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Columnコラム

中日新聞 松井秀喜 2014, 11, 20, 22, 02014/11/20
エキストライニングズ(41) 心動かす言葉の力
 約一年半にわたった連載が最終回を迎えた。どこまで意図が伝わっているかという不安は常にあり、言葉を選ぶ難しさをあらためて感じた。慣れない作業だったが、少しでも楽しんでいただけたのなら幸いだ。

 これまで多様な場面で言葉について考えてきた。原点は父との関係にあったと思う。今振り返れば、僕が幼いころから父は言葉を選んで接していた。プロ入りして親元を離れると、その関係は新しいスタイルで続いた。

 父は文字の方が思いを伝えやすかったようで、ファクスが送られてくるようになった。電話だったら「はいはい、分かってる」で終わりだったかもしれない。だが読んだことは頭に残った。内容について父と話したことはない。ファクス一枚。後日会ってもその話は出ない。読んでいるということは、分かってくれていたはずだ。

 ヤンキース一年目の二〇〇三年はトーリ監督の言葉に救われたことが何度かあった。選手は監督に言葉を期待するべきでないと思う。「何か言ってほしい」と考えるのは甘えにすぎない。だがそれでも追い込まれたときの一言には助けられる。

 不振が続いていた六月五日、レッズ戦の前にアドバイスを受け、その試合で二塁打3本と本塁打を放つことができた。トーリ監督が僕という人間を知り、最も効果的な言葉を掛けたということなのだろう。あの時は技術的な話の前に、数字に表れない貢献を見ていると言われ、心が動いた。

 面と向かって話すのは、メディアを通じての発信と違う難しさがある。そこには常に感情が絡み、まして監督なら相手にとって不都合なことも伝えなくてはいけない。トーリ監督からは人への接し方を学んだ。

 一九九四年十月八日は、長嶋茂雄監督の発した「勝つ」という言葉が僕の体の中を駆け巡った。巨人と中日が勝率で並んでリーグ戦の最終日に直接対決を迎えたあの「10・8」の試合前だ。

 選手を集めた長嶋監督は「われわれが勝つ」「絶対に勝つ」などと「勝つ」を繰り返した。張り詰めた空気を楽しんでいるのが明らかだった。重圧の下でこそ自分が真価を発揮することを知っていたからだろう。つくったものでなく、勝利を疑っていないのが分かった。魅入られたようになった選手は、グラウンドに飛び出して中日を倒した。僕は言葉の力を信じる。 (元野球選手)

  =終わり
中日新聞 松井秀喜 2014, 11, 9, 19, 02014/10/06
エキストライニングズ(40) 苦しんだラストシーズン
 二〇一二年十二月、僕は選手生活を終える決断をした。七月末にレイズで戦力外となってから約五カ月。あえて結論を急がず、考え抜いて決めた。

 契約チームがないまま開幕を迎えた異例のシーズンだった。メジャー合流は五月二十九日。その試合を含め最初の三試合で二本塁打を放った。ただ、いつ打撃が崩れるかという不安は常にあった。大リーグという舞台の緊張感で一時的に打てたが、昇格前に十三試合出たマイナー戦は打率一割七分。過程の上に結果があった前年までとは違い、技術的な裏付けはなかった。

 七月二日のヤンキース戦では左太ももを痛め、技術的な問題に脚の不安も加わった。どんな状況に置かれても抜け出す道を見つけてきたが、この時は打開の糸口がつかめないと初めて感じた。

 年末が迫り、結論を出そうとキャンプを欠いたことや脚を痛めた影響について考えた。本当にそれだけが不振の原因だろうかと思った。合流後一カ月以上起用されても好結果が出なかった。膝の状態はヤンキースでの最後の数年より良かったが、成績は下がっていた。端的に言えば衰えに逆らえていない。メジャーに自分の居場所はないと最終的に決断した。

 日本の球団から声をかけていただいたが、戻る選択肢はなかった。全身全霊を懸けると言って米国に渡った。その地で力尽きたということは、自分の中では選手生活の終わりだった。日本を出たときに近い力を見せられないなら、もう一度見たいと思ってくれるファンの前でプレーするべきでないとも思った。

 結果的に最後の打席となったのは七月二十二日のマリナーズ戦、一点を追う九回二死一、二塁での代打だった。遊飛に倒れブーイングを浴びた。引退試合のある人は幸せだとは思う。ただ自分は「これが最後」という気持ちを味わいたいとは思わない。何とかしようともがき、最後まで勝負を続けられた。僕にはあれが良かった。(元野球選手)