NHKスポーツオンライン 広岡勲
2013/02/26
広岡勲の大リーグコラム(8)「野球は野球場に足を運んで楽しもう」
先日、特別賞を受賞した松井秀喜のコメントを代読するため、都内で行われた「第22回東京スポーツ映画大賞」に出席した。
その中で、審査委員長のビートたけしさんがこんな話をされていた。
要約するとこうだ。
「時代の流れなのかもしれないが、近ごろは映画を携帯サイトで見る人が増えてきた。ヘッドホンをして、小さな画面で。映画がネットで配信出来ること自体に問題があるのかもしれないが、映画を作っている側の立場から考えると・・」
音声担当の気持ちやカメラマンの苦労を察すれば、そんな見方をされたのではたまったものではない。
たけしさんが本当に伝えたかったことは、“本来の映画のあるべき姿はそんなものではないんだ”という嘆きだったように思う。
これには僕も同感だ。
実際、映画というものは大スクリーンの映画館で、ポップコーンを食べながら、一人で、家族で、恋人と楽しむべきもので、家庭では味わえないような迫力と音響を堪能する娯楽、芸術だったはずだ。
確かに国内の劇場減少は明らかにファンのニーズを狭めてはいる。
しかし、上映中、いや上映直後の作品を即座に携帯サイトやDVDで見るのは、少し違うような気がしてならない。
恐らく読者の中には、こう思っていらっしゃる人もいるだろう。「だって、広岡。時間を節約出来るどころか、金額も安い。そして何より手頃。わざわざ映画館へ行く必要性なんてないじゃないか」と。
だが、それでも僕は声を大にして言いたい。
いや、それは違うと。なぜなら映画の本当のだいご味、作品の本質は映画館でしか味わうことが出来ず、製作者はあくまで劇場公開することを想定して作品を仕上げているからだ。
これは何も映画に限った事ではない。
もちろんベースボール、野球の世界においても同じことがいえる。
かつて、シーズン前のキャンプ地でヤンキースのデレック・ジーターからこんな質問をされたことがある。
「なぜファンはボールパークへやって来ると思う?」。
僕は真剣に答えた。「プロの迫力あるプレーを生で見たいから」。
「なるほど」といった顔をしながらも満足気な表情で彼はこう切り出した。
「惜しいなあ。オレの答えはこうだ。ファンはここに夢を堪能しに来るのだ」。
しばし、呆然となった。
ジーターがそんな哲学的な解釈をしていたとは、正直思いもしなかったからだ。
ただ、確かに名画「フィールドオブドリームス」ではこんなシーンがある。
主人公のケビンコスナーが伝説の選手シューレス・ジョーの幽霊に「ここは天国なのか」と問いかけると彼が答える。
「いやアイオアさ」。
そして、主人公が続ける。
「天国はあるのかい?」
すると「あるとも。そこは夢のかなう所だ」と続く。
そして、最後に主人公はつぶやくのだ。
「じゃあ、やっぱりここは天国かもしれない」。
ジーターが言いたかったことも恐らく、そういうことだったと記憶している。
しかし、そこからが彼の真骨頂だった。
「では、夢をかなえる場所で、われわれプレーヤーに出来ることは何だと思う?」。
即座に「勝つこと」と答えた僕にニャッと笑みを浮かべるとこう返した。
「全身全霊でプレーすることさ。その思いはボールパークに足を運んでくれるファンには必ずや伝わるはずだから」。
ジーターの原点はまさにこの言葉にあるといっても過言ではない。
テレビでは決して伝わらない、いや、伝えることが出来ない事柄は山ほどある。
例えば、階段を上がってグラウンドが目に入った時の高揚感。
内野手のカバーの素早さ。
選手の大きな体。
スタンドのヤジ。
ライナーで突き刺さるファールボールの怖さ。
ホームランの滞空時間。
軽いフォームから異様な伸びを見せるキャッチボール。
ファンとの一体感。
カクテル光線に照らされた青々とした芝生。
昼は青空、夜は星空。・・・
それこそあげたらきりがない。
ただ、言えることは生で見る喜びは何より心と体で感じられることだと思うのだ。
私見ではあるが、ボルティモア・オリオールズの本拠地、オリオールパーク アット カムデンヤーズのグラウンドキーパーは見ているだけでも楽しい。
雨が降ろうものなら、女性のチーフが号令を発し、若者男子が一斉に防水コートをグラウンドに敷く。
その速さはわずか数分。
機敏な動きと洗練された技術はまさに一見の価値ありだ。
野球愛好家として知られる郡山女子大学の小阪康治教授は言う。「本物に触れるために、本質を探るためには、やはり現場に足を運び、何が価値であるかを洞察することが重要なのです」。
やはり、映画は映画館で、野球は野球場で楽しんでもらいたい、そう願わずにはいられない。
NHKスポーツオンライン 広岡勲
2013/02/19
広岡勲の大リーグコラム(7)「トーリ監督への挑戦状」
まもなく第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)が始まる。
そんな中、先日、デトロイト・タイガースのサイヤング賞右腕で、米国代表入りを目されていたジャスティン・バーランダー投手(29)の出場辞退が明らかになった。
タイガース関係者に確認したところによると、バーランダーは米国代表の一員として、初めは出場する意思はあったものの、「体の状態と相談した結果、やはりレギュラーシーズンに向けた調整を優先したい」との結論に達したという。
米国代表のジョー・トーリ監督にもその旨は伝えられ、指揮官はすんなりと受け入れたという。
ここでWBCの出場有無に関して議論するつもりは毛頭ない。
なぜなら、開催時期が開幕前の重要な時期である限り、各国のプロ野球組織はこの問題と対じせざるをえないからだ。
「国の代表の誇り」と「ペナントレース直前の調整」は比較対照すること自体が誤りであり、選手の決断をとやかく言うべきではないと思っている。
また、各国の野球に対する過熱度や注目度、そして事情といったものはその国によって異なり、グローバル的な見地からはすれば、一緒くたにすることは出来ないのだ。
ただ、バーランダーの辞退を耳にした時、人の縁とはつくづく「不思議なものだな」と思わざるをえなかった。
周知の通り、第1回大会の2006年では松井秀喜が出場を辞退した。
その直後、メディアからバッシングを受け、当時、広報担当をしていた僕も責任を感じずにはいられなかった。
今だから言えることでもあるのだが、その時のキーパーソンも実はトーリ監督だった。
2005年のシーズン終了後、彼は松井と僕を旧ヤンキースタジアムの監督室へ呼び寄せると、こう問いかけた。
「ヒデキ? WBCは日本代表でプレーするのか?」。
そして、松井に考える時間を与えることなくたたみかけた。
「ヒデキの意思は尊重したいが、ヤンキースのチームを預かる指揮官としては、(出場することを)勧める気にはなれない」。
また、彼は僕に向かってこうも言った。
「ヒデキをしっかりと(メディアから)守ってやれ」。
そして、2か月後、今度はフロリダ州タンパのキャンプ地にあるスタインブレナーフィールド(旧レジェンズフィールド)の監督室に二人を招くと、彼はつぶやいた。
「つらい思いをさせてしまった。申し訳なかったな。でもオレはヒデキの決断と勇気を誇りに思う。本当にすまなかった」。
今にして思えば、松井を思いとどませるための彼流の作戦だったのかもしれない。
誤解されないためにも断っておくが、僕は決してここでトーリ監督を責めているわけではない。
なぜなら、最終決定を下したのは、ほかでもない松井自身であるからだ。
あれから8年。
トーリ監督は米国代表の監督に就任した。
そして、僕は大会本線の日本代表のメディア・広報担当に任命された。
時を経て、立場を変えて、今度はグラウンドで戦うことになった。
最近、彼は近い関係者にこう語ったという。
「この大会を真の国際大会という位置づけにするためにも、米国代表は負けるわけにはいかない。日本の3連覇を阻止しなくてはならない」と。
だから、近いうちに指揮官にメールを送ろうと思っている。
「世界一はサムライ・ジャパンがいただく。トーリUSAには絶対に負けない」と。
NHKスポーツオンライン 広岡勲
2013/02/12
広岡勲の大リーグコラム(6)「ベースボール映画の醍醐味」
先日、ニューヨークから羽田行の機内で映画「マネーボール」(製作2011年)を見た。
恐らく、この映画を見たのは10回を超えるかもしれない。
初めて目にしたのはオークランド・アスレティックス球団事務所の広報室だった。
まだ映像の左上画面には秒速時間が表示され、配給会社からこっそり手渡されたものだった。
映画のモデルが当該球団のGMビリー・ビーンとあって、ボブ・ローズ広報部長の目も映画を見るというよりは映画をチェックするという趣に置かれていた。
恐らくスタッフのなかで、映画を映画として楽しんでいたのんき者は僕だけだったかもしれない。
鑑賞後、「ブラッド・ピットが演じれば、誰でも格好よく見えちゃいますね」と漏らした感想に、ボブは苦笑いしながらも「イサオ、そんなことビリーには絶対言ってはだめだからね。あっ、それからメディアにも」と少し真剣に話していたことを思い出した。
これもいわゆる一つの映画の魅力なのだろう。
一つの作品を通して、見るたびにさまざまなエピソードや感想、そして、それにまつわるささいな出来事を思い出す。
時にはそのシーンから。
時にはそのセリフから。
特にこの作品は実際、球団職員として現場にいた時に制作、公開されたこともあり、感慨深い1本となっている。
ヤンキースに在籍していた頃、移動中のチャーター機内でマイク・ムッシーナ投手(2008年引退)と映画談議に花を咲かせたことがある。
初めは「映画は好き?」という単なる世間話程度の会話だったのだが、やがてそれは「好きな野球映画は?」というトピックとなり、気がつくと二人でそれぞれの作品について熱く論じあっていた。
恐らくかなりの数の野球映画(外国)が話題の中心になったと思う。
「エイトメン・アウト」、「打撃王」、「オールド・ルーキー」、「ナチュラル」、「ミスター・ベースボール」、「さよならゲーム」、「メジャーリーグ」、「フィールド・オブ・ドリームス」、「タイ・カップ」、「夢を生きた男/ザ・ベーブ」、「ラブ・オブ・ザ・ゲーム」・・。
スタンフォード大学出身の自称“野球映画おたく評論家”ムッシーナ氏によると、「アメリカの野球ファンは大体、『ナチュラル』派か、『フィールド・オブ・ドリームス』派に分かれるのだ」という。
確かにともに2作品は興業的にも大成功を収めた。
また、主演もかたやロバート・レッドフォードとグレン・クローズの名優、かたやケビン・コスナーの大物スター。
監督は「レインマン」で知られるバリー・レヴィンソン氏と脚本家として名高いフィル・アルデン・ロビンソン氏、ある意味で対照的なキャストともいえる。
しかし、彼によると「大別される理由は映画を見終わったあとの余韻の違いなのだ」と言う。
「ともにテーマは親子のキャツチボール。ひとつは見終わった直後にぐっとくる感動があるけれど、もう一方はあとからじわじわと感動がやってくる。この余韻の違いがファンの心を揺さぶるんだよね」。
そこで、どちらがじわじわで、どちらがぐっとくるものなのか、彼に再度、問いただしたところ「それは見ている人が決めるものさ」とすっかり映画評論家の口調に。
僕からすると両方ともぐっとくる作品だっただけに、あまり彼を刺激しないように試みたつもりだったのだが、彼の次の質問の答えは痛く彼を刺激してしまったようだった。
「ところでイサオの一番好きな野球映画は何?」。
僕は答えた。「ワンカップオブコーヒー」。
ムッシーナは言った。「それって、日本映画?」。
「いや、アメリカ映画だよ」。
「いつ頃の作品?」
「1990年ぐらいだったかな」「・・・・・」。
確かにあまり有名な作品ではないようだ。
ただ僕のなかでは鮮烈な輝きを放っている。
まだ、報知新聞社の野球記者になりたての頃だから1991年頃だっただろう。
仕事の合間を縫って、都内の映画館で鑑賞した際、魂が揺さぶられたのをはっきりと記憶している。
内容はいたってシンプル。
「ワンカップオブコーヒー」という題名が示すように「一杯のコーヒーを飲むぐらいのわずかな時間」だけ大リーグに在籍していたが、今は落ちぶれた中年野球選手と、前途有望な少年の交流をしみじみと描いたものだ。
ただ、中年野球選手が白人であり、有望な若手選手が黒人という配役と1957年という時代設定を見る限り、明らかに少年は黒人初の大リーガー、ジャツキー・ロビンソンと推測され、映画のテーマには社会的なメッセージも盛り込まれていたものとみられる。
それぞれのシーンは実にリアルで、野球をこよなく愛した男とその意思を継ぐ者の物語に仕上がっている。
映画のなかで、主人公の中年野球選手に若手のマイナー選手が集まって、のめり込むように大リーグのすばらしさを聞き入るシーンがあるのだが、彼らの目の輝きと夢に向かって突き進む男たちの顔は感情移入せずにはいられない。
昨年、松井秀喜がタンパベイレイズのルーキーリーグからスタートし、若手選手と泥まみれになりながら練習を行ったが、クラブハウスやロッカーでそのようなシーンを何度も目撃した。
まさか、映画のシーンが時を経て、実際、自分の目の前で起こるとは想像すらもしなかっただけに、一人、グラウンドで感動を抑えられなかったのを憶えている。
この作品があまり有名ではない理由が2つある。
一つは自主制作という形で撮影されたことと、興業的にもさることながらDVD化されていないこと。
VHSでは手に入るようだが、実際、見ようと思ってもなかなか見られないようだ。
僕は自称“野球映画おたく評論家”に言った。
「手に入ったら、持ってくるからね」。
だが、この原稿を執筆しながらも、いまだにその約束を果たしていないことを思い出した。
羽田からニューヨーク行の機内で、「人生の特等席」(製作2012年)という映画を見た。
名優というより、今では名監督として知られるクリント・イーストウッド主演の野球映画である。
今度は彼が野球の老いぼれスカウトマンを演じていた。
ベースボールと映画。
大リーグの奥深さは、単に野球を見せるというパフォーマンスだけにとどまらず、芸術の領域にもしっかりと腰を落ちつけているところにもあるのかもしれない。
NHKスポーツオンライン 広岡勲
2013/02/05
広岡勲の大リーグコラム(5)「ボランティアの核心」
今年も彼からの招待状が届いた。
この時期になると「そういえば、今年は・・」とついつい気になってしまうのが、元ニューヨーク・ヤンキース監督のジョー・トーリ氏の慈善事業活動「Joe Torre Safe at Home Foundation(家庭内暴力救済基金)」のパーティーだ。
今回は昨年10月末に米国東部を襲ったハリケーン「サンディ」の影響で遅れに遅れていたのだが、先日ニューヨーク市内で無事に開催された。
早いもので、今年で10回目を数える。
トーリ氏のことをアメリカの師匠と仰ぐ松井秀喜は2008年から5回連続の出席で、デレック・ジーターや往年の選手はもちろんのこと、毎回豪華なゲストが飛び入り参加し会場を沸かせる。
これまでにもマライア・キャリー、ポール・サイモン、ジョン・ボンジョビ、ブルース・スプリングスティーンなど、そうそうたるアーティストがトーリ氏の電話1本で駆けつけたというから、その規模と力の入れよう、そして影響力がうかがい知れる。
大リーグで仕事をするようになってから確かに、いろいろなことに心を動かされた。
ただ、中でも感心したのが大リーガーたちの積極的なボランティア活動への参加だった。
最近では日本のプロ野球選手もボランティア活動に力を入れている人が多く、そういった選手を表彰する「ゴールデンスピリット大賞」などが注目を集めているが、スポーツ本来の意義から鑑みれば明らかにいい傾向であると思う。
ただ、トーリ氏のこの慈善事業をボランティアという一語でかたづけてしまうのはいささか抵抗がある。
なぜなら、彼はこの事業に命を懸けていることを僕は知っているからだ。
ヤンキースに勤務していた頃、彼に言われたことがある。
「私は子供の頃、悲しい体験をした。それは60年以上経った今でも、脳裏に焼きついている」と。
トーリ氏によると、ニューヨーク市警官だった父親はいったん怒り出したら、とどまるところを知らない性質だったという。
実際、氏は自著の中で、こんなエピソードを披露している。
「『バカなことはやめろ!』当時9歳だった私は無我夢中で姉からキッチンナイフを奪い取ると、思わず叫んでいた。姉が父に向かって、ナイフを構えている。父は『ナイフを下ろすんだ!』とどなったが、姉が両手で握りしめたナイフの刃先は父に向けられたままだ。すると、父は食器棚の引き出しに手を突っ込んだ。そこには拳銃がしまってある。今にして思えば、父はその時、姉を威嚇しようとしたのかもしれない。しかし、恐怖におののいていた私はこの人は何だってやってしまう、実際に拳銃を手に取り、姉に向かって引き金を引いてしまうかもしれないと思った。とにかく、今すぐやめさせなければ大変なことになると。必死の思いで、姉からナイフをもぎ取った。ナイフをテーブルに置くと、私の目から涙がこぼれた。家中にとどろく父の怒号、暴力、母の泣き声・・。私はそんな何もかもが嫌でたまらなかった。父がただ恐ろしかった」(『ジョーからの贈りもの』著ジョー・トーリ&広岡勲)
トーリ氏が奥様と基金を立ち上げた理由は反面教師ともいうべき親を持った子供として、そして、実際に子を持つ親として、家庭内暴力をはじめとする問題に悩む子供たちに可能な範囲で相談に乗ってあげられる場を提供しようと思ったからだという。
実際、今ではこの基金に救われ、成人した子供たちが今度は慈善事業のサポーターとして活動している。
まいた種は芽を出し、着実に根づいて成長していく。
アスリートの試みがさまざまなフィルターを通って、確実に社会に貢献していく。
これこそがボランティアの核心であると僕は思う。
ボランティアや慈善事業は一過性であってはならいし、それこそ売名行為が目的であってはならない。
一年に一度、彼から届く招待状は自分への戒めとなっている。
セコム株式会社 おとなの安心倶楽部 月刊 長嶋茂雄
2013/02/01
松井秀喜との素振りの日々
ニューヨークの松井(秀喜)から電話がありました。昨年末に「引退します」と言う連絡があってから、ほぼ一カ月ぶり、今度は緊張感もなく明るい声でした。近況報告の雑談でしたが、帰国はしばらくお預け、3月の第一子誕生後になると言います。
じっくり考え抜いてから行動する松井ですから、私が言うまでもないのですけれど、第二の野球人生(とあえて言わせてもらう)が始まります。「ゆっくり休んで進路を決めなさい」と伝えました。巨人で10年そして大リーグに移って10年、そのうちの7年間がヤンキースでした。日米球界それぞれで最もプレッシャーのかかる2チームで主力打者としてプレーして来たのです。「ゆっくり休んで」は、私なりに「御苦労さま」の思いを込めたつもりです。
一対一で過ごした時間が最も長かった選手
考えてみると私の前後15年間の監督生活で、一対一で過ごした時間が最も長かった選手が松井です。その時間の大半がバットの素振りでした。
1992年のドラフトで引き当て、初めて対面したのはその年のクリスマスの入団発表の時ですが、がっしりした大きな身体が大学生以上どころか、まるでアメリカンフットボールの選手でした。「巨人を背負って立つ打者になる」とピンときて、すぐに3年計画、千日の素振りをやらせることを決めたのです。調子が良いとか悪いとかは関係なし、とにかくボールを打たない素振り、素振り、また素振りです。もちろん“正規の練習”とは別に、ですよ。我が家の地下室でもだいぶやりましたね。素振りは単純な運動ですが、バットマンの技術のエッセンスであり、土台です。単純だから難しい。ゴルフを楽しまれてスイングに苦労している方はお分かりでしょう。
バットが空気を切り裂く音が自分の体の右寄りから聞こえるか、正面か、あるいは左寄りか、またビユッという音か、ボワッという音か、その違いでスイングの速さと軌道の良し悪しが判断できます。
しかし、実は素振りは技術的な面よりも心を磨き、精神を鍛える面の方が大きい、と私は信じています。集中力が養われ、周囲の状況に左右されない揺るがない心を作る…実体験を通じてそう言えます。カタカナのメンタル・トレーニングとは明らかに違います。大リーガーが素振り(振り込みというのが正確かな…)をやるとは、聞いたことがありません。どうやら素振りは日本球界独特の練習のようです。日本野球の先人たちが始めた素振りには剣道の伝統が影響していたのかもしれません。ならば心を鍛える練習になったのは自然のことです。
松井の印象は常に「前に」、「前に」
話が松井から外れてしまいました。当時の松井の印象を一言でいえば、常に「前に」、「前に」でした。そして自分の考えをしっかり持っている。こういう選手には教えるのが難しいのです。今様の若者は言われたことはすぐ器用にこなします。松井は一振り一振り考えた上でのスイング、時間がかかるというのではありませんが、器用なマニュアル消化でなく、自分の考えでかみ砕いて手作りで積み上げていこうとするのが観ていて分かりました。バットを振るうちに二人の間の空気が煮詰まってくる。宮本武蔵の『五輪の書』に「千日の稽古を鍛(たん)とし、万日の稽古を錬(れん)とす」なんて名フレーズがありましたが、そんな緊張感いっぱいの充実した時間を過ごせました。
日本でプレーしてくれたら、とのファンの声は多いでしょう。けれども松井自身が設定する“松井のプレー”は、ファンの「まだ、20ホーマーぐらいは打てるはず」という種類の“暖かい期待”を許さないのです。日本人の好きな、名を惜しんだ引き際でした。
アメリカでの松井の評価はどんなものだったのか、引退に際しての報道を教えてもらいました。「謙虚な人柄で常にチームを優先する勝負強い打者だった」と言うに尽きていたようです。傲慢とも思える売り込み競争の世界が大リーグの一面ですから、その中で謙虚な姿勢を貫いた松井がいかに好感をもたれていたかが分かります。素振りで磨いた日本人の良さを示したと言いたいところです。
さて、「ゆっくり休んで」と伝えた私ですが、「ゆっくり」は1年間、そして指導者として球界に復帰してほしいと思っています。復帰する場は、もちろん巨人です。
産経新聞 田所龍一の虎の見聞録
2013/02/01
藤浪、北條を育てるのは「出会い」あの松井のように…
きょう1日から一斉にキャンプに突入。虎ファン期待の藤浪らルーキーたちもプロの第一歩を踏み出した。プロ野球界にはこんな定説がある。
『一流の選手になれるかどうかは、その選手が野球人生の中でどれだけ多くのすばらしい指導者やプレーヤーと出会えるかにかかっている』
昨年12月27日、20年間の野球生活にピリオドを打った松井秀喜。その引退会見で、20年間で最も印象深いシーンを「長嶋監督と2人で素振りした時間」と答えた。なんとすばらしい答えではないか。
1993年2月1日の宮崎キャンプで、3年で4番に育てあげる-という長嶋監督と松井の「4番1000日構想」はスタートした。
メーン練習、夜間練習はもちろん、真夜中でも突然呼ばれて監督室で松井はバットを振った。シーズンに突入しても試合後、監督宅の地下室で振った。長嶋氏が着替えに部屋を出る。ドアは開いたまま。すると突然「いまの音いいよ。うん、それだ!」と声が飛んできたという。
来る日も来る日もバットを振った。だが、1000日を過ぎても、そうたやすく長嶋監督は松井を「巨人の4番」には据えなかった。3年目の95年8月25日、甲子園での阪神戦。負傷した落合博満に代わって初めて3番から「4番」に座ったが、試合後の長嶋監督はあくまで「落合の代役」を強調した。
当時のG番記者が、そろそろ4番に定着させては-と提言すると、長嶋監督はニッコリ笑って「松井はまだチェリーボーイですから」。えっ、童貞? 落合がその言葉の意味をこう解説した。
「松井は2時間、3時間バットを振るとまだフォームが崩れてくる。何時間でも自分の形で振れる強さがない」。まだ子供-というわけだ。
95年22本塁打、96年38本、97年37本、98年34本、99年42本、そして8年目の2000年、ようやく長嶋監督は松井を「巨人の4番」と認め、全試合で4番を打たせた-42本。
松井の周りにはいつも「大きな人」がいた。入団したときの4番は原辰徳氏(現巨人監督)。2年目の94年には中日から落合氏が移籍し、97年には清原和博氏が立ち塞がった。
初めての打撃コーチは中畑清氏(現DeNA監督)。長嶋監督宅に行かない時は中畑宅で個人レッスンを受けた。そして2人目は3年目の武上四郎氏(元ヤクルト監督、故人)。
「試合でみつけた課題はその日のうちに身につけろ」。この年から松井は東京ドームでの試合後、必ず室内練習場でマシンに向かうようになったという。
多くの人々が松井を育んだように、藤浪や北條たちトラの1年生たちも…。さぁ、出会いの始まりだ。(編集委員)