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Columnコラム

中日新聞 松井秀喜 2014/09/25
エキストライニングズ(37)  米移籍決断 全ては必然
 二〇〇二年十一月一日、僕はフリーエージェント(FA)宣言をして巨人から大リーグへ移籍することを発表した。あの時の僕にとって一世一代の大決断だった。ただ、今振り返れば、全ては必然でもあったのだと思う。

 「清水の舞台から飛び降りる」とよく言う。大リーグを目指して舞台のへりまで歩いて行ったのは、ほかならぬ僕自身だ。それでも決断の時が近づくと、巨人をどれだけ好きかが分かった。最終的にはチャンスを目の前にして挑戦しない選択は残らなかったが、最後の一歩の重みを痛感した。

 FAとなったら腹を決めなくてはいけないのは自覚していた。しかし巨人の選手である以上、それを周囲に感じさせてはいけない。考えていたら悟られる。だから決断について考えるのを数年前からやめていた。時が迫っていると分かりながら、あえて結論を出さずにいる状態が続いていた。

 巨人での最後の三年間で本塁打王と打点王を二度ずつ、首位打者を一度、セ・リーグMVP二度に、日本シリーズMVPも取ることができた。やりきったから米国へ渡ったと見られるし、実際そうでもある。ただ逆に米国への思いがこの成績を生んだとも言える。

 一九九九年秋、僕は米国を訪れてヤンキースタジアムでプレーオフを観戦した。この年二年連続でワールドシリーズを制したヤンキースを目にし、FAまでにこのチームから誘われるような選手になりたいと思った。そこから三年間は大リーグが心の奥にあった。

 一世一代の決断とは、ある日思い立って大ジャンプをすることでなく、最後の一歩を踏み出すことなのだろう。日常は決断の連続だ。今テレビを見るか、それとも素振りをするかというのも決断。日々の一歩の延長線上に、同じ歩幅で、けれども重い最後の一歩がある気がする。

 あの時の僕は、大リーグへとつながる決断を重ね、気がつけば米国に向かって踏み出すしかない位置に立っていたのだと思う。 (元野球選手)
中日新聞 松井秀喜 2014/09/11
エキストライニングズ(36) 「ゴジラ」の愛称 宝物
 自分では予測もコントロールもできない偶然で物事が進み、それが生涯ついて回ることがある。「ゴジラ」について考えるとき、痛感する。僕が世間でゴジラと呼ばれ始めたのは、高校三年だった一九九二年の春の甲子園大会だった。

 一回戦の岩手・宮古高戦で2本塁打を打った翌日にスポーツ紙に「ゴジラ」という見出しが躍った。一度もそう呼ばれたことがないのに、いきなりニックネームになっている。これがマスコミか、というのが正直な気持ちだった。二回戦でも本塁打を打ち、チームは準々決勝へ。大会が終わると、僕はゴジラだということになっていた。

 プロに入ると先輩から「ゴジ」と呼ばれた。新聞紙上のキャッチフレーズが実生活でもあだ名となってしまった。最初は違和感があった。ただ、どうせ呼ばれるならゴジラで良かったと思った。

 ニックネームはかっこいいだけではあまり浸透しない。少年時代の僕の記憶に一番残っているのは巨人の中畑清さん(DeNA監督)の「絶好調男」と「ヤッターマン」だ。語呂が良く、温かみがあって選手のイメージに合ったものはなかなかない。ゴジラは悪役のようでいて、ヒーローでもある。見た目は怖いが、ユーモアも見せる。愛すべき怪獣だ。

 二〇〇三年のヤンキース移籍後は、本当にゴジラで良かったと思った。もともと海外でも知られていたゴジラは、一九九八年の米国版映画の公開でさらに知名度を高めていた。入団後の写真撮影で僕はグリップエンドにゴジラ人形がついたバットを渡され、早速“共演”した。

 ゴジラと命名したのはスポーツ紙の女性記者で、甲子園の大会前練習を見てひらめいたらしい。数あるキャラクターの中からなぜゴジラだったのか。さまざまな条件が重なり、ニックネームは日米で定着した。まさか二十数年後にもゴジラと呼ばれているとは、彼女も思っていなかっただろう。 (元野球選手)
スポニチ 2014/09/09
松井秀喜氏が考えるジーターの存在意義「そこにジーターがいること」
 ヤンキース時代の03~09年にジーターのチームメートで、引退セレモニーにも出席した松井秀喜氏(40)が、本紙の単独インタビューに応じた。ともに74年6月生まれ。互いに認め合う盟友の凄さや思い出を語るとともに、独特の打撃技術についても分析した。

 ――“野球選手としてチームメートの中でも最も尊敬できる”と話していたジーターの引退。

 「寂しいですよね、やっぱりね。ずっと一緒だったチームメートでは最後の一人だから」

 ――彼と接する中で最も驚きだったことは。

 「驚きなんかないですよ、別に。いつも変わらないということが、一番彼の特徴ですよね。素晴らしい彼の特徴。試合をやっている時も、普段も変わらない」

 ――一緒にプレーして、一番の思い出は。

 「うーん、何でしょうね。何か、いつもいて当然の存在だから、別にこれというのがないんですよね。凄いプレーをしようと、僕は全く驚かない。ジーターならやるよね、と。そんな感じで終わっちゃう」

 ――以前、「常に(左翼の位置から)お尻を見ていた」と。

 「守っている時はいつも目の前にいたし、ベンチではいつも近くに座っていたし。いつもそこにいるのがジーターですよね。個人的にはね」

 ――どんな時も真摯(しんし)な姿勢でプレーするのは、自身と共通している。

 「自分はそれが一番いいと思っていたし、意識していた部分で、そこが偶然合ったんだと思う」

 ――ヤ軍で20年間プレーを続ける難しさは。

 「分からない。彼しかやったことがないんだから。でも彼は特に大変とか思っていないと思う。楽しんでいただろうし幸せだっただろうし」

 ――デレク・ジーターであり続けるための苦悩を間近で感じたことは。

 「もちろん、デレク・ジーターでいなくちゃいけないというのは、あっただろうと思います。ただ、それを完全にやり通すのが彼なのであってね。彼の本当の本質的な部分は、誰にも分からない。そういったものを一切出さないから」

 ――彼が野球界で特別である理由は。

 「何でしょうね。まあ、誰からも愛される人間ということでしょう」

 ――特別なスター性は、人間性と考えるか。

 「もちろん数字は素晴らしいのだけど、そうじゃない魅力の方が傑出しているんじゃないのかなと思います。彼の存在意義というのは、それじゃないんですよね」

 ――その存在意義は、言葉にすると何か。

 「それは、“そこにデレク・ジーターがいること”なんですよ。やっぱり。それ(いること)によって、いろんなものをプラスに変える力を持っているんですよね」

 ――そういう選手が引退する。大リーグにとって何を意味するのか。

 「それは分からないですよね。いなくなってみて初めて、いろんなことに気付くんじゃないのかな。今の時点で、それは分からないですよね」

 ――打者・ジーターの特徴にポストシーズンなどでの勝負強さがある。

 「単純な数字だけではない、彼の凄さの一部です。そういう試合では誰よりも頼りになる」

 ――一緒にプレーした中で印象に残る一打は。

 「一番は03年のレッドソックスとの試合(リーグ優勝決定シリーズ第7戦)で、8回かな。同点に追い付いたとき、口火を切ったのがジーター。あのヒットでチームが息を吹き返したと思う」

 ――今の彼に、言葉を掛けるとしたら。

 「“これで(おまえも)本当のトシヨリだな”って。その一言ぐらいかな」

 ――ファンは指導者としてリーダーシップを発揮してほしいのでは。

 「やったら見るだろうけど、やる、やらないとかは彼の好きなようにすればいいと思います。もう、これだけやったんだから。彼の好きなように、今後の人生を生きてくれればいいんじゃないかと思います」

 ――指導者として、一緒にユニホームを着ている姿を想像しないか。

 「あるわけないでしょ、そんなもの」

 ▽03年10月16日のア・リーグ優勝決定シリーズ第7戦 3勝3敗で迎えた一戦で、ヤ軍は8回の攻撃の時点で3点をリードされる。しかしこの回、1死からジーターが右越え二塁打で出塁。ここから1点を返し、さらに1死一塁から松井が右翼線二塁打でチャンスを広げた。続くポサダの中前打で松井は同点のホームイン。歓喜のあまり跳び上がってガッツポーズをした。試合は延長11回にブーンがサヨナラ本塁打。ヤ軍がワールドシリーズ出場を決めた。

 ≪「トシヨリ」仲間増えた≫ジーターは誕生日が自身よりも2週間早い松井氏を、同僚となった03年から「トシヨリ」と呼び続けている。引退を機に同じ言葉を返した松井氏だが、ジーターは8月の日本報道陣向けの会見で、引退理由を「トシヨリと感じたからではない。まだ若いと思っている」ときっぱり。「マツイが僕より年上なのは、ずっと変わらない。日数は関係ない。彼の方が年上」と譲らない構えだ。