
僕の問いに松井秀喜も深くうなずいていた。
NHKスポーツオンライン 広岡勲
2013/03/22
広岡勲の大リーグコラム(11)「キャプテンの手腕~WBCを終えて~」
日頃は小さな文字で埋め尽くされているスケジュール帳だが、3月21日までは空白にしてあった。およそ3週間分のスペースには「WBC」の3文字だけ。
結果的には、プエルトリコ戦後に書きかえることとなった。
「日本代表広報統括」の話を頂いた時、「10年間、日本の野球をまともに目にしていない自分がこんな職務を引き受けてもいいのだろうか」とさえ思ったのだが、大会が終わった今、まるで留学生活から帰国したかのような、ひと勉強終えたような自分がいることに気づいた。
もちろん、準決勝敗退の事実はつらい現実だ。
応援して頂いた方々からはさまざまなご意見があるかもしれない。
しかし、「よくここまで頑張った。よく決勝トーナメントまでこぎつけた」が代表チームに帯同させて頂いた僕の率直な感想である。
スポーツ記者をしていた経験から言わせてもらえば、どのような敗因をあぶり出したところで、すべては結果論に集約されてしまう。
また、メディアというフィルターが必ずしも正しいものとは限らない。
実際、中にいても(取材される側)、すべてが分かるというものでもない。
ベースボールというスポーツはラグビーボールのようにどこへ転がるか分からない不測の事態がファンを魅了する要素を持ち合わせている。
つまり、スポーツ記者がよく「野球の神様」という表現を使うのもそういう理由があるからだ。
さて、それでは「お前は何をひと勉強したのだ?」と聞かれそうだが、端的に言おう。
僕が感銘を受けたのは阿部慎之助というキャプテンの手腕だ。
「よくぞここまでナインをまとめあげ決勝トーナメントにまで引っ張ってきた」と思わずにはいられない。
もはや読者には彼について語ること自体が失礼なのかもしれない。
ただ恥ずかしいかな僕は3週間前までこの日本の強打者の実像を知らなかった。
まさに“浦島太郎”だった。
それだけに彼の言動、技術、野球に対する考え方を目の当たりにした時、驚きと喜びが一気に押し寄せたことを憶えている。
‘キャプテン’が抱えるさまざまな事柄と対峙しながらも、連日、一生懸命にナインをまとめあげ、勝利に向かってまい進する真摯な態度は、プロ野球の現場に10年間のブランクがある僕にさえ十分に見て取れた。
現役大リーガーが一人もいないという事実、統率者であるべき代表監督の人選がもめたという背景、およそ300人近い報道陣に連日追い掛け回されるという異常現象、自チームの巨人から7選手が選抜された過程、こうしたことをキャプテンはどんな思いで受け止めたていたのだろうか。
日の丸を背負うことへのプレッシャー、日本代表4番打者としての重責を感じながらも、選手やスタッフに常に心遣いを忘れることなく、すべてのベクトルを同じ方向へ向けさせようとする強い心意気をさまざまな状況で見させてもらった。
その姿はニューヨーク・ヤンキースのキャプテン、デレック・ジーターにも重なって見えた。
こんなことを書いたら日本の野球ファンや所属チームから怒られそうだが、彼の打撃センスなら間違いなく大リーグで成功する。
いや、ヤンキースのクリンナップを打てると確信した。
準決勝の対プエルトリコ戦。
試合後の日本代表ベンチはため息に包まれた。
悔し涙を流す選手、ぼう然とグラウンドを見つめる選手、そして放心状態のスタッフ陣・・・。
だが、そんな状況の中で、声を振り絞る選手がいた。
「みんな、グラウンドに出るぞ。整列して挨拶するぞ」。
阿部だった。
キャプテンの合図とともに日本代表ナインは三塁側ベンチに並び、深々と頭を下げた。
日本代表のキャプテンは身を持って、スポーツマンシップを示してくれた。
NHKスポーツオンライン 広岡勲
2013/03/14
広岡勲の大リーグコラム(10)「WBCで対戦する運命になろうとは・・・」
「WBC日本代表広報」の職を引き受けた時、僕の頭をよぎったことがある。
そして、過日、それが現実となってしまった。
ご存じのとおり、第2ラウンド初戦の対戦相手は台湾、先発は王建民投手。
かつて、5年にわたりニューヨーク・ヤンキースでチームメートとして、また友人としても親交が厚かったナイスガイだ。
当時、球団広報兼環太平洋担当だった僕は彼と彼が連れてきたおよそ30人の台湾メディアとほぼ毎日フィールドで顔を合わせたものだった。
王投手入団1年目、普段はホワイトハウスに詰めている女性リポーターまでもが押しかけ、あのヤンキースタジアムの芝生の上をハイヒールで駆け回ることもあった。
あまりのフィーバーぶりに、王投手本人も困惑し、収拾がつかない状況にすらなっていったのだ。
彼が野球に集中できる環境をつくるために何度もミーティングを開き、ともに問題点を解決していくのが当時の重要ミッションだった。
そうした中、彼との信頼関係、そして友情が芽生えたと自負している。
オフには台南の彼の家に招かれ、家庭料理をごちそうになったこともある。
彼がナショナルズに移籍してからも、もちろん僕は心の中でずっと応援し続けてきた。
右ひじ手術に直面した時は「負けるな」としった激励し、長い期間のリハビリ生活を余儀なくされた時には「ヒデキも『リハビリは嘘をつかない』と言われて頑張ったよ」とエールも送った。
松井秀喜の引退の報を聞きつけると「なぜ? まだプレー出来るよ。悲しいよ」と連絡してきてくれた。
しかし、そんな彼と今度は戦わなければいけなくなった。
これまでの経緯を知っている台湾メディアからは「イサオさん、今度は敵チームだよ。王にメッセージはありますか?」との質問。
思わずはっとさせられながらも「王にはいいピッチングをして欲しいよ。でもゲームでは日本に勝って欲しい。いや、勝つぞ」と答えるのが精いっぱいだった。
それだけに気を使った。
本来なら真っ先に会って、世間話の一つでもするところなのだが、登板前にはあえて接触しないことを決めた。
王は心優しい男である。
変な気遣いをさせたくなかったこともあるが、真剣勝負の大一番前に敵と味方がなれ合うことはあまり好ましくないのではないかという僕自身の考え方もあったからだ。
さて、当日の王投手のピッチングだが、ストレートの威力は全盛期と比べれば落ちたものの、得意のシンカーで日本打線を翻弄。立ち上がりこそ走者を出したが、回を重ねるごとに本来のピッチングを披露し、先発6回を6安打無失点に抑えた。
打席を終えてクラブハウスに戻ってきた阿部主将(読売巨人)は開口一番、「シンカーが切れる」と。
井端選手(中日)は「あんなボールを投げるピッチャーは日本にはいない」と驚きを隠せなかった。
しかし、である。
王が降板したその後、日本代表は大舞台を演じる。
死闘4時間37分。
延長10回、中田選手(日本ハム)の決勝犠飛で決着した一戦は、まさに歴史に残る大試合となった。ちなみに最高瞬間視聴率は43パーセントをマークした。
試合後、ピッチャーマウンド付近に集まって、スタンドの日本ファンと台湾ファンに深々と頭を下げる台湾ナインのマナーには称賛の声さえ起こり、まさに‘世界一’をかけて戦う試合にふさわしい一戦だった。
翌日、試合前のクラブハウスに王を訪ねた。
「昨晩はとても残念だったけれど、ナイスピッチングだったよ」。
王は「ありがとう。でも、勝ちたかった」。
それからというもの、在籍していたナショナルズのこと、最近の大リーグのこと、右ひじのこと、投球フォームのこと、台湾にいる家族のこと、台湾メディアのこと、松井のこと、日本プロ野球のこと、今後のプランのこと・・など、これまで我慢していたものをすべて吐き出すかのように世間話に花を咲かせた。
帰り際、王が言った。
「チャンスがある限り、チャレンジしたい。チャンスがある限り、ずっと」。
僕自身、まだまだ王の力強いピッチングを見たい。
出来れば、大リーグのマウンドで。
今度こそ、大手を振って応援したい。
NHKスポーツオンライン 広岡勲
2013/03/05
広岡勲の大リーグコラム(9)「春季キャンプ地での運転は気をつけてください!」
この時期になると、フロリダ州とアリゾナ州がいつになく活気づく。
そう、大リーグのキャンプ地がある両州にスポーツメディアと野球ファンが全米各地から一斉に集結するからだ。
家族連れや観光客の姿もかなり見受けられる。
そんな中、米紙ニューヨーク・デーリーニューズが3日、ヤンキースのイチロー選手が乗用車を運転中に交通事故に巻き込まれたと報じた。
同紙によれば、現地時間の2日、ヤンキースのキャンプ地があるフロリダ州タンパで市内を走行中、左折しようとした女性の車と衝突。
車には破損が見られたという。
幸い同選手にケガはなく、翌日の練習には「見ての通り大丈夫です」と元気な姿をファンの前に披露した。
だが、初めてニュースを耳にした時、僕は心底からどきっとした。
イチロー選手自身はもちろんのこと、チームメートやジラルディー監督、そしてドノヒューチーフトレーナーの心配と動揺ぶりが目に浮かんだからだ。
大事に至らなくてよかった。
本当に無事でよかったと思う。
今だから言えることなのだが、実は僕がヤンキースに在籍していた頃、松井秀喜も同様の体験をしたことがある。
彼が入団して2度目のキャンプを迎えようとした時だった。
まさに季節も今頃、場所もタンパ。
空港でレンタカーを借りて、車のハンドルを握り、少しばかり走った頃だった。
「STOP」の標識で一時停止していると、後方からコツン。
軽く衝突されたのだ。
その時もドライバーは女性で、高齢の方だった。
幸い大事には至らず、すぐにキャッシュマンGMへ連絡を入れ、トレーナー室で治療を受けることが出来たのだが、「タンパへ到着した当日に車にぶつけられるなんて。ついているんだか、ついていないんだか。ヒデキはここフロリダでは、ヘルメットを被って運転してくれ」とその時もドノヒュートレーナー(当時はアシスタントトレーナーだった)からジョークを飛ばされた。
ジョークで済んだからよかったものの、正直、今、考えただけでもぞっとする出来事だった。
何かの本で読んだことがある。
事故が偶然によって起きるものならば、われわれの手で左右することはできない。
しかし、事故が必然によって起きるものならば、われわれの手で左右することはできると。
ただ、ここからはあくまで勝手な私見なのだが、これらの二つの出来事を単なる偶然の一言として片づけてしまうには、あまりに安直過ぎると思えてならない。
理由は4つある。
まずは大リーグではこの春季キャンプ中、選手自身がハンドルを握らざるをえない事情が存在する。
ほとんどのチームでは集合場所をキャンプ地としており、よってそこまではマイカー通勤しなければならず、選手・スタッフ、関係者には各自、駐車スペースが与えられることになる。
試合で遠征に出かける時はさすがにナイン、スタッフはチャーターバスに乗り込み移動となるが、ここ車社会のアメリカでは「僕は免許証を持っていません」では済まされず、日本のプロ野球球団のように「キャンプ中は運転禁止」というわけにはいかないのだ。
2つ目には、道路事情の不慣れさが挙げられる。
同じチームに何年も在籍しているベテラン選手でさえ、キャンプ地に来るのは年に一度。
日本から来たばかりで土地勘のない選手には気持ちに余裕などできるはずもなく、不安感はドライバーの平常心さえ奪ってしまう。
また、日本とは異なる右側通行左ハンドルといった交通事情も重なり、異国の地で安全運転を心掛けるということは極めて簡単ではない状況でもあるのだ。
3つ目には、キャンプ地において選手はほとんどレンタカーを使用していることが指摘される。
普段から乗りなれたマイカーならともかく、ハンドルを握る車のほとんどが現地で調達するレンタカーである。
トーリ前監督やジーター選手のようにニューヨークからわざわざトレーラーでマイカーを運んで来る人はまずまれで、現地に来て初めて球団から手配された車種と対面することになる。
選手によっては苦手な車種やメーカーもあるようで、エンジェルルス時代は車のチェンジを希望する人も少なくなかった。
そして、最後に挙げられるのは、アメリカ人の運転技術が平均的にそれほどではないこと。
免許を取得する過程に問題があると僕は思うのだが、ほとんどの州では16歳から運転資格を得ることができ、ペーパーテストさえパスすれば、その場で仮免許証が与えられる。
そして、親や雇用した指導員を従え、空き地や公園で練習を行う。
実地試験にパスさえすれば、ただちに免許証が送られてくるのだ。
日本のように教習所システムは存在せず、要は実地試験にパスさえすれば、たやすく免許証が手に入る仕組みとなっているのだ。
ということは、未熟なドライバーが街にはあふれかえっていると思ってもおかしくなく、いくら自分の運転技術に自信がある人でも事故を防ぐことは簡単ではないというのが僕の持論だ。
大リーグのキャンプ地では、間もなく本格的なオープン戦に突入する。
選手はもちろんのこと、関係者並びにファンの皆様には、自動車事故にくれぐれも注意して頂きたいと願わずにはいられない。