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Columnコラム

Full-count 2015, 3, 12, 7, 02014/05/29
蘇る名勝負の記憶 「野球の聖地」で松井秀喜氏が果たした懐かしの再会
メジャーリーグOB戦で本塁打を放った松井秀喜氏

 5月24日、野球殿堂博物館があることでも知られるアメリカ・ニューヨーク州クーパーズタウン。「Hall of Fame Classic」と呼ばれるメジャーリーグのOB戦でヤンキースに所属していた松井秀喜が出場し、先制のホームランを放った。その様子は日本でも大きく報じられた。

「ホームラン? 狙ってはいませんでしたが、せっかくなので強めに振りました」

 ブレーブスで活躍した左腕エイブリーの左肩付近から入ってきた大きなカーブに対し、松井はしっかりとためをつくり、ボールを引き寄せた。フルスイングすると高く上がった打球はライトのフェンスを超えていった。

 現役時代、シーズンの開幕戦や誕生日、ポストシーズンなど節目のゲームでも強かった。見せ場は分かっていると言わんばかりに、ファンの期待に応えたものだ。

 このイベントは2009年から始まったもので、30球団のそれぞれの代表が1人選出され、ア・リーグ、ナ・リーグに分かれて、クーパーズタウンで記念試合を行っている。

 松井はその一戦で名門・ヤンキースの代表として、伝統あるユニホームの55番を身につけ、打席に入ったのだった。他の2打席は内野ゴロに倒れたが、6000人を超えるファンから惜しみない歓声が注がれた。「みなさんにすごく喜んでもらえたし、うれしかったです」と振り返った。

再開を喜び合った松井とペドロ・マルチネス

 松井と同様、他のチームの代表にも名選手たちが並んでいた。中でも、メディアの注目を集めたのが、レッドソックス代表のペドロ・マルチネス投手だった。松井もこのイベントでペドロと会えるのを楽しみにしており、試合前にあいさつを交わしている。同じア・リーグ代表のメンバーだったため、対戦はせず、ペドロが投げる後ろで、レフトの守備に就いた。

「同じチームで良かった。(デッドボールを)ぶつけられるんじゃないかと思いました」と松井がジョークを言えば、ペドロ・マルチネスも「こうしてまたマツイに会えてうれしかったよ」と再会を喜んだ。

 ペドロ・マルチネスは、MLB最高の投手と呼ばれる時期もあったほどの剛腕だ。ドミニカ共和国出身で通算219勝をマーク。1999年にはレッドソックスで23勝を挙げた。スリークオーター気味のフォームから直球、ツーシーム、カット、カーブ、チェンジアップを投げ、スピードもあり、なおかつ四隅に投げるコントロールは抜群だった。

 彼がその他に武器としていたのが、ビーン・ボールだった。ビーン・ボールとは打者の頭付近を狙って投げて、相手をのけ反らせる球のことで、バッターに恐怖心を植え付ける効果がある。バッターはデッドボールを恐れ、踏み込めなくなるのだ。

 ペドロは前述したように、コントロールが良いことから、ビーン・ボールを投げた後に内角ギリギリのストライクを投げることや、踏み込めない相手の心理状態を利用して外角に投げ込んだりして、打者を打ち取っていった。バッターからすれば、こんなに嫌な投手はいない。

 松井もペドロ・マルチネスに苦しめられた一人だった。シーズンの対戦打率は28打数4安打1本塁打。打率は1割4分3厘と打てなかった。メジャー移籍1年目は10打数無安打だった。日本を代表するスラッガーも最初は全く歯が立たなかった。

松井がMVPに輝いた2009年のワールドシリーズ

 象徴的なのは2004年のヤンキース対レッドソックスのリーグ・チャンピオンシップだ。ヤンキースは松井の大活躍で3連勝をマーク。第1戦と3戦は2ケタ得点。松井はホームランも放っていた。第2戦は3-1と辛くも勝利しているが、相手はペドロ・マルチネスで苦戦しながらの勝利だった。

 そのペドロと3勝1敗で迎えた第5戦で再び対戦すると、松井は執ようなまでの内角攻めと得意のビーン・ボールで打撃を完全に狂わされてしまった。絶好調だった松井のバットも止まり、ヤンキースは3連勝の後の4連敗でワールドシリーズ出場のチャンスを逃した。松井にとっても、苦く、忘れがたい記憶となった。

 その後、リベンジの時はやってきた。2009年のワールドシリーズ。松井のヤンキース最終年だった。

 フィリーズに移籍したペドロ・マルチネスは第2戦に先発。松井はヤンキースタジアムの右翼席へホームランを放ち、苦い記憶を振り払った。第6戦でもホームランを放つなど大暴れし、ヤンキースを世界一に導いて、MVPを獲得。メジャーリーグでの戦いを振り返る中でペドロ・マルチネスの存在は松井にとって、切っても切れない人物なのだ。

「会うのは、あの時以来かもしれません」。クーパーズタウンでの再会は2009年以来5年ぶりのことだったと松井は振り返っている。ビーン・ボールの印象がよほど強かったのだろう。「ぶつけられるんじゃ……」という冗談交じりの言葉も最初に出てきた。

 松井はOBの間でも人気があり、写真撮影などを求められた。こうして、かつて名勝負を繰り広げた相手と再び戦えるのも、松井が積み上げてきた功績があってこそだ。松井は野球の聖地・クーパーズタウンでの時間を噛みしめるように、楽しそうにプレーしていた。
中日新聞 松井秀喜 2014/05/22
エキストライニングズ(28) 野球愛を象徴する町
 米国野球殿堂のあるクーパーズタウンで二十四日に行われる記念試合に出場することになった。約二年ぶりの試合だ。「定位置のフライは落としたくない」などと今まで思いもしなかったことが頭をよぎる。選手でなくなるというのは、こういうことかと実感する。ヤンキースを代表するのだから何とか恥ずかしくないプレーをしたい。

 巨人時代の一九九九年秋に初めて殿堂を訪れた。とにかく田舎だと思った。周りに大きな街はなく最寄りの駅や空港もない。同じニューヨーク州だがマンハッタンからの直線距離は、東京から日本海に面した新潟県上越市までと同じくらいだという。そんな町に野球のために観光客が集まる。

 野球発祥の地として三九年に殿堂が造られたが、現在は研究者によってクーパーズタウンに野球の起源がないことが証明されているらしい。ただそれを承知で“聖地”をつくり上げた大リーグはさすがだし、大切にし続けるファンがいるのもいい。野球愛に支えられているという意味では、真に発祥の地であるよりもすごいことかもしれない。

 国の歴史が決して長くない米国では、野球は独自の伝統として大切にされる。建設から百二年目を迎えたレッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークのように名所となった球場もある。

 フェンウェイは一番好きな敵地だった。各地の新しい球場と違い、ロッカーは狭い。ビジターには屋内練習場がなく、トレーニング室は公道を歩かないとたどり着けない隣の民間施設。ただあのフィールドで感じる歴史の重みは何物にも替え難かった。選手はプレーのために合理性を追求するものだが、例外もあるということだ。

 二〇〇八年まで使われた旧ヤンキースタジアムでは、センターを守ったときに「ディマジオやマントルもここに立っていたのだな」という思いが胸にこみ上げてきたことがあった。あの球場にもそういう力があった。(元野球選手)
中日新聞 松井秀喜 2014/05/08
エキストライニングズ(27) 一切しなかった験担ぎ
 僕は験担ぎを一切しなかった。決めた通りにできないことがあるからだ。物はなくしたり壊したりするし、通り道などは規制や渋滞に影響される。できずに気持ち悪い思いをするなら、やらない方がいいと考えた。

 予測できないことが増え、チーム内での立場も変わった渡米後は、特にそう思った。験担ぎだけでなく、ルーティンにも縛られないようにした。例えば球場でやるべきことは決まっているが、順番までは決めない。団体行動だから待つよりもできることからやる。その分球場入り前に個人でトレーニングや素振りを済ませることが多かった。自分のペースでできるし、球場で長く過ごすより、すぐに全体練習に臨む方が落ち着いた。

 もちろん長いシーズンを乗り切るのにルーティンは大事だ。ただそこから外れたときに影響を受けるようでは、何のためのルーティンか分からない。日々習慣は守りながら、不測の事態はあるものとして受け入れ、試合に臨むのが理想だろう。

 試合では次打者席での準備運動をあえて決めなかった。前の打者が初球を打ったら、ルーティンをこなす時間はないと思ったからだ。そんな僕も打席への入り方は常に変わらなかった。打席まで行けば誰にも邪魔されない。自分の間合いをつくろうとするうち、自然と決まった動作になった。軸足となる左足の置き場を右足で掘る。戻した右足を左足にぶつけてから左足をボックスに入れる。右足をボックスに入れるときにもう一度両足のかかとをぶつける。右で掘るのは右が器用だから。足をぶつけるのはスパイクのかかとのフィット感を確認するためだ。

 この動作が狂うほど自分を見失ったことはない。二〇〇三年のヤンキースタジアムでのデビュー戦のように、異様な雰囲気で全くの平常心ではいられない試合はあった。細かく記憶しているわけではないが、そんなときでも同じ動きをしていたはずだ。 (元野球選手)
日刊ゲンダイ 2014/05/05
松井秀喜が語った 「臨時コーチ」「監督問題」「NYライフ」
 キャンプで巨人とヤンキースの臨時コーチを務めたのが、元巨人・ヤンキースの松井秀喜(39)。ファンやフロントや現場で湧き上がる「監督待望論」を本人はどう受け止めているのか。初めてコーチを経験しての収穫、ニューヨークでの生活もあわせて聞いてみた。

「教えるのは難しいことを理解した」

――宮崎では選手にどんなアドバイスをしたのですか。
「期間が短かったので基本的な、自分が感じる大切なことだけを伝えました。選手がそれをどう受け止め、どういうふうにそれを実践したのかはわかりませんけれど」

――具体的には。
「ボールを長く見るためにはどうするかとか、強く振るためにはどうするかとか。そういうことを僕なりに選手に伝えたつもりです。そのための方法ですね」

――若手に伝える過程で考えたこと、心掛けたこと、いま考えていることはありますか。
「臨時コーチの経験は、僕にとって非常に勉強になったとは思います。けれども、仮に将来、自分がそういう立場になったとして、こういうふうにやろう、などという考えは、現時点ではありません」

――「勉強になった部分」とは。
「教えるのは難しいということですよ、やっぱり。それは十分、理解しました。自分の感じと、選手の感じというのは完全には一致しませんから。特に感覚的な部分は。自分の感覚、自分の言葉で伝えても、それが自分の体には当てはまっても、選手の体に当てはまるかどうかというのはわかりません。その辺は毎日毎日、ずっと見てて、少しずつ感覚が合ってこないと難しいでしょうね」

――これまでに最も影響を受けた監督をひとり挙げてください。
「長嶋監督じゃないでしょうか、やっぱり」

――理由は?
「最も多くのことに影響を受けましたからね。自分が若い時にいろいろなこと、野球選手にとって大事なことを刷り込んでいただきましたから。自分はグラウンド外での接点も多かった。そういう意味で、本当にさまざまなところで影響を受けていると思いますよ」

「監督をやりたいと思ったことはない」

――原監督にはどんな印象をもっていますか。
「尊敬する先輩ですし、選手、コーチとして一緒に戦った方ですから。いまでは大監督の域に達しているんじゃないかと、僕自身は思いますけどね」

――これまでプロ、アマ問わず、監督をやりたいと思ったことはありますか。
「ありません」

――1度も?
「ええ」

――高校野球の監督はどうでしょう?
「やりたいとか、やってみようとか、そういうふうに具体的に思ったことは一度もありません」

――現在、本人の意思とは関係なく、球団も選手もファンも巨人復帰、あるいは松井監督を望んで盛り上がってますけど、ご自身はその点をどう思いますか。
「盛り上がっているでしょうか?」

――スポーツ紙なども盛んに報じていますが。
「そうやって思ってくださるファンの方々がいるのであれば、それは非常にありがたいですし、感謝しなければいけませんけれど、いまのところ具体的にどうこうというのは、自分の中ではありません。いまのところは」

――そっとしておいて欲しいということですか。
「いや、そういうふうに感じたり、思ったりしていただけるのは、非常にありがたいことだと思うんです。ファンの方々が自然に思ってくださるのであればね」

――球団幹部も渡辺会長も、たびたび将来は松井を監督にという言い方をしてますけど。
「球団のOBとして、そう思っていただけるのは光栄ですし、感謝もしています。それはファンの方々に対する気持ちと一緒ですよ」

――自分の中に監督とかコーチをやりたいとか、やりたくないという気持ちはありますか?
「いや、まだ、自分の将来、自分のこれからに関して、そこまで考えが及んでいないというのが正確な表現ですね。引退してまだ、1年ちょっと……いまは、ゆっくりしている最中です。それだけです」

「NYではジムでトレーニングも」

――ニューヨークにいる間は毎日、どんなことをされているのですか。
「何かやるときもあれば、家でのんびりしてるときもあるし。その日その日によって違います。これといって決まったことはありません」

――買い物とかも。
「ええ、普通にしますよ」

――子供を遊びに連れていくとか。
「まだ、寒いですからね。外には出せません」

――具体的にどんなことをしてますか。
「家にいたらいたで、やることはたくさんありますから。子供をあやしたりですか? 家のこともしますし、本を読んだりもしますし、体を動かして多少、汗を流したりもしますし……。場所ですか?アパートメントの中にジムがあるので」