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Columnコラム

中日新聞 松井秀喜 2014/01/30
エキストライニングズ(22) 個人練習 難しさ痛感
 巨人の宮崎キャンプで臨時コーチを務めることになった。選手時代と立場は違っても、キャンプを前にした身の引き締まる思いは変わらない。

 プロ野球や米大リーグのように長期間の練習が毎日ファンに公開され、メディアも常駐するスポーツは他にないのではないか。選手もファンもキャンプに思い入れがあり、高揚した雰囲気がつくられるのはいいことだ。

 現役最後のシーズンとなった二〇一二年、僕はキャンプを迎えても契約チームが決まらず、四月下旬まで個人練習を続けた。一番難しいのは緊張感の維持だった。練習量は増やせる。順番待ちも時間制限もないのだから、例年より多く打ち込んだ。だがチームの一員としてユニホームを着たときにしか得られない緊張感があると痛感した。後から考えてみれば、どんなに自分を追い込んでも、キャンプと同じ効果は得られていなかったのだと思う。

 キャンプはシーズンの準備期間ではある。ただスタートと捉えることには違和感がある。技術の習得には時間がかかり、前年のシーズンから取り組み続けないとできないものも多い。キャンプは時期として意識するよりも、練習に専念できる場と考えた方がいい。

 そもそも僕は開幕から逆算して練習するということをしなかった。もちろん開幕は意識する。だが何日に始まるから、今これをやらないといけないとは考えなかった。

 選手でいる以上、その日その日でやるべきことは必ずある。開幕というものが数日後でも、もっと先だったとしても同じ。ある意味一年中一緒で、毎日が“キャンプ”だ。シーズンが始まってもそれは変わらない。

 だから練習に向かう気持ちはいつも一緒だった。結局、今の自分に何が必要かということ。キャンプだろうと、シーズン中だろうと、課題は常にあり、それを避けては通れない。それが選手生活というものではないだろうか。 (元野球選手)
中日新聞 松井秀喜 2014/01/16
エキストライニングズ(21) 最初のライバルは兄
 ライバルと聞いて、対戦相手の名を挙げる人もチームメートを思い浮かべる人もいるだろう。僕の場合は四つ年上の兄が最初のライバルだった。野球をして遊ぶことが多く、いつもやられてばかり。毎日悔しい思いをしていた。兄を追い掛けることで同年の友達よりうまくなったのは確かだ。

 小学四年の時だった。左投げ左打ちの兄の姿に憧れて左で打ってみたら「左、いけるじゃん」と言われてうれしかった。結局そこから三十八歳で選手生活を終えるまで左打ちなのだから、きっかけなど分からないものだ。

 その後中学、高校でプレーするようになると、自然と気持ちは試合の勝敗に向き、ライバル心を誰かに向けることはなくなった。だがそれを変えたのが、僕のプロ六年目の一九九八年に慶大から巨人に入団してきた高橋由伸選手だった。

 それまで同僚の中軸打者は落合博満さんや清原和博さんという僕が見上げるような存在で、ライバルとは違った。高橋選手は同じ左打者で外野手。年齢も一つ違い。自分と重なる部分が多かった。

 高橋選手は一年目から打率三割をマーク。初球から強振して、しかも確実に捉える。万能選手で、長打力以外は向こうが上だと思った。数字で負けられないという思いが出た。初めて本塁打王になった九八年以降の僕の成績には彼の存在が影響していたと思う。

 渡米後は、同じ日本選手としてイチローさんと比較されることがあった。ただそれはファンやメディアの視点。僕には自分をイチローさんと比べる気持ちはなく、とにかくすごい選手という見方しかしていなかった。

 個人的にはイチローさんは高校時代の印象が強い。二年の時に練習試合で愛知・愛工大名電高に行き、寮のイチローさんの部屋に泊まった。夜遅くまで野球の話をした。プロに行くのかと聞かれ、まだ分からないと答えた気がする。僕にとってのイチローさんは、いつまでもあの時のイチローさんだ。 (元野球選手)