Matsui's Space 松井秀喜ファンサイト

Columnコラム

中日新聞 松井秀喜 2014/08/28
エキストライニングズ(35) プラス思考で試合臨む
 自信を持て。そう励ましたり、励まされたりしたことのある人は多いのではないか。スポーツに限らず、自信を持つというのは大切な事だ。

 いかなる状況でも活路を見いだす力が、自信というものだと思う。野球選手ならどんなに不振でも、相手が格上でも、日々勝負を続けなければならない。毎日、毎打席、自信の裏付けとなるものを持てるか。僕にとっての自信を端的に説明するなら、自分に有利な材料を必ず探し出すことだ。

 ヤンキース一年目の二〇〇三年、レギュラーシーズンで十打数無安打に抑えられたレッドソックスのマルティネスとプレーオフで対戦した。10の0でも、僕は自信を持って打席に向かうことができた。凡退からプラス材料を得ていたからだ。

 レギュラーシーズンでは、速球とチェンジアップが早いカウントで甘く来る事が何度かあった。打ち損じていたそれらの球を逃さなければ勝機はあると思った。追い込まれたら甘い球は来ないし、カーブは狙っても打てないほど切れた。だが不利な材料は全て頭から排除し、打席には有利な材料だけを持って入った。

 勝負事は一つでもプラス材料があれば、それを糸口に優位に立てることもある。リーグ優勝決定シリーズ第七戦での同点につながる一打を含め、マルティネスからは二試合で二塁打三本を打つことができた。

 野球に完璧はない。マイナスを考えだしたらきりがない。だから試合ではプラス材料だけを頭に入れる。その代わり練習ではマイナス思考を持つ。打撃練習で完璧に捉えても「少し外だったら打てない」などと失敗の可能性を意識する。練習と試合の切り替えも自信を手にする鍵だと思う。

 僕は不振でも「大丈夫」と言い続けた。強がりにしか聞こえなかったろうし、少しは強がりもあった。ただ打席ではプラス材料だけが頭にあったから、本当に打てると思っていた。根拠のない自信は持たなかったつもりだ。 (元野球選手)
朝日新聞 古内義明のメジャー見聞録~No Baseball, No Life 2014/08/19
The origin ~ 松井秀喜を形作った「5打席連続敬遠」
 夏の甲子園、真っ盛り。その甲子園を目指した地方予選では、石川県の星稜高校が9回0対8の絶体絶命の状況から大逆転で甲子園出場を決めた。このミラクルはアメリカの全国紙『USA TODAY』(電子版)で報じられたほどだ。

 星稜と言えば、箕島高校との延長18回の死闘と共に、松井秀喜氏への5打席連続敬遠である。毎年この時期になると、明徳義塾戦のあの22年前のシーンがお茶の間に流れる。

 以前、松井氏にあの夏について、聞いたことがあった。

 松井氏にとって、「高校野球=甲子園」であった。星陵高校1年の夏、初めて甲子園の土を踏んだときの感動は忘れられないほど強烈なものだったという。2年の夏の甲子園の竜ヶ崎一高校戦ではライトスタンドに甲子園初本塁打を放った。3年の春のセンバツではラッキーゾーンが撤去されたにもかかわらず、宮古高校戦で2打席連続本塁打、1試合7打点、2試合連続本塁打と、当時の大会記録をマーク。「ゴジラ」の名は全国にとどろいた。

 しかし最後の夏の明徳義塾戦(2回戦)で、彼の状況は一変した。4番打者として出場した松井に対する観衆の期待は、敬遠の度にため息と対戦相手への罵声に変わっていった。「僕は何もしなくて、打席に立っただけ。あのとき、ドカベンの作者である水島新司さんが『本当にそういうことが起こった』というコメントを出していたのを覚えています」

 結局、チームは敗れた。アルプススタンドからメガホンが投げ込まれ、場内は騒然とした。多くのメディアがこの問題を取り上げ、国会でも議論され、当時の高野連会長も異例のコメントを出すなど、社会問題化した。

 松井は心の奥底に眠るあの夏の記憶をひもとくように、言葉をつづった。

 「あの経験があったことによって、その後の野球人生の中で、『松井秀喜は5回連続敬遠された打者なんだ』ということを背負っていかなければなりませんでした。心のどこかで、『5打席連続で敬遠された打者であること』を証明しなければいけないという気持ちもありました。そうなってしかるべきバッターだったと、後に野球ファンが、みんなが思えるようにならなくてはいけないと」

 18歳の松井少年にとって、甲子園の大舞台で、自分のバットで、チームの勝利に貢献したかっただろう。何も出来なかった無念さ、そして、敗れた悔しさはどれほどのものだったことか。それでも、松井氏は前を向いた。そして、自分自身に向き合って出した答えが「すべてを背負う」ということだった。

 「ふとした瞬間に、あの夏のあの記憶がよみがえることがあります。滅多にないことですが日常生活の中で、あの打席をふと思い出すことがあります。高校生活の中では間違いなく一番の思い出です」

 彼はあの「事件」を「思い出」に変えて見せた。それが彼の野球人としての原点になった。
中日新聞 松井秀喜 2014/08/14
エキストライニング(34) 逆転負けの記憶糧に
 母校の星稜高が石川大会決勝で九回に8点差を逆転し、夏の甲子園行きを決めた。素晴らしい粘りだった。ただ僕はどうしても敗れた小松大谷高のことを考えてしまう。甲子園の土を踏むことを目標にプレーする高校生にとって、地方大会決勝での逆転負けよりショックなことはないだろう。

 彼らは今どうしているだろう。なぜああなったのか、どうすれば良かったのか。特に三年生は毎日のように考えているのではないか。何度も脳裏によみがえるのは、勝利でなくいつも敗戦だ。

 僕は恵まれた選手生活を送った。プレーしなくなって二年たつ。それでもいまだに気が付くと負け試合のことを考えている時がある。ヤンキース時代の二〇〇五年にプレーオフ地区シリーズでエンゼルスと対戦した。第五戦で僕は五度打席に立って無安打で、計八人の走者を塁に残した。チームは敗退。しばらくあの試合が頭から離れなかったし、九年後の今でもときどき頭に浮かぶ。

 高校生が痛い敗戦を引きずるのは仕方ない。ただどんな思いを抱えていても、先に進む以外にできることはない。誰も永久に勝ち続けることはできない。敗戦はつきもので、スポーツは人生の早い段階でそういう感情を乗り越える訓練をする場でもある。

 野球はこれが最後という三年生もいるだろう。悔いはあるだろうが、忘れられないなら目を背けずに考え抜き、新しい道を歩み始めればいい。もしかしたら野球で雪辱を図るより得るものがあるかもしれない。

 残念ながら苦い思い出はいつまでたっても苦い。失敗を糧に成功を収めても、悔しさは残る。悔しさという感情と、敗戦を未来に生かす論理的思考は別のものだ。

 忘れられない。だから人生の糧になるのだ。悔しい思いで夏を終えた選手たちは、忘れられない敗戦が胸にあることが生涯の財産なのだと思う。 (元野球選手)