中日新聞 松井秀喜
2014/07/31
エキストライニング(33) 不文律は米野球らしさ
大リーグには野球規則にないルールがある。大差の試合で送りバントや盗塁をしない。派手なガッツポーズを見せない。ノーヒットノーランをバント安打で破らないなど、対戦相手との関係から生まれたものが多い。
何しろ不文律だから点差など状況に明解な線引きがなく、時にはチーム間で認識が食い違う。一線を越えたと見なされると、死球による報復につながることもある。個人的には各選手が規範を持っていれば、リーグの不文律はなくてもいいと思う。ただ趣旨は理解できるから、根付いているものに従おうとは考えた。
決まり事の中には単純に選手の態度を戒める類いもある。例えば「痛がらない」はその典型で、自打球に当たっても平静を装わなければいけないし、トレーナーも簡単には来てくれない。弱みを見せるなというわけだ。
大リーグの不文律は、分かりやすく言えば米国人が考える「野球選手らしさ」なのだろう。敗者への情けや記録に挑む相手への尊敬、戦う者としての態度など、規則の条文だけではコントロールできない野球に対する姿勢を表していると思う。
同じ競技でもルールの盲点を突いて勝利を追求するか、不文律でルール以上に自分たちを縛るかで大きな差が出ると思う。もちろんプロだから勝つことが大事だ。ただ大リーガーなら誰にも文句を言わせない勝ち方を目指せということ。不文律は戦い方を評価する物差しになっている。
僕がこだわった「野球選手らしさ」を一つ挙げるなら、グラウンドで敵と親しげにしないことだ。互いに交流はある。だからこそグラウンドではそれを断ち切らないと真の緊張は保てないし、なれ合った雰囲気がファンにも伝わると思った。
周りにも同じような考えの選手は多かった。試合中に塁上で親しい内野手と並び、目も合わせず、あいさつともいえないようなあいさつを手短に交わすことがよくあった。 (元野球選手)
朝日新聞 古内義明のメジャー見聞録~No Baseball, No Life
2014/07/29
Hall of Fame episode 1 ~ 松井秀喜のどん底を救った名将の一言
7月27日、ニューヨーク州にあるクーパーズタウンは、年に一度のお祝いムードに包まれた。野球殿堂入りのセレモニーを一目見ようと、全米中から野球ファンが集まり、お目当てのスーパースターに祝福の声援と拍手を贈った。
今年は例年にも増してスター中のスターが殿堂入りを果たした。300勝投手のグレグ・マダックスとトム・グラビン、521本塁打のフランク・トーマス、名将のトニー・ラルーサ(通算2728勝)とボビー・コックス(通算2504勝)、そして今回の主人公ジョー・トーリだ。私が最も尊敬する監督の一人である。
74歳になるトーリは、54年の歳月をメジャーリーグに捧げた。日本の野球ファンには、ヤンキース時代の松井秀喜の監督として、なじみがあるだろう。
1960年9月25日にメジャー・デビューしたトーリはキャッチャーとして、ブレーブス、カージナルス、メッツでプレーし、9度のオールスター選出、1971年にはアメリカンリーグのMVPに輝いた。
1977年にはメッツでプレーイング・マネジャーとして監督の世界に足を踏み入れた。それ以降、29年間でメッツ、ブレーブス、ヤンキース、ドジャースで4度の世界一、積み重ねた勝ち星は史上5位となる2326勝。現在はMLB機構の上級副社長の要職で野球界の発展に貢献している。
トーリにとっては松井との出会いが日本との接点を増やしてくれた。メディアとの会見では必ず左手に紙コップを持ち、その中身は緑茶だった。本人いわく「気持ちが落ち着く」とのことで、厳しい戦いの中で精神安定剤の役割があったのだろう。監督室に入ると、緑茶のティーバッグの入った段ボールが常備されていたほどだ。
「巨人の4番」の座を捨て、ヤンキースに移籍した松井のメジャー1年目は決して順風満帆なものではなかった。「生活習慣も違えば、言葉も違う。メジャー内でのリーグを越えた移籍でさえ、チームに適応できずに結果を残せない選手がいる。ヒデキは国境を越えて新しい環境に適応しようとしているのだから、並大抵の挑戦ではない」。その当時、トーリはこんな風に松井を気遣っていた。
二人の信頼関係が強固なものに変わった瞬間があった。2003年5月、松井の月間打率は2割6分1厘と低迷し、当時の自己最長となる「118打席本塁打なし」というどん底だった。『ニューヨーク・タイムズ』紙からは「ゴロキング」と揶揄(やゆ)され、逆風の中でシンシナティ・レッズとの交流戦を迎えていた。
トーリは不振に悩む松井をもっと楽な打順で打たせる打開策を練っていた。ただ選手に対する「敬意」を最大限に払うトーリは、まず専属広報から松井に一度監督の考えを伝えてもらい、ゲーム当日には監督室で直接話した。「打順を7番に下げるが、君の打撃が悪いからではなく、気分転換の意味を込めて変える。それと、自分も調子が落ち気味の時、少しベースの近くに立って、詰まり気味にしてから調整したことがあるんだ」。トーリはこの言葉で松井の背中を押した。
そのアドバイスから数時間後、松井は忘れかけていた感触を手に、ダイヤモンドを一周していた。「それまで外角のツーシームやシンカーは気になっていたが、あの日スパイク半足分ベースに近寄ったことであまり意識しないようになった。野球に対する考え方、取り組み方、そして人間性のすべてで尊敬できる人です」。松井は野球殿堂入りを果たした指揮官をこんな風に語った。
松井にとっても、トーリにとっても、あの日でなければならなかった。トーリのかけた言葉でどん底にいた松井は救われ、互いの絆はさらに深まった。
4万8千人のファン、そしてたくさんの関係者に見守られながら、トーリは28分間の殿堂入りスピーチをこう締めくくった。
「野球に感謝している。野球というゲームは人生そのものだ。完璧なものではないかもしれないが、完璧なものに感じられる。野球はアメリカの魂の一部。野球を愛するものとして、それを仕事にするなら、その一部であることに誇りを持っていたい」
中日新聞 松井秀喜
2014/07/17
エキストライニング(32) 自信くれた初の球宴
オールスター戦の時期になった。自分の選手時代を振り返ると、やはり初出場の一九九四年が頭に浮かぶ。球宴はプレー内容よりも、球界を代表する選手と同じ場に立つという事実がその後の自信につながると思う。だからこそ最初は特別だ。
イチローさん(オリックス)と新庄剛志さん(阪神)、それに亡くなった伊良部秀輝さん(ロッテ)も初出場で、同年の初出場七人が後に大リーガーとなった。今から思えば、その後に起きた米挑戦の流れを象徴するメンバーだった。翌年ドジャース入りした野茂英雄さん(近鉄)の日本最後の球宴でもあった。
ヤクルトの野村克也監督は僕をセ・リーグの四番に据えた。目立った成績は残せなかったが、巨人でもまだ務めていなかった打順に座り、経験は確かに自信となった。
米国でも初出場の二〇〇三年は、その場に立つことができたという感慨があった。初打席は詰まらされた左前打だったが、純粋にうれしかった。
ただそういった参加する意義とは違う形で忘れられない年もある。日本最後の年となった〇二年、松山で行われた第二戦で、パウエル(近鉄)と若田部健一さん(ダイエー=現ソフトバンク)から二塁打を打った。
当時は交流戦もなく、球宴では相手投手の情報を持たずに打席に入った。普段の試合ほど対策を考えず、二打席とも第一ストライクを捉えてすごくいい打撃ができた。反応だけでこれができるなら、公式戦でもっといい打撃ができると思った。
テークバックのトップに近い位置で構える打撃を前年の秋から模索していた。それまでしっくりこなかったのが、この試合を機にピタリと決まり、初の五十本塁打につながった。球宴までの七十三試合で十八本塁打。その後の六十七試合で三十二本塁打だった。
好投手を相手に思い切った対応をすることができるオールスター戦という場がなければ、僕の五十本塁打はなかったと思う。 (元野球選手)
web Sportiva
2014/07/09
現役最後の日、記者を感動させた松井秀喜のひと言
クリッパーズ対ボンバーズ。これだけで何の試合だかわかる方は相当な野球ファン。いや、ヤンキースファンと言った方が正しいだろう。
実はこれ、毎年の恒例となっている”オールド・タイマーズ・デー”と称されるヤンキースのOB戦。今年も6月22日(現地時間)にヤンキースタジアムで行なわれた。そしてこの一戦に、松井秀喜が引退後、初めて参加した。
もちろん、背番号は「55」。試合前に行なわれたフリー打撃では、早くからかけつけたファンを前に21スイングで4本塁打。現役時代と変わらぬパワーを見せつけた。
試合前のセレモニーでは2009年のワールドシリーズでMVPに輝いた映像が流れ、「お帰り、ゴジラ!」と紹介された。すると、どうだろう。スタジアムは大歓声に包まれ、スタンディングオベーションが起こった。並み居る歴代の錚々たるOB陣を差し置いての大歓声に、松井がこの街で築き上げてきた功績がいかに偉大であったかを再確認させられた。
松井がヤンキース在籍の7年間で残した成績は、916試合に出場して打率.292、140本塁打、597打点。打線の中軸に座り、チームバッティングだけでなく、無類の勝負強さを発揮したが、決して突出した成績を残したわけではない。それでもヤンキースファンは、チームを去ってから5年が経つというのに、今も松井に敬意を表し大きな拍手を贈る。その理由はどこにあるのだろうか。
松井がメジャーデビューした2003年。開幕してから2カ月間、松井は手元で動くツーシームに苦しみ、打率は2割5分前後。内野ゴロの山を築き、ニューヨーク・タイムス紙からは「ゴロキング」というありがたくないニックネームを頂戴した。
米国人記者たちは連日のように「なぜ打てないのか?」と松井に迫った。それでも彼は、嫌な顔ひとつせず、ひとりひとり記者の目を見ながら誠実に質問に答えた。そうした姿勢が評価されたのか、シーズン終了後に野球記者協会から「グッド・ガイ賞」なるものを贈られた。当時、松井に「受賞の理由はどこにあると思うか?」と聞くと、次のような言葉が返ってきた。
「僕の話を聞いた人が何を感じるのかはわかりませんが、敬意を払うということは大切だと思っています。チームメイトや関係者はもちろん、記者やファンも同じ。相手を敬(うやま)い、尊重する心を持つ。それは常に心がけてきたつもりです。もし、それを評価していただいたのであれば、とても嬉しいことですね」
ヤンキース移籍後も、巨人時代同様に豪快な本塁打でチームを牽引することを期待した愚生が、”ドアスイング”“外角が打てない”と散々書いても、決して怒ることはなかった。そればかりか、「日本と同じように打てないのは事実だから」と笑い飛ばしてくれた。
そして忘れもしないのが、2012年7月22日のことだ。当時、レイズに在籍していた松井は、1点を追う9回二死一、二塁の勝ち越し機に代打で登場した。しかし、打率1割台に低迷していた松井はタンパのファンから容赦ないブーイングを浴びせられていた。結果はショートフライでゲームセット。この2日後、松井は戦力外通告を受け、事実上、これが現役最後の打席となった。
試合後のクラブハウスは重苦しい空気が流れ、誰も松井に近寄ろうとしない。だが、愚生にとっては、この日がこの年初めて松井を取材した試合だった。すると彼の方から、「久しぶりだね。元気?」と声を掛けてくれた。久方ぶりの非礼を詫び、「元気ないね。頑張ってよ」と声を掛けると、「こんな状況で元気いっぱい振舞っていたら、それこそおかしいでしょう」と笑い、こう続けた。
「何か聞きたいことあるんじゃないの? 遠慮しなくていいよ」
さすがに言葉は出なかったが、どんな時でも彼は取材する側を思いやってくれた。
思い起こせば、現役時代の松井は試合に出ようが出まいが、いつも取材に応じてくれた。どんな質問にも記者の立場を否定することなく対応し、サインをはじめとするこちら側の多くのお願い事にも嫌な顔ひとつ応えてくれた。今にして思えば、松井秀喜の器の大きさにどれだけ甘えてきたのかを恥じるばかりだ。
相手を敬う心、尊重する心を持つ松井の気持ちが、早くからニューヨークのファンに伝わった。だからこそ、ファンは今も変わらぬ拍手、声援を贈るのだ。ボンバーズの「5番、指名打者」として出場した松井だったが2打数無安打。それでも松井は今も変わらぬ温かい声援に幸せを感じとっていた。
産経新聞 あの日の甲子園~俺の一番勝負~
2014/07/08
(上)松井秀喜さんを5連続敬遠・河野和洋さん 「高校で燃え尽きず野球続けて」
22年前の夏の甲子園球場。高知代表・明徳義塾高の投手だった日本橋学館大学(柏市)野球部コーチ、河野和洋さん(39)が投じた球は4球続けて大きくそれた。打席に立つ星陵高(石川)の「超高校級バッター」、松井秀喜さん(40)=元米ヤンキースなど=の打撃を期待したファンからはやじが巻き起こり、グラウンドにはメガホンが投げ込まれた。
この試合の松井さんへの敬遠は5回目。明徳義塾は強打者を相手に1打席も勝負しない作戦で勝利を収めた。が、試合後にナインを待っていたのはマスコミの大バッシングだった。
練習にも報道陣が殺到し、移動用バスをパトカーが先導するなど異常な状況となり、明徳義塾は次の試合で敗退。河野さんは「実力がなかっただけ。あの騒動のせいで負けたとは思っていない」と話す。ただ、こうも付け加えた。
「試合に集中する状況ではなかったのも事実だ」
河野さんは小学3年頃からソフトボールを始め、名門・明徳義塾の野球部に投手として入部。平成4年のこの大会では事実上のエースだった。対する星陵は松井さんを擁する優勝候補の一角。明徳義塾は勝利のために敬遠を決断し、馬淵史郎監督が試合の数日前に河野さんに告げた。
「絶対に勝ちたかった。松井に打たれるために、3年間野球をやっていたんじゃない」。河野さんは当時の心境をこう振り返る。
試合後、「あの敬遠のせいで、河野はもう野球はできないんじゃないか」と言う人もいた。それでも、河野さんは「大好きな野球をやめるつもりは全くなかった」。高校卒業後は外野手として専修大に入学。その後は社会人、米独立リーグでプレーし、プロから声がかかるのを待った。「いつか松井と同じ舞台に、もう一度立ちたい」。だが、その夢は果たせなかった。
それでも、河野さんは野球に関わり続けている。現在も社会人野球チーム「千葉熱血MAKING」で監督兼選手を務める傍ら、約2年前から日本橋学館大学で野球部員らの指導に汗を流している。「手をかけるほど、選手らが成長してくれる」とやりがいも感じている。
「野球は甲子園が最後ではない。好きで練習を続ければ実力は伸びるし、野球を通じた出会いなどからさまざまなことを学べる。高校野球で力を出し切ることも大事だが、燃え尽きずに野球を続けてほしい」
昨年冬にはテレビ番組の企画で松井さんと1打席勝負が実現した。結果は四球。だが、あの日と違い、真っ向勝負を挑んだ結果だった。「やっぱり威圧感が違う」。河野さんは屈託のない笑顔を浮かべた。(大島悠亮)
11日に夏の高校野球県大会が開幕する。甲子園の土を踏んだ県内の“先輩”らが自身の経験を交え、球児らにエールを送る。
Number Web SCORE CARD
2014/07/03
引退から2年。ゴジラがグラウンドに戻る日。~日米球界が待つ「指導者・松井」~
背番号「55」のユニホーム姿がダッグアウトから姿を見せると、ヤンキースタジアムの声援が、一段と大きくなった。6月22日。ヤンキースが主催する毎年恒例のOB戦「オールド・タイマーズ・デー」に、松井秀喜が初めて参加した。満員のファンの前で、レジー・ジャクソン、デビッド・ウェルズら歴代の名選手と一緒にプレーした松井は、試合後、気持ち良さそうに汗を拭った。
「戦いに来ているわけじゃないし、(現役時代とは)全然違います。でも、声援はいつでも嬉しいですね」
2012年の現役引退後は、自宅のあるニューヨークで「リラックスした毎日」(松井)を送っている。昨年、待望の第一子が誕生したこともあり、家族中心の穏やかな日々を楽しんでいるという。
その一方で、指導者として彼の現場復帰を待ち望む声は今も多い。今年2月には古巣巨人からの要請を受け、宮崎キャンプで臨時コーチとして後輩を指導。3月には、ヤンキースのインストラクターとしてタンパでのキャンプ中に打撃投手などを務め、注目を集めた。今後は、不定期ながらヤンキースの1Aスタテンアイランドで練習サポートも予定されるなど、引退から2シーズンとなる今年は、グラウンドに足を踏み入れる機会が少しずつ増え始めた。
“後輩”の田中に「感じるままにやっていけば」と助言。
現時点で、日米両球界ともに招聘の具体案は表面化していない。ただ、松井自身、今も自宅で素振りを続け、体調管理は怠っていない。ユニホームに袖を通すと、「やはり自分は野球人だという思いになる」と話すなど、その情熱は現役時代と変わっていない。デビュー以来、好成績を残しているヤンキース田中将大にも注目しており、「数字が示す通り、何も言えないぐらいの活躍。感じるままにやっていけば、何も問題ないと思います」と、先輩としての助言を送る。
引退直後、松井は、自分の経験を後進に伝えることを「責任」と言い、さらに「使命」と表現した。日本とメジャー球界の両面を知り尽くし、両国民から愛される存在だけに、ファンからの期待の大きさも計り知れない。
今は、機が熟すのを待つ時期――。
国民的スターの松井が、充電を終え、グラウンドに戻ってくる日は、着実に近付いている。
中日新聞 松井秀喜
2014/07/03
エキストライニングズ(31) 出会い共有した「相棒」
米国に住み十二年目となる。大リーグデビューはもうひと昔前の話だなと思う。自分が大きく変わったとは感じないが、ヤンキースのトーリ前監督をはじめ多くの人に影響は受けた。そういう出会いを僕と共有したのが通訳のロヘリオ・カーロンさんだ。
ヤンキース一年目の二〇〇三年から通訳を務めたロヘリオさんは日本育ちで、インド人の父とフィリピン人の母を持つ。米国の大学で学び、米国籍を持つクロスカルチャーの見本のような人だ。
通訳を探す際に考えたのは、日本に軸足を置く人よりも、他の文化圏の要素を多く持つ人がいいということだった。日本のことは自分が分かる。むしろ異国に飛び込んだ僕を、自分では思いもしなかったような形で導いてくれる人が良かった。
それまで僕の周りにロヘリオさんのような人はいなかった。最初から何かを避けたり、こうでなくてはと決めつけたりすることがない。全ての人や物事に扉を開いており、受け止めてから判断するという感じだ。彼から学んだことは多い。
僕は米国に日本と同じ生活を求めないと決めていた。物事が思うように運ばないのはストレスかもしれない。ただうまくいかずに怒る自分がいたら、それが一番嫌だった。良く言えば受け入れる。悪く言えば諦める。そう考えて新生活に臨んだ僕に、ロヘリオさん流の対処がマッチした。
いざ踏み出すと苦労は感じなかった。遠征中の食事も、アジア各国の料理に親しめば問題もなかった。街で誰からも気が付かれないことがあるなど新鮮な楽しみもできた。ロヘリオさんに導かれ、早い段階で生活の幅が広がった。
デビュー戦はカナダのトロントだった。前夜にインド料理店でカレーを食べながら「いよいよ始まるな」と思った。今振り返れば、新しい野球人生を始めた僕にふさわしい“出陣式”だったと思う。 (元野球選手)